■地下都市アガルタ(朝)
冷たい鉄の箱のような部屋に、人工の白い光が満ちていく。
レイ・クロフォードは、重いコンクリートを叩きつけられたような怠さを覚えながら、ベッドから跳ね起きた。
昨日も最下層での掘削作業が長引いて、夜遅くまで泥にまみれていた。全身の関節がきしむように痛む。
「……チッ、クソだりぃな」
洗面台へ向かい、錆の浮いた蛇口を乱暴にひねって、冷たい水を顔に叩きつける。
鏡を睨みつけるように見上げた。相変わらず、絶好調に目つきが悪い。
「ほんと、指名手配犯みてぇな顔だな」
思わず自分で吐き捨てて、鼻で笑う。
壁の古いモニターを殴るように点けると、お決まりのノイズ混じりの人工音声が流れた。
『本日のアガルタ領内の天候は晴れ。夕方から第4ブロックにて降雨予測となります』
「また雨かよ。地面がぬかるんで歩きにくくなるじゃねぇか」
設定された人工気象は絶対に外れない。それが、この歪んだ街のルールだ。
イラつきながら、泥の染みついた頑丈な作業服に袖を通し、味のしないレーションを噛み砕いて胃袋に流し込む。
ふと、壁際にある古びた写真立てに目が留まった。
若かった頃の父親と、優しそうな母親の写真。
レイはその写真をじっと見つめ、ひとつ深いため息をつくと、そっと親指でガラスの汚れを拭った。
「父さん。母さん。……行ってくる」
鉄製の重い玄関扉を乱暴に開けると、人工太陽の容赦ない光が降ってきた。
アガルタの朝。限られた空間の通路では、家畜の鶏たちが羽ばたき、人々がせわしなく行き交う。
「あら、レイちゃん。おはよう。……今日も相変わらず怖い顔ねぇ」
「うるせぇな、毎朝毎朝いいよ、おばさん! んじゃ、行ってくる!」
「気をつけるんだよ。夜、美味い残り物持ってってあげるからね」
「あぁ、ありがとよ!」
口は悪いが、足取りは軽い。
歩みを進めると、今度は八百屋の親父から威勢のいい声が飛んできた。
「よぉ、レイ! おはようさん! どうせ今日も朝飯はレーションだけなんだろ? だからお前の面はそんなに怖いんだよ。若いんだから、これでも食っとけ!」
真っ赤なリンゴが勢いよく飛んでくる。
レイはそれを片手でパシッと受け止めた。よく見れば、売り物にならない小ぶりな傷物だ。
「おっちゃん、ありがとよ。……だけど、面構えは生まれつきだろ!」
「ばーか、減らず口叩きやがって! 傷物だけど味は保証する。おめぇにはいつも力仕事で世話になってんだ、これくらい良いんだよ。今度また店の手伝い頼んだぞ!」
「へいへい。そん時ゃ、美味い飯食わせてくれよな」
リンゴを豪快に齧りながら進むと、今度は子供たちが跳ね回るように絡んできた。
「おぉ、レイ兄ちゃん! 彼女出来たんかー?」
「あぁ!? そんなもん必要ねぇんだよ、喧しいわ、ばーか!」
「やーいやーい! レイ兄ちゃん、顔が怖いからフラれたんだー!」
「フラれてねぇわ! 待ちやがれ、ガキども! ぶっ飛ばすぞ!」
本気で拳を振り上げるレイから、蜘蛛の子を散らすように笑いながら逃げていく子供たち。
その背中を見送りながらレイが首の骨を鳴らしていると、ボサボサの髪のまま眠そうに目を擦り、分厚い古書を抱えた親友のガレス・ハドソンが現れた。
「よっ、レイ。相変わらず朝から殺人鬼みたいな面だな。ガキ相手にマジになるなよ」
「おう。ガレス、お前こそ死人みたいなツラしてんな。またその怪しい本か?」
「怪しくねえよ。……『空』の話だ。いつか絶対、自分の目で見てやるからな」
「へいへい、男のロマンってやつな。まぁ、俺だって偽物の太陽や作られた空気はヘドが出る。一度くらいは拝んでみてぇさ、本物の空ってやつをな」
その時、細い路地の方から切羽詰まった老婆の悲鳴が響き渡った。
「誰かぁ! トラジロウ――っ!」
「あん? ばーちゃんの声か。何があったんだ!」
レイは考えるより先に、声のした方向へ鋭く地を蹴った。
「おいレイ、待てよ! あんま始業まで時間ねぇぞ!」
背後からのガレスの制止など、耳に入っていない。
