モンドで過ごすようになって、少しだけ時間の感覚が変わった。
最初にここへ来たときは、何もかもが非現実的だった。
石造りの街。
大きな城門。
風に揺れる草原。
見たことのある建物。
そして、ゲームの中で何度も見てきた人たち。
全部知っている。
――はずだった。
でも、実際にここで暮らしてみると、そんな簡単な話ではない。
「たかふみ、今日はどうする?」
朝の街を歩きながら、おじさんが聞いてきた。
「どうするって……特に決まってないけど」
「そうか」
おじさんは、それだけ言って前を向いた。
「いや、そこで終わるのかよ」
「何がだ?」
「いや、こっちに聞いてきた意味は?」
「特にない」
「ないのかよ」
いつものやり取りだった。
隣を歩いていた蛍が、小さく笑う。
「二人とも、いつもこんな感じなの?」
「だいたいこんな感じ」
「そう」
蛍はそれ以上聞かなかった。
パイモンは少し離れたところを飛びながら、街の屋台を眺めている。
「なあなあ! 今日は何か食べないのか?」
「朝から?」
「朝だからだぞ!」
「理由になってないだろ」
「パイモンはいつでも食べたいんだよ」
蛍が淡々と答える。
「蛍まで……」
モンドに来てから、こういう会話にもだいぶ慣れてきた。
いや。
慣れてきたというより――。
これが普通になりつつあった。
そこが、少し怖かった。
最初は街を歩くだけでも緊張した。
ゲームで見慣れた景色が目の前に広がっている。
知っているキャラクターが歩いている。
知っている場所なのに、知らない場所だった。
けれど数日も過ごしていると、街の道順も少しずつ覚えてくる。
店の場所も分かる。
どこに人が集まりやすいのかも分かってくる。
モンドの人たちが、どんな生活をしているのかも少しずつ見えてくる。
ゲームでは、プレイヤーが必要な場所へ行けば、必要なキャラクターがそこにいる。
町の人たちは基本的に決められた場所にいて、決められた台詞を話す。
でも、ここでは違う。
店員は客が来れば接客する。
騎士は街の外へ巡回に出る。
子供は走り回る。
大人は仕事をする。
朝になれば街が動き始め、夜になれば少しずつ静かになる。
当たり前のことだ。
でも、その当たり前が俺にとっては一番の違和感だった。
「……ゲームじゃないんだよな」
思わず口に出た。
「何が?」
蛍が振り返る。
「いや……」
俺は少しだけ迷ってから答えた。
「モンドのこと」
「うん」
「ゲームで知ってたはずなんだけどさ」
街を見回す。
風車がゆっくりと回っている。
石畳を人が歩いている。
遠くでは誰かが荷物を運んでいた。
「実際に来てみると、全然違うなって」
「そうね」
蛍は否定しなかった。
「私も、ここに来るまでは知らないことが多かったから」
「蛍も?」
「うん」
その答えを聞いて、少し気が楽になった。
俺だけがおかしいわけじゃない。
ゲームを知っている俺でも、知らないことがある。
この世界を実際に歩けば、ゲームには描かれていなかったものがいくらでも出てくる。
それを少しずつ知っていく。
それが最近の俺たちの生活だった。
◇
西風騎士団の本部に着くと、すでに何人かの騎士が忙しそうに行き来していた。
以前よりも、ここへ来ることに抵抗がなくなっている。
もちろん、俺は騎士団員じゃない。
おじさんもそうだ。
それでも、事件や依頼を通じて何度か顔を合わせているうちに、少しずつ名前を覚えてもらった。
「たかふみ!」
明るい声が飛んできた。
振り返ると、アンバーがこちらへ駆けてくる。
「おはよう!」
「おはよう、アンバー」
「今日も一緒なんだね!」
アンバーは俺たち三人を見回した。
「おじさんも、蛍も、パイモンも!」
「おはよう」
おじさんが短く答える。
「おはよう!」
「おはようだぞ!」
蛍とパイモンも返した。
