自我持つ兵器の英雄譚“Prequel” 1945 to 2000 作:Nyappy-
たとえ、今は後追いでも。
1957年
日本国防空軍の、とある航空基地。
格納庫の前では、一機のジェット機が飛行前の点検を受けていた。
全体的に流麗な姿をしているが、戦闘機ほど鋭い印象はない。武装の搭載を前提とした構造も目立たず、操縦席には前後二人分の座席が設けられている。
『57式練習機』
日本国防軍が開発した、国産のジェット練習機だった。
「機関、始動準備よし」
整備員から合図が送られると、前席に座った訓練生が計器を確認した。
後席の教官も、計器盤と周囲の状況を見ている。
「始動します」
「よし。回転数だけじゃなく、温度の変化も見ておけよ」
「了解」
やがて機関が回り始め、低い音が次第に甲高い響きへ変わっていった。機体後方の排気が周囲の空気を揺らし、計器の針が所定の範囲へ落ち着いていく。
訓練生は、少し緊張した面持ちで報告を続けた。
「機関、正常です」
「よし。では行こうか」
57式練習機は、ゆっくりと誘導路へ動き出した。
訓練生にとって、ジェット機の操縦はまだ慣れないものだった。レシプロ機で身に付けた感覚が、そのまま通用するとは限らない。特に、機関の出力変更に対する反応には注意が必要だった。
「……ジェットって、もう少し単純なものだと思っていました」
滑走路へ向かう途中、訓練生が呟いた。
「プロペラがないからか?」
「はい。見た目は、むしろすっきりしていますし」
教官は少し笑った。
「外から見る分にはな。だが、あの中で何が起きているのかを考えてみろ」
大量の空気を取り込み、圧縮し、燃料を燃やす。高温のガスでタービンを回し、その流れを推力へ変える。
原理を簡単に説明することはできる。
しかし、それを航空機の動力として安全に使うとなれば、話は別だった。
高温、高回転、振動、燃焼の安定性。材料の限界もあれば、整備上の問題もある。何より、一度動かすことと、何百回も安全に飛ばせることは違う。
「……今でこそこうして飛ばしているが、最初の頃は随分苦労したそうだぞ」
「最初の頃、ですか?」
「ああ。日本でジェットエンジンを作り始めた頃の話だ」
訓練生は、機関の音に耳を傾けた。
今では、ジェット機そのものは珍しくない。
国防空軍にはアメリカから導入したF-86FJがあり、国産の橘花や震電も飛んでいる。音速突破を実現した試験機さえ存在していた。
だが、そこへ至る技術の出発点は、戦争末期まで遡る。
そして、その道のりは、決して平坦なものではなかった。
1949年
国内の、とある航空機関研究施設。
作業台の上には、古い図面と発動機の部品が並べられていた。
圧縮機の翼、燃焼器、タービン、軸受。それらの周囲には、戦争末期の試験記録や、当時の技術者が残した手書きの計算書が積み重ねられている。
資料の多くは、旧日本海軍が研究していた噴式発動機のものだった。
『ネ20』『ネ330』
旧海軍がジェット機を実用化しようとしていた時代の技術である。
「……よく、これだけ残っていましたね」
若い技師が図面の一枚を手に取った。
隣にいた年配の技術者は、少し苦笑した。
「残ったものを集めたんだ。もちろん、全部じゃない。図面があっても現物がないものもあるし、記録の途中が抜けているものもある」
終戦によって、日本の航空機開発は大きく断絶した。
製造設備は停止し、研究施設も以前と同じようには動かせなくなった。別の仕事へ移った技術者もいれば、資料や設備を失った者もいる。
それでも、何もかも消えてしまったわけではない。
図面が残った。試験結果が残った。そして何より、開発に携わった人間が残っていた。
1948年に日本国防軍が創設され、航空戦力の再建が始まると、そうした人員と資料も再び集められるようになったのである。
「ネ20は、実際に飛んだんですよね」
「ああ。橘花に積んだ。もっとも、飛んだから完成したと言えるようなものじゃなかったがな」
ネ20は、ドイツのジェットエンジン技術を参考にしつつ、資料不足を独力で補いながら開発された、小型の軸流式ターボジェットだった。
1945年には橘花を空へ送り出すところまで到達したが、耐久性や量産性の面では、まだ多くの課題を抱えていた。
一方、より大きな推力を目指したネ330は、終戦までに実用化へ到達できなかった発動機である。
