自我持つ兵器の英雄譚“Prequel” 1945 to 2000   作:Nyappy-

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ここからは日本視点。



第一章
1-1. 敗戦


 

1945年8月15日

 

正午が近づくにつれて、工場の音が一つずつ消えていった。

 

最初に止まったのは、奥に並んでいたフライス盤だった。甲高い切削音が途切れ、続いて旋盤が止まる。その次にボール盤。圧縮空気の音が消え、どこかで響いていたハンマーの音も、やがて聞こえなくなった。

 

いつもなら、隣にいる人間と話すだけでも声を張り上げなければならないほど騒がしい工場だった。

 

それが今は、不気味なほど静かだった。

 

残っているのは、惰性で回転を続ける機械の低い唸りと、切削油の臭い。金属粉の混じった空気。そして、真夏の蒸し暑さだった。

 

窓はほとんど開け放たれていたが、風は弱い。

 

工員たちの作業着は汗で背中に張り付き、額から流れた汗を拭う者もいた。普段なら誰かが暑いと文句を言っているところだったが、今日はそんな声さえ上がらなかった。

 

工場の一角に、一台のラジオが置かれていた。

 

その周囲へ、次々と人が集まってくる。

 

工員。技師。事務員。徴用されてきた若者。動員された学生。そして、長年この工場で働いてきた年配の職工たち。

 

数日前までなら、考えられない光景だった。

 

作業時間中、それも軍需工場で、これほどの人数が仕事を止め、一台のラジオを囲んでいる。

 

 

だが、今日は正午に重大な放送があるという。

 

天皇陛下が、自ら国民へ語りかける。

 

その話は、朝から工場中を駆け巡っていた。

 

何を話されるのか。

 

誰もが気にしていた。何か知っているのではないかと、上司や同僚の顔色を窺う者もいた。

 

だが、その理由について、はっきりと口にする者はほとんどいなかった。

 

口にしなくても、皆、薄々分かっていた。

 

戦況がどうなっているのか。

 

この数ヶ月、日本が何を失ってきたのか。

 

そして、今となっては、何が残されているのか。

 

知らない者など、ほとんどいなかった。

 

それでも、今日という日が本当に来るのかどうか。

 

そのことだけは、まだ誰にも分からなかった。

 

 

 


 

 

 

工員の一人が、無意識に手を握りしめていた。

 

油が染み込んだ手だった。

 

男は、この工場で飛行機を作っていた。

 

もっとも、正確に言えば、飛行機の部品を作っていた。

 

目の前の工場だけで、一機の戦闘機が完成するわけではない。

 

主翼や胴体を構成する部材。発動機の部品。降着装置。油圧系統。ボルトや金具。そして、数え切れないほどの小さな部品。

 

それらは各地の工場で作られ、検査され、運ばれ、組み立てられる。

 

そうして初めて、一機の飛行機になる。

 

だから、自分が作った部品が、実際にどの機体へ使われたのかを男は知らなかった。

 

その機体に誰が乗ったのか。

 

どこの飛行場へ配備されたのか。

 

実際に戦ったのか。それとも、飛ぶこともなく破壊されたのか。

 

何も分からない。

 

ただ、昨日まで、それを作ることが自分の戦争だった。

 

一つでも多く。

 

少しでも早く。

 

飛行機を作れ。発動機を作れ。部品を止めるな。

 

材料が足りなければ工夫しろ。機械が壊れれば直せ。人手が足りなければ、残った者で作業を続けろ。

 

そう言われ続けてきた。

 

空襲で工場が焼かれたという話も、何度となく聞いた。

 

材料の到着が遅れ、予定していた工程を進められなかったこともある。

 

熟練工が足りず、経験の浅い者に仕事を教えながら機械を動かすことも珍しくなくなっていた。

 

それでも、作り続けた。

 

作ることをやめてはならないと、言われていたからだった。

 

その機械が、今はすべて止まっている。

 

男は自分の手を見下ろした。

 

爪の間には、洗ってもなかなか落ちない黒い汚れが残っている。

 

何年もこうして働いてきた手だった。

 

 

