自我持つ兵器の英雄譚“Prequel” 1945 to 2000 作:Nyappy-
ここからは日本視点。
1. 敗戦
1945年8月15日
正午が近づくにつれて、工場の音が一つずつ消えていった。
最初に止まったのは、奥に並んでいたフライス盤だった。甲高い金属音が途切れる。次に旋盤。その次にボール盤。圧縮空気の音が止まり、ハンマーの音も消えた。
いつもなら、隣にいる人間と話すにも声を張らなければならないほど騒がしい工場だった。
それが今は、不気味なほど静かだった。
残ったのは、惰性で回転を続ける機械の唸りと、油の臭い。切削油と金属粉の混じった空気。そして、真夏の暑さ。
窓は、ほとんど開け放たれていたが、風は弱い。工員たちの作業着は汗で背中に張り付いていた。
誰も文句を言わなかった。
工場の一角に、ラジオが置かれている。
その周囲へ、人が集まっていた。
工員。技師。事務員。徴用されてきた若者。学生。年配の職工。
数日前までなら考えられないことだった。作業時間中。しかも軍需工場で、これだけの人数が仕事を止め、一台のラジオを囲んでいる。
だが今日は、正午に重大な放送があるという。
天皇陛下が、自ら国民へ語りかける。
その話だけは、朝から工場中を駆け巡っていた。
理由について、誰も口にはしなかった。
口にしなくても、分かっていた。
広島。
一発の爆弾で、街が消えたという。
最初は誰も信じなかった。
そんな爆弾があるものか。誇張だ。噂だ。敵の宣伝だ。
だが、三日後。
長崎にも落ちた。
そして、その間にソ連が参戦した。
満州へ赤軍が雪崩れ込んでいる。ドイツを打ち倒した軍隊が、今度は東から日本へ向かっている。
工員の一人が、無意識に手を握りしめていた。
油が染み込んだ手だった。
その男は、飛行機を作っていた。
正確には、その一部を。
目の前の工場だけで、一機の戦闘機が完成するわけではない。
翼の部品。エンジンの部品。脚。ボルト。油圧系統。細かな金具。
数え切れないほどの工場で作られた部品が集まり、ようやく一機の飛行機になる。
だから、自分が作った部品がどの機体へ使われたのか。誰が乗ったのか。どこで飛んだのか。
男は知らない。
ただ、昨日まで、それを作ることが戦争だった。
一つでも多く。少しでも早く。
飛行機を作れ。エンジンを作れ。兵器を作れ。
そう言われ続けてきた。
それが今日、全部止まった。
ラジオから雑音が流れる。
誰かが姿勢を正した。それを見て、周囲の者も倣った。
やがて……聞き慣れない声が流れ始めた。
誰の声なのかは、皆が知っていた。
だが、実際に聞いたことのある者は、ほとんどいなかった。
天皇陛下。
その声を、日本中の人間が、ラジオ越しに聞いていた。
言葉は難しかった。雑音も混じっていた。一言一句を、その場にいる全員が正確に理解できたわけではない。
それでも、話し手がアナウンサーに代わった辺りから、多くの者が同じことを理解した。
戦争が、終わる。
しばらく誰も動かなかった。
放送が終わった後も、誰も何も言わない。
喜ぶ者はいなかった。泣き崩れる者もいなかった。怒鳴る者もいなかった。
ただ、静かだった。
数百人の人間がいる工場とは思えないほどに。
やがて、一人の老工員が、小さく息を吐いた。
「……終わったのか」
誰も返事をしなかった。
別の誰かが、もっと小さな声で呟いた。
「負けたんだな」
今度も、誰も否定しなかった。
───終戦。
そう言えば聞こえはよかった。
だが、日本は負けたのだ。
四年近く続いた太平洋戦争に。その前から続いていた長い戦争に。
日本は、敗れた。
一人の若い工員が、工場の奥へ目を向けた。
作りかけの部品がある。
旋盤には、削りかけの鋼材が固定されたままだった。今朝、彼自身が取り付けたものだった。
