運命の時刻。第3プラントの食堂には、鼻を突く強烈なガソリンの臭いが充満していた。
12歳の誕生日を迎え、出荷期限当日となったレイは、頭から大量のオイルを浴びた状態で、静かに一本のマッチを擦った。
「……呪いたい人生だった」
小さな種火が、レイの冷え切った瞳を妖しく照らす。
「お前らとの時間はすげぇ楽しかった」
「ダメッ、やめて……!」
エマが涙を流し、絶望に顔を歪めて叫ぶ。しかし、レイの口元には、ずっと世界を欺き続けてきた不敵な笑みが浮かんでいた。
「ありがとう。バイバイ、エマ」
――シュッ。
放たれたマッチが床のオイルに触れた瞬間、食堂は爆発的な炎に包まれた。
「レーイ!!レイ!!!!」
エマの悲痛な絶望の叫びが、夜の寄宿舎に響き渡る。
その大音量に気づき、廊下からイザベラが目を見開いて食堂へと飛び込んできた。
「ママ……! 助けて……! レイが……レイが中に!!」
床にへたり込み、炎の渦を指差して錯乱したように泣き叫ぶエマ。
イザベラは一瞬、これが脱獄のための「火事の偽装」ではないかと疑い、鋭い手つきで懐から子供たちの位置を示す『発信機の懐中時計』を取り出した。
「(いや違う、この奥に――あの動揺、この臭い……発信機!!)」
イザベラの目が、時計の文字盤を捉える。激しく燃え盛る炎の真っ只中。そこには、確かにレイの耳の後ろに埋め込まれているはずの、発信機の光が不気味に点滅していた。
「反応がある……!! 策でも罠でもない、レイが中にいる……燃えている……!!」
あの完璧だったイザベラの顔が、信じられないものを見た恐怖で完全に崩壊する。
「なんてこと……!!」
イザベラが炎を消し止めようと完全に我を忘れて取り乱したその瞬間――エマは床から音もなく立ち上がり、涙を拭った。瞳には、ノーマンから引き継いだ強固な光が宿っていた。
火の中にいるのは、事前に切り落としたレイの耳と偽装された肉。
レイ本体は、すでにドンやギルダたちの待つ森の闇へと走り出している。
ジリリリリリリリリリ!!!
ハウス全体に、鼓膜を破るような非常警報が鳴り響いた。
同刻(第2プラント)
「――始まったぞ。計画通り、一歩も遅れるな!」
壁一つを隔てた第2プラント。
アクアは、隣の敷地から夜空を赤く染め上げた激しい炎の光と、鳴り響く非常警報の音を捉えていた。
「アクア、本部の警報ログを傍受したわ! 第3プラントで火災と集団脱走が発生! ママもシスターも、全意識がそっちの対応に切り替わった!」
あかねが鋭く告げる。その横では、フリルが脱出物資の鞄を素早く背負っていた。
隣のプラントで、レイという少年が自らの耳を切り落として命がけのフェイクを成功させたことなど、アクアたちは知る術もない。
だが、アクアの冷徹な期待値の計算通り、監視の網が最も緩む「最高のノイズ」が今、世界に響き渡った。
「みんな、行くわよ! レオ、ニア、私の手をしっかり離さないで!」
かなの鋭い叱咤に、先月真実を知って覚悟を決めた子供たちが一斉に動き出す。
11歳のメルトは、恐怖で震えそうになるトムを背負い、小さな子供たちの盾となって暗闇の森を全力で駆け抜けた。
ルビーは、フリルが調達した特製の細いロープをしっかりと抱きしめている。
ツクヨミは、白髪をなびかせながら、感情の読めない瞳で静かにアクアの後を追った。
アイとミヤコの目を完全に欺き、第2プラントの子供たちは、誰一人として欠けることなく巨大な壁の麓へと到達した。アクアがハシゴを壁に叩きつける。
「登れ! 上へ行くんだ!」
次々と壁を駆け上がり、最後に残ったアクアが壁の頂点に立ったその瞬間、彼の目に信じられない光景が飛び込んできた。
「……あ」
壁の数10メートル先。同じ壁の頂点から、対岸の原生林に向かって、不自然な数本のロープが伸びていた。
そして、そこをハンガーを使って、アクロバティックに谷を渡っていく「別のプラントの子供たち」の姿があった。
「アクア、見て……! 先客がいる!」
フリルが驚愕の声を上げ、かなやルビーも息を呑む。
事前連絡など一切していない。
だが、アクアが『出荷期限』というログだけを信じて賭けた1月15日の夜。
その極限の賭けが、今、壁の上で完璧に交錯したのだ。
「あいつら……なんて無茶な方法を……!」
アクアの目が、対岸へ渡ろうとしているオレンジ色の髪の少女と、耳に包帯を巻いて唖然とした顔でこちらを振り返った黒髪の少年を捉えた。
壁の上(第3プラント側)
「レイ、待って、隣の壁を見て……!」
ロープを滑り降りようとしていたエマが、絶句して隣のプラントの壁を指差した。
耳を切り落とし、死に物狂いでここまで走ってきたレイは、燃えるハウスの光に照らされた隣の壁を見上げ、その卓越した脳が完全にフリーズした。
「な、何だあいつらは……!? なんで、なんでアイツらまで今日、この瞬間に壁の上にいるんだ!?」
レイの計算のなかに、隣のプラントの動向など入っているはずがなかった。
なのに、隣の壁の上には、10歳のアクアを筆頭に、あかね、フリル、かな、ルビー、そしてメルトや小さなレオやニアまで、全員が荷物を背負って綺麗に整列していた。
エマとレイ。アクアとあかね。言葉を交わしたことは一度もない。
けれど、お互いがこの地獄のような檻の中で、死に物狂いで頭脳を働かせ、ママたちを騙し通してここまでたどり着いた『本物の天才』であることは、その佇まいだけで瞬時に理解できた。
「おい、そこのオレンジ髪!」
アクアが壁の上から、エマに向けて声を張り上げた。
「そのロープ、俺たちにも使わせてもらうぞ! 追手が来る、躊躇してる暇はねえ!」
エマは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにあの太陽のような、力強い笑みを浮かべて叫び返した。
「うん!! いいよ、おいで!! 全員で一緒に逃げるんだから!!」
「無茶を言う……!」
レイが毒づくが、その顔には、先ほどまで死を望んでいた面影はなく、獰猛で熱い生きるための意志が完全に戻っていた。
アクアはかなとルビーに合図を送り、自分たちの持つロープをエマたちのギミックに連結させた。
メルトがレオをしっかりと抱きしめ、かなが「落としたら承知しないわよ!」とニアの身体をロープに固定する。
フリルとあかねが秒単位で滑り出すタイミングを計る。
ゴオオオオオオオ!!背後の森の奥から、激しい足音が響いてくる。
アイとミヤコ、そして騙されたことに気づいたイザベラの追跡がすぐそこまで迫っていた。
「跳べ!!」
アクアの叫びとともに、第2プラントの星たちと、第3プラントの鳥たちが、暗黒の谷の向こう側、まだ見ぬ未知の「外の世界」へと一斉に身体を投げ出した。
西暦2046年1月15日。
二つのプラントの天才たちが出会ったその瞬間、ネバーランドの歴史は、原作を越えた全く新しい生存の物語へと塗り替えられるのだった。