ラジオから雑音が流れ始めた。

 

周囲の話し声が止まる。

 

誰かが姿勢を正した。それを見て、ほかの者たちも倣った。

 

 

しばらくして、聞き慣れない声が流れ始めた。

 

誰の声なのかは、皆が知っていた。

 

だが、実際にその声を聞いたことのある者は、ほとんどいなかった。

 

天皇陛下。

 

その声を、日本中の人々がラジオ越しに聞いていた。

 

放送は、決して聞き取りやすいものではなかった。

 

雑音が混じり、言葉も難しい。耳を澄ませても、一言一句を正確に理解することは容易ではない。

 

それでも、聞き取れた言葉があった。

 

何か重大なことが告げられている。それだけは、誰の目にも明らかだった。

 

 

そして、放送が終わり、アナウンサーによる説明が続く頃には、多くの者が同じことを理解していた。

 

戦争が、終わる。

 

日本は、戦うことをやめる。

 

その事実が、ようやく現実のものとなった。

 

放送が終わっても、しばらく誰も動かなかった。

 

ラジオから流れる音が途切れ、再び工場に静寂が戻る。

 

喜ぶ者はいなかった。

 

泣き崩れる者も、声を荒らげる者もいなかった。

 

ただ、誰もが黙っていた。

 

何百人もの人間が集まっている工場とは思えないほどに。

 

 

 

やがて、一人の老工員が、小さく息を吐いた。

 

「……終わったのか」

 

その声は、やけにはっきりと聞こえた。

 

誰も返事をしなかった。

 

少し離れた場所で、別の誰かが呟いた。

 

「負けたんだな」

 

今度も、誰も否定しなかった。

 

───終戦。

 

そう言えば、少しは穏やかに聞こえた。

 

だが、現実に起きたのは、日本の敗北だった。

 

四年近く続いた太平洋戦争に。

 

そして、その前から続いていた、遥かに長い戦争に。

 

日本は敗れた。

 

その事実を、誰もが少しずつ受け入れようとしていた。

 

一人の若い工員が、工場の奥へ目を向けた。

 

そこには、作りかけの部品が並んでいた。

 

旋盤には、削りかけの鋼材が固定されたままになっている。今朝、彼自身が取り付けたものだった。

 

今日中に仕上げ、明日には次の工程へ回すつもりだった。

 

それが終われば、また次の材料を取り付ける。

 

いつもと同じ仕事を、明日も、明後日も続けるはずだった。

 

だが、その予定は、つい先ほど消えてしまった。

 

「……これ」

 

若者が口を開いた。

 

「どうするんですか」

 

誰に尋ねたのか、本人にも分からなかった。

 

近くにいた技師が、その部品へ目を向ける。

 

少し考えたようだったが、結局、何も答えられなかった。

 

必要なくなった。

 

昨日まで、一個でも多く作れと言われていたものが、今日から必要なくなった。

 

いや、それどころか。

 

作ってはならないものに、変わろうとしていた。

 

若者は、目の前の旋盤を見つめた。

 

機械が壊れたわけではない。

 

材料が尽きたわけでもない。

 

作り方を忘れたわけでもなかった。

 

ただ、作る理由がなくなった。

 

そんなことを、すぐに理解できるはずがなかった。

 

 

 


 

 

 

同じ頃、別の飛行場でも、一つの時代が終わろうとしていた。

 

滑走路の脇には、戦闘機が並んでいた。

 

塗装の剥げた機体。補修の跡が残る機体。既に部品を取り外され、飛行可能な状態ではなくなっている機体もある。

 

戦争末期の日本では、どの飛行場も似たような状況だった。

 

燃料は不足し、交換部品も足りない。

 

整備員たちは限られた資材をやりくりし、使える部品を探し、時には飛べなくなった機体から部品を取り外して、別の機体を飛ばしていた。

 

それでも、敵機が来れば迎撃に上がった。

 

警戒命令が出れば発動機を始動し、出撃命令が下れば滑走路へ向かった。

 

燃料が足りなくても。

 

整備が十分でなくても。

 

そして、帰ってこられる保証がなくても。

 

