自我持つ兵器の英雄譚“Prequel” 1945 to 2000   作:Nyappy-

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一度は止みかけた風と、異国から来た一本の矢。



4-3. 水上の蒼い風

 

1957年

 

日本国防空軍の航空技術研究施設にて、一人の技術者が古い図面を机の上へ広げていた。

 

そこに描かれているのは、少々奇妙な航空機だった。

 

主翼と胴体を持ち、機首には操縦席がある。しかし、プロペラは存在しない。代わりにジェットエンジンを搭載する構成となっており、機体下面には細長い二本の線が引かれていた。

 

 

「……まだ持っていたのか、それ」

 

後ろから声を掛けられ、技術者は振り返った。

 

そこにいたのは、旧日本海軍の航空技術部門から国防空軍へ移ってきた、年配の技術者だった。

 

「捨てる理由もありませんからね」

 

若い技術者は、少し笑った。

 

「もっとも、今見ると随分と無茶なことを考えていたものです」

 

「そうだな。あの頃は、こんなものが本当に飛ぶかどうかも分からなかった」

 

二人が見つめているのは、まだ強風六三型が一線級の機体だった頃に描かれた図面だった。

 

 

紫電の系譜を、再び水上戦闘機へ戻した強風六三型。

 

その機体を前にして、若い技師が尋ねたことがあった。

 

 

強風が消えたら、水上戦闘機も終わりなのか、と。

 

 

その問いに、旧海軍出身の男はすぐには答えなかった。

 

大きなフロートと頑丈な支柱。水上機としては必要な装備だったが、高速化を考えれば邪魔になる。

 

「……フロートが邪魔なんだよな」

 

「水上戦闘機ですから」

 

「分かってる」

 

「取ったら沈みますよ」

 

「それも分かってる」

 

そんな会話の後、年長の技術者は机へ戻り、紙を引き寄せた。

 

機首、主翼、胴体を描く。

 

しかし、プロペラは描かない。

 

覗き込んだ若い技師が、ジェット機なのか、水上機なのかと尋ねる。

 

どちらも、答えは肯定だった。

 

そして、フロートをどうするのかと聞かれたところで、鉛筆が止まった。

 

大きなフロートを取り付ければ、高速で飛ぶ意味が薄れる。しかし、それを取り外せば水面へ着水できない。

 

その矛盾を前にして、年長の技術者は機体下面へ二本の細い線を引いた。

 

何の機構なのかと尋ねられても、まだ分からない。

 

これから考えるのだと答えた。

 

そして、その線を見た若い技師が、もう一度尋ねた。

 

「浮くんですか?」

 

「浮かせるんじゃない」

 

年長の技術者は、水面を示す長い線を紙の下へ引いた。

 

「走らせる」

 

あの時は、それだけだった。

 

具体的な機構も、実現するための技術も、まだ十分には分かっていなかったのである。

 

 

 

「……今なら、何を描こうとしていたのか分かりますね」

 

若い技術者が言った。

 

「ああ。まあ、正確には、あの頃から考えていたことに近いものを、他所が先に作ったわけだがな」

 

年長の技術者は、別の資料へ目を向けた。

 

そこには、アメリカのジェット機が写っていた。

 

 

大きなデルタ翼。

 

機体上部に設けられた吸気口。

 

そして、機体下面から伸びる水上滑走用の装置。

 

 

『F2Y シーダート』

 

アメリカ海軍が開発した、超音速水上戦闘機だった。

 

 

「……まさか、本当に作るとは思いませんでしたよ」

 

若い技術者は、感心したように言った。

 

「しかも、音速まで越えてしまった」

 

シーダートは、1953年に初飛行し、翌1954年には音速突破を記録した。

 

水面から飛び立つジェット戦闘機が、実際に音速を越えたのである。

 

かつて紙の上で考えていたものが、海の向こうで実現されていた。

 

 

 

「……もっとも、向こうではもう終わった計画らしいがな」

 

年長の技術者が言った。

 

シーダートは、アメリカ海軍の主力戦闘機にはならなかった。

 

開発中には重大な事故も発生し、高速滑走時の振動や構造への負荷など、解決すべき問題が多かった。

 

さらに、空母搭載ジェット戦闘機の性能向上によって、アメリカ海軍が水上戦闘機を必要とする理由そのものも薄れていた。

 

シーダートは、技術的な可能性を証明しながら、実用化には至らなかったのである。

 

 

「……ですが」

 

若い技術者は、写真へ目を向けた。

 

 

「我々にとっても、必要のない機体でしょうか」

 

 

年長の技術者は、すぐには答えなかった。

 

 

日本とアメリカでは、国土も、海軍の規模も、航空基地の事情も違っている。

 

アメリカ海軍に必要なくなったからといって、日本国防軍にも必要ないとは限らない。

 

そして、研究すべき価値がなくなったとも限らなかった。

 

 

「……それを決めるのは、俺たちだけじゃないな」

 

年長の技術者が、ようやく口を開いた。

 

「技術として面白いことと、軍隊が実際に必要とすることは別だ。そこを確かめなきゃならん」

 

若い技術者も頷いた。

 

シーダートが証明したのは、水上から超音速戦闘機を飛ばせるということだった。

 

しかし、その能力を日本が必要とするのか。

 

そして、必要だとして、費用と技術的な困難を引き受ける価値があるのか。

 

その問いは、既に研究施設の中だけで考える問題ではなくなっていた。

 

 

 


 

 

 

同年に開かれた、国防空軍と国防海軍の合同会議。

 

議題は、水上戦闘機の将来だった。

 

 

「……強風六三型を、いつまでも使い続けるわけにはいきません」

 

国防空軍の将校が言った。

 

強風六三型は、紫電の系譜を受け継いだレシプロ水上戦闘機だった。

 

水上から戦闘機を運用する能力を維持する上では重要な存在だが、ジェット戦闘機が主力となった今、その性能差は無視できなくなっている。

 

