自我持つ兵器の英雄譚“Prequel” 1945 to 2000 作:Nyappy-
本編の投稿開始一周年を迎えるのを記念して、
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本編を知っている方には本編以前の深掘りとして。
本編未読の方でも、前日譚単独でお楽しみ頂けます。
0. エルベの握手
1945年4月25日
ドイツ トルガウ エルベ川
戦争は、終わろうとしていた。
だが───まだ、終わってはいなかった。
街には、何度も砲火が通り過ぎた痕跡が残っている。屋根を失った家。壁を半分吹き飛ばされた建物。砲弾の破片で削られた石壁。窓という窓から硝子を失い、黒い空洞だけをこちらへ向けている家々。
道路脇には焼けた車両が転がっていた。軍用車なのか民間車なのか、もはや分からないものもある。
荷車。捨てられた装備。千切れた電線。砕けた煉瓦。雨と泥と油にまみれた道路。
ところどころには、まだ焦げ臭さが残っている。
火薬。燃料。焼けた木。焼けた布。
そして───嗅ぎ慣れたくなどなかった、戦場特有の臭い。
エルベ川に架かっていた橋も無事ではなかった。鉄骨は折れ曲がり、橋桁の一部は水面へ崩れ落ちている。かつて人や馬車や自動車を向こう岸へ渡していたはずの橋は、今では戦争がここまでやってきたことを示す巨大な残骸だった。
西からやってきたアメリカ兵の一人が、瓦礫越しに対岸を見た。
銃は、まだ手放さない。安全装置にも触れられる位置へ指を置いている。
“戦争が終わる”。
そんな話は、もう何度も聞いた。
ドイツ軍は崩壊している。ルール地方では信じられない数のドイツ兵が降伏した。西部戦線では部隊単位、時にはそれ以上の規模で白旗が上がっている。ベルリンも、今やソ連軍に包囲されようとしていた。
───勝つ。
それ自体を疑っている者は、ほとんどいない。
だが、だからといって、目の前の家屋から撃たれる弾丸が弱くなるわけではない。戦争全体で勝っているからといって、自分の胸に飛び込んでくる7.92mm弾が逸れてくれるわけでもない。
道の曲がり角を見るたび、兵士たちは窓を見る。二階を見る。地下室を見る。瓦礫の陰を見る。
ドイツ兵が潜んでいないか。
機関銃がこちらを向いていないか。
そして何より───壁際に、筒を抱えた男が立っていないか。
『パンツァーファウスト』
戦車兵たちが嫌う、短い距離から放たれる対戦車兵器。
あれ一つが残っているだけで、昨日まで生きていた戦友が、今日にはいなくなる。
遠くから重いエンジン音が聞こえた時には、それだけで何人かが反射的に身構えた。味方の車両だと分かるまで、誰も笑わなかった。
『パンター』
『ティーガー』
もうドイツを救えるほどの数は残っていない。燃料もない。部品もない。空からは連合軍機が襲ってくる。熟練兵も減った。
戦略的には、とうに脅威ではなくなりつつある。
だが───そんなことは、一般兵には関係がない。
一両いれば十分だった。一発撃てれば十分だった。
その砲口の前に自分がいれば、その一発だけで自分の戦争は終わる。
若いアメリカ兵の脳裏に、炎上するシャーマンの姿が蘇った。
黒煙。開いたハッチ。誰かが叫んでいた。乗員の一人が転がるように逃げ出した。もう一人は出てこなかった。
あの時だって、最終的には勝った。敵戦車は撃破された。陣地も奪った。地図の上では、間違いなく勝利だった。
───だから何だ。
死んだ人間には、地図の矢印など見えない。
彼は一度、息を吐いた。
銃を握り直す。
……そして、対岸に動くものを見つけた。
「……おい」
隣の兵士も気付く。
視線が集まった。
