自我持つ兵器の英雄譚“Prequel” 1945 to 2000 作:Nyappy-
後方へ火を噴く震電。
3-1.音の壁の向こう側
1955年
震電三三型、J7W3。
1953年に制式化された、日本国防空軍最初の実用ジェット震電。
その機体を、さらに発展させる。
より速く、より高く飛ぶ。今まで届かなかった領域へ進み、次の時代の戦闘機を作る。
言葉にするだけなら、実に単純な話だった。
だが、具体的な目標を一つ定めた瞬間、話はまったく単純ではなくなった。
───音速。
既に世界では、その壁を越えた航空機が存在している。
しかし、日本の震電がそこへ到達できるかどうかは、また別の問題だった。
三三型を完成させたからといって、そのまま速度を上げれば済むわけではない。
何しろ、三三型はジェット戦闘機でありながら、その外観には戦時中の試製震電の面影が色濃く残っていた。
機体後部のプロペラは失われ、推進装置はジェットエンジンへと変わっている。もちろん、それに伴って機体内部にも大幅な変更が加えられていた。
それでも、ひと目見れば震電だと分かる。
先尾翼。
後方へ寄せられた主翼。
機首に集中された武装。
戦時中に生まれた独特な機体構成は、ジェット化を経てもなお、基本的な輪郭として受け継がれていた。
だが、音速の壁を越えようとすれば、その輪郭さえ見直す必要が出てくる。
今までとは異なる空気の性質。今まで経験したことのない機体の挙動。そして、その領域で初めて明らかになるかもしれない問題。
それらを、一つずつ解決しなければならなかった。
震電は、再び新しい目標へ挑もうとしていた。
音の壁。
その向こう側へ。
「……これ、結局何型になるんです?」
設計室で、若い技師が図面を眺めながら尋ねた。
部屋にいた者たちが、自然と彼の方へ視線を向ける。
机の上には、震電三三型の図面が広げられていた。
そして、その隣には、三三型を母体として描き始められた新しい改修案がある。
最初は、ほんの数枚だった。
高速飛行時の問題を調べ、必要な部分へ手を加える。元々は、そうした目的で始まった作業だった。
ところが、検討を進めるほど、変更すべき場所が増えていった。
一枚だった図面は数枚になり、数十枚になり、今では机一つに収まらない。
「何型って、どういうことだ?」
年長の技師が聞き返した。
「いや、三三型からこれだけ変えるんですよ?」
若者は一枚の図面を持ち上げた。
「三四型とか……」
別の図面へ目を向ける。
「四四型とか。そういう新しい型式にするんじゃないんですか?」
誰も、すぐには答えなかった。
機体構造、吸気系統、操縦系統、高速域での安定性。さらに、強度、振動、熱、発動機、燃料系統、計器類。
変更箇所を挙げ始めれば、いくらでも出てくる。
そればかりか、機体の外形にも手を加える必要があった。
三三型は、ジェット化に伴って内部を大幅に改めながらも、外観上は元の震電らしい形を維持してきた。
しかし、今回ばかりはそうもいかなかった。
従来の輪郭をそのまま残すことと、超音速飛行に適した機体を作ること。
その二つが、必ずしも両立しなくなっていたのである。
「……もう、単なる三三型の改修とは言いにくいですよね」
若者が呟いた。
年長の技師も頷いた。
三三型では問題にならなかった場所が、さらに速度を上げようとした途端、次々と問題になり始めた。
一つ直せば、別の問題が現れる。
そこを直すと、今度は別の部分にも手を加えなければならない。
三三型をただ速くすれば、音速へ届く。
少なくとも、そんな簡単な話ではなくなっていた。
「……制式化するのか?」
部屋の奥から声がした。
設計主任だった。
若い技師が振り返る。
「いえ、その予定はありません」
「量産は?」
「しません」
「部隊配備は?」
「それもありませんね」
「なら、三四型でも四四型でもないだろう」
主任は、当然のように言った。
若者は少し困った顔をした。
「じゃあ、何て呼べばいいんです?」
「そうだな……」
主任はしばらく図面を眺めていた。
「三三型改でいいんじゃないか?」
「……いいんですか、それで」
「三三型を母体にして作っているんだから、間違ってはいないだろう?」
「随分、適当ですね」
「呼び方なんて、分かればいい」
主任は笑い、再び図面へ目を戻した。
もちろん、それは正式な型式名ではなかった。
制式採用される機体でもなければ、各部隊へ配備する予定もない。
ただ、三三型を母体として、音速突破という一つの目的のために大規模な改修を施した試験機。
だからこそ、開発現場では自然と『三三型改』という呼び名が使われるようになっていった。
もっとも、『改』という一文字で済ませるには、少々変わりすぎた機体でもあった。
戦時中の試製震電から、戦後の一一型、二二型、三三型へ。
これまでは、推進機構や内部構造が大きく変わっても、外から見た震電の姿には明確な連続性があった。
だが、今度の機体では、その外観自体が新しい時代へ踏み出そうとしていたのである。
震電三三型改。
その呼称は定着したものの、正式な二桁の制式型式番号が与えられることはなかった。
三四型でもなければ、四四型でもない。
そもそも、量産して部隊へ配備するための機体ではないのだから、無理に新しい制式型式を制定する必要はなかった。
一方で、三三型J7W3の単なる小改修として扱うには、変更された部分があまりにも多かった。
音速突破のために機体全体を再検討し、構造や各種系統だけでなく、外形にまで手を加えた試験機。
そこで、海軍時代から引き継がれた略符号体系では、独立した主要番号が与えられることになった。
J7W4。
音速突破試験用の震電。
現場での便宜呼称は、震電三三型改。
正式な制式型式は持たないが、略符号上では三三型J7W3と明確に区別される機体だった。
「……勿体なくないですか?」
ある日、若い技師がそう尋ねた。
主任が顔を上げる。
「何が?」
「J7W4ですよ」
「番号がか?」
「はい。一つ丸ごと使っちゃうわけですから」
主任は少し考えた。
「また数字はあるだろう?」
「……そういう問題ですか?」
「そういう問題だろう」
あっさり答えられてしまった。
若者は何とも言えない顔をしたが、主任は気にした様子もない。
