悔しさを胸に「さいきょう」の意味を追い求める彼女は、博麗の巫女に、そして竹林で殺し合う不死者たちに出会う。
「一番上になんて立ったら、待っているのは精神の腐爛だけさ」
「それは他者の承認という名の檻よ」誰も教えてくれない、本当の強さの答え。
傷だらけでずぶ濡れの妖精が見つけた、自分だけの世界の真理とは――。
※9月9日「チルノの日」に寄せる、少し真面目で、どこまでも純粋な妖精の物語。
光の届かない湖の底は、ひどく静かだった。
肌を刺すような冷気はチルノにとって生家のようなものだが、いま背中を包み込んでいる泥の重みは、ひどく惨めで、そして熱かった。
なんで、なんで、なんで。
脳髄の裏側で、不格好な疑問符が狂ったように点滅している。
ぶくぶくと泡を吐き出しながら、チルノは藻屑の絡まる手足をバタつかせた。狂暴なまでの悔恨が、小さな胸を内側から掻き毟る。バシャアッ! と激しく水飛沫を上げて水面に顔を出す。肺腔へ一気に冷たい空気を吸い込むと同時に、鼓膜に突き刺さったのは、自身の心音よりも不快な、三つの嘲笑だった。
「あははは! 見てよあの無様なザマ!」
「また私たちの勝ちね、チルノ。少しは連携ってものを覚えたらどうかしら」
「星の光に目を眩まされて、勝手に足を踏み外すなんてさ。おバカさんねえ」
サニーミルク、ルナチャイルド、スターサファイア。
悪戯好きの三妖精が、湖畔の葦の葉の上で、互いの手を叩き合いながらこちらを見下ろしている。
サニーの放った陽光の屈折が、網膜の裏側にいまだ不快な残像を残している。音を奪うルナの静寂の障壁が、チルノの空間把握を狂わせ、スターの張り巡らせた気配の蜘蛛の糸が、逃げ道を完璧に塞いでいた。彼女たちの服には、焦げ跡ひとつ、凍りついた霜ひとつ付いていない。
完全な、完膚なきまでの敗北だった。
チルノが悔しさに奥歯を鳴らし、再び拳を握りしめたときには、三妖精は陽光に溶けるように、あるいは風の手の中に隠れるように、クスクスという不快な残響だけを残してその場を去っていた。
「……くっそ、くそおっ……!」
水面に浮かんだ自身の羽の破片――透明な氷晶を叩き割る。飛び散った冷たい飛沫が、チルノの火照った頬を濡らした。
「チルノちゃん!」
バタバタと必死に羽を羽ばたかせて、大妖精が駆け寄ってくる。その顔は、自分のことのように涙で潤んでいた。
大妖精の背中にある翅は、霧の湖の湿り気を含んで、朝露のようにしっとりと濡れ、夕刻の斜光を透過して淡いエメラルド色に透けている。彼女はその大きな瞳に心配の色をいっぱいに浮かべて、濡れ鼠のチルノに、白く清潔なハンカチを差し出した。
「大丈夫!? けがはない? すごい音がしたから、私……」
「な、何言ってんのよ大ちゃん! あたいがこれくらいでへこたれるわけないでしょ!」
チルノはわざとらしく胸を張り、大妖精のハンカチをひったくるようにして、顔の泥を乱暴に拭った。いつも通りの、自信に満ち溢れた、少しだけ強がりの笑顔。そう、あたいは最強なのだから、こんなところで泣くわけにはいかないのだ。
「あいつらが三人でずるしただけだし! 次はあたいが、絶対にこてんぱんにしてやるんだから!」
「うん……うん、そうだね。チルノちゃんは強いもんね」
大妖精のほっとしたような、しかしすべてを察しているような優しい笑顔を見て、チルノは少しだけ胸の奥が痛んだ。
その後は、いつものように湖の周りで雪玉を作って遊んだ。大妖精が鈴を転がすように笑うたびに、チルノも一緒になって笑った。けれど、チルノの頭の片隅には、どうしても消えない冷たい滓のようなものが残り続けていた。
あたいは、どうすればいちばん強くなれるのだろう。だれであろうと勝つ。
向かってくる奴全員を力任せにねじ伏せる、あの、ええっと。
チルノの頭では、その言葉の正しい漢字の書き方すら分からなかった。
けれど、そのひらがなの響きだけが、少女の純粋な胸をじりじりと焦がし続けていた。
けれど、そんな胸の焦燥も、大妖精の差し出すぬくもりの前には、陽光を浴びた薄氷のように跡形もなく融けてしまうのだった。
「ねえ、チルノちゃん。今日はあっちの、お日様がよく当たるところで遊ばない?」
大妖精が湖の反対側、背の低い秋草が絨毯のように広がるひだまりを指差した。チルノは濡れた小袖をきゅっと絞り、水滴を芝生に散らしながら、にっと八重歯を覗かせる。
「いいよ! じゃあ、まずはかくれんぼね! あたいが最初に鬼をやってあげる!」
問答無用で大妖精の背中をぽんと叩き、チルノは近くの大きな柳の幹に顔を伏せた。
一、二、三――。
声を張り上げて数を数えながら、頭の片隅では、さっきの三妖精への悔しさがまだ燻っている。
今度あいつらが見つかったら、絶対に驚かせてやる。あたいは、さいきょ……。
そこまで考えを巡らせて、はっと我に返る。
九、十! もういいかい!