飛べと言われれば、飛んだ。

 

だが、今日は誰も飛ぼうとしていなかった。

 

新たな命令が伝えられていた。

 

戦闘を停止せよ。

 

無用な発砲を避けよ。

 

命令に従い、待機せよ。

 

昨日までなら、敵機を見つければ撃墜しなければならなかった。

 

今は、撃ってはならない。

 

飛んでもならない。

 

操縦席の横に立っていた若い航空兵が、機体を見上げた。

 

綺麗な飛行機ではなかった。

 

塗装は剥げ、機体の各所に補修の跡が残っている。新品だった頃の姿など、もうほとんど残されていなかった。

 

それでも、自分の機体だった。

 

何度も乗った。

 

何度も飛んだ。

 

敵機を追いかけたことも、追いかけられたこともある。

 

一度は被弾し、機体の一部を損傷したまま帰ってきた。

 

あの時は、無事に着陸できたことが信じられなかった。

 

整備兵たちが徹夜で修理し、翌日には、また飛べるようになっていた。

 

そんなことを何度も繰り返してきた。

 

そして今、その機体は地上にいた。

 

発動機は回っていない。

 

プロペラも止まっていた。

 

「もう、飛ばんのですか」

 

傍らにいた整備兵が尋ねた。

 

搭乗員は、少し考えた。

 

「飛ばんだろうな」

 

「……そうですか」

 

整備兵は、それ以上何も言わなかった。

 

搭乗員も、黙って機体を見上げていた。

 

昨日まで、この飛行機は武器だった。

 

自分の命を預けるものだった。

 

敵を撃ち落とすためのものだった。

 

そして時には、帰ってこないことまで要求されるものだった。

 

その飛行機が、今日からは、もう戦わない。

 

ただの飛行機になった。

 

いや。

 

それすら、許されるのだろうか。

 

戦争に負けた国の軍用機が、これからどう扱われるのか。

 

飛び続けることができるのか。それとも、武装を外され、解体されるのか。

 

誰にも分からなかった。

 

搭乗員は翼へ手を置いた。

 

真夏の日差しを浴びた金属は、熱くなっていた。

 

「変なもんだな」

 

不意に、そう呟いた。

 

「何がです?」

 

整備兵が尋ねる。

 

搭乗員は、翼に置いた手を動かさないまま答えた。

 

「昨日まで、こいつがないと死ぬと思ってた」

 

整備兵は黙っていた。

 

「今日からは、こいつがあっても何にもならん」

 

何とも言えない沈黙が流れた。

 

飛行機が嫌いになったわけではない。

 

むしろ、あの空を飛ぶ感覚を、簡単に忘れられるとは思えなかった。

 

だが、飛び続けるために必要だったものが、突然なくなってしまった。

 

守るべきものも、倒すべき相手も、任務も。

 

何もかもが、昨日とは違っていた。

 

少しして、整備兵が口を開いた。

 

「……でも」

 

「ん?」

 

「生きて帰ってこられたんですから」

 

搭乗員は、何も言わなかった。

 

何度も出撃し、そのたびに帰還してきた。

 

だが、帰ってこなかった仲間もいた。

 

帰ってきても、翌日にはまた出撃し、そのまま戻らなかった者もいた。

 

自分だけが生き残った。

 

それを喜んでよいのかどうかも、今はよく分からなかった。

 

それでも、整備兵の言葉を否定することはできなかった。

 

「……そうだな」

 

しばらくして、ようやくそう答えた。

 

風が吹いた。

 

滑走路の向こうで、草が揺れる。

 

プロペラは、動かなかった。

 

 

 


 

 

 

もっとも、戦争が8月15日の正午を境に、すべて綺麗に終わったわけではなかった。

 

海外には、まだ何百万という日本軍将兵が残されていた。

 

停戦命令が届くまで時間のかかる部隊もあった。通信が途絶え、何が起きたのかさえ分からないまま戦闘を続けている部隊もあった。

 

ソ連軍との戦闘が続く地域もあり、武装解除や投降を巡って混乱が生じる場所もあった。

 

停戦。

 

降伏。

 