今日中に仕上げるつもりだった。明日は次の工程へ回す。
そのはずだった。
「……これ」
若者が言った。
「どうするんですか」
誰に尋ねたのか、本人にも分からなかった。
技師の一人が、その部品を見る。
そして……答えられなかった。
必要なくなった。
昨日まで、一個でも多く作れと言われていたものが、今日から、必要なくなった。
そんなことを、すぐに理解できるはずがなかった。
飛行場でも時間は止まっていた。
滑走路脇に、戦闘機が並んでいる。
昨日までなら、空襲警報が鳴れば飛んだ。敵機が来れば飛んだ。
燃料が足りなくても。部品が足りなくても。まともな整備ができなくても。
飛べと言われれば飛んだ。
今は……誰も飛ばない。
飛んではならない。
操縦席の横に立っていた若い航空兵が、機体を見上げた。
塗装は剥げている。補修跡も多い。綺麗な飛行機ではない。
だが、自分の機体だった。
何度も乗った。何度も死にかけた。一度は被弾したまま帰ってきた。整備兵たちが徹夜で直し、翌日にはまた飛んだ。
その機体が、今日は地上にいる。
エンジンは回っていない。
プロペラも止まっている。
「もう飛ばんのですか」
整備兵が尋ねた。
搭乗員は、少し考えた。
「飛ばんだろうな」
「……そうですか」
二人とも、
それ以上、何も言わなかった。
昨日まで、この飛行機は武器だった。
命を預けるものだった。敵を撃ち落とすためのものだった。場合によっては、帰ってこないことまで要求されるものだった。
今日からは、
ただの飛行機になった。
いや、
それすら許されるのか。
誰にも分からなかった。
搭乗員は翼へ手を置いた。日光に焼かれた金属は熱かった。
「変なもんだな」
「何がです」
「昨日まで、こいつがないと死ぬと思ってた」
整備兵が黙る。
「今日からは、こいつがあっても何にもならん」
風が吹いた。
プロペラは、動かなかった。
戦争は、8月15日の正午に、すべて綺麗に終わったわけではなかった。
海外には、まだ何百万という日本軍将兵がいた。命令が届くまで時間のかかる部隊もある。ソ連軍との戦闘が続く地域もある。
武装解除。停戦。投降。復員。
巨大な軍隊を止めるには、時間が必要だった。
だが、日本本土では、戦うために動き続けてきた国家機構が一つずつ停止していった。
軍需工場へ入っていた注文は消えた。
砲弾、銃、戦車、軍艦、軍用機。
昨日まで、
作れ。
もっと作れ。
一つでも多く作れ。
そう命じられていたものが、作ってはならないものへ変わっていく。
陸軍も、海軍も、武器を置く。
戦うための組織としての歴史を終える。
その現実は、戦場よりも静かに日本全土へ広がっていった。
8月30日 横須賀
軍港に、星条旗が上がった。
それを見ている日本人がいた。海軍の軍服を着た者もいる。工廠で働いていた者もいる。
皆、黙っていた。
敵だった軍隊が、自分たちの基地を歩いている。
昨日までなら、そんな光景が現実になれば、戦って死ねと言われただろう。
今は、撃ってはいけない。
抵抗してはいけない。
武器を差し出し、施設を引き渡す。
それが命令だった。
アメリカ兵たちが港内を歩いている。
銃を持って、堂々と、誰にも撃たれずに。
一人の元海軍兵が、拳を握っていた。
───悔しい。
そう思った。
当たり前だった。
自分たちは負けたのだから、悔しくないはずがない。
だが、同時に、妙な安堵もあった。
空を見上げても、敵機を探さなくていい。爆撃機の音に怯えなくていい。港へ魚雷が飛んでくることもない。
今夜死ぬ可能性は、昨日までよりずっと低い。
その事実を素直に喜んでしまう自分が、また悔しかった。
……彼は星条旗から目を逸らした。
9月2日 東京湾
そこには、一つの国の敗北を確認するために連合国の艦艇が集まっていた。