「もういいよー!」
遠くの、葦の茂みの奥から、鈴を転がすような大妖精の声が返ってきた。
チルノは羽を軽く羽ばたかせ、地面から数センチだけ浮き上がって滑るように進む。風が草の青い匂いを運んでくる。大ちゃんの気配は、いつもお日様に干したお布団のような、優しくてあたたかい匂いがするから、隠れていてもすぐに分かるのだ。
「みーつけたっ!」
わざと大きな声を立てて茂みを割ると、案の定、大妖精が両手で顔を覆って小さくなっていた。
「あちゃあ、やっぱりすぐ見つかっちゃった。チルノちゃんは探すのが上手だね」
「へへん、あたいの目を盗もうなんて百年早いんだからね! 次は鬼ごっこよ!」
今度は大妖精が追いかける番だった。
チルノは湖の上をすれすれに飛び、わざと速度を落としては、大妖精の指先が届く直前で急加速してひらりと身をかわす。湖面には二人の影が、波紋に揺られながら仲良く並んで走っていた。
大妖精が「待ってよー、チルノちゃん!」と息を切らして笑う。
そのひたむきに自分を追う瞳が嬉しくて、チルノは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
ひとしきり暴れて息が上がると、二人はどちらからともなく、ぽかぽかと暖かい日向の岩場に寝転がった。
冷気をまとう氷精のチルノにとって、秋の柔らかな陽射しは、少しだけ身体をけだるくさせる特等席だ。大妖精は隣で羽を休め、自身の緑の髪を指先で弄びながら、穏やかな寝息を立て始めている。チルノは横目でその横顔を見つめながら、小さな掌をそっと太陽にかざしてみた。
指の隙間から漏れる光が、眩しい。
「……ねえ、大ちゃん」
「ん……なあに、チルノちゃん?」
大妖精が眠たげに、長い睫毛を震わせてチルノを見た。チルノはかざした手を握りしめ、ぽつりと呟く。
「あたいね、もっと、だれにも負けないくらい……さいきょ、う、になりたいんだ」
いつもなら「あたいったら、さいきょうね!」と言い切るはずの言葉が、なぜか途中で小さく引っかかったまま口から溢れた。
大妖精は少しだけ目を見開き、それから、いつもの優しい、けれどどこか寂しげな微笑みを浮かべた。
「チルノちゃんは、今のままでも十分にすごいよ? 私をいつも引っ張ってくれて、守ってくれて……」
「そうじゃないの! もっと、こう、ドカーンってやって、全員があたいに降参するみたいな……そういう、本当の、さいきょ――」
言いかけた言葉は、草むらから聞こえた、かすかな水音によって遮られた。
ピョコン、と一匹の、緑色の大きな蛙が岩場に跳ね上がってきたのだ。
「あ、蛙だ!」
チルノは一瞬で真面目な顔を崩し、幼児のような無邪気さに目を輝かせて蛙に飛びついた。
すばしっこい両手でその冷たい皮膚を捕らえる。
これを見てよ、と大妖精に誇るように掲げ、チルノは手のひらに意識を集中させた。ツツッ、と細い霜の結晶が蛙の表面を覆い、瞬く間に、綺麗なエメラルド色の氷漬けの置物が完成する。
「ほら、見て大ちゃん! 完璧に凍らせたよ! あたいの氷の技術は、やっぱり、さいきょ……」
ドクン、と。
チルノの小さな背筋を、氷水の針で貫かれたような、強烈な悪寒が走った。
その場の空気が、一瞬にして凝固した。太陽の光はまだ暖かいはずなのに、光そのものがねじ曲がったかのような、圧倒的な圧迫感。どこからか、底知れない、そしてひどく不機嫌で「嫌な視線」が、じっと二人を射抜いている。
冷や汗が、チルノの額を伝って流れ落ちた。大妖精もその異変に気づき、顔を真っ青にしてチルノの袖をきつく握りしめる。
「チ、チルノちゃん……何か、いる……凄く怒ってる……!」
「う、うん……っ。逃げるよ、大ちゃん!!」
凍らせた蛙を慌てて草むらに放り出し、チルノは大妖精の手をひっつかんで、全力で羽を羽ばたかせた。湖の霧の向こう、人間の里とは逆の方向へ、二人は一心不乱に飛び去っていく。背後に感じる視線の主から遠ざかることだけを考えて、ただひたすらに、風を切って逃げ続けた。
息を切らし、ようやく辿り着いたのは、鬱蒼とした緑の波が広がる迷いの竹林の境界線だった。
手をつないだまま、二人は竹の葉の影に隠れて、はあはあと激しい呼吸を合わせる。
「……っ、もう、大丈夫みたい……。怖かったね、チルノちゃん」
「な、なによあいつ! 不意打ちなんてずるいんだから! あたいが本気を出せば、あんな奴……っ」
大妖精を安心させるために、チルノはいつものように虚勢を張って胸を叩いた。けれど、繋いだ大妖精の手の震えが伝わってくるたびに、自分の無力さが、さっきの三妖精の嘲笑とともに、再び頭をもたげてくる。
やっぱり、あたいはまだ、だれにでも勝てるわけじゃない。
ガサリ、と頭上の竹葉が不自然に揺れた。
「――ッ!?」
チルノは咄嗟に大妖精を自身の背後に庇い、太い竹の影に身を隠した。
風が急に、熱を孕み始める。湖の日常の冷気に慣れた肌が、じりじりと焼けるような熱波を感知する。
竹林の奥、視界を埋め尽くしたのは――爆発的に燃え盛る紅蓮の炎と、それを切り裂くように奔る狂気的なまでの純白の光弾だった。
一瞬の、世界の破滅を思わせる光の狂宴。
普通なら震え上がって逃げ出すような光景だったが、さっきの「嫌な視線」から必死に逃げてきたチルノの幼い脳は、すでに飽和状態だった。
「なによ、あっちもなんかお祭り騒ぎね。あたいには関係ないわ!」
乱気流のように吹き荒れる熱風を小さな羽でパタパタと追い払い、チルノはまったく気にする様子もなく、大妖精の手を再び引いた。