アンバーは笑顔のまま、俺の顔を見る。
「たかふみ、モンドの生活にはもう慣れた?」
「まあ……少しは」
「最初は大変だったでしょ?」
「文字が読めなかったからな」
おじさんが突然言った。
「そうだった!」
アンバーが思い出したように手を叩く。
「二人とも、最初は文字が読めなかったんだよね」
「そうそう」
俺は苦笑する。
言葉は通じる。
なのに文字が読めない。
これが思った以上に不便だった。
看板が読めない。
依頼書も読めない。
店に何が売っているのかも分からない。
ゲームなら画面を見れば全部分かる。
ここではそうはいかなかった。
「今は少しずつ覚えてる」
「偉いじゃない!」
アンバーが笑う。
「分からない文字があったら、いつでも聞いてね」
「ありがとう」
「私も教えるぞ!」
パイモンが胸を張る。
「パイモン、結構詳しいからな!」
「……本当に?」
「なんで疑うんだよ!」
パイモンが頬を膨らませる。
「まあ、パイモンも教えてくれてるけど」
俺が言うと、パイモンは満足そうに笑った。
「だろ!」
「ただ、説明が長いと途中から分からなくなる」
「おい!」
アンバーが笑う。
蛍も少しだけ口元を緩めていた。
こういう時間が増えた。
最初は、アンバーと話すだけでも緊張していた。
ゲームの中で知っていたキャラクターと、普通に会話している。
その事実だけで頭がいっぱいだった。
でも今では違う。
アンバーはアンバーだ。
ゲームに登場するキャラクターというより、ここで暮らしている一人の人間として見える。
もちろん、ゲームで知っていた部分はある。
偵察騎士であること。
弓を使うこと。
明るくて、人付き合いが良いこと。
でも、それだけじゃない。
実際に話してみると、ゲームの短い台詞だけでは分からない細かい反応がある。
俺が少し疲れていれば気づく。
おじさんが妙なことを言えば笑う。
蛍の様子を見ていれば、さりげなく話題を変えることもある。
そういうものは、ゲームの画面だけでは分からなかった。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか見てたから」
「ああ……」
俺は少し考える。
「いや、ゲームで知ってたのに、実際に話すと結構違うなって」
「ゲーム?」
「あ」
しまった。
俺がゲームの話をしていることは、すでに知られている。
でも、あまり詳しく説明しすぎないようにはしていた。
「たかふみのいた世界の遊び?」
「そう」
「へえ」
アンバーが興味深そうに首を傾げる。
「どんなゲームなの?」
「いろんな種類があるけど……」
説明しようとしたところで、おじさんが口を挟んだ。
「セガには――」
「はいストップ」
「何だ?」
「長くなるから」
「セガのゲームは素晴らしい」
「ほら始まった」
アンバーが笑った。
「セガって何?」
「俺たちの世界のゲーム会社」
「ゲーム会社?」
「そう」
おじさんの表情が少しだけ変わる。
ほんの少しだけ。
でも、俺には分かる。
この顔は危険だ。
「昔のセガは――」
「おじさん」
「何だ」
「今はやめとこう」
「なぜだ」
「アンバーが仕事中だから」
「……そうか」
おじさんは素直に黙った。
アンバーが楽しそうに笑っている。
「おじさんって、ゲームの話になると本当に詳しいんだね」
「当然だ」
即答だった。
「そこだけは即答なんだな……」
俺はため息をついた。
◇
しばらくすると、ジンが本部の奥から姿を見せた。
「皆さん、おはようございます」
「おはようございます、ジンさん」
俺が挨拶すると、ジンは柔らかく微笑んだ。
「おはよう、たかふみ」
以前よりも、距離が近くなった気がする。
もちろん、まだ完全に信用されているわけではない。
それは分かっている。
