自我持つ兵器の英雄譚“Prequel” 1945 to 2000 作:Nyappy-
ある1人の男の視点。
1945年10月 博多港
船が岸壁へ近づくにつれて、甲板へ出てくる人間が増えていった。
誰に言われたわけでもない。船室にいた者が一人、また一人と外へ出て、手すりの向こうに見え始めた陸地を眺めている。
軍服姿の男たちだった。
帽子の形も服の色も階級もばらばらで、痩せた者もいれば、頬のこけた者、包帯を巻いた者、松葉杖をついた者もいる。もう軍帽を被る気にもなれないのか、丸めて鞄へ突っ込んでいる者もいた。
誰もが何かしらの荷物を抱えている。
背嚢、雑嚢、風呂敷包み、木箱。
中には、持ち帰るものなどほとんどなく、小さな袋一つだけを手にしている者もいた。
やがて、船の向こうにはっきりと陸地が見えた。
日本だった。
「……日本だ」
誰かが言った。
声は小さかったが、周囲にいた何人かがそちらを見る。
別の男が、もっと静かに呟いた。
「帰ってきたんだな」
今度は、誰も何も言わなかった。
高瀬正一、二十八歳。
十八の頃から軍服を着ていた。
十年。
途中、戦場にも出た。中国大陸を歩き、銃声の聞こえる土地で眠り、仲間を失い、その後は朝鮮半島へ移った。
戦争が終わった時も、そこにいた。
停戦。
武装解除。
命令を待つ日々。
昨日まで敵を撃つために持っていた銃を手放した兵士たちは、帰国の順番が来るまで、することもなく待ち続けた。
そして、ようやく。
高瀬は日本へ帰ってきた。
潮の臭いがする。港の臭いがする。遠くには家々が見える。
岸壁には大勢の人間が集まっていた。帰ってくる家族を探し、船へ向かって名前を叫んでいる。
甲板から返事が飛ぶ。
誰かが手を振った。
岸壁で女が泣き出し、それを見つけた兵士もこちら側から叫んだ。まだ接岸すらしていないというのに、互いに何度も名前を呼び合っている。
笑っている者がいた。
泣いている者がいた。
手を合わせる者までいた。
高瀬は、その光景を黙って眺めていた。
自分を迎えに来る人間はいない。故郷はここから遠い。
家族には、生きていることだけは伝わっているはずだった。
……たぶん。
でもそれで十分だった。
船が岸壁へ着き、縄が投げられ、係留作業が始まる。
やがて長い列が動き出した。
一人ずつ、日本の地面へ降りていく。
高瀬の前にいた男が桟橋へ足を下ろしたところで、突然動きを止めた。
後ろから声が飛ぶ。
「おい、どうした」
男は答えなかった。
ただ足元を見ていた。
しばらくして、ゆっくりとしゃがみ込み、地面へ手をつく。
「……帰ってきた」
声が震えていた。
誰も急かさなかった。
高瀬も、やがて桟橋へ足を下ろした。
木板の感触。その先にあるコンクリート。
何の変哲もない岸壁だった。
銃声はしない。
砲声もしない。
誰も伏せろと叫ばない。
飛行機の音がしても、敵機ではない。
ただの港だった。
それなのに、妙に足が重かった。
───帰ってきた。
頭の中で、そう言ってみる。
実感は、まだなかった。
港では炊き出しが行われていた。
温かい飯と汁物。簡単なものだったが、それでも久しぶりにまともな湯気を見た気がした。
高瀬は椀を受け取り、空いていた場所へ腰を下ろした。
近くでは、帰還兵とその家族が抱き合っている。
幼い子供が、軍服姿の男を不思議そうに見上げていた。
「お父ちゃんやぞ」
母親らしい女が何度も教えている。
男は笑おうとしていた。
だが、その途中で顔をくしゃくしゃにした。
子供には、まだ何が起きているのか分かっていないようだった。
高瀬は飯を口へ運んだ。
うまかった。
そう思った途端、なぜか喉を通らなくなった。
椀を置き、目を閉じる。
別に泣きたいわけではない。
嬉しい。
それは間違いなかった。
生きて日本へ帰れた。
明日撃たれる心配もない。命令一下、またどこかへ送られることもない。
喜ぶべきだった。
なのに頭のどこかでは、まだ「次はどこへ移動する」と考えている自分がいた。
戦争は終わった。
部隊もなくなる。
次などない。
その事実を、身体の方がまだ理解していなかった。
「すみません」
声をかけられ、顔を上げる。
年老いた女が立っていた。
手には、一枚の紙が握られている。名前と所属部隊が書かれていた。
高瀬には見覚えのない部隊だった。