武装解除。

 

そして、復員。

 

巨大な軍隊を止め、その将兵を故郷へ帰すには、長い時間が必要だった。

 

戦闘が終わることと、戦争によって生じた問題がすべて解決することは、同じではない。

 

それでも、日本本土では、戦うために動き続けてきた国家機構が一つずつ停止していった。

 

軍需工場では、生産計画が見直され始めた。

 

砲弾、銃、戦車、軍艦、軍用機。

 

昨日まで、それらを作ることが国家の最優先事項だった。

 

作れ。

 

もっと作れ。

 

一つでも多く、少しでも早く。

 

そう命じられてきたものが、今度は生産を止めるべきものへと変わっていく。

 

昨日までの命令を取り消し、今日からの命令を伝える。

 

ただそれだけのことが、想像以上に大きな意味を持っていた。

 

陸軍も、海軍も、武器を置く。

 

長年続いてきた組織は、解体へ向かうことになった。

 

日本には、もはや戦争を続ける権利も、必要な力も残されていなかった。

 

敗北とは、単に戦場で勝てなくなったということではない。

 

それまで国家が当然のように持っていたものを、失うことでもあった。

 

兵器を作る権限。

 

軍隊を動かす権限。

 

武装した艦艇を出港させ、航空機を飛ばす権限。

 

そのすべてが、日本自身の判断だけでは決められないものへと変わっていく。

 

戦争の終わりは、戦場で響いていた砲声が止むことだけではなかった。

 

長年続いてきた仕組みが、静かに役目を終えていくことでもあった。

 

そして、その現実は少しずつ、日本全土へ広がっていった。

 

 

 


 

 

 

8月30日 

 

横須賀の軍港に、星条旗が上がった。

 

それを見つめる日本人たちがいた。

 

海軍の軍服を着た者もいる。工廠で働いていた者もいる。軍属として基地を支えてきた者もいた。

 

誰もが、黙っていた。

 

港には軍艦が停泊し、岸壁には様々な施設が並んでいた。

 

長年、日本海軍の重要な拠点として使われてきた軍港だった。

 

多くの艦艇がここで整備され、補給を受け、そして出港していった。

 

その軍港を、今はアメリカ兵たちが歩いていた。

 

銃を携え、堂々と、誰にも撃たれることなく。

 

つい先日まで、敵だった軍隊である。

 

少し前までなら、彼らが軍港へ侵入してくれば、それを阻止しなければならなかった。

 

戦えと命じられただろう。

 

抵抗しろと命じられただろう。

 

場合によっては、死ぬまで戦えと言われたかもしれない。

 

だが、今は違った。

 

撃ってはならない。

 

抵抗してはならない。

 

武器を差し出し、施設を引き渡す。

 

それが、新しい命令だった。

 

アメリカ兵たちは、必要な確認を行いながら港内を移動していた。

 

施設を調べ、関係者と話し、これまで日本海軍が使用してきた場所を一つずつ接収していく。

 

その様子を、一人の元海軍兵が見つめていた。

 

気付けば、拳を握りしめていた。

 

───悔しい。

 

そう思った。

 

当然だった。

 

自分たちは負けたのだ。

 

何年も戦い、数え切れないほどの艦艇と将兵を失い、その果てに、今はかつての敵へ基地を引き渡している。

 

悔しくないはずがなかった。

 

 

だが、同時に。

 

どこかで、妙な安堵も覚えていた。

 

空を見上げても、もう敵機を探さなくていい。

 

爆撃機の音が聞こえたからといって、防空壕へ駆け込む必要もない。

 

軍港へ敵機が襲いかかり、爆弾や魚雷が飛んでくることも、もうない。

 

明日の朝まで生きていられる可能性は、昨日までよりずっと高かった。

 

その事実が、嬉しくないわけではなかった。

 

戦争が終わった。

 

もう、死ななくてもいい。

 

そう思う自分が、確かにいた。

 

そして、そのことを素直に喜んでしまう自分が、また悔しかった。

 

男は唇を噛んだ。

 

アメリカ兵たちは、そんな彼の心情を知る由もない。

 