若い技師は、ネ330の資料を眺めながら尋ねた。
「……もう少し時間があれば、実用化できたんでしょうか」
「できたかもしれん。ただし、完成したとしても戦争を変えられたとは思わんよ」
年配の技術者は、少し間を置いて続けた。
「それに、今はあの頃とは違う。試験で問題が出たからといって、無理に実戦へ送り出す必要はないんだ」
戦争末期には、何よりも早く使える兵器が求められていた。
だが、今の目標は違う。
推力を出すだけでなく、安全に動かし続けられること。整備が可能で、必要な数を製造でき、実際の飛行隊で使えること。
そのためには、地道な試験と改良を繰り返さなければならなかった。
「……つまり、今度はちゃんと完成させるわけですね」
若い技師が言うと、年配の技術者は首を振った。
「完成という言葉は難しいぞ。一度動いたものも、十時間動いたものも、千時間使えるものも、みんな同じ完成品とは呼べんだろう」
そして、古いタービンの部品を指した。
「まずは動かす。次に壊れずに動かす。それから、どこの工場で作っても同じように動くものにする。そこまでできて、ようやく実用化だ」
若者は頷いた。
ジェットエンジンの開発は、単に推力を競う仕事ではない。
その推力を、必要な時に、必要なだけ、安全に発揮できるようにする仕事だった。
戦後のジェットエンジン開発では、旧日本海軍の技術に加えて、アメリカやイギリスなどから得られる知識も積極的に利用された。
戦争が終わった時点で、日本のジェットエンジン技術が欧米の水準に追いついていたわけではない。
向こうでは、既にジェット戦闘機が実用化され、発動機の量産と運用が進んでいる。
実際に飛行隊で使用されてきた技術には、試験室だけでは得られない経験が含まれていた。
「……この圧縮機、ネ20とは随分違いますね」
外国製発動機の断面図を見ながら、若い技師が呟いた。
「構成も違うし、材料も違う。何より、向こうには運用してきた経験がある」
年配の技術者は、図面へ目を向けた。
圧縮機の効率、燃焼の安定性、タービンの耐熱性、潤滑や軸受の構造。どれも、発動機の性能と信頼性を左右する重要な部分だった。
さらに、量産時の品質管理も無視できない。
精密な部品を一つ作れたとしても、同じ品質の部品を何百個、何千個と作れるとは限らないのである。
「……なら、外国製をそのまま使う方が早いんじゃありませんか?」
「それも一つの方法だ。今すぐ必要な機関なら、買って使えばいい」
「……それでも、国産開発を続けるんですね」
「ああ。外国製を使えることと、自分たちで設計できることは別だからな」
その考え方は、戦後の国防空軍の基本方針にも通じていた。
必要な航空機や発動機は外国から導入する。量産技術を学べるなら、ライセンス生産も利用する。
一方、それと並行して国産の新しい発動機を開発し、国内の設計・製造能力を蓄積していく。
外国製だから避けるわけでもなければ、国産だから無条件に優れていると考えるわけでもない。
必要なのは、実際に使える技術を増やすことだった。
そして、国防軍が新たに開発する国産航空用ガスタービンには、旧海軍から受け継いだ『ネ式』の名称が与えられることになった。
ただし、番号は旧軍時代の続きではなかった。
「……では、ネ20の次だから、ネ21になるんでしょうか」
ある日の設計会議で、若い担当者が尋ねた。
「いや。戦後の新基本設計は、改めて一から番号を付ける」
「……ネ-1、ということですか」
「ああ。旧軍時代のネ20やネ330は、その名称のまま残す。新しい発動機は別の体系として管理するんだ」
新しいネ式は、ターボジェットだけを対象としたものではなかった。
ガスタービンでプロペラを駆動するターボプロップも、後に研究されるターボファンも、同じ体系で扱う。
番号は、新しい基本設計が登録された順に与えられる。
そのため、番号の若い発動機が先に実用化されるとは限らない。開発が難航すれば、後から登録された発動機が先に完成する場合もある。
「……それだと、後で系譜を整理するのが大変そうですね」
若い担当者が言うと、年配の技術者は笑った。
「そのために図面と記録を残すんだよ」
旧軍の技術は受け継ぐ。
しかし、制度まで昔のままにする必要はない。
それが、戦後のネ式だった。
1952年
航空機関の研究施設では、ネ-3の試験が進められていた。