「ねえ大ちゃん、あんなむさ苦しい竹林はやめて、博麗神社に行こうよ! 霊夢のやつに、あたいの新しい氷の技を見せて、驚かせてやるんだから!」
「えっ、博麗神社!? 霊夢さん、また怒らないかな……」
「大丈夫、大丈夫! あたいがついてるもん!」
大妖精の心配を無邪気な笑顔で吹き飛ばし、チルノは夕暮れの空へと再び舞い上がった。
長い石段を登りきると、朱色の鳥居が、落ちていく夕日に赤々と照らされていた。
境内はひっそりとしており、縁側では紅白の巫女装束を纏った博麗霊夢が、急須から湯呑みにお茶を注いでいるところだった。立ち上る湯気と、お茶の青畳のような香りが、境内の静寂に溶けていく。
「あら、また面倒なのが来たわね。うちはお賽銭がないとお茶も出さないわよ」
霊夢はチルノたちに一瞥もくれず、ふぅふぅとお茶を啜った。そのあまりにも無防備で、しかし塵一つ寄せ付けないような佇まいに、チルノはカチンときて、縁側の前に着地するなり叫んだ。
「お茶なんか要らないやい! 霊夢、あたいと勝負しなさい! 今日のあたいは、いっつもと違うんだからね!」
「はいはい、勝負ね。今日の私は忙しいの。裏庭の掃除もしなきゃいけないし、お布団も取り込まなきゃいけないし、何よりあんたの相手をする気力がお賽銭箱の底より薄いのよ」
「なによそれー! あたいを馬鹿にするなー!」
チルノは激昂し、小さな両手を天に掲げた。周囲の大気が一瞬にして凍りつき、夕暮れの光を乱反射する無数の氷の礫が、霊夢を取り囲むように展開される。
「喰らいなさい! あたいの……さいきょ――」
最後まで言葉を紡ぐことは、許されなかった。
霊夢は湯呑みを持ったまま、ただ、ほんの少しだけ大幣を、まるでハエでも追い払うかのように、無造作に一振りしただけだった。
――バサリ。
風が凪いだ。
それだけだった。チルノが渾身の魔力で編み上げたはずの氷の礫は、霊夢の放った目に見えない「何か」に触れた瞬間、パリンという涼やかな音さえ立てず、ただのぬるい水蒸気となって大気に霧散してしまったのだ。
「あ、あれ……っ?」
チルノが呆然と己の手のひらを見つめている間に、霊夢の手のひらが、チルノの額をパチン、と軽く小突いた。
「うにゃっ!」
それだけの衝撃で、チルノの身体は後ろへすてーんと転がり、大妖精の胸の中に不格好に倒れ込んだ。またしても、あっさりと、抵抗の余地すらなく負けてしまった。
「うぅ……なんでよ、なんでいっつも勝てないのよ……っ。あたいは、あたいは……『さいきょう』になりたいのに……!」
大妖精の腕の中で、チルノは涙を浮かべながら地面を叩いた。三妖精にも負け、霊夢には触れることすらできない。
その言葉を聞いた霊夢は、やれやれと言ったように深い溜息をつき、空になった湯呑みを縁側に置いた。そして、いつもの冷淡な、けれどどこか世界の真理を見通しているような双眸で、チルノを静かに見下ろした。
「最強、ねえ。あんた、そんな窮屈な言葉に縛られて楽しいの?」
「きゅ、くつ……?」
「そうよ。一番強いってことは、それ以上どこにも行けないってことじゃない。風はね、どこにも留まらないから自由にどこへでも行けるのよ。あんたは妖精でしょう? だったら、勝った負けたなんて人間みたいなちっぽけな物差しに収まってないで、もっと好き勝手に、おバカに風と遊んでいればいいのよ。それが一番あんたららしいんだから」
霊夢はそれだけ言うと、じゃあね、と背を向けて奥の部屋へと引っ込んでしまった。
残されたチルノは、頭を抱えて唸るしかなかった。妹紅たちの言葉とも違う、霊夢の放った「縛られない強さ」の解釈。それは、チルノの小さな胸の霧を、さらに深く、複雑に染め上げていく。
――それから、数日後。
チルノはあの霊夢の言葉の「わからなさ」を一人で抱え込み、考えながら、気づけば再び、あの鬱蒼とした緑の波が広がる『迷いの竹林』へと足を延ばしていた。今度は、その奥から響く本物の「戦火」を、その身で確かめるために。
一歩、足を踏み入れた瞬間から、世界は色を失ったように昏い緑の迷宮へと変貌する。
頭上を完全に覆い尽くす巨竹の葉は、陽光を分厚い天蓋のように遮り、足元には湿った腐葉土と、何百年も前に枯れ果てた竹の骨骸がじっとりと横たわっていた。踏み締めるたびに、ミシャ、ミシャ、と冷たい泥が靴底を噛む音が、異常なほど鮮明に鼓膜に響く。
ここは風が死んだ世界だ。湖の生ぬるい霧とは違う、肌にまとわりつくような、重く冷徹な湿気がチルノの薄い小袖を濡らしていく。
……なんだか、静かだな。
チルノは小さな胸の奥で、自身の心音がトクトクと速くなっていくのを自覚していた。
いつもなら、もこーが笑顔で「よお、また迷子か?」と薮から顔を出すはずの境界線。けれど今日の竹林は、生き物の気配が一切途絶えていた。虫の羽音すらしない。ただ、奥へ進めば進むほど、空気の「重さ」がじわじわと増していく。まるで、目に見えない巨大な手のひらで、上空から押し潰されているかのような錯覚。
そのときだった。
チリ……と、チルノの鼻腔を掠めたのは、妖精の日常にはおよそ存在しない、ひどく乾いた匂い。――火薬の、そして肉が灼けるような、不吉な焦燥の臭気。
直後、大気が爆発した。
視界の奥の闇が、一瞬にして猛烈な白一色に染まる。遅れてやってきたのは、爆風という名の鉄槌だった。
突風が植物の葉を一網打尽に毟り取り、チルノの小さな身体を吹き飛ばさんばかりに襲いかかる。チルノは咄嗟に近くの太い竹の幹にしがみついた。手のひらを通じて、竹の芯が、いや、大地そのものが恐怖に震えるように激しく振動しているのが伝わってくる。