俺たちは異世界から来た人間だ。
しかも、おじさんは精霊魔法という、この世界には存在しない力を使う。
警戒されるのは当然だった。
でも、最初の頃に比べれば明らかに空気が違う。
ジンも、おじさんと普通に会話するようになっていた。
「おじさん」
「何だ」
「昨日の巡回について、少し確認したいことがあります」
「分かった」
二人が話し始める。
俺は横で聞いていた。
おじさんは自分のことを隠さない。
異世界から来た。
十七年間、異世界で暮らしていた。
魔法を使える。
精霊と契約している。
元の世界では日本という国に住んでいた。
普通なら、もっと慎重に話すと思う。
でも、おじさんは違う。
聞かれたことには普通に答える。
「おじさんは、本当に異世界から来たんですよね?」
ジンが確認する。
「ああ」
「十七年間、ですか?」
「そうだ」
「……本当に?」
「本当だ」
ジンが一瞬黙った。
俺は横で頭を抱えそうになった。
いや。
嘘をつけとは言わない。
でも、その答え方はどうなんだ。
「十七年というのは……かなり長いですね」
「長かった」
「その間、元の世界には戻れなかった?」
「戻れなかった」
「なるほど……」
ジンは慎重に頷く。
そこへ、別の声が入った。
「へえ。十七年ねえ」
ガイアだった。
いつの間にか近くにいたらしい。
「おじさん、あんた本当に十七年間も異世界にいたのか?」
「ああ」
「……本当に?」
「本当だ」
同じ質問。
同じ回答。
ガイアが笑う。
「いやあ、何度聞いてもすごい話だ」
「そうか?」
「普通はもっとこう……説明したくならないか?」
「事実だからな」
「事実なら説明しなくていいって?」
「そうだ」
「なるほど」
ガイアは楽しそうに笑った。
俺はため息をつく。
「おじさん、初対面の人にその話しても信じてもらえないって」
「別に信じてもらう必要はない」
「いや、そういう問題じゃないだろ」
「俺は本当のことを話している」
「そうだけどさ……」
そこへリサが現れた。
「まあまあ。面白そうな話をしているじゃない?」
「リサさん」
「おはよう、たかふみ。蛍ちゃん、パイモンちゃんも」
「おはよう」
「おはようだぞ!」
リサはおじさんを見る。
「異世界に十七年、ねえ」
「そうだ」
「興味深いわ」
リサは笑った。
「では、少し質問してもいいかしら?」
「いい」
「異世界では、どんな魔法を使っていたの?」
「精霊魔法だ」
「精霊魔法……」
リサの目が少し細くなる。
「元素魔法とは違うのね?」
「違う」
「なるほど」
今度は完全に研究者の目だった。
俺は嫌な予感がした。
「どんな原理なの?」
「精霊との契約だ」
「精霊と?」
「ああ」
「精霊はどこにいるの?」
「そこらにいる」
「まあ」
リサが笑う。
「随分と身近なのね」
「必要なら呼ぶ」
「呼ぶって……」
アンバーが興味津々で近づいてくる。
「それって、元素とは関係ないの?」
「関係ない」
「じゃあ、本当に別の力なんだ」
「そうだ」
アンバーが目を輝かせる。
「見てみたい!」
「必要なら使う」
「今は必要ないだろ」
俺が止めた。
「えー」
「いや、ここ騎士団本部だから」
「それもそうね」
リサが楽しそうに笑う。
「でも、たかふみ」
「何?」
「あなたも精霊魔法を使えるのでしょう?」
「一応」
「あなたの場合は?」
「おじさんに教えてもらった」
「なるほど……」
リサの視線が俺に向く。
「二人とも、異世界で魔法を覚えたのね」
「まあ」
俺は曖昧に答えた。
正確には、俺の場合はおじさんから教わったものが多い。
でも、おじさんと俺では経験が違う。
十七年間、異世界で生き抜いたおじさん。
その横についてきた俺。
同じように魔法を扱えても、同じではない。
そこは自分でも分かっている。
「まあ、難しい話は後にしましょう」