彼らにとっては、命令された仕事を進めているだけだった。

 

昨日まで敵だった兵士が、今日は目の前を歩いている。

 

そして、自分はその姿を見ていることしかできない。

 

男は、もう一度掲げられた星条旗を見た。

 

それから、静かに目を逸らした。

 

 

 


 

 

 

9月2日

 

 

東京湾。

 

一つの国の敗北を正式に確認するため、連合国の艦艇が集まっていた。

 

戦艦『ミズーリ』。

 

その艦上には、連合国側の代表者たちと、日本政府および大本営の代表者たちが集まっていた。

 

降伏文書への署名。

 

それは、日本が戦争に敗れたという事実を、正式な手続きとして確定させるものだった。

 

全日本軍の降伏。

 

武装解除。

 

連合国軍による占領。

 

そして、日本が自ら始めた戦争に対する責任。

 

それらを背負い、日本は降伏文書へ署名した。

 

8月15日、国民に伝えられた敗戦。

 

それが9月2日、国家としての正式な降伏となった。

 

かつて、日本の軍艦が東京湾を出入りし、海軍の艦艇が国の威信を示していた時代があった。

 

その同じ海に、今は連合国の艦艇が集まっている。

 

式典を終えた東京湾の上空には、大編隊を組んだ連合軍機が飛来した。

 

空を覆うように、次々と航空機が通過していく。

 

かつて、日本の航空兵たちが空を埋めた時代もあった。

 

敵国の空母を攻撃し、敵艦隊を探し、遠い海の向こうまで飛んでいった時代があった。

 

だが、今、その空を飛んでいるのは勝者たちだった。

 

日本の軍用機は、その光景を地上から見上げる側に回っていた。

 

 

戦争は終わった。

 

日本は、負けた。

 

その現実を、もはや誰も否定することはできなかった。

 

 

 


 

 

 

そして、兵士たちが帰り始めた。

 

陸軍の兵士。

 

海軍の水兵。

 

航空兵。整備兵。通信兵。軍属。

 

国内の部隊から、そして海の向こうから。

 

時間をかけて、少しずつ故郷へ戻っていった。

 

駅には、軍服姿の男たちがいた。

 

痩せた者。傷を負った者。どこか虚ろな目をした者。

 

家族に迎えられた瞬間、それまで堪えていたものが溢れたように泣き出す者もいた。

 

だが、誰もが無事に帰れたわけではない。

 

帰る家そのものが、空襲によって焼けてなくなっていた者もいた。

 

ようやく故郷へ戻ってみれば、家族が既に亡くなっていた者もいた。

 

逆に、いつまで経っても帰ってこない家族を待ち続ける人々もいた。

 

生死さえ分からない者もいた。

 

戦争が終わったからといって、その間に失われたものが戻ってくるわけではなかった。

 

ましてや、何年にもわたって続いた戦争が、翌日から何もなかったことになるはずもない。

 

帰ってきた兵士たちもまた、これまでとは違う生活を始めなければならなかった。

 

軍人だった者は、軍人ではなくなる。

 

軍隊という職場そのものが、なくなろうとしていた。

 

戦車兵も、砲兵も、航空兵も、艦乗りも、整備兵も。

 

これまで何年もかけて覚えてきたこと。

 

戦場で身につけた技術。

 

仲間と共に磨いてきた腕前。

 

それらを、これから何に使えばいいのか。

 

軍隊がなくなれば、戦車兵はもう戦車に乗れない。

 

航空兵は、軍用機を飛ばせなくなる。

 

艦乗りは、軍艦へ乗り込むこともできなくなる。

 

無論、軍で身につけた技術が、そのまま社会で通用する者もいた。

 

機械に詳しい者。無線を扱える者。航海や運輸の知識を持つ者。

 

そうした技術を、別の仕事に活かせる者もいるだろう。

 

だが、すべての兵士がそうした道を見つけられるわけではなかった。

 

そもそも、戦争で疲弊しきった日本には、帰ってきた人々を受け入れる余裕さえ十分にはなかった。

 

仕事がない。

 

住む家がない。

 