「音速を越えるために一つ使った。それで十分じゃないか」
そう言って笑い、再び図面へ視線を落とした。
この機体が次の制式戦闘機になることはない。
だが、この機体で得られた成果は、次の戦闘機へ受け継がれる。
それは、従来の震電が持っていたものを、何もかもそのまま残すという意味ではなかった。
残すべきものを残し、変えるべきものを変える。
その判断を下すための試験でもある。
そのために必要な番号なら、一つくらい惜しむ理由はなかった。
世界では既に、音速の壁は破られていた。
日本が最初ではない。
アメリカには、音速突破の記録があった。
実験機があり、高速飛行のための膨大な研究資料があり、実用ジェット戦闘機の開発でも日本より遥かに先を進んでいた。
日本国防空軍も、その事実を隠そうとはしなかった。
必要な資料があれば入手する。
翻訳し、分析し、自分たちの研究と照らし合わせる。
F-86を導入し、運用する。
分解し、測定し、実際に飛ばし、整備する。
損傷した部品があれば、なぜ壊れたのかを調べる。
どんな理由でその構造になったのか。何を優先し、何を犠牲にしているのか。
それらを考え、自分たちの技術へ取り込んでいく。
これまでの数年間で、日本が身につけてきた方法だった。
外国の技術を使わないことが、自立ではない。
教科書を読まないことでもなければ、過去の研究を知らないふりをすることでもない。
優れたものがあるなら学ぶ。
使えるものがあるなら使う。
だが、そのまま真似をするだけでは、自分たちの問題を解決できるとは限らなかった。
F-86には、F-86の設計思想がある。
アメリカの実験機には、アメリカの実験機が解決しようとしてきた課題がある。
一方、震電には震電の構造があり、これまで積み重ねてきた独自の開発経験があった。
他国の資料に答えが載っているとは限らない。
特に、震電のような独特の機体構成を持つ航空機では、同じ速度域の研究成果であっても、そのまま当てはめられるとは限らなかった。
参考にはできる。
しかし、最後には自分たちで確かめなければならない部分が残る。
学んだ知識を使い、自分たちの問題を自分たちで解く。
日本国防軍が次の時代へ進むために必要としていたのは、そうした能力だった。
そして、震電三三型改は、その一つの試みでもあった。
試験機が、滑走路へ姿を現した。
震電三三型改、J7W4。
三三型を知る者なら、その血統はすぐに分かった。
前方に配置された小さな前翼。
後方へ寄せられた主翼。
機首に武装を集中するという、震電特有の設計思想。
それらは、今度の試験機にも受け継がれていた。
だが、見比べてみれば、その違いも明らかだった。
三三型は、ジェットエンジンを搭載してなお、戦時中の試製震電を強く思わせる姿をしていた。
対する三三型改は、そこから一歩踏み出していた。
超音速飛行を見据えて見直された機体の輪郭。高速域での空気の流れを考慮し、再検討された各部の形状。
試製震電から受け継いだ特徴は残っている。
しかし、その特徴を、今までとまったく同じ形で残す必要はなくなっていた。
「……随分、変わりましたね」
主任の隣にいた若い技師が呟いた。
「そうだな」
「でも、ちゃんと震電に見えます」
主任は少し笑った。
「元の形を知っているからな」
若者は機体を見上げた。
確かに、以前とは違う。
三三型までは、外観だけなら元の震電からどのように発展してきたのか、比較的容易に想像できた。
だが、三三型改では、その変化が一段と大きくなっている。
それでも、震電らしい部分は残っていた。
「……どこまで変わるんでしょうね」
若者が尋ねる。
「さあな」
主任は機体を眺めたまま答えた。
「それを確かめるために作ったんだろう?」
中身も、三三型とは違う。
速度を上げるという目標のために、これまで当然のように使ってきた構造や装置が次々と見直された。
空気の取り入れ方も、機体へ掛かる荷重も、操縦系統へ要求される性能も変わってくる。
場合によっては、三三型では十分に機能していた部分まで、作り直さなければならなかった。
搭乗員が操縦席へ収まる。
整備員が機体を一周し、最後の確認を行う。
地上員が離れ、エンジンの音が次第に高まっていく。
少し離れた場所では、設計主任がその様子を眺めていた。
隣にいる若い技師は、この数年、主任から何度も図面を突き返され、自分で考え直すことを繰り返してきた男だった。
「……緊張します?」
若者が尋ねた。
「するとも」
主任は即答した。
「意外ですね」
「何が?」
「もっと慣れているのかと思っていました」
主任は若者の方を向いた。
「新しい飛行機を飛ばすのに、慣れる奴がいるか?」
若者は少し驚いたような顔をした。
主任は再び滑走路へ目を向ける。
「図面の上で何度確かめたって、実際に飛ばしてみなきゃ分からんことはある。だから試験するんだろう?」
その時、ジェットエンジンの音が一段高くなった。
三三型改が動き始める。
滑走路を走り、徐々に速度を上げる。
やがて前輪が浮き、主脚が地面を離れた。
機体が、空へ上がっていく。
二人は、それ以上何も話さなかった。
もちろん、最初から音速へ挑んだわけではなかった。
そんなことをすれば、試験ではなく賭けになってしまう。
まず、低速域から機体の基本的な挙動を確認する。
速度を上げ、操縦系統や機関の状態を調べ、問題が起きないことを確かめる。
飛行を終えれば機体を点検し、計測記録を分析する。
次の試験では、もう少し速度を上げる。
そして、また戻ってくる。
試験搭乗員が何を感じたのか。
計器は何を記録していたのか。
機体の各部へ、どんな負荷が掛かっていたのか。
その一つ一つを拾い上げ、次の飛行へ繋げていった。
ある日の試験後。
帰還した搭乗員が操縦席から降り、ヘルメットを外した。
待っていた技師たちが、すぐに周囲へ集まる。
「どうでした?」
若い技師が尋ねた。
搭乗員は、少し考え込んだ。
「……嫌な感じだな」
技師の表情が変わる。
「どこです?」
「全体だ」
「……全体?」
「ああ。今までとは、空気の当たり方が違う」
若者は少し困惑した。
それだけでは、何が起きたのか分からない。
しかし、誰も試験搭乗員の感覚を無視しなかった。