人影。一人ではない。複数。軍服を着ている。
だが、ドイツ軍ではない。
見慣れない形のヘルメット。見慣れない制服。見慣れない銃。
しばしの沈黙。
若い兵士は、銃床を肩へ引き寄せかけた。対岸の男たちも止まった。
互いに見つめ合う。
ほんの一瞬、戦場で身体に染みついた習慣が、理屈より先に動いた。
知らない兵士。知らない軍服。
ならば、敵かもしれない。
だが。
「……ロシア人?」
誰かが呟いた。
その言葉で、空気が変わった。
ソ連軍。
東からドイツ軍を押し潰しながら進んできた、もう一つの連合国軍。
噂には聞いていた。もう近い。間もなく会う。何日も、そんな話をしていた。
その相手が今、本当に川の向こうにいた。
誰かが腕を上げた。
対岸の一人がそれを見る。そして、ゆっくりと腕を上げ返した。
「American!」
どちらからだったのか、叫び声が飛んだ。発音などどうでもよかった。
「Russki!」
返ってきた声に、誰かが笑った。
対岸でも笑い声が上がった。
張り詰めていたものが、一気に緩んだ。
銃口が下がる。手が振られる。誰かが大声で何かを叫び、それに誰かが返す。
何を言っているのかは、互いにほとんど分からない。
それでも、通じていた。
西から進んできたアメリカ軍。
東から進んできたソ連軍。
ヨーロッパの両側から同じ敵を追い続けた二つの軍隊が、一本の川で、とうとう出会った。
その日だけを見れば、世界は確かに勝利へ向かっていた。
アメリカ兵の中には、ノルマンディーから進んできた者がいる。フランスを越えた。ベルギーを越えた。ドイツ国境を越えた。アルデンヌの冬を知る者もいる。
森の中から戦車が現れる恐怖を知っている。砲撃が止んだ後に耳鳴りだけが残る感覚を知っている。隣を歩いていた人間が、一瞬後にはいなくなることを知っている。
対岸から来た兵士たちは、それ以上に長い道を歩いてきた者も多かった。
東部戦線。
焼けた村。雪。泥。砲撃。戦車。地雷。
何千、何万という死体が残された戦場。
故郷そのものを戦火に踏みにじられた者もいた。家族の消息を知らない者もいた。
彼らもまた、今日まで生き残ってきた。
撃った。撃たれた。伏せた。走った。仲間を担いだ。仲間を置いていかざるを得なかった。
進めと言われれば進み、止まれと言われれば止まり。
そして今日。
エルベ川へ辿り着いた。
やがて、両軍の兵士たちが同じ場所へ集まり始めた。
最初こそ互いを珍しそうに見ていた。相手の銃を見る。制服を見る。階級章を見る。装備を見る。
だが、すぐにそれもどうでもよくなった。
煙草を差し出す者がいる。何かを飲ませようとする者がいる。帽子を取り替えて笑っている者もいる。覚えたばかりの単語を大声で口にして、発音がおかしいと周囲から笑われている者もいる。
そこにいるのは、ほんの数時間前まで戦場を歩いていた兵士たちだった。
それでも今だけは、敵弾の飛んでこない場所で互いの顔を見て、笑っていた。
一人のアメリカ兵と、一人のソ連兵が向かい合った。
歳は、そう変わらないように見えた。
二人とも若い。
だが……もう戦争を知らない若者の顔ではなかった。
ソ連兵の軍服は泥で汚れている。アメリカ兵の袖にも、洗っても取れない汚れが染みついている。
互いに相手の顔を見る。
言葉は分からない。
ソ連兵が右手を差し出した。
アメリカ兵は、その手を見た。
ほんのわずかに間を置いて、自分も右手を伸ばした。
二つの手が重なる。
握る……力強く。
「Good to see you」
アメリカ兵が言った。
ソ連兵は少し首を傾げた。
通じていない。
それでも、笑った。
そして何かを言った。