リサが笑う。
「今日は騎士団の仕事もありますからね」
「そうだな」
ジンが頷く。
そのとき、廊下の向こうからノエルがやってきた。
「皆さん、お待たせしました!」
「ノエル」
「おじさん、たかふみさん、蛍さん、パイモンさん。おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます」
「おはようだぞ!」
ノエルは俺たちのところへ来ると、持っていた荷物を机に置いた。
「こちら、昨日の依頼で使った道具です。整理しておきますね」
「手伝う」
おじさんが言った。
「え?」
「手伝う」
「いえ、大丈夫です!」
「そうか」
「はい!」
ノエルが笑う。
だが、おじさんはすでに荷物を持ち上げていた。
「おじさん、もう手伝ってるじゃん」
「そうだな」
「聞く意味あった?」
「ない」
「ないのかよ……」
ノエルが困ったように笑う。
「では、お願いします」
「ああ」
おじさんは淡々と荷物を運び始めた。
こういうところは、妙に真面目だ。
戦闘になると無茶をするくせに、日常では頼まれた仕事を普通にやる。
ノエルもすぐに自然な感じで指示を出し始めた。
「こちらは棚へお願いします」
「分かった」
「これは少し重いので、私が持ちます」
「俺が持つ」
「でも……」
「問題ない」
ノエルが少し驚いた顔をする。
「……ありがとうございます」
おじさんは返事をせず、荷物を運んでいった。
俺はその背中を見る。
異世界で十七年。
たぶん、俺が知らないことをたくさん経験している。
だからなのか。
こういうときだけ妙に手慣れている。
「おじさんって、意外と面倒見いいよね」
蛍が言った。
「まあ……」
俺は少し考える。
「根は悪くないんだよ」
「うん」
「ただ、行動がたまにおかしい」
「それは分かる」
「蛍も分かるようになったか」
「かなり」
蛍が頷いた。
「……ひどくないか?」
おじさんが戻ってきた。
「聞こえてたの?」
「ああ」
「じゃあ反論してよ」
「必要ない」
「そこはしてくれよ」
◇
昼頃になると、騎士団本部の空気も少し落ち着いてきた。
俺たちは簡単な食事を取りながら、最近の出来事について話していた。
アンバーが向かい側に座っている。
ガイアもいる。
リサは少し離れた場所で本を読んでいた。
ジンは仕事の書類を確認している。
ノエルは食事を終えると、また仕事へ戻ろうとしていた。
こうして見ると、本当に普通の職場みたいだった。
もちろん、普通ではない。
ここはゲームの世界だ。
そう思うこともある。
でも、こういう時間を過ごしていると、ゲームという言葉だけでは説明できなくなる。
「たかふみ」
アンバーが声をかける。
「ん?」
「この前言ってた、セガっていうのはどんなところなの?」
「まだ聞きたいの?」
「うん!」
俺はおじさんを見る。
嫌な予感がする。
「おじさんに聞いた方がいいと思う」
「そうだな」
おじさんが頷いた。
「セガは――」
「いや、俺が説明する!」
慌てて止める。
「なんでだ?」
「おじさんに任せると長くなるから!」
「そんなことはない」
「ある」
アンバーが笑う。
「じゃあ、たかふみが教えてよ」
「えーと……」
俺は少し考えた。
「ゲームを作ってたり、昔はゲームセンター向けの機械を作ってたり……」
「へえ」
「いろんなゲームがあってさ」
「どんなゲーム?」
「それは……」
俺が説明していると、おじさんが口を挟んだ。
「バーチャファイターは――」
「そこまで!」
「なぜだ」
「長くなるから!」
ガイアが笑った。
「なるほど。セガというのは、おじさんの弱点なんだな」
「弱点じゃない」
おじさんが真顔で答える。
「重要な文化だ」
「文化なのか……」
俺は額を押さえた。