「操縦桿の感触は?」
「変わる。特に速度を上げていく途中だな」
「振動は?」
「ある。今までの機体とは違う感じだ」
「どの辺りからです?」
計測記録を持ってきて、搭乗員の説明と照らし合わせる。
どの速度で、どんな姿勢を取っていたのか。
操縦桿をどれだけ動かし、機体がどう反応したのか。
記録と証言を重ねることで、少しずつ問題の輪郭が見えてくる。
そして技術者たちは、機体を調べ、再び図面へ戻っていった。
既に外形を大きく変えた機体だった。
だが、それでも変更が足りない場所はある。
逆に、変える必要がないと分かる部分もあった。
その区別を一つずつ付けていくことも、試験の重要な仕事だった。
速度が音速へ近づくにつれ、空気の振る舞いは、それまでとは大きく変わり始めた。
高速で飛ぶ航空機にとって、空気はただ通り抜けていくものではない。
機体の周囲で圧力が変わり、流れの状態が変化する。場所によっては局所的に音速へ達し、衝撃波が生まれる。
その影響は、操縦性にも、機体の安定性にも現れた。
操縦桿へ返ってくる感触。
機体に生じる振動。
姿勢の変化。
翼や操縦面に掛かる負荷。
エンジンへ流れ込む空気の状態。
三三型では十分だった設計が、三三型改では十分ではなくなる。
しかも、問題は単純な強度不足だけではなかった。
ある部分を頑丈にすれば、それだけ重量が増える。重量が変われば、機体全体の釣り合いにも影響する。
空気の流れを改善するために形を変えれば、別の速度域での操縦性が悪化することもある。
一つの性能を向上させれば、別の性能にしわ寄せが来る。
それをどう調整するか。
設計者たちは、何度も同じ問いに向き合うことになった。
ある日、工場で若い技師が新しい変更指示を眺めていた。
「……またですか?」
「まただな」
隣にいた年長の技師が答えた。
「これ、先週変えたところですよ」
「そうだな」
「何でまた変えるんです?」
「先週の答えじゃ、足りなかったからだ」
若者は資料を見直した。
「……間違っていたんですか?」
「いや、そうじゃない」
年長の技師は首を振った。
「先週の速度では正しかった。だが、今週はもっと速く飛ばしたんだ」
「……なるほど」
「そこで新しい問題が出た。それだけのことだ」
若者は、何とも言えない顔になった。
「速度が上がるたびに、飛行機を作り直すんですか?」
「今は、そうなるな」
「いつ終わるんです?」
年長の技師は少し笑った。
「音の壁の向こうへ行ったら、もう一度聞いてみろ」
若者はため息をついた。
だが、文句を言いながらも、図面から目を離すことはなかった。
速度を上げるだけで、今まで正しかったものが通用しなくなる。
それは面倒な話だった。
しかし同時に、今まで知らなかったことを知る機会でもあった。
400ノット。
かつて、その数字は夢に近かった。
戦争末期、震電が目指した速度。
時速にして、およそ740キロ。
その速度へ到達するために、技術者たちはあらゆる方法を考えた。
発動機の出力、機体の抵抗、冷却、プロペラの効率、そして機体構造。
限られた時間と物資の中で、少しでも性能を引き上げようとしていた。
だが、ようやく試作機が飛び始めたところで戦争が終わり、その目標を十分に確かめることさえできなかった。
それから、十年。
今や400ノットは、震電開発の終着点ではなくなっていた。
───通過点。
いや、さらに速い機体を作るために振り返る、昔の目印になっていた。
ある日、若い技師が主任へ声を掛けた。
「……妙な気分ですね」
「何が?」
「昔は、四百ノットを出すために苦労していたんですよね」
「ああ」
「今は、そのずっと先で困っています」
主任は笑った。
「良かったじゃないか」
「……良かったんですか?」
「昔の問題は解けたんだろう?」
「まあ、それはそうですけど……」
若者は机に積まれた大量の資料を見た。
「代わりに、もっと面倒な問題が出てきました」
「それでいいじゃないか」
主任は、手元の資料を一枚引き寄せた。
「飛行機なんて、できることを増やせば、今まで見えなかった問題も増えるものだ」
「面倒ですね」
「ああ、面倒だ」
主任も素直に頷いた。
若者は少し笑った。
そして、ふと思いついたように尋ねる。
「……何で作っているんです?」
「何で?」
「こんなに面倒なのに、どうしてそこまでやるんですか?」
主任は少し考えた。
「……面白いからじゃないか?」
若者が顔を上げる。
冗談なのか、本気なのか。
主任の顔を見ても、よく分からなかった。
少しして、若者は別のことを尋ねた。
「じゃあ、どこまで強くするんです?」
今度は、主任もすぐには答えなかった。
机の上には、速度、上昇力、迎撃性能、武装に関する資料が並んでいる。
自分たちが作っているのは、単なる高速実験機ではない。
その先には、新しい戦闘機がある。
敵を迎撃し、必要なら撃ち落とすための軍用機だった。
そこを誤魔化すことはできない。
「……必要なところまでだな」
やがて主任が答えた。
「必要な時に弱くて、役に立たんようじゃ困る」
若者は頷いた。
だが、主任はそこで言葉を終えなかった。
「ただな」
「はい?」
「強くなったからといって、本当に戦わせたいわけじゃない」
主任は震電の図面へ視線を落とした。
「こいつらがどれだけ速くなっても、どれだけ強くなっても……」
少し間を置き、そう言った。
「一度も本気で戦わずに済むなら、俺はその方が嬉しいよ」
若者は、何も言わなかった。
軍用機を作っている。
戦闘機を強くするために、毎日研究を続けている。
その主任が、できれば戦わせたくないと言う。
一見すれば、矛盾しているようにも聞こえた。
だが、主任の言葉は決して、軍用機を作ることへの迷いではなかった。
必要な時に役立つだけの性能を持たせる。
それでも、その力を本当に使う日が来ない方がいい。
主任にとって、その二つは別の話だった。
若い技師は、その言葉を覚えていた。
試験は続いた。
音速へ近づくにつれ、一回の飛行が持つ意味も重くなっていく。
搭乗員、整備員、設計技師、地上計測員、管制担当者。
全員が一つの試験飛行へ集中し、それぞれの仕事を確実に果たそうとしていた。