轟音は、耳を塞いでもなお脳髄を直接揺さぶった。
目を開けることすら困難な風の嵐の中で、チルノは見た。緑の闇の向こう側、何百本もの竹をなぎ倒しながら奔る、狂気の光の奔流を。
大気そのものがみしりと悲鳴を上げる。
チルノは太い竹の幹に小さな背中を預け、呼吸の仕方を忘れたように目を見開いていた。
視界を埋め尽くすのは、網膜を物理的に灼き焦がすような紅蓮の焔と、それらを無慈悲に切り裂くように奔る、冷徹で純白の光弾の群れ。
「アハハハハハ! どうしたの妹紅、自慢の羽が少し燻んでいてよ!」
鬱蒼とした緑の天蓋を突き破り、鈴を転がすように清脆な、しかし骨の髄まで凍りつかせるような殺意を孕んだ声が響き渡る。
天空に優雅に浮かぶのは、永遠亭の姫――蓬莱山輝夜。彼女の纏う衣服の飾り紐が、吹き荒れる爆風に美しく、しかし残酷なスローモーションでなびいていた。彼女の手から放たれるのは、蓬莱の玉の枝。
放たれた一条一条の光弾は、単なる魔力の塊ではない。それは光そのものが意思を持ったかのように、空間の分子を励起させ、触れた竹林の巨木をパリンと硝子のように割り、一瞬にして灰すら残さず消滅させていく。
「黙れ、ニート姫……ッ! お前のその澄ましたツラを、今度こそ灰にしてやる!」
地上を奔る影があった。藤原妹紅。
彼女の背中から爆発的に噴出したのは、不死の命を薪として燃え盛る、極彩色の不死鳥の翼だ。
凄まじい速度だった。肉眼の限界を超えたその動きは、チルノの目には「赤い線」としてしか捉えられない。妹紅が地面を蹴るたびに、踏み締められた土壌が爆縮し、周囲の竹林が同心円状に圧壊していく。
輝夜の放つ、幾千幾万もの超高密度な光の弾幕。それはまるで、夜空の星々を全て引き引き摺り下ろして敷き詰めたような、息をのむほどに美しい絶望の壁。
しかし、妹紅は避けることすらしない。
肉体が爆砕される生々しい音が響く。光弾が彼女の肩を、脇腹を、太ももを容赦なく抉り、鮮血が舞う――が、その血が地面に落ちるよりも早く、不滅の焔が傷口をドロリと包み込み、細胞の段階から肉体を強制的に編み直していく。
死を恐れぬのではない。死という概念そのものを喪失した者が魅せる、狂気の突撃。
「――スペルカード、不死[火の鳥-鳳翼天翔-]!」
妹紅の咆哮とともに、世界の色彩が反転した。
彼女の背の翼が十倍にも膨れ上がり、竹林の全方位へと紅蓮の衝撃波が拡散される。熱波がチルノの頬の水分を一瞬で奪い、周囲の空間が一気に酸欠状態へと陥る。飛び散った竹の葉の繊維が、熱によって炭化し、無数の黒い雪となって二人の間に美しく降り注いだ。
「ふふ、相変わらず荒々しいこと。――神宝[サラマンダーシールド]!」
輝夜が冷ややかに微笑み、五色の光を放つ結界を展開する。
激突。
そして、鼓膜を直接暴力で殴りつけるような爆音が轟いた。
妹紅の焔の拳が、輝夜の絶対的な光の障壁に突き刺さる。熱量と質量、そして二人の永すぎる憎悪が激突した境界面から、火花と光の粒子が火山の噴火のように吹き上がった。
美しかった。あまりにも、狂おしいほどに美しかった。
それは、博麗霊夢が見せた「風のような、あるがままの強さ」とは対極にあるもの。
自らの存在を誇示し、呪い、愛し、相手の存在だけを座標として世界に刻みつけようとする、ドロドロとした執念の結晶。
光の嵐のなか、二人の衣服はボロボロに裂け、肌には幾重もの焦げ跡と切り傷が刻まれては消えていく。それでも二人の瞳は、まるで歓喜に震える子供のように、爛々と輝いていた。
「お前のその一撃、前より少しは冴えているじゃないか、ドブネズミ!」
「お前の方こそ、四畳半に引き籠もっていた割には、いい弾を出すじゃないか、姫様!」
皮肉を交わす口調は刺々しい。けれど、その声の響きには、互いが互いにとっての「唯一の理解者」であることを確信しているような、奇妙な艶があった。
勝負は数刻に及び、やがて、極大の炎の塊が輝夜の胸元を捉え、まばゆい光の粒子となって彼女の身体が地面に崩れ落ちる。
「……はぁ、今回は私の負けか」
うつ伏せに倒れた輝夜が、忌々しそうに地面の泥を叩く。その身体はすでに、不滅の因果によって、光の糸で縫い合わされるように再生を始めていた。
勝ったはずの妹紅もまた、膝を突き、全身から焦げ臭い煙を上げている。
衣服はボロボロで、呼吸は激しく乱れていた。しかし、彼女は輝夜にそれ以上の追撃を加えることはせず、ふぅ、と荒い息を吐き出すと、ふらつく足取りで竹林の入り口へと歩み始めた。
チルノは呼吸を忘れ、ただその背中を追うために、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように歩き出していた。
霊夢の言葉に迷わされ、三妖精に負けて、泥水の中で燻っていたチルノの胸に、圧倒的な焔の記憶が焼き付いた。
あの人間なら。あの折れない炎なら、どうすれば誰も追いつけない『さいきょう』になれるのか、その秘密を知っているに違いない。
少女の形をした氷精は、己の背中の氷が微かに溶け出すほどの熱量を胸に抱き、妹紅の背中を、必死に追いかけるのだった。
煤煙と熱砂の渦から逃れるようにして、藤原妹紅は歩いていた。
両手をズボンのポケットに深く突っ込み、ひどく煤けた白い髪を秋風に遊ばせながら、彼女の唇からは妙に気の抜けた鼻歌が漏れている。さっきまで己の肉体を幾度も消し飛ばし、大気を沸騰させていた不滅の怪物の姿は、そこにはもうなかった。ただの、少しばかり気怠げな人間の少女が、緑の迷宮をそぞろ歩いているに過ぎない。