「この人……ご存じありませんか」
息子なのだろう。
高瀬は紙へ目を落とした。
満州。
自分とは違う。
「……申し訳ありません。私は朝鮮にいましたので」
「そうですか」
女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして、また別の帰還兵のところへ歩いていく。
同じ紙を見せ、同じことを尋ねる。
高瀬は、その背中を見つめていた。
帰ってきた者がいる。
まだ帰っていない者がいる。
もう帰れない者もいる。
そして、そのどれなのかさえ分からない者もいる。
港には歓声があった。
泣き声もあった。
そのすぐ隣では、誰かを探し続ける人間がいた。
終戦とは、そういうものだった。
その日のうちに、高瀬は復員のための手続きを済ませた。
所属、階級、経歴、帰還地、復員後の住所。
兵隊として持っていたものが、一つずつ紙の上へ整理されていく。
書類だけを見れば簡単だった。
戦争が終わった。
部隊を解く。
兵士を家へ帰す。
だが、実際には何百万人という人間が軍服を着ていた。
国内にも、海外にも。
中国にも、朝鮮にも、南方にも、太平洋の島々にも。
その全員を一度に家へ帰せるはずがない。
船がいる。列車がいる。食料がいる。検疫がいる。名簿がいる。帰国した後にも、一人一人の行き先を確認しなければならない。
戦争を始めるのも大仕事だった。
だが、終わらせるのもまた、大仕事だった。
数日後
高瀬は故郷へ向かう列車に乗っていた。
車内は混んでいる。
復員兵だけではない。疎開先から戻る者、買い出しへ向かう者、家族を探す者、仕事を探す者。
誰もが荷物を抱えていた。
窓の外を、戦後の日本が流れていく。
駅、田畑、町、工場。
そして時折、何もなくなった場所。
大きな街へ近づくほど焼け跡が増えた。
家々が並んでいたはずの場所に空だけが広がり、黒く焼けた柱や崩れた煉瓦が残っている。瓦礫の間には、急ごしらえの小屋が建っていた。
高瀬は黙ってそれを見ていた。
戦争の間、彼は日本にいなかった。
故郷を守るため。
国を守るため。
そう言われて外地へ行った。
その間に、守るはずだった国が焼かれていた。
誰かを責めようとは思わなかった。
今さらだった。
もう終わったのだ。
それでも窓の外を見ていると、自分は一体何を守っていたのだろうと、一瞬だけ考えた。
列車が駅へ停まる。
乗客が降り、入れ替わりにまた人が乗ってくる。
その中に、一人の子供がいた。
高瀬の軍服をじっと見ている。
高瀬も、その視線に気付いた。
以前なら、軍人を見た子供が敬礼の真似をすることもあった。
「兵隊さん」
そう呼ばれたこともある。
だが、その子供は何もしなかった。
ただ珍しそうに見ただけで、母親に手を引かれると、すぐに別の方を向いた。
高瀬は自分の袖を見る。
階級章のついた、汚れた軍服。
昨日まで、それには意味があった。
軍曹。
部下がいる。
上官がいる。
命令する者がいて、命令される者がいる。
今日、その階級に何の意味があるのだろう。
高瀬は軍帽を脱ぎ、畳んで膝の上へ置いた。
故郷の駅へ着いたのは、夕方だった。
駅舎も傷んでいたが、残っていた。
改札の向こうに、一人の女が立っている。
一瞬、誰なのか分からなかった。
向こうもこちらを見て固まっている。
それから、
「兄ちゃん……?」
声で分かった。
妹だった。
高瀬が軍へ入った頃には、まだ少女だった妹。
今はもう、立派な大人の女になっている。
「……千代か」
妹の顔が歪んだ。
次の瞬間には走ってきていた。
高瀬は、どうすればいいのか分からなかった。
戦場では敵が来たら撃てばよかった。部下が倒れれば伏せさせた。砲撃が来れば散開した。命令を受ければ動いた。
だが、泣きながら抱きついてきた妹にどうすればいいのかは、分からなかった。
結局、ぎこちなく腕を回した。
「……ただいま」
声が掠れた。
妹は何も答えず、軍服の胸へ顔を押しつけて泣いていた。
高瀬は、その頭を静かに撫でた。
家へ向かう道も変わっていた。
なくなった家がある。新しく建てられた小屋がある。空襲で焼けた場所もある。昔よく通った店は消えていた。
「親父は?」
高瀬が聞くと、妹は少し黙った。
「去年」
それだけで分かった。
病気だったという。
薬が足りなかった。
戦争がなければ助かったのか?