ただし、この発動機は、一般に想像されるようなターボジェットではなかった。
───ターボプロップである。
「……ジェットエンジンを作っているのに、またプロペラを回すんですか?」
研究施設を訪れた若い航空技術担当者が尋ねると、主任技師は頷いた。
「そうです。ガスタービンの出力を軸へ取り出して、プロペラを駆動します」
「……少し逆戻りしているような気もしますね」
「用途が違いますから」
ターボジェットは、排気によって推力を得る方式であり、高速飛行に適している。
一方、ターボプロップは、ガスタービンでプロペラを回すことで、比較的低速から中速の領域で効率のよい推進力を得られる。
単に古い方式へ戻ったわけではない。
求める飛行性能が違えば、適した発動機も違うのである。
かつて、旧日本陸軍には『ネ201』があった。ネ-3は、そんなネ201を思想的源流に持つ新型ターボプロップエンジンである。
ただし、ネ201を改良してネ-3を作ったわけではない。
ネ-3は、約1,500馬力級の軸出力を目指して戦後に新しく作られた発動機だった。
そして、その性能を実際の飛行状態で確かめるため、試験母機には51式単発戦闘機が選ばれた。
───Ki-87-II。
旧陸軍の高高度戦闘機計画を引き継いで成立した、戦後型の単発戦闘機である。
「……これをターボプロップにするんですか」
若い担当者が機体の図面を見て、驚いたように言った。
「試験用に改造します。もちろん、単純に発動機を積み替えるだけではありません」
機関架や燃料系統、計測装置の変更に加えて、減速機とプロペラの適合性も重要になる。
ガスタービンは高回転で動くが、その回転をそのままプロペラへ伝えればよいわけではない。適切な回転数へ落とし、必要な出力を安定して伝えるための装置が必要だった。
「……減速機が壊れたら、いくらタービンが元気でも飛べないわけですね」
「そういうことです。発動機だけが正常でも、推進装置全体が正常とは限りませんから」
また、操縦士が出力を変えた際の反応も調べなければならなかった。
燃料供給とタービン回転数、プロペラの負荷。これらを適切に制御しなければ、扱いやすい発動機にはならない。
試験は地上から始まり、機体へ搭載した状態での確認へ進んでいった。
ある日の地上試験では、出力を変化させた際の振動が問題になった。
計器の値を確認した試験主任は、予定していた試験を途中で打ち切らせた。
「……もう少し続けられたんじゃありませんか?」
若い技師が尋ねた。
「続けられたかもしれん。だが、今ここで原因を確かめずに回し続ける理由はない」
試験主任は、記録を指した。
「これを飛行中に起こしてから調べるつもりか?」
若者は黙った。
試験台で正常に動くことと、航空機へ搭載して正常に動くことは同じではない。
振動は機体や取り付け方によっても変化する。温度、気圧、飛行姿勢、プロペラへ掛かる負荷も、地上とは異なる。
問題を一つずつ解決しながら、ネ-3の試験は続けられた。
そして1954年頃には、実用段階へ到達していく。
ただし、試験母機となったKi-87-IIは、ターボプロップ化した新しい制式戦闘機ではない。
あくまでも発動機の研究に使われた実験機である。
その目的は、戦闘機を少し速く飛ばすことではなかった。
新しい動力を、安全に実用化するための技術を得ること。
そして、その成果を別の航空機にも利用できるようにすることだった。
ネ式の研究は、既に戦闘機用ターボジェットだけの仕事ではなくなっていたのである。
同じ頃、別の設計室では、新しい高速偵察機の開発が進められていた。
机の上に広げられた図面には、双発のジェット機が描かれている。
───景雲。
戦争末期に旧日本海軍が開発していた、高速偵察機の名前だった。
旧軍時代には、レシプロ発動機を搭載したR2Y1が試作され、続いてジェット化したR2Y2も計画されていた。
しかし、戦後の景雲は、そのどちらかを単純に復活させたものではない。
受け継いだのは、高速偵察機という思想と名称、そしてジェット化の方向性だった。
新しい国防軍が必要とする航空機として、設計そのものは改められている。
景雲一一型。
略符号、R2Y3。
1950年代の国防空軍が開発した、双発ジェット高速偵察機だった。
「……要求が厳しくなりましたね」
設計資料を読み終えた若い技師が、ため息をついた。