成功すれば、新しい記録が得られる。
問題が起きれば、その原因を調べる。
たとえ予定した結果が得られなくても、無事に帰還できれば、次の試験へ活かせるものが残る。
だからこそ、何よりも帰還が重要だった。
ある試験の後。
搭乗員が報告書を書いていると、若い技師が横から覗き込んできた。
「……怖くないんですか?」
搭乗員は顔を上げた。
「怖いぞ」
「……ですよね」
「むしろ、怖くない奴を乗せる方が怖いな」
若者は少し驚いた。
「そういうものですか?」
「当たり前だろう。何が起きるか全部分かっているなら、そもそも試験する必要がない」
搭乗員は報告書へ目を戻した。
「怖いから、ちゃんと戻ってくる方法を考えるんだ」
「……はい」
「お前らも同じだぞ」
再び若者を見る。
「ちゃんと戻ってこられる飛行機を作ってくれ」
「努力します」
「努力じゃ困る」
若者は少し困った顔をした。
搭乗員は真面目な表情のまま、続けた。
「俺たちは飛行中に何かあっても、できることが限られている。地上で分かることは、地上で全部調べておいてほしい」
若者は、今度ははっきりと頷いた。
「……作ります」
「よし」
搭乗員は満足そうに笑い、報告書の続きを書き始めた。
速度記録は重要だった。
だが、誰も帰ってこない記録を作ることが、この計画の目的ではなかった。
やがて、最初の音速突破試験が行われる日が来た。
試験空域。
震電三三型改、J7W4。
地上では、管制員や計測担当者がそれぞれの装置へ向かっていた。
記録員が筆記具を確認し、技術者たちは機体の状態を示す数字へ目を向ける。
飛行中の機体から送られてくる情報。
地上側で観測される速度や高度。
それぞれを突き合わせながら、一つの飛行を追っていた。
三三型改は、指定された高度へ向かって上昇していく。
管制からの指示に従い、試験経路へ入る。
速度が上がり始めた。
最初は、まだ余裕がある。
計画した条件を満たしているか、一つずつ確認する。
やがて、機体は遷音速域へ近づいていった。
地上の空気が、自然と張り詰める。
無線から聞こえる搭乗員の声は短かった。
必要な情報だけを伝え、指示を確認する。
誰も余計なことを言わない。
速度が上がる。
機体の状態を示す数字が変わる。
さらに加速する。
技術者たちは、計測記録から目を離さなかった。
音速。
それは、空のどこかに線として引かれているわけではない。
目の前に本当に壁が見えるわけでもない。
しかし、速度がその領域へ近づけば、機体の周囲で起きる現象は確かに変わっていく。
そして、その境目を越えた先には、今までの飛行では得られなかったものがある。
三三型改が、さらに加速した。
誰かが、思わず息を止める。
表示される数字が、境目へ近づく。
───そして。
一つの値が、音速を越えた。
その瞬間、地上にいた者たちは、すぐには声を上げなかった。
計器の表示を確認する。
別の計測記録と照らし合わせる。
風の影響はどうか。
計測誤差ではないか。
瞬間的な異常値ではないか。
数字を見直し、記録を確認する。
一度表示されたからといって、それだけで成功と決めつけるわけにはいかなかった。
やがて、計測担当者の一人が顔を上げた。
「……越えた」
その声は、驚くほど静かだった。
「音速を……」
別の者が、確認済みの記録へ目を向ける。
「越えています」
一瞬、誰も何も言わなかった。
それから、ようやく周囲に安堵の声が広がり始めた。
まだ試験飛行は終わっていない。
機体は空にいる。
無事に帰還し、機体そのものを確認するまで、すべてが終わったわけではなかった。
それでも、確かに一つの目標へ到達したのだ。
設計主任は、計測記録を見つめていた。
何も言わない。
若い技師が、その横顔を覗き込んだ。
「……主任」
返事はなかった。
「越えましたよ」
「見れば分かるさ」
「……嬉しくないんですか?」
そこで、主任はようやく笑った。
「嬉しいよ」
当然だった。
技術者として、嬉しくないはずがなかった。
戦争中、400ノットを目指していた震電が、今や音より速く飛んでいる。
十年前には確かめることさえできなかった機体が、戦後になって改良され、遂には新しい領域へ到達した。
もちろん、その成果は軍用機の性能向上へ繋がっていく。
より高速の迎撃。
より優れた上昇力や生存性。
さらなる高性能戦闘機の開発。
だが、その瞬間に主任が喜んでいたのは、震電がもっと多くの敵を撃ち落とせるようになることではなかった。
できなかったことが、できるようになった。
知らなかったことを、自分たちの手で確かめることができた。
ただ、そのことが嬉しかった。
もっとも、一度だけ音速を越えればよいというわけではなかった。
最初の成功によって、日本の震電が音速の向こうへ到達できることは分かった。
しかし、偶然一度できたことと、条件を整えれば何度でも再現できることは違う。
そして、試験機の目的は単に記録を作ることではない。
次の実用機を設計するための、確かな資料を残すことだった。
別の日。
再び試験飛行が行われた。
高度を変える。
速度の上げ方を変える。
機体の状態を確かめながら、再び音速の向こうへ入る。
飛行を終えたら、機体を調べる。
得られた記録を分析し、必要なら改修する。
そして、また飛ぶ。
超音速域へ入るたびに機体が別の異常を示すようでは、次に作る実用戦闘機へ十分な資料を渡すことはできない。
だから、何度も確かめた。
やがて、音速突破そのものが、特別な一回ではなくなり始めた。
決められた高度。
決められた条件。
決められた飛行経路。
それらを守れば、予定通りに速度を上げ、音速の向こうへ入ることができる。
超音速域での機体挙動を確認し、必要な記録を取り、安全に戻ってくる。
その一連の手順が、試験要領として成立しつつあった。
もちろん、すべての問題が解決したわけではない。
試験機として使える領域と、実用機として要求される領域は同じではない。実戦機に必要な運動性、信頼性、整備性、武装運用まで考えれば、まだまだ課題は残っている。
特に、音速を一度越えることと、超音速域で戦闘機として自在に活動することは違う。
速く飛ぶだけでは、敵を迎撃することはできない。
旋回し、上昇し、必要な時に機首を向け、武装を使用する。