やがて、竹林の密集地帯を抜けた境界の近く。現世と常世を分かつ境界線のようにぽつねんと置かれた、木製の古いベンチが見えてくる。
妹紅はそこへ近寄ると、自らの重すぎる四肢を投げ出すようにして腰掛けた。細い足を組み、背もたれに深く身体を預け、しばらくの間、言葉もなくぼうっと空を眺めていた。
今日の空は、痛いくらいに青々としていた。
幾重もの緑の葉の隙間から覗くその蒼穹には、ちぎれた綿菓子のような白い雲が、所在なさげにちらほらと浮かんでいる。さっきまで彼女が撒き散らした紅蓮の焔など、世界の広大さの前には初めからなかったかのように、空はどこまでも高く、冷徹に澄み渡っていた。
「……ふぅ」
妹紅は小さく息を吐き、懐から年季の入った煙草の箱を取り出した。指先で一本を引き抜き、唇に咥える。そうして、自らの命を繋ぐ熱量をほんの少しだけその先端に灯そうとした、まさにその刹那だった。
ガサゴソと、不格好に藪をかき分ける音が静寂を破った。
「も、もこー……っ!」
飛び出してきたのは、息を切らし、小さな肩を激しく上下させたチルノだった。
妹紅は一瞬だけ意外そうに目を見開いたが、すぐにいつもの、どこか呆れたような、しかし身内を迎えるような柔らかい苦笑を唇に浮かべた。
咥えていた煙草をそっと指先で挟んで唇から離し、火を灯すことなく箱へと戻す。それを丁寧にポケットの奥へしまい込む一連の動作には、子供の網膜に己の退廃を焼き付けたくないという、彼女なりの無意識の理性が働いていた。
「おー、チルノか。どうした? 今日も遊ぶか?」
いつもと変わらない、少しぶっきらぼうで、けれど確かなぬくもりを含んだ声。
チルノはその声を聞いた瞬間、竹林の奥で見たあの恐ろしい焔の残像と、目の前にいる「いつものもこー」のギャップに、一瞬だけ言葉を詰まらせた。けれど、胸の奥でじりじりと燃え盛る焦燥感が、少女の背中を強く押し出す。
「遊ぶ、じゃないやい! もこー、あたい、見てたんだからね!」
「あん? 何をだよ」
「さっきの戦いだよ! お前、あの光る奴と、もの凄い勢いでドカーンってやって、それで勝ったでしょ!」
チルノはベンチの前に立ち、小さな、しかし氷晶のように尖った拳を真っ直ぐに突き出した。
「あたいに教えなさいよ! どうすればお前みたいに、どれだけボロボロになっても、次の瞬間にはケロリと立ち上がって、だれにでも勝てるさいきょうになれるのかを!」
妹紅は組んでいた足を組み替え、背もたれにさらに深く身を沈めた。
戦う意思など、最初から微塵もない。ただ、小さな迷子の羽音に耳を傾けるような、ひどく永い、寂寥の眼差しがチルノを捉える。
「最強、ねえ。お前のような濁りのない生き物が、そんな呪いみたいな言葉を口にするもんじゃない。私はただ、死ぬことが叶わないから、己の肉体を燃やして時間を潰しているだけだ。勝った負けたなんていう数字は、明日の朝には朝露とともに消え失せる、無意味な遊戯に過ぎないんだよ」
「意味がないわけないじゃん! 負けたら胸の奥がこんなに痛くて、勝ったら世界が全部あたいのものになったみたいに嬉しいもん! あたいは……あいつらに、馬鹿にされたくないんだ!」
チルノの叫びは、どこまでも純粋で、だからこそ痛々しかった。
誰であろうと勝つ。向かってくる奴全員を力任せにねじ伏せる。それこそが、チルノの頭の中にある、一番あたたかくて分かりやすい世界のルールだったからだ。
しかし、妹紅の口から漏れたのは、チルノの期待を裏切るような、低く乾いた溜息だった。
「お前は、本当に何も知らないんだな。……いいか、チルノ。誰かに勝つってことは、その分の恨みを背負うってことだ。一番上になるってことは、周り全員を敵に回すってことさ。私みたいに終わりのない屠殺場に身を投じるか、それとも……」
「あら、それは随分と血生臭い、貴方らしい被害妄想ね、ドブネズミ」
背後から、大気を凍らせるほどに涼やかな、しかし贅沢な絹が擦れ合うような声が響いた。
夕暮れの気配を孕んだ影の中から、傷一つない衣を纏い直した蓬莱山輝夜が、静かに姿を現した。
「輝夜……お前、もう追ってきたのか。本当にしつこい泥棒猫だな」
妹紅は顔を背けたまま、吐き捨てるように言った。眉間に刻まれた深い皺は明確な嫌悪を示しているが、その実、その声のトーンにはどこか、いつもの日常が戻ってきたことへの奇妙な安堵が滲んでいる。
「ふふ、敗北の苦みを噛み締めたまま眠るほど、私は淑女ではなくてよ。それに、そこの小さな氷精が、ひどく滑稽で美しい『問い』を投げていたから」
輝夜は妹紅の露骨な態度など風ほどにも留めず、傷一つない美しい着物の裾を翻して、ベンチの空いているスペースにするりと滑り込んだ。
妹紅は嫌そうに少しだけ身体をずらしたが、彼女を突き飛ばすこともしない。二人の衣服から漂う、火薬の焦げ臭さと、月の都の香高き白檀の香りが、ベンチの真ん中で静かに混ざり合い、歪な均衡を生み出していく。
「ちょっと! なによお前、急に入ってきて!」
チルノは不満げに頬を膨らませ、輝夜を指差した。
「あたいはもこーに、どうすればさいきょうになれるかを聞いてるの! 邪魔しないでよ!」
「いいえ、邪魔などしていなくてよ、妖精」
輝夜は優雅に長い袖を重ね、チルノを慈しむような、しかしどこか突き放したような瞳で見つめた。
