モンドに滞在するようになってから、少しずつ日常ができてきた。
朝は街を歩き、必要があれば依頼を手伝う。
昼には騎士団に顔を出すこともある。
そして夕方になると、食事をして一日を終える。
最初の頃と比べれば、ずいぶん落ち着いた生活だった。
とはいえ、俺たちが異世界から来たという事実が消えたわけじゃない。
むしろ、時間が経つほど新しい疑問が出てきている。
その一つが――精霊魔法だった。
「たかふみ」
騎士団本部を訪れていた俺に、リサが声をかけてきた。
「少し時間をもらえるかしら?」
「俺?」
「ええ」
リサはいつものように穏やかな笑みを浮かべている。
その隣には、おじさんがいた。
「おじさんも?」
「ああ」
「……もしかして」
俺は嫌な予感を覚えた。
「精霊魔法の話?」
「正解」
リサが楽しそうに笑う。
「図書館で少しお話ししましょうか」
「俺も行くの?」
「もちろんよ」
「だよな……」
こうして俺たちは、モンドの図書館へ向かうことになった。
◇
騎士団本部の図書館は、静かだった。
外の街では人々が行き交い、店では料理を作る音が聞こえている。
けれど、この場所だけは別世界のように落ち着いている。
本棚には大量の本が並んでいた。
歴史。
魔術。
錬金術。
元素。
モンドの地理や文化に関する本。
俺にとっては、ゲームの中で見ていたものとは比べ物にならない量だった。
「……すごいな」
思わず呟く。
「そうでしょう?」
リサが笑う。
「ここにはモンドに関する資料がたくさんあるの。もちろん、全部が正しいとは限らないけれど」
「へえ」
俺は本棚を見回した。
ゲームでは、こんなところまで細かく見ることはなかった。
必要な本があれば読む。
必要な情報があれば調べる。
それだけだった。
でも、現実の図書館には、それ以上のものがある。
誰かが書いた記録。
誰かが調べた研究。
長い時間をかけて積み重ねられた知識。
それが全部、ここにある。
「たかふみ」
「ん?」
「こちらへ」
リサが机の前へ案内する。
おじさんも椅子に座った。
俺も向かい側に座る。
「さて」
リサが本を一冊置いた。
「今日は精霊魔法について、少し詳しく聞かせてもらいたいの」
「分かった」
おじさんはいつも通りだった。
特に緊張している様子もない。
「まず確認したいのだけれど」
リサが質問する。
「精霊魔法というのは、魔力を使って魔法そのものを発動させる技術ではないのね?」
「違う」
「では?」
「精霊に頼んでいる」
「……精霊に?」
「ああ」
リサは少し考え込んだ。
「つまり、魔法そのものを使役しているわけではないのね?」
「精霊に頼んでいる」
「なるほど……」
リサは机の上で指を組んだ。
いつもの余裕のある表情。
でも、目だけは真剣だった。
「では、精霊には意思がある?」
「ある」
「会話ができる?」
「できる」
「命令するの?」
「場合による」
「お願いすることも?」
「そうだ」
リサがペンを取った。
「興味深いわ」
ペン先が紙の上を走る。
「元素魔法の場合、元素そのものの性質や、神の目との関係からある程度の理論を組み立てることができるわ」
リサは説明しながら、簡単な図を書いていく。
「でも、精霊魔法は違う」
「うん」
「魔法を発動する術者だけでは完結しない」
「そういうことになる」
「精霊との関係が必要」
「ああ」
リサはまた考える。
「では、精霊が協力してくれなければ、魔法は使えない?」
「使えない場合もある」
「なるほど」
俺も話に加わった。
「だから、単純に魔力を消費して発動する魔法とはちょっと違うんだよ」
リサが俺を見る。
「どう違うの?」
「MP……魔力があれば必ず使える、っていう感じじゃない」
「ほう」
「おじさんの場合、精霊との関係とか、使う魔法とか、そのときの状況も関係する」
「そうね」
リサは頷いた。
「つまり、魔力だけを見ても精霊魔法の全体像は分からない」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺も全部理解してるわけじゃないから」
リサが少し笑った。
「正直でよろしいわ」
「ゲームにもなかったし」
「ゲーム?」
「俺たちの世界の遊び」
「なるほど」
リサは特に追及しなかった。
最近では、俺たちがゲームという言葉を使うことにも慣れてきたらしい。
「それにしても」
リサはおじさんを見る。
「あなたは、この力を長く使っているのよね?」