それらを実用的な性能として成立させるには、試験機で得られた知識を基に、さらに多くの設計作業が必要になる。
だが、それらは次の機体が取り組むべき問題だった。
三三型改に求められた仕事は、ほぼ果たされていた。
そして、最終試験飛行の日程が決まった。
格納庫で、若い技師が搭乗員名簿を確認していた。
試験日時。
機体番号。
予定された飛行内容。
そして、搭乗員の名前。
一度目を通す。
……もう一度見る。
「……え?」
思わず声が漏れた。
近くにいた整備員が顔を上げる。
「どうした?」
若者は名簿を指した。
「……何で主任なんです?」
整備員は、一瞬だけ嫌そうな顔をした。
「ああ……」
「いや、ああ、じゃなくて」
「本人が乗るって言ったんだよ」
「止めなかったんですか?」
「止めたさ」
「それで?」
整備員は肩をすくめた。
「……聞くと思うか?」
若者は黙り込んだ。
今回の試験は、初めて音速を越える飛行ではない。
機体の限界を探るために、未知の領域へ無理に踏み込む飛行でもない。
必要な試験は既にほぼ終わり、音速突破も繰り返し成功していた。
機体の挙動も相当程度把握されている。
最後に、定められた飛行要領を最初から最後まで実施し、これまでの成果を確認する。
震電三三型改、J7W4。
便宜上そう呼ばれてきた音速突破試験機としての、最終確認飛行だった。
だからこそ、主任は自分で乗ると言ったのである。
もちろん、本人の希望だけで試験飛行が許されるわけではない。
必要な確認や手続きを経て、機体の状態も、予定された飛行内容も、改めて検討された。
それでも、若い技師が納得したわけではなかった。
「……本気ですか?」
若者が尋ねた。
飛行服を着た主任が振り返る。
「今さら聞くのか?」
「危ないですよ」
「知ってる」
「音速ですよ?」
「それも知ってる」
「若い試験搭乗員に任せた方が……」
「今まで散々飛んでもらったさ」
主任は、格納庫に収められた三三型改へ目を向けた。
「だから、最後くらい俺が乗ってもいいだろう?」
若者は、すぐに返事ができなかった。
主任は戦争中から、震電へ関わってきた。
400ノットを目指した、あの試製震電。
先尾翼、推進式、機首集中武装。
当時の日本では異質な構成を持つ戦闘機を、本当に飛ばそうとした。
だが、ようやく飛行試験が始まったところで戦争は終わった。
戦後。
震電一一型が完成した。
続いて、二二型。
そして、ジェット化された三三型。
そこまでは、戦時中の震電が持っていた基本的な輪郭を維持しながらの発展だった。
もちろん、機体の中身まで変わらなかったわけではない。
だが、外観上は確かに、あの試製震電の延長線上にいた。
そして今。
その姿から初めて大きく踏み出した機体が、格納庫に収められている。
制式機にはならない三三型改、J7W4。
十年前、400ノットを目指していた翼が、今や音速を越える。
主任は、その最後の確認を自分の手で行おうとしていた。
「……帰ってきてくださいよ」
若者は、結局そう言うしかなかった。
主任は少し笑った。
「そのつもりだ」
「本当に?」
「何だ、信用してないのか?」
「こういう時の主任は、あんまり信用できません」
思わず本音が出た。
主任は声を上げて笑った。
「安心しろ。決められた試験要領から外れるつもりはない」
そう答えると、三三型改へ歩いていく。
若者はその背中を見送った。
最後にもう一度、声を掛けた。
「……絶対ですよ!」
主任は振り返らなかった。
ただ、片手を軽く上げた。
最終試験飛行。
震電三三型改、J7W4。その最終仕様。
操縦席へ収まったのは、設計主任自身だった。
キャノピーが閉じられる。
計器を確認し、無線の状態を確かめる。
操縦系統、燃料、機関、各種装置。
一つずつ、定められた手順を進めていく。
計器盤には、十年前の試製震電には存在しなかった装置が並んでいた。
機体後部には、もうレシプロ発動機もプロペラもない。
代わって収められているのは、ジェットエンジンだった。
機体構造も、操縦特性も、かつての震電とは大きく異なる。
そして、今度は外観までもが変わり始めていた。
三三型までは、元の震電が持つ輪郭を守りながら、性能を発展させてきた。
だが、三三型改では、あの頃の形をそのまま残すことが目的ではなくなっている。
音速を越える。
そのために必要ならば、形を変える。
ただし、残すべきものまで捨てる必要はなかった。
主任は、前方へ目を向けた。
視界の先には、小さな前翼が見える。
『震電』
機体の姿は変わっても、その名前と、受け継がれてきたものは残っていた。
やがて、ジェットエンジンの音が高まった。
管制から離陸許可が出る。
主任は出力を上げた。
三三型改が滑走を始める。
滑走路が後方へ流れていく。
速度が増し、前輪が浮いた。
続いて主脚が地面を離れ、機体が空へ上がる。
主任は、小さく息を吐いた。
「……飛ぶな」
無線から声が返ってきた。
『何です?』
「いや、何でもない」
短く答え、主任は前方へ視線を戻した。
───飛ぶ。
当たり前のことだった。
何度も試験を行い、音速突破まで果たした機体なのだから、飛ぶこと自体は既に証明されている。
だが、十年前には、それすら簡単なことではなかった。
ようやく空へ上げたところで、すべてが終わってしまった機体だった。
それが今、こうして自分の操縦で飛んでいる。
その事実だけで、少し不思議な気分になった。
高度を取る。
指定された飛行経路へ入り、機体の状態を確認する。
そこは、既に何度も試験搭乗員たちが通った空だった。
詳細な試験資料がある。
どの速度で、どんな現象が起きるのか。
どこで注意すべきなのか。
危険な条件も、許容される飛行領域も、これまでの試験によって相当程度明らかになっていた。
それでも、実際に操縦桿を握ると、紙の上の数字とは違って感じられるものがある。
速度が上がる。
操縦桿へ返ってくる感触が変わり、機体の周囲を流れる空気の状態も変わっていく。
主任は計器を確認した。
そして、また前を見る。
───400ノット。
かつて、あれほど遠かった数字。
今は、通過していく。
機体はさらに加速を続けた。
地上から速度や高度に関する情報が伝えられる。