「貴方の言う『さいきょう』という概念はね、他者という不確かな鏡がなければ成立し得ない、ただの陽炎なのよ。万物の頂点に立つということは、万物によって己の輪郭を定義されるということ。それは即ち、終わりなき『他者からの承認』という名の檻に、自ら囚われる奴隷になることなの。そんなものに、一体何の意味があるのかしら?」
「え、お、おの、しょうにん……? おり……?」
チルノは言葉に詰まり、小首を傾げた。輝夜の口から紡がれる言葉は、まるで見たこともない遠い国の飾りのようで、ちっとも意味が頭に入ってこない。
「わかんないよ! むずかしい言葉ばっかり使ってさ! さいきょうって、ただ一番強いってことでしょ! 誰が相手でも、ドカーンって氷をぶつけて勝てば、それでいいじゃん!」
「お前なぁ……」
妹紅が呆れたように、しかしどこか諭すような声を絞り出した。
「こいつが言いたいのはな、一番上になった瞬間から、次はそこから引きずり下ろされる恐怖という病魔に侵されるってことだ。勝てば勝つほど、周りは全員、お前の首を狙う敵に変わる。こいつのように歴史の闇に引き籠もるか、私のように終わりのない屠殺場で肉体を削り続けるか。どちらを選んでも、待っているのは精神の腐爛だけさ。そんなものを目指すなんて、ただの馬鹿のすることだ」
「あら、それは貴方の、あまりに血生臭い被害妄想でしょう? ドブネズミ」
輝夜はクスクスと袖で口元を隠して笑った。
「私は、絶対的な強さとは固定された『座』ではなく、移り変わる世界の混沌の中心で、凛としてブレずに在り続ける『意志』そのものだと言いたいだけ。貴方のように、ただ意地になって肉体を燃やし尽くすだけの野蛮な生き方と一緒にしないでほしいわね」
「変わらない身体に閉じ込められたお前が言うと、極上の皮肉に聞こえるぜ。意志だと? 笑わせるな。お前のそれは、ただ退屈に耐えかねた姫様の、我儘な現実逃避だろうが」
二人はチルノを挟んで、淡々と、しかし地層のように重厚な言葉の応酬を繰り広げていく。
皮肉を交わし合うその姿は、一見すれば犬猿の仲そのものだ。しかし、読者がその場にいれば、二人の間に漂う空気があまりに濃密で、互いの魂の波長が完璧に噛み合っていることに気づくだろう。千年の孤独を共有した二人にしか分からない、言葉の裏にある絶対的な信頼。それは、仲が悪いからこそ到達した、奇妙な親友の形だった。
「ねえ! もこーも、かがやも、おかしいよ!」
チルノはたまらず、二人の間に割って入るように地団駄を踏んだ。
「なんで強いことが、そんなに暗くてろくでもないことみたいに言うのさ! あたいは、ただ負けたくないだけ! 負けたら胸の奥がぎゅーってなって、悔しくて、大ちゃんに心配かけるのが嫌なんだ! だから、みんなが『参りました』って言うくらい、分かりやすいさいきょうになりたいの! なんでそれが駄目なのよ!」
チルノの小さな、しかし剥き出しの叫びが、夕暮れの竹林に響き渡った。
その瞬間、妹紅と輝夜の会話がピタリと止まった。
妹紅は、チルノのその汚れなき瞳をじっと見つめた。そこには、かつて自分が人間に絶望し、不死の身体を得る前に持っていたかもしれない、あまりにも純粋な「感情の原初」があった。
「……駄目だとは言ってないよ、チルノ」
妹紅の声は、先ほどまでとは打って変わって、ひどく静かで優しかった。
「ただな、私たちが言っているのは、お前が目指そうとしているその場所は、お前が思っているほど綺麗じゃないってことだ。お前はただ、大切な奴の隣で笑っていたいだけなんだろう? だったら、最強なんて言葉は、お前には重すぎるんだよ」
「……そうね」
輝夜もまた、悪戯っぽい笑みを消し、哀愁を帯びた瞳で遠い空を見つめた。
「貴方のその純粋さは、私たちのような『終わらない者』から見れば、眩しすぎて目を背けたくなるほどだわ。けれど、妖精。世界はね、貴方が思うよりもずっと複雑で、他人の視線という泥に塗れているの。貴方が『私は強い』といくら叫んでも、周りがそれを認めなければ、貴方の最強は成立しないのよ。それでも貴方は、その孤独な戦いを続ける覚悟があるのかしら?」
「たにんの、しせん……?」
チルノは小さな両手で、己の頭をきつく抱え込んだ。
脳みそが沸騰しそうだった。
霊夢は「物差しに収まるな」と言い、妹紅は「敵が増えるだけだ」と言い、輝夜は「他人の承認の檻だ」と言う。
みんな、バラバラなことを言う。けれど、誰もチルノが欲しかった「こうすれば強くなれるよ」という答えはくれない。それどころか、チルノが信じて疑わなかった『さいきょう』という言葉の輪郭が、二人の高度な思弁の前に、まるで泥沼に沈んでいくようにドロドロと崩れていく。
二人は、チルノという存在を置き去りにしたまま、淡々と、しかし地層のように重厚な言葉の応酬を繰り広げていく。
永遠、刹那、他者、自己、概念、定義。
チルノは小さな両手で、己の頭をきつく抱え込んだ。
なんなのだ、それ。一体、なんなのだ。
あたいには、ちっとも、一言だって分かりはしない。
二人の唇から吐き出される、刃のように冷たくて難解な言葉の群れが、まるで実体を持った怪物のようになだれ込み、チルノの幼い思考回路を白熱灯のように焼き切れそうにさせていた。拒絶の拒絶。頭の芯が沸騰しそうなほどの熱を帯び、視界が歪む。
チルノの知っている、そして胸に焦がれ続けたさいきょうという言葉は、そんな泥の檻のようなものではなかったはずだ。