「しかし、水上戦闘機そのものを廃止するのは、少し考えていただきたい」

 

国防海軍の将校が、机の上へ海図を広げた。

 

日本列島と、その周囲に広がる数多くの島々。

 

「すべての島に、ジェット戦闘機用の滑走路を作ることはできません。仮に作れたとしても、維持するための人員と設備が必要です」

 

「必要な場所へ、飛行場を建設する方法もありますが」

 

「もちろん、それも必要です。ただし、飛行場が攻撃された場合はどうします?」

 

空軍側の将校は、少し考えた。

 

 

滑走路は、航空戦力を運用するための重要な施設である。

 

そして、敵にとっては攻撃する価値の高い目標でもあった。

 

滑走路を破壊されれば、そこにどれほど高性能な戦闘機があっても、離陸できなくなる可能性がある。

 

 

「……つまり、滑走路がなくても戦闘機を運用できる能力が欲しいと」

 

「ええ」

 

海軍将校は頷いた。

 

「もっとも、水上戦闘機なら何でも解決するとは思っていません。ですが、選択肢を一つ増やすことには意味があります」

 

水上戦闘機にも専用の支援設備が必要になる。

 

静穏な水域がなければ運用できず、海況によっては離着水そのものが危険になる。

 

 

それでも、地上に長大な滑走路を建設せずに戦闘機を展開できるなら、島嶼防衛や前進基地の分散配置で価値を持つ可能性があった。

 

 

「……では、次に作るならジェット戦闘機でしょうね」

 

空軍側が言った。

 

「我々も、そう考えています」

 

海軍将校は、別の資料を取り出した。

 

シーダートの写真だった。

 

「この技術を、研究してみたいのです」

 

国防空軍の技術担当者が頷いた。

 

「完成された戦闘機として採用するのは難しいでしょう。しかし、実際に飛行した超音速水上機です。得られるものは多いはずです」

 

 

国防海軍にとっては、強風六三型の後継となる水上戦闘機。

 

国防空軍にとっては、滑走路に依存しない局地防空戦力。

 

両軍では求める理由が少し異なっていたが、必要な技術は共通していた。

 

 

「……研究する価値はありますね」

 

空軍将校が言った。

 

「では?」

 

「共同で検討を進めましょう」

 

こうして、国防空軍と国防海軍の判断によって、新しい水上ジェット戦闘機の開発が動き始めた。

 

 

この判断を下したのは、あくまでも国防軍自身だった。

 

 

 


 

 

 

1958年

 

アメリカ カリフォルニア州

 

 

コンベア社の関係者たちは、日本側から持ち込まれた要求に、少々困惑していた。

 

「……シーダートを?」

 

「はい」

 

日本側の担当者は頷いた。

 

「評価用として、一機購入したいと考えています」

 

「ご承知でしょうが、あの計画は既に量産採用を見送られています」

 

「承知しています」

 

「問題も残っています。実用戦闘機として、完成された機体ではありません」

 

「それも承知しています」

 

コンベア側の技術者は、少し首を傾げた。

 

「……既存の試作機を引き取る、という話でしょうか?」

 

「いいえ」

 

日本側は、静かに答えた。

 

「可能であれば、新しく一機製造していただきたい」

 

しばらく、誰も口を開かなかった。

 

「……新しく?」

 

「はい」

 

「既に終わった計画の機体を?」

 

「その通りです」

 

コンベア側の技術者は、思わず隣の同僚を見た。

 

シーダートの量産計画は、既に取り消されている。

 

それを一機だけ新造するとなれば、既存の設計資料だけでなく、治具や部品の調達、製造工程の再確認まで必要になる。

 

当然、費用は高くなる。

 

「……なぜ、そこまでして?」

 

その問いに、日本側の担当者は答えた。

 

「我々は、シーダートをそのまま主力戦闘機として採用するつもりはありません」

 

そして、日本列島と周辺海域の地図を広げた。

 

「必要としているのは、水上からジェット戦闘機を運用するための技術です」

 

高速で水面を滑走する機構。

 

飛沫を避ける吸気系統。

 

艇体の防水構造。

 

離着水時の機体姿勢。

 

そして、実際に試験して初めて分かる問題。

 

「我々には、既に水上戦闘機を運用してきた経験があります。しかし、ジェット戦闘機を水上で運用する技術は、まだ十分に持っていません」

 

日本側の担当者は続けた。

 

「完成された兵器ではなく、研究用の機体として購入したいのです」

 

コンベア側の技術者は、しばらく考え込んだ。

 

「……アメリカ海軍が必要ないと判断したものを、日本は必要だと考えるわけですか」

 

「そういうことになります」

 

「奇妙な話ですね」

 

「ええ。我々も、少しそう思っています」

 

日本側の担当者も笑った。

 

もちろん、交渉は簡単ではなかった。

 

既に終了した計画の機体を新造する以上、製造可能性や費用、技術資料の提供範囲について確認しなければならない。

 

アメリカ政府の承認も必要だった。

 

それでも、日本側は交渉を続けた。

 

 

最終的には、既存の設計を利用して評価用のシーダートを一機新造し、予備部品や必要な技術資料とともに引き渡す方向で話がまとまった。

 

それは、アメリカ海軍がシーダート計画を再開したことを意味しない。

 

あくまでも、日本が研究用として、既に不採用となった機体を特別に製造してもらう。

 

そのための契約だった。

 

 

こうして、アメリカで一度は役目を終えた水上ジェット戦闘機の研究が、海を越えて日本へ渡されることになった。

 

 

 


 

 

 

1959年

 

日本国内の航空試験施設にて、新しく製造されたシーダートが日本側の技術者たちの前へ姿を現した。

 

「……本当に買ってきたんですね」

 

若い技師が、思わず呟いた。

 

「買ってきたというより、無理を言って作ってもらった、が正しいでしょうね」

 