アンバーは楽しそうに笑っている。
「おじさんって面白いね」
「そうか?」
「うん!」
おじさんはよく分かっていない顔をしていた。
ガイアが肩をすくめる。
「本人に自覚はないらしい」
「そうみたいだな」
俺も同意した。
◇
午後。
俺たちはアンバーと一緒に街の外へ出ることになった。
大きな依頼ではない。
街の近くにヒルチャールが出たという報告があり、様子を確認するだけだった。
「今回は偵察が中心だからね」
アンバーが説明する。
「数が多くなければ、そのまま片付けちゃうけど」
「分かった」
おじさんが答える。
俺は周囲を見る。
モンドの城壁から離れると、街中とは空気が変わる。
風が草原を抜けていく。
遠くに木々が見える。
道の先には、いつものように見慣れた風景が広がっている。
ゲームで何度も通った場所。
でも、今は自分の足で歩いている。
「……やっぱり変な感じだな」
俺が呟く。
「何が?」
アンバーが聞く。
「ここ、ゲームで何度も通った場所だから」
「ゲームでは、こんな場所も出てくるの?」
「うん」
「じゃあ、道に詳しい?」
「大体は」
「じゃあ頼りにしていい?」
「いや、ゲームと現実は違うから」
「慎重だね」
「そりゃそうだろ」
俺は周囲を見た。
ゲームでは敵がどこにいるか分かる。
マップを開けば位置も確認できる。
でも、今は違う。
音。
風。
草の揺れ。
遠くから聞こえる鳥の声。
その中に、不自然なものが混ざっている。
「……おじさん」
「分かっている」
おじさんが立ち止まった。
アンバーもすぐに弓を構える。
「何かいる?」
「向こうだ」
おじさんが草原の先を見る。
俺も目を凝らす。
すると、遠くの岩陰から何かが動いた。
一体。
二体。
さらに奥にもう一体。
「ヒルチャールだ」
アンバーが小声で言った。
ゲームで何度も見た姿。
仮面。
粗末な武器。
けれど、現実で見ると印象が違う。
動物のような奇妙な鳴き声。
手にした武器。
こちらを見つけた瞬間に、体を起こす。
「三体」
俺が数える。
「一体は盾を持ってる」
「分かった」
おじさんが前へ出る。
「待って」
俺は声を落とした。
「まだ気づかれてない」
「そうだな」
「先に状況を見る?」
「ああ」
おじさんは止まった。
アンバーが少し驚いたように俺を見る。
「たかふみ、ちゃんと周りを見てるんだね」
「おじさんと一緒にいると、そうなる」
「なるほど」
ヒルチャールの一体が動いた。
盾を持った個体が前へ出る。
その後ろに弓を持った個体。
もう一体は棍棒を持っている。
「遠距離がいる」
俺が伝える。
「先に弓を狙う」
アンバーが弓を引いた。
矢が飛ぶ。
風を切って、弓を持ったヒルチャールの腕へ突き刺さった。
「今!」
おじさんが走る。
距離が一気に縮まる。
ヒルチャールがこちらへ振り返る。
盾を持った個体が前に出た。
おじさんは足を止める。
盾の正面には回らない。
横へ回り込む。
ヒルチャールが盾を動かした。
その瞬間だった。
おじさんの手元に光が集まる。
空気がわずかに震える。
「キライド ルギド リオルラン――光剣顕現」
光が一気に伸びた。
光の剣。
おじさんが握る。
盾の横から刃を滑り込ませる。
ヒルチャールが後退した。
おじさんは追わない。
その場で一歩だけ引いた。
棍棒が振り下ろされる。
地面を叩く。
土と草が跳ねる。
おじさんは攻撃の軌道を見て、横へ避けた。
そのまま剣を返す。
盾を持った腕を狙う。
ヒルチャールが盾を動かそうとする。
遅い。
光の刃が盾を弾き、そのまま体勢を崩させた。
「今だ!」
アンバーが叫ぶ。
矢が飛ぶ。
残った一体の足元に刺さった。
ヒルチャールがよろめく。
そこへ蛍が走った。
剣を抜く。
風が舞う。
一撃。
二撃。
ヒルチャールが後退する。