食料も足りない。

 

それでも、生きていかなければならなかった。

 

昨日まで軍人だった者たちは、今日から、別の人生を始めなければならなかった。

 

何をすればよいのか分からなくても。

 

何ができるのか分からなくても。

 

生き残った以上、その先があった。

 

 

 


 

 

 

軍需工場も、同じだった。

 

戦車を作っていた工場。

 

砲を作っていた工場。

 

軍艦を造っていた造船所。

 

飛行機を作っていた工場。

 

戦争中、日本の軍需生産を支えてきた場所だった。

 

そこで働いていた人々もまた、戦争の終結によって仕事を失おうとしていた。

 

注文は消え、生産計画は取り消される。

 

完成途中の兵器は、もはや完成させる必要がなくなった。

 

場合によっては、既に完成しているものさえ処分しなければならない。

 

工場によっては操業そのものが難しくなり、閉鎖を考えなければならない場所もあった。

 

だが、すべての工場が、そのまま廃墟になったわけではなかった。

 

戦車を作っていた設備で、別の車両を作る。

 

砲の部品を削っていた旋盤で、農機具の部品を作る。

 

軍艦を造っていた造船所で、商船や漁船を修理する。

 

飛行機の製造に携わっていた技術者が、別の機械の設計に取り組む。

 

鍋、釜、農機具、車両、日用品。

 

軍需から民需へ。

 

戦争中、人を殺すための兵器を作っていた設備を、今度は人が生きるための物を作る設備へ変えていく。

 

もちろん、それは口で言うほど簡単なことではなかった。

 

工作機械は、何でも自由に作れる魔法の道具ではない。

 

使う材料も違う。要求される精度も違う。製品の形も、必要な数も違っていた。

 

何より、戦争中に使い慣れた設備を、新しい仕事に適した形へ変えるには時間がかかる。

 

すぐに仕事を見つけられた工場ばかりではなかった。

 

職を失う者もいた。

 

機械を売り払い、設備を解体しなければならない工場もあった。

 

戦時中のように、国から大量の注文が来るわけではない。

 

作れば必ず引き取ってもらえるわけでもない。

 

何を作り、誰に売り、どうやって工場を維持するのか。

 

そんな当たり前の問題を、改めて考えなければならなかった。

 

だが、少なくとも。

 

何もかもが失われたわけではなかった。

 

 

 


 

 

 

ある日のこと。

 

工場の片隅で、一人の若い工員が旋盤の手入れをしていた。

 

8月15日。

 

玉音放送の直前まで動いていた旋盤だった。

 

あの日、途中まで削っていた鋼材は、既に取り外されていた。

 

今となっては、それを最後まで仕上げる理由もない。

 

あの部品が何に使われる予定だったのか。

 

どの飛行機に組み込まれるはずだったのか。

 

もう、確かめる必要もなかった。

 

若者は油差しを手に、機械の摺動部へ少しずつ油を差していた。

 

使い込まれた金属の表面を布で拭き、切削屑が残っていないかを確かめる。

 

いつもと同じ仕事だった。

 

ただし、機械を動かす予定はなかった。

 

「まだ手入れするのか」

 

後ろから声がした。

 

振り返ると、年配の職工が立っていた。

 

玉音放送の日、ラジオを囲んでいた一人だった。

 

若者は、手を止めずに答えた。

 

「使わないと錆びるんで」

 

「……使うかねえ」

 

老工員は、どこか疲れたように言った。

 

若者も、その問いに簡単には答えられなかった。

 

この工場が、これからどうなるのか。

 

新しい仕事が見つかるのか。

 

それとも、設備を解体して閉鎖することになるのか。

 

まだ何も決まっていなかった。

 

軍需生産は終わった。

 

軍隊も消える。

 

この旋盤で再び兵器を削る日など、もう二度と来ないのかもしれない。

 

それどころか、別の製品を作るために使われることさえないかもしれなかった。

 

「分かりません」

 

若者は、正直に答えた。

 

老工員も、それ以上は何も言わなかった。

 

しばらく、布で機械を拭く音だけが続いた。

 

油の染み込んだ布。

 