隣の技術者が苦笑した。

 

目の前の機体は、かつてアメリカ海軍が試験に使用したものではない。

 

既存の設計をもとに、日本向けの評価機として新造されたシーダートだった。

 

 

しかし、新造されたからといって、設計上の問題まで解決されたわけではない。

 

基本構造はアメリカで開発された機体を踏襲しており、試験に際しては、アメリカ側の記録を十分に確認する必要があった。

 

 

「……まず、何から始めます?」

 

「水に浮かべるところからだな」

 

「飛ばさないんですか?」

 

「飛ばす前に、沈まないことを確かめる」

 

年長の技術者は、当然のように答えた。

 

 

実際、冗談ではなかった。

 

 

水上ジェット戦闘機には、通常の陸上戦闘機とは違う問題がある。

 

艇体の浮力と水密性。

 

エンジンや電装品への浸水。

 

低速時の操縦性。

 

そして、海水による腐食。

 

空を飛ぶ前に、水上で安全に扱えることを確認しなければならない。

 

 

試験は、静穏な水面での浮揚状態や低速航走から始まった。

 

やがて、少しずつ速度を上げ、ハイドロスキーの挙動が調べられていく。

 

 

 

そして、ある日の高速滑走試験。

 

 

「……振動が大きい!」

 

 

計測室に声が上がった。

 

速度が上がるにつれ、水面から受ける衝撃が増していく。

 

ハイドロスキーは、水の抵抗を減らしながら高速滑走するための装置だった。

 

しかし、水面は滑走路のように平らではない。わずかな波でも接触状態が変わり、機体へ強い衝撃が伝わる。

 

 

「……これが、向こうの記録にあった問題か」

 

 

試験を見守っていた技術者が呟いた。

 

アメリカ側の資料には、同じ問題について数多くの記録が残されていた。

 

それらを読んで理解したつもりでも、実際に機体を動かしてみると、その深刻さがよく分かる。

 

 

 

試験終了後、搭乗員が機体から降りてきた。

 

「……どうでした?」

 

整備員が尋ねた。

 

搭乗員は、少し疲れた顔で答えた。

 

「正直、あまり何度もやりたいとは思わないな」

 

その言葉に、周囲の技術者たちは苦笑した。

 

 

だが、笑って済ませられる問題でもなかった。

 

シーダートは、空中では超音速で飛行できる。

 

しかし、そのためにはまず、水面の抵抗を受けながら離水速度まで加速しなければならない。着水する時も同じであり、高速で水面へ接触する以上、その衝撃を確実に受け止めなければならなかった。

 

 

「……これを、そのまま量産するのは厳しいですね」

 

若い技師が言った。

 

年長の技術者は頷いた。

 

「ああ。アメリカで採用されなかった理由も、よく分かる」

 

だが、続けた。

 

「その代わり、どこを直すべきなのかも分かってきた」

 

 

アメリカでは、当初の双スキー方式だけでなく、単スキー方式についても研究が行われていた。

 

単スキーには、振動を抑える上で有利な部分があった。一方、双スキーにも、荷重の分担や機体の支持方法など、設計次第で活かせる特徴がある。

 

日本側は両方式の成果を比較しながら、国産機に適した構造を検討していた。

 

そして、最終的には双スキー方式を基本としつつ、支持構造と衝撃吸収機構を大きく改良する方向が選ばれた。

 

 

もちろん、その選択だけで問題が解決するわけではない。

 

水面に接触する際の荷重を受け止め、滑走中の姿勢を安定させ、離水後には機構を収納する。

 

それらを確実に成立させる必要があった。

 

「……結局、アメリカの機体をそのまま使うわけじゃないんですね」

 

若い技師が言った。

 

「当然だろう」

 

年長の技術者は笑った。

 

「そのまま使うつもりなら、最初から国産機を開発する必要がない」

 

 

シーダートが日本にもたらしたのは、完成された戦闘機ではなかった。

 

 

水上ジェット戦闘機が実現可能であるという証拠。

 

そして、それを実用化するために解決しなければならない問題だった。

 

 

その両方を、日本側の技術者たちは受け取っていたのである。

 

 

 


 

 

 

同じ年。

 

国防空軍と国防海軍の技術担当者たちは、シーダートの評価結果をもとに、国産機の設計を進めていた。

 

目標は、単純なシーダートの国産化ではない。

 

 

日本が実際に使用する水上戦闘機として、必要な性能と運用能力を備えた新しい機体を作ることだった。

 

 

「……基本的には、全面的な再設計になると考えてください」

 

設計主任が言った。

 

机の上には、新しい機体の図面が広げられていた。

 

艇体型の胴体に、大きく後退した主翼。

 

機体上部に設けられた二基のジェットエンジン用吸気口。

 

そして、機体下面へ収納される二本のハイドロスキー。

 

全体の構成は、シーダートに似ていた。

 

しかし、内部構造や装備配置には、日本側の研究成果が取り込まれている。

 

「……吸気口は、かなり高い位置へ置いていますね」

 

国防海軍の技術担当者が言った。

 

「ええ。水上滑走時の飛沫を考えると、低い位置には置けません」

 

ジェットエンジンが大量の海水を吸い込めば、故障や損傷の原因となる。

 

吸気口の位置だけでなく、飛沫が機体周辺をどのように流れるかまで考慮する必要があった。

 

さらに、搭載するエンジンも問題だった。

 

「機関は、国産のネ式系列を基礎とした双発構成で考えています。ただし、水上運用に合わせた対策が必要です」

 

「塩害ですか?」

 

「それもあります。吸気条件や防食、それに整備性も重要です」

 

戦後の日本では、ネ式系列のジェットエンジン開発が継続されていた。

 

しかし、通常の戦闘機に搭載する場合と、水上で運用する機体に搭載する場合では、必要な対策が異なる。

 

海水を含む飛沫に、塩分による腐食。

 