「戦争中とは、相手も状況も違うからな」
主任は、机の上に広げられた地図を指した。
景雲に求められていたのは、高速で目的の空域へ進出し、必要な情報を収集して帰還する能力である。
冷戦の緊張が高まり、航空機の高速化も進んでいた。従来のレシプロ偵察機では、任務によっては性能上の限界が見え始めている。
しかし、単に最高速度を高めればよいわけではなかった。
「ここまで飛んで、偵察を行い、それから戻ってくる。燃料が途中で尽きたら、どれだけ速くても意味がない」
主任は、予定航路をなぞった。
「しかも、偵察装備を積まなければならん。写真が撮れなければ、ただの速い飛行機だ」
「……機体側の要求だけでも、結構なものですね」
「発動機側にも難しいことを頼むことになるだろうな」
双発化には、必要な推力を確保しやすくする利点があった。
一方、発動機が二基になれば重量も増え、燃料や整備の負担も大きくなる。吸気口や排気管の配置は、機体全体の形状にも影響する。
加えて、偵察機ならではの問題もあった。
航空写真を撮影する際、機体の振動が大きければ、画像の品質に悪影響を与える可能性がある。高高度では機器の温度管理も重要になり、撮影装置の配置によっては機体構造にも制約が生じる。
「……速く飛ばして、安定させて、写真も綺麗に撮れるようにする。全部必要なんですね」
若い技師が呟いた。
「ああ。戦闘機とは別の難しさがある」
主任は頷いた。
「敵を撃墜するための機体ではない。情報を持ち帰るための機体だ。その仕事を成立させなければならん」
その要求は、発動機の開発にも直接影響した。
景雲の機体設計とネ式発動機の開発は、別々に進められる仕事ではなかった。
ある日の技術会議。
机の上には、景雲の配置図と発動機の性能資料が並んでいた。
「もう少し推力が欲しいんですが」
景雲側の技師が言うと、発動機側の担当者は顔をしかめた。
「……随分と簡単に言いますね」
「難しいのは承知しています。ただ、今のままでは機体側に余裕がありません」
発動機側の担当者は、資料を手に取った。
「推力だけ増やせればいいんですがね。燃料消費も、重量も、機関の温度も考えなければなりませんから」
機体側は速度と航続力を求める。
発動機側は、必要な推力を実現しながら、燃料消費や耐久性を抑えなければならない。
しかも、推力を増やすために発動機そのものが大型化すれば、機体設計へ影響する。
「……発動機だけで解決するのは難しそうですね」
話を聞いていた若い技師が呟いた。
すると、景雲の主任が口を開いた。
「なら、機体の方も見直そう」
発動機側の担当者が顔を上げる。
「……よろしいんですか?」
「仕方ないだろう。発動機を大きくして速度を稼いでも、その分だけ機体が重くなったら意味がない」
機体の空気抵抗を減らす。
重量配分を見直す。
吸気口の形状を改める。
その一方で、発動機側では効率や燃料消費を改善する。
双方が調整しなければ、必要な性能を成立させることは難しかった。
そして、実際に飛行試験が始まると、さらに別の問題も現れた。
ある日の試験飛行後。
景雲の技師たちは、回収された記録を前に考え込んでいた。
「……地上では、このような変化はありませんでした」
若い技師が、発動機の記録を指した。
飛行中、特定の条件で機関の状態に変化が現れていたのである。
重大な事故へ至ったわけではないが、無視してよいものでもなかった。
発動機側の担当者は、しばらく記録を見てから答えた。
「吸気の状態が影響しているかもしれませんね」
ジェットエンジンは大量の空気を取り込む。
しかし、飛行中の吸気口には、地上の試験台と異なる条件が生じる。
速度や機体姿勢によって空気の流れが変わり、圧縮機へ入る空気が不均一になる場合もある。条件が悪ければ、圧縮機の安定した作動を妨げかねない。
「……機関側を改良しますか?」
「それだけで済ませるべきではないな」
景雲の主任は、機体の配置図へ目を向けた。
「吸気口の方も調べよう。飛行条件によって何が変わるのか、まず確かめる必要がある」
発動機の研究所では問題が出なかった。
だからといって、発動機側に責任がないとは限らない。
逆に、航空機へ搭載して問題が現れたからといって、発動機そのものが悪いとも限らなかった。
必要なのは、原因を明らかにすることである。