「ああ」
「精霊とは、どのくらい付き合っているの?」
「昔からだ」
「昔から?」
「異世界にいた頃から」
「十七年間?」
「ああ」
リサが一瞬だけ目を見開いた。
「では、あなたにとっては当たり前なのね」
「そうだ」
「特別なことだとは思わない?」
「昔からこうだった」
おじさんは、本当にそれだけだった。
俺は思わず苦笑する。
「おじさんにとってはそうなんだよ」
「ええ。分かってきたわ」
リサが頷く。
「だからこそ興味深いのよ」
「そう?」
「ええ」
リサは机の上の紙を見る。
「あなたにとって当たり前の技術が、こちらでは未知のものなのですもの」
その言葉を聞いて、俺は少し黙った。
確かにそうだった。
おじさんにとっては、精霊魔法は特別なものじゃない。
異世界で生きるために覚えた力。
使えるから使う。
必要なら使う。
それだけだ。
でも、この世界では違う。
元素魔法なら、ある程度の知識がある。
炎なら炎。
水なら水。
風なら風。
元素という、この世界の人間が知っている体系がある。
神の目を持つ者が元素の力を使う。
それが、この世界では普通だ。
だけど――。
精霊魔法には、その前提がない。
「たかふみ」
リサが俺を見る。
「あなたは精霊魔法をどう理解しているの?」
「俺?」
「ええ」
少し考える。
「……魔法というより、精霊とのやり取りかな」
「やり取り?」
「うん」
「なるほど」
「おじさんが一方的に力を使うっていうより、精霊に協力してもらってる感じ」
「それなら、術者の技術だけでは成立しないのね」
「そういうこと」
リサは納得したように頷いた。
「面白いわ」
「そんなに?」
「とても」
即答だった。
「元素魔法とは根本から違うもの」
リサは紙にいくつか言葉を書き込む。
「精霊との意思疎通。
契約。
協力。
そして、術者側の技術」
そこまで書いて、ペンを止める。
「まだ分からないことが多いわね」
「俺もそう思う」
「おじさん本人は?」
「何が?」
「精霊魔法について、どう思っているの?」
おじさんは少し考えた。
「必要なら使う」
「……それだけ?」
「ああ」
リサが笑った。
「本当にあなたらしいわね」
俺も苦笑する。
「昔からそうなんだよ」
「そうみたいね」
◇
リサは、さらにいくつか質問を続けた。
精霊はどこにいるのか。
どうやって呼びかけるのか。
魔法を使う際にどの程度の集中が必要なのか。
長時間使った場合に何が起きるのか。
精霊魔法にも得意不得意があるのか。
おじさんは、その一つ一つに淡々と答えていった。
分からないことは分からないと言う。
説明できることは説明する。
無駄に格好つけることもない。
それが逆に、リサにとっては面白いらしい。
「では、精霊魔法には限界もあるのね?」
「ああ」
「何でもできるわけではない」
「そうだ」
「精霊の負担もある?」
「ああ」
「あなた自身の負担も?」
「ああ」
リサは頷く。
「なるほど」
俺も話を聞きながら考えていた。
精霊魔法というと、ゲームみたいに考えれば簡単だった。
MPがある。
呪文を選ぶ。
発動する。
それだけ。
でも、実際は違う。
精霊との関係がある。
使う側にも負担がある。
魔法によって必要な条件も違う。
戦い方によっては、どの魔法を使うかを考える必要もある。
単純な「MPを消費する魔法」ではない。
それは俺自身も、ここへ来てから少しずつ理解してきたことだった。
「たかふみ」
「ん?」
「あなたも精霊魔法を使えるのでしょう?」
「うん」
「少し見せてもらうことは?」
俺はおじさんを見る。
「どうする?」
「問題ない」
「じゃあ……」
俺は立ち上がった。
図書館の中なので、派手な魔法は使えない。
だから、小さな魔法だけにする。
「精霊にお願いする」
俺は集中する。
周囲の空気がわずかに動いた。
リサが静かに見守っている。
おじさんも何も言わない。
精霊との意思を感じる。
そして――。
「ワーグレント スラドセルド――疾風駆送」
風が足元を包んだ。
ほんの一瞬。
身体が軽くなる。
椅子から少し離れたところまで、滑るように移動した。
すぐに魔法を止める。
「……これが?」
リサが目を細める。
「風を使っているように見えるけれど……」
「元素じゃない」
俺が答える。
「そうね」
リサは周囲の空気を確かめるように手を伸ばす。
「元素反応がない」
「うん」