使い込まれた工具。

 

何年も働き続けた機械の表面には、小さな傷が幾つも残っていた。

 

かつて、ここでどれだけの部品を削ったのか。

 

何個の製品を作ったのか。

 

若者自身にも、もう数え切れなかった。

 

「でも」

 

やがて、若者が口を開いた。

 

「壊すって決まったわけじゃないでしょう」

 

老工員は、旋盤へ視線を向けた。

 

「……まあな」

 

「だったら、動くようにはしておきます」

 

その言葉に、老人は少しだけ笑った。

 

「職人だな、お前は」

 

「それしかできませんから」

 

「それでいいさ」

 

老工員は、そう答えた。

 

若者は作業を続けた。

 

軍隊がなくなったところで、金属を削る技術が消えるわけではない。

 

飛行機が飛ばなくなったところで、機械の仕組みが変わるわけでもない。

 

旋盤は、鉄を削るための機械だった。

 

作るものが飛行機の部品であろうと、農機具の部品であろうと、必要な技術そのものが別物になるわけではなかった。

 

もちろん、昨日まで作っていたものが、今日から作れなくなったという現実は変わらない。

 

それを残念に思う者もいた。

 

二度と兵器など作りたくないと思う者もいただろう。

 

そもそも、明日の食事に困っている人々にとって、そんなことを考える余裕すらなかったかもしれない。

 

だが、戦争が終わったからといって、それまで身につけてきた知識をすべて捨て去る必要があるのだろうか。

 

鉄を削る技術。

 

発動機を組み立てる技術。

 

船を造る技術。

 

飛行機を設計する技術。

 

それらは、戦争をするためだけに存在していたわけではなかった。

 

何を作るのか。

 

何のために使うのか。

 

それを決めるのは、技術そのものではない。

 

人間だった。

 

若者は、最後の油を差し終えた。

 

工具を置き、もう一度旋盤の表面を拭く。

 

手入れの済んだ機械は、何事もなかったかのようにそこにあった。

 

かつては一日中動き続け、何個もの部品を削っていた機械だった。

 

だが、今は電源が落とされている。

 

主軸は回らない。

 

切削音も聞こえない。

 

工場は静かだった。

 

 

 


 

 

 

帝国陸軍は、消えていく。

 

帝国海軍も、消えていく。

 

長年続いた軍需生産も止まり、兵器を作る国としての日本は、一度、その歩みを止めた。

 

敗戦。

 

それは、日本が積み上げてきた多くのものを失う出来事だった。

 

軍隊、艦艇、航空機、基地、兵器を生み出すための生産体制。

 

そして、戦争を続けることそのものを前提として組み立てられてきた、国家の仕組み。

 

その多くが、今、解体されようとしていた。

 

だが、すべてが消えたわけではない。

 

戦争で培われた技術までが、その瞬間に失われたわけではなかった。

 

図面を引いてきた技師は、まだ生きている。

 

機械を扱ってきた職工も、まだ生きている。

 

鉄を削る方法を知る者がいた。

 

発動機を組み立てる方法を知る者がいた。

 

艦を造る方法を知る者がいた。

 

航空機を設計する方法を知る者がいた。

 

それぞれが、長い時間をかけて身につけた技術を持っていた。

 

そして、工場もまた、すべてが焼けてしまったわけではなかった。

 

残された建物があった。

 

工作機械があった。

 

治工具があった。

 

図面があり、製造記録があり、未完成のまま残された研究もあった。

 

失われたものは、あまりにも多かった。

 

これから先、さらに失われるものもあるだろう。

 

それでも、残っているものがあった。

 

ただ、使う理由を失っただけだった。

 

若い工員は、最後にもう一度、旋盤を布で拭いた。

 

そして、埃を被らないように、上から覆いを掛けた。

 

作業を終えた若者が工場を離れると、そこには再び静寂が戻った。

 

 

誰もいない工場の片隅に、旋盤が一台、残されていた。

 

止まっていた。

 

だが……壊れてはいなかった。

 

 

 

 

 

続く





あ と が き

まだ、史実をなぞっている段階。


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