ノーマンが消えたあの日から、第3プラントの空気は完全に凍りついていた。
エマの足は折れ、ノーマンは出荷された。
脱獄計画の主軸を失った食堂の片隅で、レイ(は虚ろな目で机を見つめていた。そこへ、松葉杖をついたエマが声をかける。だが、レイの口から漏れたのは、あまりに重く、暗い絶望の言葉だった。
「……もういい、ここで死のう」
レイの生気のない呟きに、エマは目を見開いた。
「え?」
「計画はもうめちゃくちゃだ。……何より疲れた」
レイは頭を抱え、自嘲気味に笑う。
これまでのすべての努力が、ママ・イザベラという圧倒的な壁の前に踏み潰された。
その事実に、彼の心は限界を迎えていた。
「疲れたんだ」
レイの瞳から完全に光が消えている。
彼は懐から、発信機を壊すための機械をデスクに放り出した。
「これは?」
「いらない。やるよ。……逃げたきゃ逃げろ、俺は降りる」
諦めきったレイの言葉に、エマは何も言い返せなかった。これ以上の無茶は誰も救わない。
レイはただ、静かにエマを見つめ、謝罪の言葉を口にした。
「ごめんな、エマ」
エマは何も言わず、ただ唇を噛み締めながら、引き千切られるような絶望のなかでその場を立ち去った。
残されたドンとギルダが、食堂の入り口で呆然と立ち尽くす。
「おい、レイ……」
ドンが絞り出すような声を上げるが、レイは振り返りもしない。
ただ、冷え切った声で呟いた。
「ごめんな、ドン、ギルダ」
完璧に心が折れ、すべてを諦めた天才たち。
イザベラはそれらの様子を見つめ、確信していた。
(これで私の勝ち。この子たちはもう、二度と牙を融くことはない)
ハウスを包んでいた張り詰めた糸が、わずかに緩む。
だがそれこそが、エマたちが死に物狂いで牙を研ぎ直すための、血を吐くような「絶望」の始まりだった。
同月(第2プラント)壁の向こうのそんな重苦しい沈黙を、アクアは肌で感じ取っていた。
本部のログを見る限り、第3プラントでの「特級品の出荷」以降、目立ったトラブルの報告はない。
あっちの天才たちは、完全に沈黙している。
(……だが、死んじゃいないはずだ。あの絶望の向こうで、奴らは確実に爪を退いている)
なら、自分たちも止まるわけにはいかない。
第2プラントでは、ママとシスターの二重の監視の目をかいくぐるため、アクア、あかね、フリルの3人は、ついに『全員脱獄』のための決定的な一歩を踏み出す決意を固めていた。
深夜、年少組が眠る寄宿舎のベッドルーム。
アクア、あかね、フリル、そして嘘を共有したルビーやかなの5人は、音もなく忍び込んだ。
「……起きなさい、メルト。レオ、ニア、トム。静かに」
かなが、いつも通りの強い、けれどどこか震える声で、眠る子供たちの肩を揺すった。
「ん……かな? なんだよこんな時間に……」
11歳のメルトが眠い目を擦りながら起き上がる。
6歳のレオやニア、トムたちも不審そうに身を起こした。
「今から話すことを、静かに聞いてほしい」
あかねが、子供たちの手を優しく握りながら口を開いた。位置を確かめるように、アクアがこれまでに集めたすべての証拠――『管理記録』の写しを、小さな月光の下で彼らに見せた。
「嘘……だろ……?」
最初に言葉を失ったのはメルトだった。
「俺たちが、肉……? 里親って、鬼に食べられるってことかよ……!?」
「そんなの嘘だよ! ママが、そんなことするわけないもん!」
レオが泣きそうになり、ニアがアクアの服を掴んで抗議する。
子供たちにとって、アイは絶対的な太陽であり、最愛の母親だった。
その母親が自分たちを「最高の肉」として肥育しているという真実は、あまりにも残酷すぎた。
「嘘じゃない。私たちが、それを証明するわ」
フリルが、懐からあの発信機無効化の改造部品を取り出し、冷徹に言い放った。
「信じられないなら、今ここであなたの耳の後ろを切り開いて、埋め込まれている機械を見せてあげてもいいわよ。……ねえメルト。あなたはもうすぐ12歳。次に名前を呼ばれたら、そこでおしまいなの」
「――っ」
メルトは頭を抱え、ガタガタと震え出した。
何も知らない落ちこぼれ枠として、日常のデコイになっていた彼の心が、恐怖で悲鳴を上げる。
「嫌だ……! 嫌だ、死にたくない……! アクア、助けてくれよ……!」
「静かにしろ、メルト!」
アクアはメルトの胸ぐらを掴み、その目を真っ直ぐに見据えた。
「だから、ここにいるんだ。お前を見殺しにする気は毛頭ない。レオ、ニア、トム、お前たちもだ。誰も置いていかない」
ルビーが、涙をボロボロと流しながらレオたちの小さな手を強く握りしめた。
「みんなで一緒に逃げるの。外の世界には、鬼だけじゃなくて、きっともっと広い世界があるから。だから、お願い。明日からは、ママたちの前で、今まで通りの『何も知らない良い子』を演じて。少しでも怪しまれたら、その瞬間に全員殺される」
子供たちは、恐怖に怯えながらも、ルビーやかな、そしてアクアの絶対的な瞳の光に圧倒され、小さく、けれど確実に頷いた。
「……わかったわよ。メルト、あんたが一番足引っ張りそうだから、明日からは私がしっかり見張ってあげるわ。テストの点数も、これ以上下げたら承知しないんだからね」
かなが、涙を堪えて無理に不敵な笑みを作ってみせる。
その気丈な演技に、メルトも涙を拭い、「負けるかよ……」と拳を握りしめた。
何も知らない無垢な家畜だった子供たちが、この夜、自らの意志で「戦う家畜」へと覚醒した。
それからの1ヶ月。第2プラントの日常は、完璧な「嘘」で塗り固められた。
メルトは恐怖を隠すためにあえてこれまで以上に勉強に苦戦するフリをし、かなは「早く最高の里親に見つけてもらう!」とミヤコシスターの前で大騒ぎした。
フリルはアイに「みんな最近、大人しいです」と嘘の報告書を出し、あかねの指示のもと、レオやニアたちはミヤコの死角で「鬼ごっこ」という名の脱出訓練を秒単位で繰り返した。
12月が過ぎ、西暦2046年の正月が明ける。第3プラントの特級品の出荷期限である、1月15日が刻一刻と迫っていた。深夜の図書室。アクアは、フリルが命がけで調達した特殊な糸で作った細いロープを、静かに鞄へと詰め込んでいた。そこへ、白髪の少女、ツクヨミ(6歳)がふらりと現れる。
「アクア。壁の向こうの鳥たちが、もうすぐ大きな羽を広げるって言ってる」
ツクヨミは、感情の読めない瞳で窓の外の巨大な壁を見つめた。
「その羽が広がる時、この檻のすべての星が、一斉に空へ昇るの」
「……ああ」
アクアはロープを強く握りしめ、不敵に微笑んだ。
壁の向こうでエマたちがどんな痛みを堪え、どんな絶望を演じているのか、詳しい状況は分からない。
だが、1月15日の夜――隣のプラントで「最悪の異常事態」が発生し、ハウス中の警備の意識がそちらへ向いたその瞬間。第2プラントの子供たちは、誰一人として欠けることなく、一斉に壁の頂点へとハシゴをかける。二つのプラントの天才たちが、お互いの存在すら知らぬまま、全く同じ日に向けて、静かにその切っ先を研ぎ澄ませていた。