「……どちらの問題か分からない時が、一番厄介ですね」
若い技師が呟くと、主任は少し笑った。
「なら、一緒に調べればいい」
試験結果は発動機の研究所へも渡され、機体と機関の双方で検討が進められた。
こうした経験は、景雲だけのものではない。
高速機の吸気系や機関制御に関する知識は、別の国産ジェット機にも利用できる。
一方、景雲の開発には、性能とは別の問題もあった。
整備性である。
「……この装置を点検するのに、周囲をかなり外さなければならないんですが」
試験後の機体を点検していた整備員が、技師へ声を掛けた。
内部を覗き込んだ技師は、少し黙った。
「……確かに、これは面倒ですね」
「飛ぶ分には問題ないのかもしれませんが、毎回これでは時間が掛かりますよ」
機体を設計する側は、必要な装置を限られた空間へ収めようとする。
しかし、整備する側にとっては、手が届くことや部品を交換しやすいことも重要だった。
航空機は、一度飛ばして終わりではない。
何度も点検し、修理し、必要な整備を行いながら使い続ける。
一機の最大性能が高くても、整備に時間を取られて飛べない機体ばかりでは、部隊として十分な能力を発揮できない。
この問題も、設計室へ持ち帰られた。
景雲一一型の開発では、そうした機体と発動機の調整、運用後の改修が繰り返された。
そして、その経験は次の景雲へ引き継がれていく。
1953年
国防空軍では、アメリカから導入したF-86系列の国内ライセンス生産が始まっていた。
『F-86FJ』
国防空軍の主力戦闘機の一角を担う、アメリカ由来のジェット戦闘機だった。
その国内生産は、単に外国の機体を組み立てるだけの仕事ではない。
機体と発動機の製造技術、品質管理、整備手順、量産工場の運営。そうしたものを実際の生産を通じて学ぶ機会でもあった。
「……やはり、向こうの技術は進んでいますね」
ある工場で、若い技師が呟いた。
隣にいた年配の技術者は頷いた。
「ああ。認めるべきところは認めなければならん」
生産工程では、部品そのものの精度だけでなく、同じ品質を継続して確保するための仕組みも重要だった。
どの部品を、どの条件で検査するのか。
不良が見つかった時、どの工程まで戻って調べるのか。
使用中に問題が出た場合、同じ部品を使っている他の機体へどう情報を伝えるのか。
そうした制度や経験は、戦後の日本が改めて整えなければならないものだった。
「……こうして外国製の機体を作れるなら、国産の開発は少し後回しでもよさそうですが」
若い技師が言うと、年配の技術者は首を振った。
「今すぐ使う機体を揃えることと、自分たちで次の機体を作れるようになることは、別の仕事だよ」
実用戦闘機が必要なら、実績のある外国製を導入する。
その一方で、国産の橘花や震電、景雲も改良し続ける。
どちらか一方にこだわるのではなく、必要な技術を両方から得る。
それが、当時の国防空軍と航空産業の方針だった。
そして、その成果は発動機の開発にも還元されていった。
外国製エンジンの量産・整備から得た知識が、ネ式の品質管理や信頼性向上に役立つ。
一方、ネ式を独自に設計してきた経験も、外国製技術を理解し、改良するための基礎になる。
外国の完成品を使いながら、国産技術を育てる。
一見すると遠回りにも見える方法だったが、日本の航空産業を再建するには合理的な選択だったのである。
1950年代後半。
景雲の開発は、さらに進んでいた。
景雲二二型。
略符号、R2Y4。
一一型で得られた経験を基礎に、高速偵察機としての完成度を高めた改良型だった。
「……随分と扱いやすくなりましたね」
試験結果を確認していた技師が言うと、主任は頷いた。
「一一型で苦労したからな。あの時の問題を、できるだけ持ち越さないようにした」
発動機の信頼性、機体との適合、整備性。
さらに、偵察装備と航続力を両立させるための改良も進められていた。
ただし、二二型になったからといって、景雲が別の任務を持つ航空機になったわけではない。
あくまでも、高速偵察機である。
「……戦闘機並みの速度が欲しいのに、戦闘機とは違う能力も必要なんですね」
若い技師が呟くと、主任は頷いた。
「戦闘機と戦うためじゃない。戦闘を避けて、必要な情報を持ち帰るためだ」
高速性能は重要だった。