水面近くでの機関運転。

 

そして、設備の限られた前進基地での整備。

 

それらを考慮しなければならなかった。

 

 

そんな中、旧日本海軍出身の技術者が、図面の一角を指した。

 

「……それにしても、随分と変わった時代になったものだな」

 

「何がです?」

 

若い技術者が尋ねた。

 

「フロートのことだよ。昔から、あれには随分と苦労してきた」

 

年長の技術者は、傍らに置かれていた資料の中から、一枚の古い図面を取り出した。

 

 

『紫雲』

 

旧日本海軍が開発した、高速水上偵察機だった。

 

 

「……紫雲ですか」

 

「ああ。こいつの開発でも、同じようなことを考えていたんだ」

 

紫雲は、敵戦闘機に追い付かれないほどの高速性能を目指して設計された水上偵察機だった。

 

だが、水上機には大きな障害がある。

 

フロートである。

 

水に浮かぶためには必要な装備だが、飛行中には重量と空気抵抗を増やしてしまう。

 

紫雲の開発者たちは、その問題に対して独特な方法を考えていた。

 

翼端の補助フロートを引込式にし、飛行中の空気抵抗を減らす。

 

さらに、胴体下面の主フロートには緊急投棄機構を設け、必要なら切り離して速度を高められるようにする。

 

 

しかし、どちらも実用上の問題を抱えていた。

 

補助フロートの引込機構は信頼性に難があり、最終的には固定式へ変更された。

 

主フロートの投棄機構も、期待されたほど確実には作動しなかった。

 

そして何より、主フロートを投棄してしまえば、通常の水上機として帰還することが難しくなる。

 

「……速く飛ぶために、帰ってくるための装備を捨てるわけですね」

 

若い技術者が言った。

 

「そうだ。非常手段としては考えられるが、普段から使える方法ではない。しかも、紫雲の場合は機構自体が未成熟だった」

 

 

年長の技術者は、蒼風の図面へ目を戻した。

 

「だが、今度は違う。水に浮いている時は艇体で浮力を確保し、高速滑走ではスキーを使う。飛び上がれば、そのスキーを引っ込めればいい」

 

「……飛行中の空気抵抗を減らすという点では、同じ発想ですね」

 

「ああ。ただし、今度は捨てずに済む」

 

シーダートの方式が、紫雲の構想から直接生まれたわけではない。

 

しかし、水上機を高速化する上で、飛行中には不要となる装備の空気抵抗をどう減らすかという問題は共通していた。

 

そして、技術が進歩したことで、その解決方法も変わっていたのである。

 

「……昔から考えていた問題に、ようやく別の答えが出てきたわけですね」

 

若い技術者が言った。

 

「そういうことだ。ただし、まだ完成した答えじゃない」

 

年長の技術者は、シーダートの試験記録を指した。

 

「フロートの空気抵抗を減らせても、今度は水面を走る時の衝撃が問題になる。解決したと思ったら、別の問題が出てくるものさ」

 

「……それを、今から我々が解決するわけですか」

 

「そうなるな」

 

年長の技術者は笑った。

 

「まあ、昔よりは随分と先へ進んだだろう?」

 

若い技術者も笑った。

 

 

紫雲の時代には、非常時に投棄することまで考えたフロート。

 

その問題に対して、シーダートはまったく異なる構造で答えを出していた。

 

そして日本側は、その成果を受け取り、実用的な機体へまとめようとしている。

 

古い水上機の設計資料が、新しいジェット戦闘機の開発に直接使われるわけではない。

 

 

それでも、先人がどのような問題に直面し、何を解決できなかったのかを知ることには意味があった。

 

同じ失敗を繰り返さないためにも、そして、新しい方法を評価するためにも。

 

 

「……機体そのものの性能だけでは足りない、ということですね」

 

若い技師が、改めて図面を見ながら呟いた。

 

国防海軍の担当者は頷いた。

 

「ええ。それに、基地でどう扱うかも考えていただきたい」

 

水上機は、水面へ降りればどこでも補給できるわけではない。

 

燃料と弾薬を扱う設備。

 

係留施設や整備用の建物、機体を引き上げるための装置。

 

そして、海況が悪化した場合の避難先。

 

そうしたものを用意して、初めて継続的な運用が可能になる。

 

「……飛行場を作らなくていい代わりに、別の施設が必要になるわけですね」

 

「そういうことです。もっとも、既存の港湾や水上機基地を利用できる場合もありますから、一概に不利とは言えません」

 

国防海軍の担当者は、地図を指した。

 

「ただ、使える水面があるというだけでは足りません。安全に離着水できる条件を確かめる必要があります」

 

海面の広さや水深。

 

風向、波浪、障害物や周辺地形。

 

水上戦闘機だからといって、海ならどこでも離着水できるわけではない。

 

「……やはり、万能ではないですね」

 

「万能だったら、アメリカ海軍も苦労していませんよ」

 

その言葉に、会議室の何人かが笑った。

 

 

だが、万能である必要はなかった。

 

普通の戦闘機が使える場所なら、普通の戦闘機を使えばよい。

 

必要なのは、通常の戦闘機を運用できない場所でも、航空戦力を展開するための選択肢を持つことだった。

 

 

「……それなら」

 

設計主任が、図面へ目を向けた。

 

「我々が作るべきものは、シーダートより速いだけの飛行機ではありませんね」

 

国防海軍の将校が頷いた。

 

 

「ええ。実際に使える水上戦闘機です」

 

 

こうして、新しい機体の設計は進んでいった。

 

 

旧日本海軍の水上機運用で培われた知識。

 

アメリカから導入したシーダートの研究成果。

 

そして、戦後日本が積み重ねてきたジェット航空技術。

 

それらを組み合わせた、独自の水上ジェット戦闘機だった。

 

 

その機体は、やがて一つの名前で呼ばれるようになる。

 

 