おじさんが横から入り、光の剣で武器を弾いた。
最後の一体が倒れる。
静かになった。
草原を風が抜ける。
「……終わった?」
アンバーが弓を下ろした。
「ああ」
おじさんが光の剣を消す。
俺は周囲を見た。
「他には?」
「いないみたい」
アンバーが答える。
俺は少しだけ息を吐いた。
ゲームなら簡単な戦闘だった。
でも、実際に戦ってみると違う。
相手の動きが予測できない。
攻撃を受ければ痛い。
武器が当たれば怪我をする。
当たり前だけど、そこがゲームとの最大の違いだった。
「たかふみ」
蛍が近づいてきた。
「大丈夫?」
「ああ」
「怖かった?」
「……まあ」
俺は正直に答えた。
「ゲームで見てると、普通の敵なんだけどな」
倒れたヒルチャールを見る。
「実際に目の前にいると、全然違う」
「そうね」
蛍が頷く。
アンバーも静かにヒルチャールを見る。
「うん。実際の戦いは、いつだって危険だから」
おじさんが俺を見る。
「だから、無理をするな」
「分かってる」
「ならいい」
それだけだった。
俺は少し笑った。
こういうところは、おじさんらしい。
余計なことは言わない。
でも、必要なことは言う。
◇
帰り道。
俺たちはゆっくりと街へ戻っていた。
アンバーが隣を歩いている。
「たかふみ」
「ん?」
「最近、ちょっと変わったよね」
「俺が?」
「うん」
「どういう意味?」
「最初より、モンドのことを普通に見てる感じがする」
俺は黙った。
確かにそうかもしれない。
最初はずっとゲームと現実を比較していた。
ここはゲームと同じ。
ここは違う。
この人はゲームに出てきた。
このイベントは知っている。
そんなことばかり考えていた。
でも、最近は少し違う。
アンバーと話す。
ジンと話す。
ガイアにからかわれる。
リサに質問される。
ノエルに手伝いを頼まれる。
そういう一つ一つが、ゲームの情報ではなくなってきている。
「……うん」
俺は答えた。
「たぶん、慣れてきたんだと思う」
「そっか」
「でも、完全に慣れたわけじゃない」
「それでいいと思うよ」
アンバーが笑った。
「モンドは逃げないから」
「何それ」
「モンドはモンドだよ」
アンバーは前を向いた。
風が吹く。
髪が揺れる。
俺はその横顔を見た。
ゲーム画面では何度も見た。
でも、今は目の前にいる。
笑えば笑う。
疲れれば疲れる。
怪我をすれば痛がる。
当然のことだった。
でも、それが俺にとっては大きな違いだった。
「……ゲームじゃないんだよな」
もう一度、呟く。
今度は誰にも聞こえなかった。
◇
その日の夕方。
騎士団本部に戻ると、ガイアが待っていた。
「おかえり、お二人さん」
「ただいま」
「おじさんは?」
「向こう」
俺が指差す。
おじさんはノエルと一緒に荷物を整理していた。
「働くねえ」
ガイアが笑う。
「異世界で十七年も生きてきた人間っていうのは、もっとこう、豪快なのかと思っていたよ」
「おじさんは変なところだけ普通だから」
「そうか」
ガイアは笑う。
「ところで、たかふみ」
「何?」
「本当にあんたたちの世界には、魔法はないのか?」
「俺の知ってる限り、普通の人間が使う魔法はない」
「なるほど」
「だから、おじさんが魔法を使えるのは……」
「異世界で覚えた?」
「そう」
「そして精霊魔法」
「ああ」
ガイアは少し黙った。
「未知の力、か」
「そうだと思う」
「おじさんは?」
「ん?」
「自分の力について、どう考えている?」
「必要だから使う」
向こうからおじさんが答えた。
いつから聞いていたのか分からない。
「必要だから?」
「ああ」
「力そのものには興味がない?」
「ある」
即答だった。
「ただ、使うなら使い方が重要だ」
ガイアが少しだけ目を細める。
「……なるほどね」
それ以上、深くは聞かなかった。