もっとこう、あたいが一番で。みんなが楽しく笑う。お日様の下でキラキラと輝く氷の結晶のように、誰が見ても分かりやすい、あたたかいものであるはずなのだ。それなのに、なぜこの強い二人は、それを呪いだの奴隷だのと、暗くろくでもないもののように語るのか。
斜陽の赤い光が、ベンチの三人の影を、世界の果てまで届きそうなほど長く、歪に引き伸ばしていく。
チルノの胸中には、最強という言葉に対する、底知れない絶望と疑問だけが、冷たく、泥のように沈殿していくのだった。
「……もういいやい。二人とも、意地悪ばっかりだ!」
チルノは涙を堪えるように顔を伏せ、ベンチから勢いよく飛びのいた。
「あたい、もう帰る! もこーのバカ! かがやのバカ!」
踵を返し、夕闇が迫る霧の湖の方向へと、がむしゃらに羽を羽ばたかせて飛び去っていく。
残されたベンチで、妹紅はポケットから再び煙草を取り出し、今度は指先に小さな炎を灯して火をつけた。紫煙が、夕暮れの青空へと頼りなく吸い込まれていく。
「……行っちまったな」
「ええ。でも、あの子はきっと、私たちとは違う答えを見つけるわよ。だって、あの子はまだ、自分の足で風を切って飛べるのだから」
輝夜のその言葉に、妹紅は小さく煙を吐き出し、何も答えなかった。ただ、二人の影は、いつまでも赤く染まる竹林に静かに佇んでいた。
竹林を飛び出したチルノの視界は、夕暮れの真っ赤な残照で満たされていた。
西の空を血のような朱色に染める太陽は、まるで妹紅の放ったあの狂暴な炎の残滓のようであり、同時に、チルノの胸の奥でじりじりと燻り続ける焦燥そのもののようでもあった。
羽ばたくたびに、背中の氷晶からパラパラと、光を反射するダイヤモンドダストが零れ落ちる。それはいつもなら周囲を美しく飾る無邪気な光のはずだったが、今のチルノの目には、まるで己の未熟さが削り落とされている破片のように思えてならなかった。
霊夢は、物差しに収まらず風と遊べと言った。
妹紅は、最強など呪いであり敵を増やすだけだと言った。
輝夜は、他人の視線の檻に囚われる奴隷だと言った。
みんな、あたいよりずっと強くて、ずっと長く生きている奴らだ。だからきっと、あいつらの言うことが正しいのだろう。あたいの考えていた、全員を力任せにねじ伏せるような、そんな分かりやすい『さいきょう』なんてものは、世界中のどこを探しても存在しないのかもしれない。
負けたら胸の奥がぎゅっと痛む。三妖精に笑われたあの水底の泥の冷たさが、いまも肌にへばりついて離れない。あいつらに勝ちたい。馬鹿にされたくない。大ちゃんを安心させたい。そんなあたいの純粋な願いは、妹紅たちの言う通り、ただの子供の我儘で、救いようのない盲信なのだろうか。
夕闇が、世界の輪郭をじわじわと侵食していく。
霧の湖が近づくにつれ、空気の湿度が上がっていくのを感じる。いつもなら我が家に帰ってきたような安心感に包まれるはずのその冷気が、今のチルノには、まるで世界のすべてから突き放されたかのような、底知れない寂しさを運んできた。
あたいは、どうすればいいんだろう。さいきょうになんてなったら、本当にもこーみたいに苦しい思いをするのだろうか。輝夜みたいに寂しい檻に入るのだろうか。
分からない。考えれば考えるほど、ひらがなのままのその言葉は、冷たい泥のようになってチルノの心根に重く沈殿していくのだった。
「……あれ?」
不意に、霧の湖の入り口、人間の里へと続く小道の近くから、いくつかの声が風に乗って聞こえてきた。
チルノは無意識に羽ばたきを止め、近くの柳の太い枝に身を隠した。夕闇の帳が下りる一歩手前、薄暗い草むらの中に、見覚えのある四つの影が揺れている。
「ねえ、大妖精。いつもチルノの後ろにくっついて歩いて、退屈じゃないの?」
「そうよ。あの子、いっつも『あたいが、さいきょうね!』って威張ってばかりじゃない。本当は私たちに一回も勝てないくせにさ」
「おとなしいからって、いいように使われてるだけなんじゃない? 私たちと一緒にいた方が、もっと楽しい悪戯ができるわよ」
サニーミルク、ルナチャイルド、スターサファイア。
また、あいつらだ。三妖精が薄暗い小道の中で、大妖精を取り囲むようにして、揶揄うようなクスクスという笑い声を漏らしている。
囲まれた大妖精は、白く清潔なハンカチを両手できつく握りしめ、俯いたまま小さな肩を震わせていた。彼女の緑色の美しい髪が、夕風に寂しく揺れている。
「ち、違うもん……っ。チルノちゃんは、威張ってなんかいないもん……。いつも、私を守ろうとしてくれて……」
「守るって、あの無様なザマで? こないだも湖の底に落っこちて、大妖精に助けてもらったじゃない」
「あはは、本当ね! 守られてるのはどっちかしら!」
弾けるような三妖精の笑い声。それは数日前にチルノが湖の底で聞いた、あの不快な鼓動と全く同じものだった。
その瞬間、チルノの脳裏から、霊夢の言葉も、妹紅の憂鬱も、輝夜の哲学も、すべてが奇麗さっぱり吹き飛んだ。
難しいことなんて、どうでもいい。
他人の視線がどうとか、精神の腐爛がどうとか、そんなものは知ったことか。
いま、あたいの大切な大ちゃんが、あいつらに泣かされそうになっている。あたいの不甲斐なさのせいで、あいつらに笑われている。
それだけで、身体を動かす理由には十分だった。
ドッ、とチルノの背中から、周囲の草木を一瞬で凍りつかせるほどの凶暴な冷気が噴出した。
「――大ちゃんを、イジメるなーーっ!!!」
柳の枝を蹴り崩し、チルノは一条の青白い彗星となって、三妖精の頭上へと猛然と飛び込んでいった。
――バチィィンッ!!!