『蒼風』

 

かつての強風から任務を受け継ぐ、新しい水上戦闘機の名前だった。

 

 

 


 

 

 

1960年

 

蒼風の試作機は、各種試験を重ねていた。

 

双発ジェットエンジンを搭載し、艇体型の胴体と格納式ハイドロスキーを備えた、新しい水上戦闘機。

 

通常の飛行試験では、超音速戦闘機として十分な性能を示し始めていた。

 

 

しかし、問題はやはり水上運用だった。

 

 

「……衝撃は、随分と減っています」

 

試験記録を確認していた技師が言った。

 

「少なくとも、最初のシーダートで見られたような激しい振動は、かなり抑えられました」

 

「では、実用化できそうか?」

 

主任の問いに、若い技師は少し考えた。

 

「……もう少し、確認したいことがあります」

 

改良された双スキーは、衝撃吸収機構によって水面からの突き上げを緩和していた。

 

しかし、波が大きくなれば負荷も増える。左右のスキーへ不均等な荷重が掛かれば、機体姿勢にも影響する。

 

そのため、試験では支持構造や減衰機構を繰り返し調整し、海面状態に応じた運用条件を確かめていた。

 

 

さらに、整備上の問題も残っていた。

 

水密区画の点検。

 

電装品の保護や、機関と配管への防食処理。

 

そして、ハイドロスキーの清掃と整備。

 

 

「……水に浮かべられるのはいいんですが、その後が大変ですね」

 

整備員が苦笑した。

 

「普通の戦闘機なら、こんなに塩を落とす必要はありませんから」

 

その報告に、主任は頷いた。

 

軍隊の装備として必要なのは、ただ飛ぶことではない。

 

必要な時に飛び立ち、任務を終えて帰還し、整備を受け、再び出撃する。

 

その一連の運用を、現実的な人数と設備で続けられなければならなかった。

 

「……結局、機体だけ完成しても駄目なんですね」

 

若い技師が言った。

 

「そういうことだ」

 

主任は、試験中の蒼風を見た。

 

飛行性能は、要求へ近づいている。

 

水上滑走時の衝撃も改善されている。

 

しかし、実際の部隊で運用するためには、まだ確認すべきことが残っていた。

 

 

 

そして、その問題は、国防空軍と国防海軍の内部でも議論になり始めていた。

 

「……これを、本当に制式採用する必要があるのか?」

 

ある日の会議で、一人の将校が問い掛けた。

 

「研究成果が優れていることは認めます。ですが、普通の戦闘機よりも高価ですし、整備の負担も大きい」

 

その指摘は正しかった。

 

蒼風は、水上運用能力を得るために、多くのものを必要としていた。

 

艇体構造に防水設備、ハイドロスキー。

 

そして、それらを維持するための整備体制。

 

同じ技術水準の通常戦闘機と比べれば、飛行性能や製造費用の面で不利になる部分もある。

 

「……それなら、F-104のような戦闘機を増やした方がいいのではありませんか?」

 

新しい外国製戦闘機の導入が現実的な選択肢となりつつある以上、その意見を無視することはできなかった。

 

 

しかし、国防海軍の将校が口を開いた。

 

「……比較する相手が違うと思います」

 

「違う?」

 

「ええ。蒼風は、通常の戦闘機より優れた戦闘機を作るための計画ではありません」

 

彼は、机の上の地図を指した。

 

「我々が欲しいのは、滑走路が使えない場所でも活動できる戦闘機です。その能力に、どれほどの価値があるかを考えるべきでしょう」

 

通常の戦闘機と蒼風では、目的が異なる。

 

蒼風の価値は、最高速度や上昇力だけでは測れなかった。

 

滑走路の建設が難しい島嶼部へ展開できること。

 

既存の航空基地が攻撃された場合に、別の運用拠点を確保できること。

 

そして、海軍の支援施設と組み合わせることで、航空戦力を分散配置できること。

 

それらが、蒼風を開発する理由だった。

 

 

「……それに」

 

国防空軍の技術担当者が、一枚の資料を取り出した。

 

 

「滑走路に依存しない戦闘機の運用は、我々だけが考えていることではありません」

 

 

そこには、特殊な発進装置に据え付けられたアメリカ製戦闘機が写っていた。

 

『F-100D スーパーセイバー』

 

その機体には、通常の離陸では使用しない大型のロケットブースターが取り付けられていた。

 

 

「……これは?」

 

「アメリカ空軍が研究している、ゼロ距離発進です」

 

滑走路を使わず、ロケットの推力によって戦闘機を直接空中へ発進させる方式。

 

『ZEL』などと呼ばれている。

 

ゼロ距離発進そのものは以前から研究されており、アメリカではF-84などを使った実験も行われていた。

 

そして1958年3月には、F-100Dによる有人発進試験も実施されている。

 

 

その背景にあったのは、冷戦下における航空基地の脆弱性だった。

 

敵の先制攻撃によって滑走路が破壊された場合、通常の戦闘機は離陸できなくなる。

 

 

ならば、最初から滑走路を使わずに発進できるようにすればよい。

 

 

その発想から、ゼロ距離発進の研究が進められていたのである。

 

 

「……なるほど。アメリカも、同じ問題を考えているわけですか」

 

将校が呟いた。

 

「ええ。ただし、解決方法は違います」

 

 

蒼風は、水面を滑走路として利用する。

 

一方、ゼロ距離発進は、滑走路そのものを必要としない発進方式を作ろうとしていた。

 

その代わり、発進装置やロケットブースターが必要になり、帰還時にも問題が残る。

 

 

「……発進できても、着陸する場所が必要になるわけですね」

 

「そういうことです。もちろん、別の飛行場へ帰還する方法もありますが、それでは発進基地だけで運用を完結できるわけではありません」

 

 

蒼風にも、静穏な水域や専用の支援設備が必要になるという制約がある。

 