しかし、偵察装備が十分に機能しなければ意味がない。必要な場所まで到達できる航続力も必要であり、撮影した情報を持ち帰ることができなければ任務は失敗する。
そのすべてを両立させるために、機体と発動機の双方で改良が重ねられた。
「……エンジンが良くなれば、全部解決するわけではないんですね」
「むしろ、エンジンが良くなると、今までできなかったことをやりたくなるものだ」
主任は笑った。
若い技師も、つられて笑う。
実際、技術の進歩とはそういうものだった。
発動機が強力になれば、機体設計の余裕が増える。
燃料消費を抑えられれば、航続力を伸ばすことも、別の装備を積むことも考えられる。
しかし、その結果として新しい要求が加わり、また別の問題が生じる。
開発が終わらない理由でもあり、技術が進歩し続ける理由でもあった。
二二型となった景雲は、戦後日本の高速偵察機として、より完成された姿へ近づいていた。
そして、その技術を支えていたのは、機体設計だけではない。
旧海軍の噴式発動機から続く研究と、戦後に導入された欧米技術、そして新しいネ式の開発。
それらが、互いに影響を与えながら発展していたのである。
だが、国防空軍が必要としていたのは、戦闘機や偵察機ばかりではなかった。
ジェット機が増えるにつれて、もう一つの問題が大きくなっていた。
操縦士の教育である。
当初は、従来のレシプロ練習機で基本的な飛行訓練を行い、その後にジェット機への移行訓練を実施していた。
アメリカからは少数のT-33ジェット練習機も導入され、その教育に利用されている。
しかし、国産のジェット戦闘機や偵察機まで増えてくれば、それだけでは十分ではなかった。
「……やはり、専用の練習機が欲しいですね」
ある教育部隊の教官が、訓練記録を見ながら呟いた。
隣にいた上官は頷いた。
「そうだな。戦闘機に乗せてから初めて学ぶことが多すぎる」
ジェット機には、レシプロ機とは異なる操縦上の特徴がある。
機関の出力変更に対する反応。
高速飛行時の操縦感覚。
速度と高度の管理。
そして、ジェットエンジン特有の運転上の制約。
それらを安全に学ぶためには、専用の教育機材が必要だった。
「……国産で作れないんでしょうか」
教官の言葉に、上官は少し笑った。
「そのために開発が進んでいる」
国防空軍が必要としていたのは、戦闘機を練習機へ転用しただけの機体ではない。
最初から教育を目的に設計され、訓練生がジェット機の取り扱いを学べる航空機だった。
そして1957年、その計画は一つの成果を迎える。
57式練習機。
日本が独自に開発した、最初のジェット練習機である。
その開発で重要視されたのは、単に速く飛べることではなく、操縦のしやすさ、安全性、整備性、訓練を繰り返せるだけの信頼性、そういった点だった。
「……戦闘機を作れるようになったんだから、練習機くらい簡単に作れそうなものですが」
若い技師が呟くと、主任は首を振った。
「逆だ。訓練生が乗るからこそ、難しい部分もある」
「……と、言いますと?」
「操縦士は、最初から上手いわけじゃないだろう」
訓練では、操作を誤ることもある。
速度の管理を間違えることもあれば、出力を変える判断が遅れることもある。そうした時に、必要な余裕を持たせられるかどうかは重要だった。
また、練習機は多くの訓練生が繰り返し使用する航空機である。
頻繁に故障して長期間整備へ入るようでは、教育計画そのものが滞ってしまう。
「……つまり、最大性能よりも、安定して使えることが大切なんですね」
「そういうことだ」
その要求は、発動機にも当てはまった。
大きな推力を発揮できることは、もちろん重要である。
しかし、練習機では扱いやすさや信頼性、繰り返し使用するための耐久性も欠かせない。
ジェットエンジンの進歩とは、最大推力を高めることだけではなかった。
必要な性能を安定して発揮し、整備しながら長く使えること。
そうした技術の積み重ねが、練習機の実用化も支えていたのである。
そして、再び1957年。
訓練生を乗せた57式練習機が、滑走路へ進入した。
「……離陸準備よし」
前席からの報告を受け、教官は頷いた。
「よし。落ち着いてやれ」
機体は滑走を始めた。
速度が上がり、翼が揚力を生む。やがて車輪が滑走路を離れ、57式練習機は空へ上がった。
「高度、上昇中。機関、正常です」
「よし。そのまま続けろ」
機体は予定された訓練空域へ向かった。