主任は必要な返答だけを返し、飛行要領に従って機体の状態を確認していった。
やがて、音速へ近づく。
機体の挙動が変わる。
空気の圧縮性が強く影響し、操縦感覚も、それまでの速度域とは違ってくる。
計器と機体の反応を確かめながら、主任は操縦を続けた。
すべて、これまでの試験報告で読んできた現象だった。
自身も、試験の過程でこの機体を操縦し、その一部を経験している。
だが、その先。
いよいよ、音速の境目へ近づいた。
主任は計器を見る。
機体の姿勢を確かめる。
そして、定められた条件の中で加速を続けた。
速度が、音速を示す。
さらに、その先へ。
三三型改は、予定された超音速域へ入った。
機体は安定していた。
大きく姿勢を乱すこともない。
吸気系統にも、問題は現れていなかった。
主任は操縦桿を握ったまま、しばらく何も言わなかった。
無線から、地上側の声が聞こえる。
『J7W4、機体状態を報告してください』
主任は計器を確認した。
そして、前を見る。
そこには、青い空が広がっていた。
「……異常なし」
少し間を置いて、続ける。
「機体は安定している」
それだけだった。
震電が、音より速く飛んでいる。
戦争中、400ノットを目指していた機体が、今は音速の向こう側にいる。
その事実は、技術者として純粋に嬉しかった。
ここまで来た。
それでよかった。
この先、震電はもっと速くなるかもしれない。
もっと高く飛び、より強力な武装を積み、優れた戦闘機になっていくかもしれない。
そして、そのために必要ならば、さらに姿を変えていくだろう。
あの試製震電と同じ形をしている必要はない。
自分たちがかつて描いた図面と、まったく同じ考え方に従う必要もない。
それでも、震電が震電として受け継がれていくなら、それでよかった。
軍用機である以上、必要な時には強くなければならない。
敵の攻撃から国を守り、味方を守るために飛ぶのなら、性能が足りないなどという理由で役目を果たせないのは困る。
そのために技術を磨く。
それは、これからも変わらない。
───だが、できることなら。
その強さを、本当に使う日など来なければいい。
もちろん、その願いが簡単には叶わない時代であることは分かっている。
だからこそ、震電は音速を越えたのだから。
……それでも。
誰よりも速く飛べる戦闘機を作りながら、その速さを敵から逃げるために使う必要さえない。
どれほど強力な武装を備えても、それを誰かへ向けずに済む。
もしそんな未来が来るのなら、それが一番よかった。
主任は再び計器へ視線を落とした。
予定された飛行を、最後まで確実に終える。
今は、それが仕事だった。
試験要領に定められた項目を終え、主任は帰投を開始した。
減速し、高度を下げる。
機体の状態を確認しながら、基地へ向かう。
やがて、前方に滑走路が見えてきた。
脚を下ろし、進入姿勢を整える。
速度と高度を確認し、滑走路へ向けて降下する。
主脚が接地した。
続いて前輪が地面へ降りる。
減速。
そして、三三型改は無事に着陸した。
地上員が機体へ向かってくる。
誘導に従って所定の場所へ移動し、エンジンを停止する。
キャノピーが開いた。
主任が操縦席から降りる。
すると、待っていた若い技師が真っ先に駆け寄ってきた。
「……どうでした!?」
主任はヘルメットを外した。
少し考える。
「速かった」
若者は、何とも言えない表情になった。
「……それだけですか?」
「他に何を言えと?」
「いや、もっと……何かあるでしょう?」
「何かって?」
「歴史的な感想とか、そういう……」
主任は三三型改を振り返った。
しばらく、その機体を眺める。
「……十年前、四百ノットを出したかった」
若者は黙った。
「結局、そこよりずっと先まで来たな」
主任は機体へ目を向けたまま続ける。
「俺が思っていた震電とは、もう随分違う」
発動機も違う。
機体の構造も違う。
飛行性能など、十年前には想像することさえ難しかった領域へ届いている。
そして、あれほど見慣れていた機体の形さえ、今では変わり始めていた。
戦時中の試製震電と、目の前の三三型改。
並べてみれば、同じ系列であることは分かる。
だが、もはや単にプロペラを外してジェットエンジンを積んだような姿ではない。
音速を越えるため、新しい形へ踏み出した震電だった。
「……でも、乗ったんですね」
若者が尋ねた。
「ああ」
主任は少し笑った。
「最後だったからな」
若者も三三型改へ視線を向けた。
「次は、もっと強くなりますよ」
「そうだろうな」
「もっと速くなって、もっと高く飛んで……武装だって強くなって」
若者の声が、少し弾んだ。
「見た目だって、もっと変わるかもしれません」
「そうだな」
「とんでもない戦闘機になるかもしれませんよ」
「なればいい」
主任は、あっさり答えた。
若者が少し意外そうな顔をする。
「……いいんですか?」
「軍用機なんだから、いざという時に弱くてどうする?」
「……それは、そうですけど」
主任は、そこで少しだけ表情を緩めた。
「でもな。本当なら、こいつも、次に作る奴も、そのまた次も……」
三三型改を見つめながら、静かに続ける。
「一度も本気で戦わずに済む方が、俺は嬉しいよ」
若者は、しばらく黙っていた。
そして、以前にも似たようなことを聞いたのを思い出した。
「……それでも、強くするんですね」
「ああ」
今度は、すぐに答えが返ってきた。
「使わずに済むのと、使えないのは違うからな」
若者は、静かに頷いた。
技術者として、最高のものを作ろうとする。
軍用機である以上、必要な性能には妥協しない。
しかし、その性能が本当に必要になる日など、来ない方がいい。
主任の考えは、最初から変わっていなかった。
その飛行を最後に、J7W4の主要飛行試験は終了した。
既に、音速突破は一度きりの偶然ではなくなっていた。
条件を整えれば、再現できる。
決められた飛行要領に従って音速の向こうへ入り、必要な記録を取り、無事に帰還することができる。
そのことを、最後に設計主任自身も確認した。
三三型改は、与えられた役目を果たしたのである。
制式化はされない。
三四型にも、四四型にもならない。
量産されることもなければ、実戦部隊へ配備されることもない。