一方のゼロ距離発進には、水面のない場所からでも通常の戦闘機を発進させられるという利点があった。

 

どちらも、滑走路への依存を減らそうとする別々の試みだったのである。

 

 

「……つまり、滑走路が使えなくなるという想定自体は、決して突飛なものではないと」

 

「ええ。少なくとも、アメリカが実機を使って研究する程度には、真剣に考えられている問題です」

 

その説明に、将校たちは頷いた。

 

ただし、それだけで蒼風を採用する理由が証明されたわけではない。

 

同じ問題に対して、別の解決方法があるということでもあったからである。

 

 

「……結局、蒼風にしかできないことが、必要かどうかですね」

 

国防海軍の将校が言った。

 

「その通りです」

 

蒼風には、発進するだけでなく、適切な水域へ着水し、再び出撃できるという特徴がある。

 

しかし、その能力を維持するためには、通常の戦闘機以上の費用と手間が必要になる。

 

その違いを、実際の運用上の価値として評価しなければならなかった。

 

 

「……ただし」

 

国防海軍の将校は続けた。

 

「そのために、どこまで費用を掛けるべきかという問題は残ります」

 

 

会議室が静かになった。

 

運用上の価値があることと、制式装備として採用する価値があることは、必ずしも同じではない。

 

開発を続ける必要性については、両軍とも一定の理解を示していた。

 

しかし、最終的な制式採用については、まだ結論が出ていなかったのである。

 

 

 

───その頃。

 

日本では、一つの新しい組織が活動を始めていた。

 

 

『震電保存会』

 

旧日本陸海軍の航空関係者を中心に、現役軍人、技術者、研究者、産業界などの人々が集まり、国産航空技術の維持と発展を目指して設立された団体だった。

 

 

そして、その活動へ、蒼風の開発関係者たちも関心を持ち始めていた。

 

 

 


 

 

 

震電保存会の関係者を交えた会合。

 

机の上には、蒼風の設計資料と試験記録が並べられていた。

 

保存会側の技術者たちは、それを興味深そうに確認している。

 

 

「……なるほど。シーダートから、随分と改良されていますね」

 

一人が言った。

 

「ええ。特に、水上滑走装置と艇体構造は大きく見直しています」

 

蒼風側の主任が答えた。

 

「ただ、実用化へ向けては、まだ整備性と運用条件を確かめる必要があります」

 

保存会側の関係者は頷いた。

 

「それは分かります。しかし……随分と面白いことをやっていますね」

 

「面白い、ですか」

 

「ええ。普通の戦闘機なら、滑走路を使えばいい。そこを、わざわざ水面から飛ばそうとしているわけですから」

 

主任は苦笑した。

 

「我々としては、必要だからやっているんですがね」

 

「もちろん、承知しています」

 

 

保存会側の技術者は、資料をめくった。

 

「ただ、この計画には、戦闘機としての実用価値とは別に、研究上の価値もあります」

 

水上高速滑走の研究。

 

衝撃吸収機構。

 

機体の防水と防食。

 

ジェットエンジンの特殊な運用条件。

 

そして、航空機と船舶の両方に関わる流体技術。

 

それらは、水上戦闘機だけに使われるものではなかった。

 

他の水上機や飛行艇、さらには一般の航空機や船舶にも応用できる可能性がある。

 

 

「……つまり、蒼風が制式採用されなかったとしても、研究する意味はあると?」

 

主任が尋ねた。

 

「その通りです。ただし、採用されなくてもいいと言っているわけではありません」

 

保存会側の関係者は、少し笑った。

 

 

「ここまで来たのなら、実用化まで見たいですからね」

 

 

その言葉に、主任は顔を上げた。

 

「……協力していただけるんですか?」

 

「できる範囲で、ですが」

 

 

震電保存会は、蒼風計画を引き受けるわけではなかった。

 

開発の主体は、あくまでも国防空軍と国防海軍である。

 

しかし、保存会には研究者や企業との繋がりがあった。

 

試験設備の利用や技術協力を支援し、国産航空技術の維持という観点から研究継続の意義を説明することもできた。

 

 

「……ただし、一つだけお願いがあります」

 

保存会側の関係者が言った。

 

「何でしょう?」

 

「採用を急ぐために、問題を隠さないでいただきたい」

 

主任は、少し驚いた。

 

「……それは、もちろん」

 

「なら、結構です」

 

保存会側の技術者は頷いた。

 

「我々が欲しいのは、無理に採用された戦闘機ではありません。実際に使える水上戦闘機です」

 

そして、続けた。

 

「もし実用化できるのなら、そのための最後の研究を支援したい。ですが、危険なまま採用されるくらいなら、研究機として残した方がいいでしょう」

 

主任も頷いた。

 

「……同感です」

 

 

 

震電保存会が加わったことで、蒼風の開発が最初からやり直しになったわけではない。

 

既に必要な技術の多くは、国防空軍と国防海軍の研究によって成立していた。

 

保存会が担ったのは、それらを実際の制式装備へ結び付けるための、最後の後押しだったのである。

 

 

 


 

 

 

1961年

 

蒼風の実用試験は、新しい段階へ進んでいた。

 

今度は、航空試験施設に隣接する静穏な水域だけでなく、実際の部隊運用を想定した条件で試験が行われていた。

 

 

ある日の早朝。

 

島嶼部に設けられた水上機用の支援施設で、蒼風の試作機が出撃準備を進めていた。

 

整備員たちが、最終点検を行っている。

 

水密区画とハイドロスキー、無線と航法装置。

 

そして当然、発動機と燃料も。

 

 

「……準備は?」

 

国防空軍の将校が尋ねた。

 

「機体側は問題ありません。ただ、海面の状態を確認しています」

 

国防海軍の担当者が答えた。

 

 

この日は少し風があり、水面には小さな波が立っていた。

 

通常の戦闘機なら、滑走路が使用可能かどうかを確認する。

 