薄暗い路地裏へ突っ込むと、腰を抜かしているお婆さんの姿があった。
「うわぁぁぁっ! 人殺し! ごめんなさい!」
「誰が人殺しだ、俺だよ俺! レイだ! 落ち着け!」
「あぁ……レイちゃんじゃないかい。朝からその顔は心臓に悪いよ。いやね、トラジロウが居なくなっちまってね……」
「あー、ばーちゃんの猫か。そこにいろ、すぐ捕まえてきてやる!」
レイはすぐさま、配管から冷たい水滴が滴る、さらに奥の陰へと踏み込んだ。
ミャー、と小さな猫の鳴き声がした。
そこには、猫の前でしゃがみ込んでいる、見慣れない少女がいた。
アガルタの誰も着ていない、仕立ての良い不思議な衣服。そして、地底の人間にはあり得ないほど、血色の良い透き通った白い肌。
「あらぁ、確かここら辺だったはずなんですけどぉ……」
「おぉっと、トラジロウ。こんなとこにいたか。……って、おい、そこの人。その猫、持ち主がいるんだ。すまねぇが連れてくぞ」
少女は不満そうに頬を膨らませた。
「ちょ、ちょっと待ってください。今、遊んでいる最中じゃないですか……」
「いや、わりぃが、飼い主のばーちゃんがガチで泣いて困ってんだよ」
「んー、なら仕方ないですね。猫ちゃん、折角お会い出来たばかりなのに、バイバイです」
レイは猫を抱き上げ、少女をまじまじと見つめた。
「わりぃな、お嬢ちゃん。……ん? この辺じゃ見ない顔だな。何処のブロックから来たんだ? この最下層にゃ、何もねーぞ」
「あっ、挨拶がまだでしたね。私、アイリスと申します。ちょっと遠いところから観光に来たのですが……あの、思い切り迷子になってしまったみたいでして……」
「観光ぉ? こんな薄汚い最下層にか? 物好きにも程があんだろ……。まぁいい、アイリスねぇ……何処に行こうとしてたんだ? 案内してやるよ、言ってみろ」
「ありがとうございます! えっとですね……『絶品モグラぷりん本舗』というお店なのですが……」
「あー、そこなら突き当たりを右に行って、すぐ大通りに出るから、そこを左に曲がったら真っ直ぐ……」
「あ、ありがとうございます♪ 突き当たりを左ですね♪」
「いやいや、違う! 右だって、右!」
「あははは、冗談ですよ。わかってますってば」
そう言って、アイリスは極めて自然な足取りで――思い切り左に向かって歩き出した。
「お、おいっ!! だ・か・ら、右っつってんだろ!!」
レイが怒鳴ると、アイリスはピクッと肩を跳ね上げ、見事なバックステップで戻ってきた。
「あははは……。そ、そうだと思ってましたぁ……」
「ったく、人の話を聞けよ。もういい、案内する。ついて来い!」
腕にトラジロウを抱えたレイが路地を抜けると、待ちくたびれていたガレスが立っていた。
ガレスはアイリスの姿を見た瞬間、その衣服の質の良さと、アガルタの人間とは異なる雰囲気にわずかな違和感を覚え、目を細める。
(……なんだ、このお嬢さん。ただの観光客……にしちゃ、妙に浮いてるな……?)
「おいガレス! 細かいことは後だ。ばーちゃんにトラジロウを返して、それからプリン屋に行く。仕事に遅れるぞ!」
「お前が飛び出したからだろうが!」
文句を言うガレスを無視して、レイはズカズカと歩き出す。
大通りでお婆さんに猫を返すと、お婆さんは涙を流して喜んだ。その様子を、アイリスはどこか切なげに、だが温かい眼差しで見つめている。
手元の時計を睨みながら、ガレスが焦った声を上げる。
「よし、一件落着だな。……って、おいレイ! 本当に掘削の始業時間がヤバい! 俺は先に行くからな、絶対に遅れるなよ!」
ガレスは通路の奥へと猛ダッシュで消えていった。
「さて、それじゃあお嬢ちゃん、約束通りプリン屋まで連れてってやるよ」
「はい! よろしくお願いします!」
アイリスは嬉しそうに頷き、レイの後ろをトコトコと歩き出した。
地底の閉鎖世界アガルタ。その退屈な日常の裏で、世界を揺るがす運命の歯車が、静かに、だが確実に回り始めていた。
(第1話 終)