脱獄計画の主軸であったエマの足はママ・イザベラの手によってへし折られ、シスター・クローネは処分された。そして、追い打ちをかけるように、最も優秀な頭脳であるノーマンに「明日、出荷する」という非情な通告が下された。
夜、医務室のベッド。
ノーマンは、静かに丸椅子に腰掛け、どこか吹っ切れたような顔で下を向いていた。
首筋の認識番号『22194』が、月光に白く浮かび上がっている。
「……あしたの出荷は仕方がない」
ぽつり、とノーマンの口から諦めのような、けれど強固な意志を孕んだ言葉が漏れた。
「命はくれてやる」
その目は、絶望ではなく、未来を見つめていた。
「でも、その他何一つ譲る気はない。――負けるつもりも一切ない」
自分が明日、逃げずに大人しく出荷されること。
それこそが、エマとレイの目をカモフラージュし、二人を、そしてハウスの兄弟たちを確実に外の世界へ脱出させるための『最期の布石』になる。
天才少年は、自分の命をチェスの駒のように差し出すことを決めていた。
だが、残される側は、そんな完璧な自己犠牲を受け入れられるはずがなかった。
翌日・出荷の刻(第3プラント)白のスーツを身に纏い、旅立ちの帽子を被ったノーマンが、ハウスの玄関に立つ。
目の前には、泣き崩れ、必死に彼を引き止めようとするエマの姿があった。
「エマ……。騙してごめん。ケガ……増やさないでね」
ノーマンは、優しくエマの手を握った。
「うん……」
「無茶のしすぎも……」
「うん……」
「ちゃんと食べてね」
「うん……うん……」
引き千切られそうなほどの痛みを伴う会話。
背後では、ただ黙って拳を血が出るほど握りしめ、ノーマンを睨みつけるレイの姿がある。
ノーマンは、涙を堪えていつも通りに微笑み、エマに最後のお願いを託した。
「あと頼む。脱獄を頼む」
「うん……!」
それでも、別れの瞬間が近づくにつれ、エマの心は限界を迎えていた。
彼女はノーマンの胸に飛び込み、その細い身体を壊れそうなほど強く抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫。絶対諦めないでね…!」
「くそっ……チクショウ、チクショウ……!」
レイの呪詛のような声が響くなか、ノーマンはエマの背中に腕を回し、優しく抱きしめ返した。
「今までありがとう。二人のおかげでいい人生だった」
「楽しかった。嬉しかった。幸せだった」
何も知らない幼い兄弟たちが笑顔で見送るなか、エマとレイは、自らの片翼をもぎ取られるような絶望のなかに置き去りにされた。
同刻 壁一つを隔てた第2プラント。
「……あっちのプラント(第3)で、誰かが出荷されたな」
食堂の窓際。
アクアは、完璧に気配を消したまま、隣の敷地からかすかに聞こえていた大人の足音、そして微かに響いた子供たちの泣き叫ぶ声を捉えていた。
「ええ……。本部の通信ログをかすめ取ったわ。第3プラントの『特級品』が1名、本日付で出荷処理されたそうよ」
背後に音もなく立った不知火フリルが、感情の読めない声で告げる。
黒川あかねもまた、沈痛な面持ちでスープの皿を見つめていた。
隣のプラントで何が起きているのか、詳しい状況は分からない。
どんな子供たちがいて、脱獄計画を立てているのかも、壁に阻まれて一切知る術はない。
ただ分かっているのは、隣でも自分たちと同じように「最高品質の家畜」として育てられたやつが今日、命を落としたということだけ。
そして、その引き換えに、第2プラントへの締め付けは一気に厳しくなろうとしていた。
「みんな、今日の食後の自由時間は無しよ。ミヤコ先生と一緒に、お部屋のお掃除をしましょうね」
ママ・アイが、いつも通りの星の輝く笑顔で子供たちに告げる。
その背後では、シスター・ミヤコが鷹のような鋭い目で、子供たちの視線の動きを分単位で監視していた。
本部は明らかに、第3プラントの不穏な空気を察知し、第2プラントの包囲網を狭めにきている。
「えーっ! お掃除? メルト、あんたまた部屋散らかしたでしょ!」
「俺のせいにするなよかな。 ニアやトムが暴れたせいだろ!」
何も知らない鳴嶋メルトや、6歳のニアたちが無邪気に騒ぐ。
その騒がしい日常を死角から見つめながら、アクアの胸の中には、どす黒く、冷徹な執念が燃え上がっていた。
夜、図書室の隠し部屋。
「包囲網が狭まってる。アクア、やっぱり全員を連れていくのは無理よ。メルトやレオ、ニアたち年少組を連れていけば全滅する。逃げるのは私たち上位5人だけにするべきよ」
フリルが、いつになく焦りを滲ませてアクアに現実を突きつける。
あかねもまた、ミヤコの監視ルートの厳しさから、フリルの合理的な判断に同意せざるを得ない表情をしていた。
だが、アクアはハウスの地図の上に、ペンで大きく1月15日の日付を書き込んだ。
「フリル、お前の掴んだ本部のログによると、第3プラントに残っている最後の『特級品』の出荷期限は、1月中旬……1月15日だな?」
「ええ、そうだけど……それが何?」
「俺たちの脱獄日も、その1月15日に決定する」
アクアはフリルとあかねを真っ直ぐに見据えた。
「隣のプラントの奴らが、仲間を1人殺されて、ただ黙って引き下がるはずがない。
もし俺たちが隣の天才の立場なら、最後の特級品の出荷期限――そこを『デッドライン』にして、死に物狂いで仕掛ける。……賭けだ。奴らが仕掛ける最高の混乱に、俺たちも乗る」
アクアは地図を強く叩いた。
「向こうの計画も、崖を越える方法も、俺たちは何も知らない。だが、監視の目が最も緩むのは、隣のプラントで『脱獄という最悪の異常事態』が発生したその瞬間だ。ハウス中の警備の意識が第3プラントへ向いたその時――俺たちはこの第2プラントの全員を連れて、一斉に壁を越える。向こうが何を用意していようが関係ない。俺たちは俺たちの力で壁を越え、その先の世界で、生き残った奴らと鉢合わせるんだ」
フリルは息を呑み、あかねはその無謀かつあまりに合理的な『賭け』の期待値に、ゾクゾクとした戦慄を覚えていた。隣のプラントで最悪の別れと絶望の夜が訪れたその裏で。
第2プラントのアクアは、何も知らぬまま同じ日に命を懸けるであろう『まだ見ぬ隣の天才』を信じ、全員を救うためのカウントダウンを始めるのだった。