しかし、蒼風の場合は違う。

 

水面の状態そのものが、滑走路の状態に相当するのである。

 

波の高さだけでなく、うねりの方向や風向、周辺の障害物なども確認しなければならない。

 

 

「……今なら使えますか?」

 

「条件付きで可能と判断しています。ただし、予定していた進入方向は変えた方がいいでしょう」

 

国防海軍の担当者は、海図へ線を引いた。

 

「こちらの方が、海面状態が安定しています」

 

空軍側の将校は頷いた。

 

「了解しました。搭乗員へ伝えてください」

 

 

やがて、蒼風の試作機が水面へ出された。

 

艇体が水に浮かび、二基のジェットエンジンが始動する。

 

機体はゆっくりと進み、離水位置へ向かった。

 

「……離水準備、完了」

 

無線に報告が入る。

 

「了解。離水を許可する」

 

機体が加速を始めた。

 

最初は、艇体が水を押し分けながら進む。

 

やがて速度が上がり、ハイドロスキーが荷重を受け始めた。

 

機体は水面を滑走し、さらに加速する。

 

飛沫が後方へ流れていく。

 

 

そして、機首が持ち上がった。

 

蒼風は水面を離れ、空へ舞い上がった。

 

 

「……上がった」

 

観測員の一人が呟いた。

 

蒼風は高度を取りながら、指定された訓練空域へ向かっていく。

 

 

その後、模擬迎撃の課目が始まった。

 

蒼風は、陸上基地から進出した僚機と連携し、指定された目標へ向かった。

 

水上から飛び立つからといって、空中で特別な戦い方をするわけではない。

 

必要なのは、戦闘機として敵を発見し、迎撃する能力だった。

 

 

もちろん、蒼風には水上運用のための構造的な負担がある。

 

通常の陸上戦闘機と比べれば、重量や整備性、航続性能などで不利になる部分もあった。

 

それでも、今回の試験では、実用戦闘機として十分な能力を発揮できることが確認された。

 

 

 

そして、任務を終えた蒼風は、再び水面へ戻ってきた。

 

着水に際しては、進入方向と速度、海面状態を慎重に確認する。

 

機体が降下し、水面へ接近する。

 

やがて、ハイドロスキーが水に触れた。

 

短い衝撃が機体へ伝わる。

 

しかし、蒼風は姿勢を保ったまま減速していった。

 

十分に速度が落ちると、艇体が浮力を受け、機体は静かに水面へ浮かんだ。

 

 

「……着水、成功」

 

 

無線へ報告が入った。

 

地上の担当者たちは、安堵の息を吐いた。

 

 

だが、試験はそれで終わりではなかった。

 

機体が回収されると、整備員たちはすぐに点検を始めた。

 

ハイドロスキーの支持部に水密区画。

 

エンジンと吸気系統。

 

そして、海水にさらされた各種装備。

 

それらを確認し、次の出撃までに必要な作業量を調べる。

 

 

「……どうだ?」

 

試験主任が尋ねた。

 

整備担当者は、記録を確認して答えた。

 

「問題はあります。ただ、これまでと比べれば随分と改善されています」

 

「次の出撃は?」

 

「必要な整備を終えれば、可能です」

 

主任は頷いた。

 

 

蒼風は、ようやく単に飛ぶだけの試作機ではなく、実際に運用できる戦闘機へ近づいていた。

 

 

ただし、それはどんな海でも使えるようになったという意味ではない。

 

実際、別の日に予定されていた試験では、海面状態が悪化したため、飛行が中止されている。

 

 

「……やっぱり、波には勝てませんね」

 

若い技師が呟いた。

 

国防海軍の担当者は、苦笑した。

 

「勝とうとしなくていいんです。使えない時は使わない。それも運用の一つですよ」

 

その言葉には、水上機を長年扱ってきた海軍らしい実感があった。

 

 

必要なのは、無理をして出撃することではない。

 

安全に飛べる条件を見極め、その範囲で戦力として使えることだった。

 

 

そして、そのための知識は、強風六三型をはじめとする水上機の運用経験から受け継がれていたのである。

 

 

 


 

 

 

1962年

 

国防空軍と国防海軍では、蒼風の最終的な採否について審査が行われていた。

 

これまでの開発で、多くの問題が解決されていた。

 

シーダートから受け継いだ水上滑走技術は、国産の衝撃吸収機構と支持構造によって改良され、実用的な水上運用へ近づいている。

 

艇体の防水構造や防食処理、吸気口の配置についても、研究成果が積み重ねられていた。

 

さらに、実際の部隊運用を想定した試験によって、一定の条件下で継続的な運用が可能であることも確認されていた。

 

ただし、制限は残っていた。

 

荒れた海面では運用できない。

 

整備と補給には、適切な支援施設が必要になる。

 

通常の陸上戦闘機よりも維持に手間が掛かる。

 

そして、純粋な飛行性能だけを比較すれば、水上運用能力を持たない戦闘機の方が有利な場合も多かった。

 

 

「……それでも、採用する価値はあると?」

 

最終審査の席で、一人の将校が尋ねた。

 

国防海軍側の担当者は頷いた。

 

「あります。ただし、配備先と運用方法を選ぶ必要があります」

 

「どこでも使えるわけではない、と」

 

「ええ。ですが、使える場所では、通常の戦闘機にはできない仕事ができます」

 

国防空軍側の担当者も続けた。

 

「本機で主力戦闘機を置き換えるつもりはありません。あくまでも、特殊な条件下で使うための戦闘機です」

 

十分な滑走路があるなら、通常の戦闘機を使えばよい。

 

空母を運用できるなら、艦上戦闘機を利用する方法もある。

 

しかし、それらを使えない状況でも、水面を利用して戦闘機を展開できるのであれば、そこには確かな価値があった。

 

 

「……では、最後に」

 

審査を担当する将校が言った。

 