戦艦「ミズーリ」。
その艦上で、日本政府と大本営の代表が、降伏文書へ署名した。
日本軍の降伏。
全日本軍の武装解除。
連合国軍による占領。
それらが、紙の上でも確定した。
日本は正式に、第二次世界大戦の敗戦国となった。
その日の東京湾上空を、大量の連合軍機が飛んだ。
かつて、日本の航空兵たちが空を埋めた時代もあった。
今、その空を飛んでいるのは、勝った側だった。
そして、兵士たちが帰り始めた。
陸軍の兵士。海軍の水兵。航空兵。整備兵。軍属。
国内の部隊から、海外から。
時間をかけて少しずつ、家へ帰る。
駅には、軍服姿の男たちがいた。
痩せた者、傷を負った者、無表情な者。家族に迎えられた瞬間に泣き出す者。
帰る家そのものが焼けてなくなった者。家族が空襲で死んでいた者。
逆に、帰ってこない家族を待ち続ける者。
誰もが戦争の続きを背負っていた。
戦争そのものは終わっても、その四年───いや、それより遥かに長く続いた戦争が、翌日から何もなかったことになるわけではない。
軍人だった者は、軍人でなくなる。
軍隊という職場そのものが消える。
戦車兵も、砲兵も、航空兵も、艦乗りも、整備兵も。
それまで何年もかけて身につけた技術を、これから何に使えばいいのか。
……誰にも分からなかった。
軍需工場も同じだった。
戦車を作っていた工場。砲を作っていた工場。軍艦を造っていた造船所。飛行機を作っていた工場。
兵器を作るために働いていた人々は、仕事を失った。
あるいは、別のものを作ることになった。
鍋、釜、農機具、車両、日用品。
戦争中、兵器を作るために酷使された設備を、今度は生きるための物を作るために使う。
工場の片隅に、一台の旋盤があった。
8月15日、玉音放送の直前まで動いていた旋盤だった。
あの日、途中まで削った鋼材はもう取り外されていた。
あれが何の部品になる予定だったのか。
今となってはどうでもよかった。
若い工員が機械へ油を差していた。
「まだ手入れするんですか」
後ろから声がした。
年配の職工だった。
若者は振り返る。
「使わないと錆びるんで」
「使うかねえ」
「分かりません」
正直な答えだった。
軍需生産は終わった。
軍隊も消える。
この旋盤で再び兵器を削ることなど、もうないのかもしれない。
若者は布で機械を拭いた。
長年染み込んだ油。鉄粉。小さな傷。
どれも消えない。
「でも」
若者が言った。
「壊すって決まったわけじゃないでしょう」
老工員は旋盤を見る。
「……まあな」
「なら、動くようにはしておきます」
老工員は少しだけ笑った。
「職人だな、お前は」
「それしかできませんから」
「それでいいさ」
工具が置かれる。
電源は入っていない。
主軸は回らない。
工場は静かだった。
帝国陸軍は消えていく。
帝国海軍も消えていく。
軍需生産も止まった。
兵器を作る国としての日本は、一度、完全に立ち止まった。
だが、戦争で得た技術までが消えたわけではない。
図面を引いた技師は生きている。機械を扱った職工も生きている。
鉄を削る方法を知る者も。エンジンを組む方法を知る者も。艦を造る方法を知る者も。飛行機を設計する方法を知る者も。
昨日まで、そこにいた。
そして工場も、すべてが焼けたわけではない。
工作機械も。治工具も。設備も。
残っているものはあった。
ただ……使う理由を失っただけだった。
若い工員は最後にもう一度、旋盤を布で拭いた。
そして、埃を被らないように上から覆いを掛けた。
旋盤は静かにそこにあった。
止まっていた。
だが……壊れてはいなかった。
続く
あ と が き
まだ史実をなぞっている段階。
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