それは、誰にも分からない。
母は生きていた。
高瀬を見るなり、何も言わずに泣いた。
夕食は質素だった。
麦の混じった飯。少しの野菜。汁。
それでも高瀬には十分だった。
家族三人で卓を囲む。
「兄ちゃん、これからどうするの」
妹が尋ねた。
高瀬の箸が止まった。
答えようとして、言葉が出ない。
「どうするって……」
「仕事」
仕事。
その言葉が、妙に遠かった。
「軍は……なくなるんでしょう?」
「……ああ」
なくなる。
帝国陸軍は、もうない。
復員のための仕事や書類上の整理が残っていようが、戦う組織としての陸軍は終わった。
「兄ちゃん、ずっと軍隊だったもんね」
「そうだな」
十八で入り、二十八で帰ってきた。
十年間。
若い男が仕事を覚え、社会の中で自分の場所を作るはずだった時間を、高瀬は軍隊で過ごした。
銃を撃てる。
軽機関銃も扱える。
迫撃砲の使い方も知っている。
地図を読み、方位を取り、数十人をまとめて移動させられる。
野営もできる。
限られた食料を配分することもできる。
夜間行軍も、砲撃を受けた時にどう動けば生き残りやすいかも知っている。
人を殺す方法も知っている。
───それで、何の仕事ができる。
「……分からん」
高瀬は答えた。
軍隊では、「分からない」では済まなかった。
判断しろ。
決めろ。
命令しろ。
それが軍曹だった。
今は、本当に分からなかった。
その夜。
高瀬は布団へ入った。
柔らかかった。
そして、静かだった。
静かすぎた。
そのせいで眠れない。
天井を見つめていると、時計の音が聞こえる。
遠くで犬が鳴いた。
誰かが道を歩いていく。
それだけだった。
何も起きない。
高瀬は目を閉じた。
しばらくして。
外で、何かが破裂した。
身体が勝手に動いた。
布団から転がり落ち、そのまま床へ伏せる。
一瞬遅れて、自分が何をしているのか理解した。
外から笑い声が聞こえる。
何かを落としただけだったのか。
車の音だったのか。
砲撃ではない。
……当然だった。
ここは日本だ。
戦場ではない。
高瀬は床に伏せたまま、しばらく動かなかった。
「……馬鹿か、俺は」
小さく呟く。
だが、身体は震えていた。
翌朝、妹は何も言わなかった。
気付いてはいたのかもしれない。
高瀬も何も言わなかった。
日が過ぎた。
軍服を脱いだ。
最初は家に残っていた古い着物を着て、その後どうにか普段着を手に入れた。
鏡を見る。
そこには、どこか知らない男がいた。
軍服を着ていない自分の姿を、高瀬は長いこと見ていなかった。
町へ出て、仕事を探した。
だが、世の中は高瀬一人のために仕事を用意してくれてはいない。
日本中に、同じような男がいた。
元歩兵。
元砲兵。
元戦車兵。
元航空兵。
元水兵。
元整備兵。
昨日まで国が必要としていた人間たち。
今日、その仕事そのものがなくなった。
「何ができますか」
そう聞かれる。
高瀬は困る。
軍歴を話しても、相手も困る。
「部下は何人くらい?」
「時期にもよりますが……」
「人をまとめるのは得意なんですね」
「まあ」
「帳簿は?」
「多少なら」
「機械は?」
「専門ではありません」
「大工仕事は?」
「陣地構築なら」
相手が苦笑した。
高瀬も苦笑した。
……仕方がなかった。
戦場では役に立った。
だが、平和な国で必要とされる技術とは違う。
───平和な国。
その言葉を頭の中で口にすると、妙な感じがした。