夕闇の静寂を切り裂いて、狂暴なまでの氷の咆哮が爆ぜた。
チルノの背中から噴出したのは、怒りの温度で極限まで硬度を増した六条の氷晶の翅(はね)だ。突撃の風圧だけで、周囲の柳の葉が悲鳴を上げて毟り取られ、空間の水分が一瞬にして白い霜となって草むらを覆い尽くす。
「チルノちゃん……!」
「おっと、お出ましね! でも遅いのよ!」
先陣を切ったのはサニーミルクだった。彼女が掲げた掌から、夕暮れのわずかな残照を何千倍にも凝縮した屈折光が放たれる。
直撃。チルノの網膜を物理的な白一色の針が灼く。視界を奪われ、世界の上下すら見失ったチルノの耳に、ルナチャイルドの冷徹な障壁が追い打ちをかけた。音が、消える。自身の羽ばたきも、大ちゃんの泣き声も、すべてが真綿で窒息させられたように遮断された。完全な暗黒と完全な静寂の檻。
それでもチルノは止まらない。がむしゃらに、己の野生だけを頼りに氷の弾幕を全方位へ撒き散らす。
空気を切り裂く無数の氷の礫が、夕闇にきらきらとダイヤモンドのように煌めいた。
しかし、そのすべての軌道は、スターサファイアの張り巡らせた「気配の蜘蛛の糸」によって、完璧に見切られていた。三妖精の動きには、寸分の狂いもない。光が目を灼き、静寂が耳を塞ぎ、星の目が見えない刃となってチルノの肉体を追い詰めていく。
「そこよ!」
三人の放った極大の光弾の奔流が、チルノの小さな身体を正面から捉えた。
カハッ、と肺の空気が絞り出される。編み上げた氷の羽が根元からパキパキと音を立てて砕け散り、チルノの身体は激しい放物線を描いて、夜の帳が下りかけた霧の湖へと叩きつけられた。
ザッブーーーーンッ!!!
冷たい。ひどく、冷たい。
数日前と同じ、光の届かない底暗い水底。全身の擦り傷がじりじりと熱く、泥の重みがチルノを深淵へと引きずり込もうとする。
あたいは、また負けたのだ。
どれだけ足掻いても、どれだけ怒っても、三人の完璧な物差しの前には、あたいの力なんてこれっぽっちも通用しなかった。
霊夢の言う通り、物差しに縛られたあたいは弱かった。妹紅の言う通り、最強を求めた結果は無様な傷跡だけだった。輝夜の言う通り、あたいは他人の視線の中で、ただの負け犬として輪郭を失っていく。
冷たい。水が、悔しさが、涙が混ざり合って、もう自分がどこにいるのかも分からない。
――その時だった。
優しく、頼りない二つの腕が、水底のチルノの身体をそっと抱きしめた。
気泡を弾き散らしながら、チルノを光のある方へと、必死に引き上げていく存在。
プハッ! と水面に顔を出したとき、世界は完全に夜を迎えていた。
満天の星空。そして、美しい満月が、湖面を白銀の鏡のように照らし出している。その光の中で、チルノを抱きかかえた大妖精が、ボロボロと大きな涙を流しながら微笑んでいた。
「チルノちゃん……チルノちゃん……!」
大妖精の緑の髪は水に濡れ、背中の翅はすっかり傷ついていた。それでも彼女は、自分の痛みなど忘れたように、チルノの顔の泥を優しい手で拭う。
「ありがとう……私を助けようとしてくれて、本当にありがとう。三人はね、チルノちゃんが威張ってるって言ったの。でも、違うの。私は知ってるもん。チルノちゃんは、いつだって一番に飛び出して、私を守ってくれる。私にとってはね……いつだって、チルノちゃんが一番凄くて、一番かっこいいんだよ……!」
ポつり、ポつりと、大妖精の涙がチルノの頬に落ちる。
その瞬間、チルノの胸の中で、ドロドロと沈殿していた霧が一瞬にして晴れ渡った。
あぁ、そうか。
他人が決める物差しなんて、あたいには最初から必要なかったのだ。
世界がどうとか、他人の承認がどうとか、そんな難しい檻には、初めから入らなくてよかったんだ。
大ちゃんが、あたいを「凄い」と言ってくれる。あたい自身が、大ちゃんを守るために「立ち上がる」と決めている。
この、手を繋いだ二人だけの境界線のなかで、あたいが『そう』だと胸を張れるなら。
これ以上、何を証明する必要があるというのだろう。
これこそが、霊夢も、妹紅も、輝夜も辿り着けなかった、妖精だけの、チルノだけの、絶対的な世界の真理。
「……ふん、あったり前じゃない」
チルノは水面を叩き、大妖精の腕の中から勢いよく立ち上がった。
全身はずぶ濡れで、服はボロボロ、擦り傷だらけで、体中が痛む。三妖精にはまた負けたし、明日になればまた馬鹿にされるかもしれない。
けれど、チルノの瞳には、夜空の満月よりも眩しく、一点の曇りもない「不滅の意志」が宿っていた。
夜風が、二人の濡れた身体を優しく包む。幻想郷の美しい月光が、傷だらけの少女をまるで世界の主人公のように白銀に照らし出す。
チルノはにかっと八重歯を覗かせ、満面の、これ以上ないほど輝かしい笑顔を浮かべた。
そして、大妖精に向けて、ずぶ濡れの右手で力強くピースサインを掲げてみせる。
チルノの言葉は湖を渡る悪戯な秋風にかき消された。
けれど、その微笑みは、世界中のどんな言葉よりも気高く、美しく、夜の湖面へと溶けていくのだった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、本作の中でチルノは「さいきょう」という言葉をすべてひらがな、あるいは途中でかき消された形でしか口にしていません。
それは、彼女にとってその言葉がまだ、大人の複雑な理屈や漢字で縛られたものではなかったからです。だからこそ、彼女が自分だけの答えを見つけた瞬間、風にかき消された最後の言葉を、この物語のタイトル――『あたいったら、やっぱり最強ね!』という完成された二文字として、彼女に捧げました。
他人が決める物差しではなく、自分と、大切な誰かが信じた純粋な意志こそが、彼女にとっての本当の「最強」なのだと思います。
もし少しでもチルノの勇気に胸が熱くなったり、「チルノの日に相応しい名作だった」と感じていただけましたら、ぜひ画面下の【ポイント評価】や【お気に入り登録】をよろしくお願いいたします。皆様の感想や評価が、何よりの執筆の励みになります。それでは、皆様にとっても素敵なチルノの日になりますように。