「それなのに、風そのものは動いている」
「精霊魔法だから」
リサはしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「ますます興味深いわ」
「そんなに研究したい?」
「ええ」
即答だった。
「研究者として、こんな未知の魔法を目の前にして何もしないほうが難しいもの」
「なるほど……」
俺は少しだけ後ずさる。
「でも、俺たちを実験材料にはしないでくれよ」
「まあ」
リサが笑う。
「そんなに警戒しなくてもいいでしょう?」
「その笑顔がちょっと怖いんだよ」
「失礼ね」
おじさんが口を挟む。
「リサは悪い人じゃない」
「おじさん、そこは信用してるんだな」
「そうだ」
「俺よりリサのほうが信用されてない?」
「そんなことはない」
「本当か?」
「ああ」
リサが楽しそうに笑った。
「仲がいいのね」
「どこが?」
「ふふ」
◇
しばらくして、俺たちは図書館を出た。
外へ出ると、モンドの風が頬を撫でる。
図書館の静けさから解放されると、街の音が一気に戻ってきた。
人の話し声。
店から聞こえる音。
遠くを走る馬車。
鳥の声。
風車の回る音。
俺は空を見上げた。
「……不思議だな」
「何が?」
おじさんが聞く。
「精霊魔法のこと」
「そうか?」
「うん」
俺は歩きながら話す。
「おじさんにとっては昔から普通だったんだろ?」
「ああ」
「でも、こっちではリサが本気で研究したがるくらい未知なんだよな」
「そうだな」
「なんか変な感じがする」
おじさんは少し考えた。
「異世界だからな」
「……まあ、それはそうなんだけど」
あまりにも簡単な答えだった。
でも、その通りなのかもしれない。
異世界。
俺たちは今まで、その言葉を何度も使ってきた。
けれど、今日初めて、その意味を少し実感した気がした。
異世界だから、知らない。
異世界だから、常識が違う。
異世界だから、おじさんの当たり前が、この世界では未知になる。
「たかふみ」
「ん?」
「戻るぞ」
「どこに?」
「宿」
「ああ」
おじさんは歩き出した。
俺もその後を追う。
少し先では蛍とパイモンが待っていた。
「おかえり」
「おかえりだぞ!」
「ただいま」
「どうだった?」
蛍が聞く。
「リサさんに精霊魔法をいっぱい聞かれた」
「やっぱり」
「すごく興味を持ってた」
「そうでしょうね」
蛍は少し笑った。
「おじさんは?」
「普通」
「普通だったらしい」
「いつも通りね」
蛍が頷く。
パイモンが首を傾げた。
「結局、何がそんなに珍しいんだ?」
「精霊魔法が、元素魔法とは別の仕組みだから」
「へえ」
「この世界では、それ自体が珍しいんだと思う」
「なるほどな!」
パイモンが頷く。
「じゃあ、おじさんって結構すごいんだな!」
「今さら?」
俺が突っ込む。
「いや、だっておじさんだぞ?」
「それはそうだけど……」
おじさんは何も言わない。
ただ、モンドの街を歩いている。
異世界で十七年。
そこで当たり前だった魔法。
それが今では、別の世界の人間にとって研究対象になっている。
その事実を考えると、少し不思議だった。
俺たちは、この世界について知らない。
そして、この世界の人たちも、俺たちの世界について知らない。
だからこそ、こうやって少しずつ話していくしかない。
ゲームで知っている情報だけでは足りない。
実際に見て。
実際に聞いて。
実際に話す。
そうしなければ分からないことがある。
モンドの風が吹いた。
俺はその風を感じながら、街を歩いた。
少し前まで、この風景を画面の向こう側から見ていた。
今は違う。
自分がその中にいる。
そして、そこで出会った人たちと話している。
「……ほんと、現実になったんだな」
小さく呟く。
「何か言った?」
蛍が聞く。
「いや」
俺は笑った。
「何でもない」
前を歩くおじさんが振り返る。
「夕食はどうする?」
「急に現実的だな」
「腹が減った」
「はいはい」
パイモンが勢いよく手を上げる。
「オイラも肉がいいぞ!」
「また肉かよ」
「肉は重要だ!」
おじさんが言う。
「おじさんまで……」
蛍が小さく笑う。
俺もつられて笑った。
異世界の魔法。
元素の力。
精霊との契約。
まだ分からないことは多い。
でも、今はそれでいい。
分からないなら、少しずつ知っていけばいい。
この世界での生活も。
この世界の人たちも。
そして――精霊魔法も。
俺たちは、まだ旅の途中なのだから。