『安楽死』の個性を持つ透明な"僕"と血を吸う少女 作:汚れっちまった哀しみに
僕はどこまでいっても"僕"でしかなかった。
だからヒミコちゃんとの関係が壊れてしまった。
違う。壊れたんじゃない。
僕が彼女を拒絶して――壊したんだ。
ヒミコちゃんのいない日常は、けれども変わらず過ぎていく。自分も他人も社会人も学生も、僕らはまるで壇上で踊る演者のように与えられた役割をこなすだけ。
なるべく良い配役を求めて踊り狂い、生まれてからずっと僕らはリズムを刻んでいる。無機質に、テンポよく。心を仮面で覆い隠し、
僕らは淡々と、生きるをこなす。
112号室。
それは僕の家族の体がある病院の個室の番号だ。
鏡のようなリノリウムの床は、しかし人の往来によって消えない傷が時折刻み込まれ歪んでいた。
硬質な靴音を立てながら歩き、部屋の前へと辿り着く。
ノックを二つ。
返事はない。
けれどそれでいい。いつものことだ。
僕は引き戸を開き入室した。
ベッドの上では女性が体を起こしている。
ロングの黒髪と白い肌――そして虚ろな瞳。
お母さんの体はいつもと変わらずそこに置いてあった。
けれどお母さん自身はもう、ここではない場所にいる。
だから白い部屋は無機質な墓場に近い。
体はただの墓標。心は失われて、
部屋では穏やかに清潔なカーテンが揺れていた。看護師さんが開けてくれたのだろう。窓際に置かれた花瓶に生けられた、白と桃色のアストランティアの花が一輪ずつ枯れている。
バッグからビニール袋を取り出して、袋の中へと捨てていく。
陽にさらされ枯れ果て乾いた細い茎。ガラスのように脆くなってしまった茶色い花弁。握ればそれはクシャリと砕け、二つの花からただの残骸へと変わっていく。
自然に生まれ持った意味も、人に与えられた価値も失った、役割を終えた可哀想なアストランティア達。空いた花瓶には代わりに、白いカーネーションを一輪挿した。
手向ける相手が肉塊と変わらないとしても、病室という閉ざされた世界を彩る色には違いない。
バッグからクシを取り出して母の体の髪をすく。心はもう、そこにはいないはずなのに、それでも体は老化という名の生命活動を続けている。
艷やかな髪質は生前のものとそう変わりはしない。ただ、病院指定の味気ないシャンプーの香りがしているだけ。記憶のなかのお母さんの匂いとはかけ離れている。
お母さんの体の手入れを済ませる。月に一度の日課の終わり。肉体を穢さない以上に価値はない。
そうやってやることを終えて、やるべきを失うと途端にわずらわしい感情がやってくる。今日に限って、今日だからこそ。
お母さんは優しい人だった。
僕の個性が人を直接殺せる個性だったと知っても愛情を注いでくれた。抱きしめ愛を囁き、時には涙を流し、ごめんね、という言葉と共に頭を撫でられた。
ずうっと親戚の人や同級生の母親達から僕は言われていた。
あの子は化物だって。
子供の前で紡がれる言葉の数々。お母さんはそのたびに庇ってくれたけれど、同時にガラスの破片をすり潰すように心を磨耗させていった。
粉々と、散り散りに。
だからお母さんが壊れてしまったのも僕のせい。
疲れ切り、愛していたはずの息子にさえ狂気を向けるようになったあの姿。そもそも僕のことなんて愛してなんていなかったんだ――とは思わない。
むしろ愛しすぎてしまったがゆえに、自分を殺し、そして僕を殺そうとした愛という名の死の病。
だから幼い頃の僕はお母さんの心を救った。あれ以上壊れてしまわないように。
安らかな寝顔は今でも思い出せる。
それが僕の救済の
それなのに僕はまた、誰かを壊した。上手く役割を演じ切れなかった。
「僕は‥‥壊れているのか?」
疑問と自問が声に出る。応えてくれる人は誰もいない。
違う、とは断言できなかった。
思考しているのかいないのか。ぼやけ始めた意識の海の中では考えても考えても答えは出ず、機能停止した人形のようにじっと白い床を見る。
僕はヒミコちゃんという鏡に歪んだ自己を投影し、そうすることで自分を守ろうとしていたんじゃないのか。
自分を見てくれる彼女をある種の犠牲にして。
だからまた失敗した。誰かを救うと言いながら、一番近くにいてくれた少女を雑に扱った。
だとするならば、僕は本当にこれ以上にないほどに、これまで考えていたよりも、どうしようもない人間だ。
「うっ‥‥」
吐き気がする。気持ち悪い。気持ち悪い。
ときおり外からやってくることがあるような、一過性の気持ち悪さではない。内側から産まれてへばりついている肉腫のような気持ち悪さが胸と胃の間で滞留する。
苦しみが自分で、自分が苦しみで、苦しみを感じることさえおこがましいような、そういうある種の一体感。
部屋に備えつけてある洗面台へと向かい、胃の中の物を吐き出そうとした。けれども固形物は出ない。
まずは透明、それから翡翠色をした体液が僅かに溢れ落ちただけだった。
「はぁ‥‥はぁ‥‥」
口の中が酸っぱくなった。
「‥‥っ!」
鏡を見て気がつく。そこに写る自分の顔が暗い煙が漂うように、あるいは子供が黒いクレヨンでグルグルと顔を塗りつぶすように、僕の顔はドロドロとした
僕は僕の顔を認識出来なかった。
「‥‥」
鏡に触れて撫でつける。指先が冷たい。鏡に写る自分の体温さえもが、まるでそうであるというかのように。
僕に何が起きているのか分からない。個性の副次作用の一つなのか、本当に心が壊れきてしまっているのか
あるいはこれは罰なのだろうか。
関係ない。あるものを受け入れるしか、ない。これが今は僕で、僕はこれならば、それをただ受け止めよう。
お母さんの体の元に戻ると、点滴のパックがべコリとへこんで、もうすぐ液体が無くなりそうになっていた。
僕は壁に掛けてあるナースコールのボタンを押してから、この白い部屋をあとにした。
花言葉
アストランティア(白)→星に願いを。
アストランティア(桃)→愛のからみあい。秘めたる愛。
白いカーネーション→私の愛は生きています。