「震電保存会からの意見を聞きたい」

 

保存会側の関係者は頷いた。

 

「我々の立場から申し上げれば、この計画をここで終わらせるのは惜しいと考えています」

 

会議室が静かになった。

 

「もちろん、実用性のない機体を無理に採用するべきではありません。しかし、本機は既に実際の運用を想定した試験で成果を示しています」

 

保存会側の関係者は、蒼風の資料を指した。

 

「そして、この開発で得られた技術は、今後の日本の航空産業にも役立つでしょう」

 

水上滑走技術。

 

防水と防食。

 

特殊な環境でのジェットエンジン運用。

 

そして、航空機と船舶の双方に関わる研究成果。

 

それらは、今後の飛行艇や特殊航空機の開発にも利用できる可能性があった。

 

 

「……つまり、採用することで、技術を使い続けられるわけですね」

 

将校が尋ねた。

 

「ええ。ただし、採用すること自体が目的ではありません」

 

保存会側の関係者は答えた。

 

「国防軍が必要としている能力を実現し、その運用を通じて技術をさらに育てる。それが重要だと考えています」

 

その言葉に、審査を担当する将校は頷いた。

 

 

開発を始めたのは、国防空軍と国防海軍だった。

 

シーダートの購入を決めたのも、国産機の開発を進めたのも、両軍の判断によるものである。

 

震電保存会は、その計画へ後から加わった存在にすぎない。

 

しかし、実用化を目前にして残された課題へ取り組み、技術を今後へ繋げるための支援を行った。

 

その活動は、蒼風を制式採用へ近づける最後の後押しとなったのである。

 

 

 

やがて、最終的な判断が下された。

 

 

───採用。

 

新しい水上ジェット戦闘機が、日本国防軍の正式な装備として認められることになった。

 

 

 


 

 

 

水上機用の航空基地。

 

新しい戦闘機が、水面に浮かんでいた。

 

双発のジェットエンジンに、大きく後退した主翼。

 

艇体型の胴体と、格納式のハイドロスキー。

 

その姿は、かつての強風六三型とは似ても似つかなかった。

 

しかし、両者の間には確かな繋がりがあった。

 

 

「水面を滑走路として使い、戦闘機を飛ばす」

 

その発想である。

 

 

「……覚えているか?」

 

年配の技術者が、隣の男へ尋ねた。

 

「何をです?」

 

「昔、お前が俺の図面を見て、これで浮くのかと聞いたことがあっただろう」

 

若い頃からともに研究を続けてきた技術者は、少し考えた。

 

やがて、思い出したように笑った。

 

「……ああ。ありましたね」

 

「何だか分からん線を二本引いて、そこから考え始めた」

 

「ええ。あの時は、本当に何なのか分かりませんでしたよ」

 

二人は、水面に浮かぶ新型機へ目を向けた。

 

「……結局、アメリカが先に作りましたね」

 

「ああ。しかも、我々はそれを買ってきた」

 

「それを元に、随分と作り直しました」

 

「そうだな」

 

年長の技術者は、少し笑った。

 

「……昔なら、外国の機体を使ったと言われて、面白くない顔をしたかもしれん」

 

「今は違うんですか?」

 

「ああ」

 

彼は、静かに答えた。

 

「我々が欲しかったのは、日本だけで考えた飛行機じゃない」

 

そして、水面へ視線を戻した。

 

「日本が必要としている飛行機だ」

 

その言葉に、隣の技術者も頷いた。

 

 

かつての紫雲は、水上機の空気抵抗を減らすために、フロートを引き込み、あるいは投棄する方法を模索した。

 

強風は、陸上戦闘機から再び水上戦闘機へ戻ることで、その任務を次の時代まで繋いだ。

 

そして、シーダート。

 

アメリカ海軍が生み出したその機体は、水上から超音速戦闘機を飛ばせることを証明した。

 

ただし、実用化には至らなかった。

 

日本は、その成果を受け取り、自分たちの要求に合わせて作り直したのである。

 

 

 

やがて、出撃準備が整った。

 

機体が水面を進み始める。

 

二基のジェットエンジンが唸りを上げ、蒼い海の上を滑走していく。

 

速度が上がる。

 

飛沫が後方へ流れ、機首が持ち上がった。

 

 

そして、機体は水面を離れた。

 

 

青い空へ向かって上昇していく、その姿を見上げながら、年長の技術者が呟いた。

 

「……ようやく、ここまで来たな」

 

隣にいた技術者も頷いた。

 

「ええ」

 

かつて、強風六三型の前で描いた二本の細い線。

 

そこから始まった構想は、海の向こうで生まれた技術と出会い、戦後日本の研究によって新しい機体へと姿を変えた。

 

 

そして1962年。

 

日本国防軍は、国産水上ジェット戦闘機を制式採用した。

 

 

『62式水上戦闘機 蒼風』

 

 

水上戦闘機という任務の上では、強風の後継者。

 

そして、機体技術の上では、YF-7A シーダートの成果を受け継ぎ、独自に発展させた戦闘機だった。

 

その誕生によって、日本は滑走路だけに依存しない、新しい航空戦力を手に入れたのである。

 

 

もちろん、蒼風にも限界はある。

 

どんな海でも離着水できるわけではない。

 

通常の戦闘機を、すべて置き換えることもできない。

 

しかし、限界があるからといって、存在する価値まで失われるわけではなかった。

 

普通の戦闘機ではできないことを、必要な場所で実現する。

 

蒼風は、そのために生まれた航空機だった。

 

そして、かつて水面から飛び立った強風の仕事は、ここで終わるのではなく、新しい世代へと引き継がれた。

 

 

 

水上を走り、空へ飛ぶ。

 

その発想は、ジェットの時代にも、確かに生き残ったのである。

 

 

 

 

 

続く





あ と が き

貸せ、水上戦闘機はこうやる。


次回 16年越しの再進水
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