今度はアメリカ兵が分からなかった。
彼も笑った。
それでよかった。
意味など、どうでもよかった。
言葉にしなくても、一つだけは分かる。
生きている。
お前も、俺も。
ここまで来た。
周囲で歓声が上がる。
肩を組む者。握手をする者。抱き合う者。
誰かが写真を撮ろうとしている。
彼らは気にも留めない。
歴史に残ろうと思っているわけではない。世界情勢を考えているわけでもない。
ワシントンが何を考えているのか。モスクワが何を望んでいるのか。ドイツをどう分割するのか。ポーランドをどうするのか。東欧をどうするのか。
そんな話をするために、彼らはここへ来たのではない。
ただの兵士だった。
昨日まで同じ敵と戦い、今日、同じ川へ辿り着いた。
そして。
「Home」
アメリカ兵が言った。
自分を指す。それから西を指した。
ソ連兵は少し考え、「ああ」とでも言いたげな顔をした。
大きく頷く。
今度は自分の胸を叩いてから、東を指差した。
二人は互いの顔を見る。
笑った。
───家へ帰る。
何年も戦争を続けてきた人間にとって、それ以上に欲しいものなど、そう多くはなかった。
アメリカ兵が再び手を差し出した。
ソ連兵も迷わず握り返した。
ただ、それだけ。
ただの握手だった。
だが、何百万人もの人間が死に、国家が焼け、街が消え、何年にもわたって殺し合いを続けたヨーロッパで。
東から来た兵士と、西から来た兵士が。
銃ではなく。
互いの手を取った。
1945年4月25日、エルベ川。
後世、この日の光景は、第二次世界大戦末期を象徴する一場面として、数多くの写真と記録に残されることになる。
だが、この時の兵士たちにとって、そんな大袈裟な意味は必要なかった。
ドイツは負ける。戦争は終わる。自分たちは帰れる。
それだけでよかった。
数年後、数十年後。
アメリカとソビエト連邦が互いをどのように見ることになるのか。
そんな未来を、彼らは知らない。
知る必要もない。
少なくともこの日のエルベ川では、彼らは同じ敵と戦ってきた戦友だった。
そして。
ヨーロッパから遥か東。
地球の反対側───太平洋では、
……まだ、戦争が続いていた。
日本。
1945年4月。
だが、そこでも既に、一つの時代は終わろうとしていた。
この日から十八日前、4月7日。
沖縄へ向けて出撃した戦艦「大和」を中心とする海上特攻隊は、沖縄へ辿り着くことすらできなかった。
何百機ものアメリカ海軍機が襲いかかった。
爆弾。魚雷。機銃弾。
海面を覆う水柱。対空砲火。黒煙。
不沈艦「大和」は何発もの爆弾と魚雷を受け、傾き、転覆し、最後には巨大な爆炎を上げて東シナ海へ消えた。
軽巡洋艦「矢矧」、そして四隻の駆逐艦も沈んだ。
それは帝国海軍に残された、最後の有力な水上戦力の一つだった。
もちろん、帝国海軍そのものが、その瞬間に消滅したわけではない。
日本にはまだ軍艦が残っている。潜水艦もいる。航空隊もいる。基地もある。兵士もいる。
戦い続けている者は、まだ大勢いた。
───それでも。
真珠湾へ向かった機動部隊も、南方へ進撃した艦隊も、太平洋を駆け巡った連合艦隊も。
もはや、どこにもなかった。
艦隊としての帝国海軍は、坊ノ岬沖で、事実上その命脈を絶たれようとしていた。
そして沖縄では、今も地上戦が続いている。
空からは特攻機が飛ぶ。海では艦艇が沈む。本土では空襲警報が鳴る。
ヨーロッパで兵士たちが握手を交わしている、その同じ日にも。
日本の戦争は、まだ終わっていなかった。
……だが、終わりは確実に近づいていた。
1945年。
敗戦まで───あと、四ヶ月。
続く
あ と が き
次回からは日本視点です。
次回 戦争の終わり