ほんの数ヶ月前まで、日本は国家総動員で戦っていた。
今は、銃を扱えることより、鍋を作れることの方が役に立つ。
高瀬は、それを悪いとは思わなかった。
むしろ、その方がいいのだろう。
人を撃つ技能より。
家を建てる技能の方が役に立つ世の中。
それはきっと正しい。
ただ……その正しい世の中に、自分の居場所が見つからないだけだった。
1946年
高瀬は一つの工場の門の前に立っていた。
戦争中、軍需品を作っていた工場だった。
今は看板から軍を示す文字が消えている。
中では生活用品や農機具、車両部品など、別のものを作り始めているらしい。
人手を探していると聞いた。
受付で書類を出す。
「経験は?」
「工場のですか」
「そう」
「ありません」
「……そうですか」
また駄目か。
そう思った時、奥にいた年配の男がこちらを見た。
高瀬の書類を手に取る。
軍歴───旧陸軍軍曹。
「軍曹だったのか」
「はい」
「人はまとめられる?」
「それしかやってきませんでした」
男は少し笑った。
「それしか、ね」
書類を机へ置く。
「機械は覚えりゃいい」
高瀬は顔を上げた。
「え?」
「最初から職人の奴なんていない。俺だってそうだ」
年配の男は椅子から立ち上がった。
「人間を十人、二十人まとめて、時間までに仕事を終わらせる。それも立派な技能だ」
高瀬は黙った。
「戦争で覚えたからって、全部捨てなきゃならんこともないだろう」
その言葉に、すぐには返事ができなかった。
戦争で覚えたもの。
銃の撃ち方。
人の殺し方。
そんなものばかりだと思っていた。
だが、違う。
人をまとめた。
食料を配った。
故障した車両を動かした。
道がなければ作った。
橋が落ちていれば、渡る方法を考えた。
負傷者がいれば運んだ。
部下が怯えていれば声をかけた。
眠れなくても、翌朝には起きて歩いた。
戦争で使った技術の全てが、戦争にしか使えないわけではない。
「働きます」
高瀬が言った。
「何でも覚えます」
「じゃあ、明日から来い」
あまりにも簡単だった。
十年間の軍歴が終わった後。
初めて、次の日にすることが決まった。
高瀬は工場を出た。
空を見上げる。
雲が流れている。
飛行機の音はしない。
昔なら、無意識に機種を考えていた。
敵か、味方か。
今は、その必要もない。
家へ向かう途中、一台のトラックが横を通り過ぎた。
軍用だった車両だ。
塗装は変えられている。
荷台には兵士ではなく、木材が積まれていた。
高瀬は足を止めた。
トラックは、そのまま町の向こうへ走っていく。
昨日まで戦争に使われていたものが、今日、町を直すために走っている。
高瀬は、少しだけ笑った。
軍服は家に置いてある。
捨ててはいない。
階級章も、復員の書類も全部、しまってある。
もう着ることはないだろう……そう思っているが。
兵隊ではなくなった。
明日からは工場で働く。
機械の使い方を覚える。
何を作ることになるのかは、まだ知らない。
でも、それでよかった。
高瀬正一は、日本へ帰ってきた。
だが、戦争へ行く前の自分へ戻ったわけではない。
戻れないのなら、前へ進むしかなかった。
兵隊は帰ってきた。
そして一人ずつ、戦争ではない生き方を覚え始めていた。
続く
あ と が き
高瀬には、平和に生きてほしいものです。
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