敵機を一機も撃墜しない。
戦果を挙げることもない。
戦闘機として見れば、実戦で何もしていない機体だった。
だが、それは決して悪いことではなかった。
そもそも、この機体の目的は、敵機を撃墜することではない。
そのために必要となるかもしれない技術を、次の世代へ渡すことだった。
高速飛行で現れた問題。
それを解決するために行われた改修。
超音速域での操縦特性。
吸気系統、機体構造、振動、熱。
試験の途中で発見された欠点と、最後まで残された課題。
そして、もう一つ。
これまでの震電が受け継いできた構造のうち、何を残し、何を変えるべきなのか。
その判断に必要な資料も、三三型改は残していた。
三三型までは、戦時中の試製震電から続く基本的な輪郭を、外観上ほぼ維持してきた。
だが、三三型改では、その輪郭に手を加える必要があった。
音速を越えようとすれば、今までの形のままでは不十分な部分がある。
だから変えた。
しかし、何もかもを捨て去ったわけでもない。
先尾翼という構成。
機首へ火力を集中するという思想。
そして、震電という機体を作り続けてきた設計者たちの経験。
そうしたものは、まだ次へ渡す価値があった。
得られた記録は整理され、次の機体の設計へ引き継がれることになった。
次の震電は、最初からそれらを知った状態で開発を始められる。
同じ失敗を繰り返す必要はない。
もちろん、新しい問題は現れるだろう。
だが、その時はまた調べ、考え、直せばよかった。
それこそが、三三型改を作った意味だった。
音の壁を越えたこと。
そして、そこへ至るために何をしなければならなかったのかを、次の技術者たちへ渡せたこと。
二つは、同じくらい重要な成果だった。
後日。
設計室では、三三型改の最終報告書がまとめられていた。
飛行試験の記録。
機体の改修履歴。
各種装置の作動状況。
残された課題と、今後の開発へ向けた提言。
すべてを確認し、最後の書類が閉じられる。
一つの開発計画が、正式に区切りを迎えた。
設計主任は席を立つと、若い技師の机へ向かった。
そこには、既に新しい図面が広げられていた。
次の制式震電へ向けた設計案だった。
「……四百ノット」
主任が呟いた。
若者が顔を上げる。
「はい?」
「あの頃は、そこへ行くのも大変だった」
「……そうですね」
「今は音より速い」
若者は少し笑った。
「変な気分ですね」
「何が?」
「これ、震電なんですよね」
若者は図面を見下ろした。
「そうだ」
「でも、最初の震電とは全然違う」
「ああ」
「三三型改だって、試製震電とは随分違いますし……」
若者は少し考えた。
「それでも、震電なんですかね」
主任は、すぐには答えなかった。
代わりに、机の上の図面を見た。
そこに描かれている機体は、かつて自分たちが設計した震電とは大きく違う。
これまで受け継いできた特徴もあれば、新しく変えられた部分もある。
今後の開発によっては、さらに姿を変えていくかもしれなかった。
「……お前は、同じ形でなければ同じ系列じゃないと思うか?」
主任が尋ねた。
若者は首を傾げた。
「……分かりません」
「俺も分からん」
「分からないんですか?」
「ああ」
主任は少し笑った。
「ただな。同じものを作り続けるだけなら、それは継承じゃなくて停滞だ」
若者は黙っていた。
主任は、机の上へ別の図面を広げた。
戦時中の試製震電。
一一型。
二二型。
三三型。
そして、三三型改。
それらを並べると、変化の意味がよく分かった。
「三三型までは、元の震電の形を随分残してきた」
「はい」
「だが、三三型改では、そうもいかなかった」
主任は、最後の図面を指した。
「今までの形に拘っていたら、音速を越えるための試験なんてできなかったかもしれん」
若者は頷いた。
「……じゃあ、もっと変えてもいいんですか?」
「変えればいい」
主任は答えた。
「必要なら、思い切って変えろ」
「形が残らなくても?」
「残す必要のないものならな」
主任は少しだけ笑った。
「だが、何でも変えればいいわけじゃない」
「……はい?」
「残すべきものまで捨てたら、今まで積み重ねてきたものを使わんことになるだろう」
若者は図面を見た。
「例えば、先尾翼とかですか?」
「それもある」
「機首に武装を集中する考え方も?」
「そうだな。あれだって、今までの形のまま残す必要はないが、考え方そのものはまだ使える」
主任は、机の上の図面を軽く叩いた。
「同じ形を守るために作るんじゃない。必要なものを受け継いで、次にもっと良い飛行機を作るためにやるんだ」
若者は、しばらく黙っていた。
主任は続けた。
「三三型改だって、正式には三四型にも四四型にもならなかった。それでも、あいつが残したものはある」
「……はい」
「大事なのは、何を受け取って、そこから何を作るかだ」
そう言って、新しい図面を指した。
「ここから先は、お前たちの震電だ」
若者が顔を上げた。
「……主任は?」
一瞬、部屋が静かになった。
主任は、何でもないことのように答えた。
「いつまでも俺が主任じゃ、困るだろう?」
若者は少し驚いた。
「……そういう話ですか」
「ああ」
「急ですね」
「ずっと前から決めていたさ」
主任は、もう一度図面を見た。
次の制式震電。
音速を越えられるかどうかを調べるための機体ではない。
音速の向こう側で、実際に戦闘機として使える性能を持たせるための設計だった。
三三型改で、旧来の震電の形を変えてもなお、音速の壁を越えられることは証明された。
そして、必要な資料も手に入った。
次は、それらを使って、最初から超音速戦闘機として完成させる。
三三型改は、あくまでも試験機だった。
だが、次の機体には、実用戦闘機としての性能が要求される。
より高い完成度。
より優れた整備性と信頼性。
さらに、実戦で必要となる運動性や武装。
そのすべてを成立させなければならない。
そして、その仕事は、これまでの震電開発とはまた違う。
主任一人が、いつまでもすべてを決め続けるべきではなかった。
「……じゃあ」
若者が、少し間を置いて尋ねた。
「次の主任、誰なんです?」
主任は何も言わなかった。
ただ、若者の机を指先で二度叩いた。
若者が固まる。