基本的な旋回、上昇と降下、速度の管理。
訓練生は計器と周囲の状況を確認しながら、一つずつ操作を進めていく。
途中、教官が問い掛けた。
「今、推力を増やしたらどうなる?」
「回転数が上がって、加速します」
「すぐにか?」
訓練生は、少し考えた。
「……いえ。反応には時間が掛かります」
「そうだ。その時間を忘れるなよ」
ジェットエンジンは、単純に燃料を増やせば即座に大きな推力が得られるものではない。
機関の回転数と温度、燃焼の安定性を保ちながら、必要な出力へ移行する。
特に着陸時のように速度と高度の余裕が小さくなる場面では、その性格を理解しておくことが重要だった。
訓練が終盤へ進み、機体は基地へ帰投した。
滑走路へ向けて高度を落とし、速度を調整する。
教官は、訓練生の操作を確認しながら必要な指示を出した。
「少し余裕を持て。慌てて出力を増やしても、すぐには効かんぞ」
「了解」
訓練生は計器を確認し直し、進入を続けた。
やがて車輪が滑走路へ接地する。
機体は速度を落とし、無事に着陸した。
「……お疲れさん」
教官が言うと、訓練生は大きく息を吐いた。
「やっぱり、難しいですね」
「最初から簡単にできたら、練習機はいらんさ」
教官は笑った。
訓練生も、少し笑った。
そして、機関の音へ耳を傾けた。
数年前なら、国産のジェット練習機を使って訓練を行うことは、まだ難しかった。
今では、それが現実になっている。
戦争末期に旧日本海軍が開発したネ20。
戦後、欧米から学んだジェットエンジンの技術。
そして、新しい国防軍が積み重ねた設計、試験、量産、運用の経験。
それらが、国産のジェット練習機を実用化するための技術的基盤となっていた。
同じ頃。
航空機関研究施設では、新しい発動機の試験が続けられていた。
試験台に取り付けられた機関が、うなりを上げて回転している。計測員たちは温度や圧力の変化を確認し、記録を取り続けていた。
その様子を、年配の技術者が見守っていた。
1949年に、古いネ20やネ330の資料を整理していた技術者だった。
「……随分と変わりましたね」
隣にいた若い技師が呟いた。
「ああ。昔の図面を見ていた頃とは、もう別の世界だな」
年配の技術者は、試験台へ目を向けた。
戦争末期、日本はようやくジェット機を飛ばせるところまで到達していた。
しかし、その技術を実用の兵器として完成させ、量産し、長期間使用できる水準まで育てるには、まだ多くの仕事が必要だった。
戦後、国防軍が航空機開発を再開してからも、その道のりは簡単ではなかった。
設備を整え、材料を調べ、外国の技術を学び、試作した発動機を何度も動かす。
問題が出れば原因を調べ、設計を改める。
そして、実際の航空機へ搭載して飛行試験を行う。
その繰り返しだった。
「……今では、色々な用途のネ式が研究されていますね」
若い技師が続けた。
「戦闘機だけじゃありません。偵察機も、ターボプロップも。機体の種類によって、必要な性能も違います」
「それでいいんだよ」
年配の技術者は、少し笑った。
「昔の発動機をそのまま使い続けることが、技術を受け継ぐという意味じゃないからな」
若者は顔を上げた。
「……技術を、ですか」
「ああ。何が上手くいって、何が駄目だったのか。どう作れば長く動くのか。どうすれば、同じ品質のものを何台も作れるのか。そういう経験を次へ渡していくんだ」
目の前の発動機は、ネ20でもネ330でもない。
それらと同じ部品を使っているわけでもなければ、機構がそのまま受け継がれているわけでもない。
しかし、その設計と試験には、旧軍時代から積み重ねられてきた知識が確かに生きていた。
さらに、戦後に得られた欧米の技術と、新しい国防軍による運用経験が加わっている。
「……昔のエンジンが残らなくても、技術は残るんですね」
若い技師が呟いた。
年配の技術者は頷いた。
「ああ。そうやって残すものなんだろうな」
やがて、試験の終了が告げられた。
回転数が落ち、発動機の音が次第に小さくなっていく。
技師たちは記録を確認し、次の試験へ向けた作業を始めた。
一度動けば、終わりではない。
次は、より安定して動かす。もっと長く使えるようにする。そして、必要な性能を確実に発揮できるようにする。
そうした地道な仕事こそ、実用の発動機を作り上げるために必要だった。
1950年代後半。