俺も何も言わなかった。
精霊魔法について、まだ分からないことは多い。
この世界の元素力とも違う。
アビスの力とも違う。
おじさんが異世界で身につけた力。
それが、この世界でどう受け止められていくのか。
それは俺にも分からない。
でも――。
少なくとも今のところ、モンドの人たちは少しずつ俺たちを受け入れてくれている。
完全な仲間ではない。
まだ警戒もされている。
それでも、最初とは違う。
「おじさん」
「何だ」
「モンド、どう?」
「どうとは?」
「住みやすい?」
「悪くない」
「そっか」
おじさんは少し考えた。
「風がある」
「それだけ?」
「重要だ」
「……まあ、おじさんらしいか」
蛍が隣で笑う。
「私は好き」
「モンドが?」
「うん」
蛍は窓の外を見る。
夕方の空。
風車がゆっくり回っている。
「ここで少し休んでもいいと思う」
「そうだな」
おじさんが頷いた。
俺も窓の外を見る。
ゲームで何度も見た景色。
でも今は違う。
この街には、俺たちがいる。
おじさんがいる。
蛍がいる。
パイモンがいる。
アンバーがいる。
ジンがいる。
ガイアがいる。
リサがいる。
ノエルがいる。
ゲームでは一緒に暮らすことなんてなかった人たちと、今は普通に話している。
それが少し不思議だった。
そして――。
少しだけ、嬉しかった。
「たかふみ」
「ん?」
蛍がこちらを見る。
「何?」
「これからも、よろしく」
一瞬、意味を考えた。
そして笑う。
「ああ。こっちこそ」
外から風が吹き込んできた。
モンドの風は、今日も変わらない。
けれど。
俺にとっては、少しずつ意味が変わってきていた。
ゲームの中で見る風ではない。
実際に肌で感じる風。
街の人間が暮らす風。
俺たちがこれから生きていく場所の風。
そんなことを考えながら、俺は窓の外を眺めていた。
すると――。
「たかふみ」
「何?」
「腹が減った」
「……はいはい」
「夕食にしよう」
「急に現実的だな」
「食事は重要だ」
「それはまあ、そうだけど」
パイモンが飛んでくる。
「オイラも腹減ったぞ!」
「ほら、パイモンも」
「二人とも食べすぎ」
蛍が呆れたように言う。
「今日は何を食べる?」
「肉!」
「俺も肉」
「おじさんまで乗るなよ」
アンバーが笑う。
「じゃあ、みんなで食べに行こうよ!」
「賛成!」
パイモンが勢いよく手を上げる。
俺たちは騎士団本部を出た。
夕暮れのモンドを歩く。
人々が行き交う。
店から料理の匂いが漂ってくる。
風が吹く。
その風の中を、俺たちは歩いていく。
俺はふと立ち止まった。
目の前に広がる街を見渡す。
以前なら、ここを見てこう思っただろう。
――ゲームの世界だ。
でも、今は違った。
ここには生活がある。
人がいる。
笑う人がいる。
働く人がいる。
戦う人がいる。
そして、自分たちもその中にいる。
「……そろそろ、本当に覚悟しないとな」
小さく呟く。
「何を?」
蛍が振り返る。
「いや」
俺は笑った。
「何でもない」
まだ分からないことは多い。
この世界で何が起きるのか。
ゲームで知っている未来が、本当に同じように進むのか。
おじさんの存在が何を変えるのか。
精霊魔法が、この世界にどんな影響を与えるのか。
そして――。
俺たちは、元の世界へ帰れるのか。
答えはまだ出ていない。
だからこそ、今は一つずつ進むしかない。
まずは今日を生きる。
明日を迎える。
その先で、また次のことを考える。
それでいい。
「たかふみ、早く!」
アンバーが前から呼んでいる。
「今行く!」
俺は走り出した。
おじさんたちの後を追う。
モンドで過ごす時間は、もう少し続く。
そして俺たちは、まだ知らなかった。
この街で築き始めた関係が、これから先の旅で大きな意味を持つことを。