「…………俺ですか?」
「嫌なら、替わってもらうが」
「いや、嫌とは言ってませんけど!」
「なら決まりだな」
「そんな決め方、あります?」
「今、しただろう」
主任は平然と答えた。
若者は、何とも言えない顔になった。
もちろん、正式な人事には手続きが必要である。
机を二度叩いただけで辞令が出るわけではない。
だが、少なくとも主任自身が、次の設計を誰へ任せようとしているのかは、十分に伝わった。
若者は、手元の図面を見た。
今まで何度も突き返されてきた図面。
自分で考えろと言われ、何度も描き直した図面。
その続きを、今度は自分が中心となって作ることになる。
「……責任、重いですよ」
若者が呟いた。
「そうだな」
「失敗するかもしれません」
「そうだろうな」
「……主任、助けてくれます?」
主任は少し考えた。
「相談くらいなら乗るさ」
「それだけですか?」
「俺が全部決めたら、お前が主任になる意味がないだろう?」
若者は、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「……分かりました」
主任も笑った。
「なら、頑張れ」
こうして、震電の設計室では、一つの世代交代が始まろうとしていた。
震電三三型改。
J7W4。
音速突破試験機。
その呼称は、正式な制式型式ではなかった。
三三型を母体とした大規模改修機だったことから、開発現場では便宜上『三三型改』と呼ばれた。
しかし、三四型や四四型といった新たな二桁型式が制定されることはなかった。
量産される機体ではない。
部隊配備される機体でもない。
次の正式な制式震電でもない。
音速突破という一つの目的のために作られた試験機だった。
それでも、三三型J7W3の単なる改造機として片付けるには、投入された技術も、開発に費やされた時間も、あまりに大きかった。
だからこそ、略符号ではJ7W4という独立した番号が与えられた。
後の技術者が震電系列の開発資料を見れば、その部分だけ少し奇妙に思うかもしれない。
震電三三型、J7W3。
その次に現れるのは、制式型式を持たない三三型改、J7W4。
そして、その先には次の制式震電が続く。
その間には、音の壁があった。
だが、変わったものは速度だけではなかった。
三三型まで、震電は戦時中の試製機が持っていた基本的な輪郭を色濃く残していた。
レシプロからジェットへ。
内部構造や推進方式が大きく変わっても、外から見れば、あの独特な震電の姿を強く思わせる機体だった。
しかし、三三型改では、その外観にも新しい変化が現れた。
先尾翼をはじめとする震電の特徴を受け継ぎながら、超音速飛行へ向けて機体の形そのものを見直す。
今までの姿を守ることより、次の性能を成立させることを優先する。
そこには、明らかな転換があった。
そして、もう一つ。
人も変わった。
三三型改まで、震電開発の中心にいたのは、戦争中の試製震電を知る設計主任たちの世代だった。
戦後、未完成だった機体を完成させ、改良を重ね、ジェット化して、遂には音速の向こうへ送り出した。
だが、ここから先は違う。
次の震電を描くのは、彼らから図面と技術を受け取った世代だった。
戦争中から震電を知る者たちがいなくなるわけではない。
これからも設計に関わり、相談を受け、必要なら助言をする。
設計顧問として、長年積み重ねてきた知識と経験を伝え続ける。
だが、最初の構想を描き、設計上の判断を重ね、最後に責任を負う者は、もう別にいる。
図面を渡すだけではない。
判断を任せる。
時には自分とは違う答えを認め、その結果まで引き受けさせる。
技術を次へ渡すとは、そういうことだった。
そして、それは機体そのものについても同じだった。
元の形を、いつまでも変えずに残すことが継承ではない。
必要な特徴を受け継ぎながら、時代に合った機体へ作り替えていく。
その繰り返しによって、震電という系列は続いていく。
三三型改は、その最初の大きな転換点だった。
1945年。
震電は、400ノットを目指す未完成の戦闘機だった。
戦争中に実用化されることはなく、十分な飛行試験を終える前に、その開発は中断された。
1953年。
戦後の日本で改良を重ねた震電は、ジェット戦闘機となった。
そして、1955年。
制式型式を与えられることのなかった震電三三型改、J7W4が、音速の壁を越えた。
戦時中の震電から受け継がれた基本的な輪郭は、そこで初めて、大きく変わり始めた。
元の形を保ち続けるのではなく、次の時代に必要な姿へ変えていく。
そのために何を残し、何を変えるべきなのか。
J7W4は、音速突破の記録と共に、その答えの一部を残した。
そして、その試験計画の最後には、長年震電を率いてきた設計主任自身が操縦桿を握り、音の向こう側を自分の目で確かめた。
それが、彼が主任として最後まで直接完成を見届けた震電になった。
次からは違う。
新しい設計主任。
新しい技術者たち。
そして、新しい目標。
旧主任は、一歩後ろへ下がる。
だが、決していなくなるわけではなかった。
次の世代が迷った時、振り返れば、そこにいる。
答えをすべて教えるためではない。
自分たちで答えを見つけられるよう、考えるべき問いを投げるために。
設計室では、次の制式震電へ向けた新しい図面が描かれ始めていた。
今度は、ただ音速を越えるための機体ではない。
音速の向こう側で、戦闘機として生きていくための震電。
それは、戦時中の試製震電とは、さらに違う姿になるかもしれない。
だが、受け継ぐべきものは確かにあった。
先尾翼。
機首へ火力を集中する設計思想。
そして、震電という機体を作り続けてきた人間たちの技術と経験。
形が変わっても、それらが失われるとは限らない。
むしろ、形を変えることで、初めて次の時代へ渡せるものもある。
必要な時には、誰にも負けないほど強くあってほしい。
そして、できることなら。
その強さを、一度も本当に使わずに済んでほしい。
そんな願いもまた、次の世代へ渡されていく。
震電は、音の壁を越えた。
だが、その先にも、まだ空は続いていた。
続く
あ と が き
元々の見た目を維持しきったのは、三三型まで。
でも震電が震電らしくある限り、系譜は続く。
次回