日本の航空機産業は、戦後の断絶から少しずつ立ち直り、自立した技術を取り戻し始めていた。
F-86FJの国内ライセンス生産によって、外国の進んだ航空技術と量産方法を学ぶ。
一方で、橘花や震電、景雲などの国産航空機を開発し、それぞれの任務に合わせた設計を積み重ねる。
その両方を支えるものの一つが、新しいネ式発動機の開発だった。
ネ20やネ330の研究成果を出発点としながら、戦後のネ-1以降は独立した基本設計として登録されている。
旧軍の設計を単純に改番したわけではない。
また、番号は発動機の完成順でも、性能の優劣でもなかった。
ターボジェット、ターボプロップ、そして新しい方式へと研究対象を広げながら、必要な基本設計を一つずつ登録していく。
ネ式は、特定の戦闘機に搭載するためだけの発動機ではなくなっていた。
景雲一一型R2Y3は、戦後の双発ジェット高速偵察機として成立し、その開発経験から二二型R2Y4が生まれた。
ネ-3では、既存の51式単発戦闘機を改造してターボプロップを試験し、その技術を実用段階まで育てた。
そして、1957年には57式練習機が登場した。
国防空軍は、ジェット戦闘機を保有するだけでなく、その操縦士を国産の専用練習機で育てられるようになったのである。
これらを成立させたのは、一基の傑作発動機ではなかった。
異なる任務に応じて機関を設計し、試験し、製造し、整備するための技術と組織だった。
もちろん、1950年代の時点で、それらが完成しきったわけではない。
これからも航空機は速くなり、発動機は強力になっていくだろう。
一方で、燃費や耐久性、整備性への要求も高まっていく。
そのたびに、新しい発動機が必要となる。
そして、その発動機を実用化するために、また新しい技術が積み重ねられていく。
かつて、旧日本海軍のネ20は橘花を空へ送り出した。
それから十数年。
日本は、外国製ジェット機を購入して飛ばすだけの国ではなくなりつつあった。
自分たちで発動機を設計し、必要な航空機を作り、それを使いこなす人間まで育てる。
そのための技術が、確かに根付き始めていたのである。
訓練飛行を終えた57式練習機が、格納庫の前へ戻ってきた。
機関が停止し、周囲には再び静けさが戻る。
整備員たちが機体へ近づき、飛行後の点検を始めていた。
操縦席から降りた訓練生は、少し離れた場所で機体を振り返った。
「……次も、これに乗るんですよね」
隣にいた教官が頷いた。
「ああ。まだ覚えることは山ほどあるぞ」
「そうですよね」
若者は苦笑した。
目の前にあるのは、国産のジェット練習機だった。
戦闘機としての極限性能を追求した機体ではない。
敵と戦うための兵器でもない。
だが、それがあれば、次の世代の操縦士を育てられる。
そして、その操縦士たちは、さらに新しい航空機へ乗り込んでいくことになる。
「……でも、自分たちでこういう飛行機を作れるようになったんですね」
訓練生が呟くと、教官は少し考えてから答えた。
「そうだな」
その言葉には、短いながらも感慨があった。
戦後の日本が再び航空機の開発を始めてから、まだ十年も経っていない。
しかし、その間に技術は大きく変わった。
旧日本海軍がようやく飛ばした噴式機。
戦後の国防軍が導入した外国製ジェット機。
そして、国産の戦闘機、偵察機、練習機。
それぞれが、次の技術へ繋がっていた。
「次は、もっと上手く飛ばせるようになりたいです」
訓練生が言うと、教官は笑った。
「そのための練習機だからな」
二人は、次の飛行へ向けた打ち合わせを始めた。
同じ頃、別の工場では景雲の改良が進められていた。
また別の研究施設では、新しいネ式発動機が試験台で回り続けている。
それぞれ、別の仕事だった。
しかし、すべては繋がっていた。
一機の航空機を作るための技術。
一基の発動機を実用化するための経験。
そして、それらを使いこなす人間を育てる仕組み。
日本の航空技術は、その三つを少しずつ揃え始めていたのである。
古い設計が、そのまま生き残ったわけではない。
受け継がれたのは、それを作った人々の知識と経験だった。
それが、新しい発動機を作り、新しい翼を飛ばすための力になっていた。
戦後日本の航空機産業は、ようやく、自分たちの未来を自分たちで作り始めていたのである。
続く
あ と が き
10年後、20年後の空のために。
次回 国蘇りて天河在り