モンドの朝は、思っていたよりも静かだった。
街の中では人々が行き交い、店の準備をする者や、騎士団の仕事へ向かう者の姿がある。
少し前まで日本で暮らしていた俺にとっては、いまだに不思議な光景だった。
石造りの建物。
剣を腰に下げた騎士。
風に揺れる旗。
そして、街の中央にそびえる巨大な神像。
ゲームの画面で何度も見た場所なのに、実際に歩いてみると全然違う。
そんなことを考えながら歩いていると、前方から見覚えのある少女がこちらへ向かってきた。
銀色の髪。
整った顔立ち。
そして、騎士服の上から身につけた白いエプロン。
ノエルだった。
「おじさん、たかふみさん。おはようございます」
「おはよう、ノエル」
「おはよう」
ノエルはいつものように丁寧に頭を下げる。
「今日は何かご用事でしょうか?」
「特にない」
「ないんかい」
おじさんが即答すると、俺は思わず突っ込んだ。
「だったら、なんで街を歩いてるんだよ」
「歩いているだけだ」
「いや、まあ……そうだけどさ」
おじさんは本当にそれだけだった。
目的地があるわけでもない。
何かを探しているわけでもない。
ただ歩いている。
異世界生活を十七年も経験した人間の行動として、それが普通なのかどうかは俺には分からなかった。
「でしたら、もしよろしければ騎士団の訓練場へ行ってみませんか?」
ノエルがそう提案した。
「訓練場?」
「はい。今日は少し訓練をする予定なんです」
「おじさんも?」
「……俺は別に」
「ですよね」
ノエルは少し困ったように笑った。
「ですが、おじさんの戦い方について、少し教えていただきたいことがありまして」
その言葉を聞いた瞬間だった。
俺の頭の中に、少し前の出来事が浮かんだ。
――第12話。
あの日、俺たちはモンドの街へ入ったばかりだった。
言葉は通じる。
けれど、文字は読めない。
モラの価値も分からない。
何もかもがゲームで見ていた世界とは違う。
そんな状況の中で出会ったのが、ノエルだった。
彼女は俺たちが異世界から来たと聞いても、いきなり疑ったりはしなかった。
困っているなら助ける。
それが当然だと言わんばかりに、俺たちのことを気にかけてくれた。
その時から、ノエルは何かと俺たちを手助けしてくれていた。
そして、俺はもう一つ覚えている。
ノエルがおじさんの戦い方を見ていたことを。
おじさんは、派手に剣を振り回していたわけではない。
敵との距離を測り。
足場を確認し。
相手の動きを見て。
必要な時だけ魔法を使う。
そして最後に光の剣で仕留める。
ゲームで見るような派手な戦闘とは、少し違った。
無駄が少ない。
だからこそ、俺は妙に印象に残っていた。
ノエルも同じだったらしい。
「以前、おじさんの戦い方を拝見してから、ずっと気になっていたんです」
「そうか」
「はい」
ノエルは真剣な表情で頷いた。
「私は剣の訓練を続けています。でも、実際に魔物と戦う時には、ただ剣を振るだけでは足りないと感じることがあります」
「……まあ、それはそうだな」
おじさんは少しだけ考えた。
「何を知りたい?」
「実戦での動きです」
ノエルの答えは早かった。
「敵との距離の取り方や、攻撃するタイミング。それから、敵を見ながらどう動くのかを教えていただけませんか?」
「分かった」
「本当ですか?」
「ああ」
「ありがとうございます!」
ノエルの顔がぱっと明るくなる。
その反応を見て、俺は少し意外に思った。
おじさんは教えるのが嫌いなタイプだと思っていた。
というより、人に何かを教える姿そのものをあまり見たことがない。
「おじさん、普通に先生できるじゃん」
「そうか?」
「いや、本人が分かってないのが一番すごいわ」
ノエルは小さく笑った。
「では、お願いします!」
「まず相手を見る」
「はい!」
訓練場へ移動すると、おじさんはノエルと向かい合った。
剣を抜くことはない。
魔法も使わない。
ただ立っている。
「相手を見る、ですか?」
「ああ」
「具体的には、どこを見ればいいのでしょうか?」
「全部だ」
「全部……」
「顔だけを見るな。腕、足、肩。視線。体の向き。距離」
ノエルは真剣に聞いている。
「攻撃する前には、必ず何か動く」
「はい」
「肩が動くこともある。足が動くこともある。視線が変わることもある」
おじさんが一歩だけ前へ出る。
ノエルが反射的に身構えた。
「今、何を見た?」
「……右足です」
「違う」
「え?」
「視線が先に動いた」
ノエルが目を見開く。
おじさんは続けた。
「相手がどこを見ているか。それだけでも次の動きが分かることがある」
「なるほど……」
ノエルは何度も頷いた。
「もう一度」
「はい!」
それから訓練が始まった。
派手な技はない。
おじさんが歩く。
ノエルがそれに合わせて動く。
距離が近づけば下がる。
おじさんが足を動かせば、ノエルも構えを変える。
何度も同じことを繰り返す。
「近い」
「はい!」
「下がりすぎ」
「はい!」
「足が止まっている」
「すみません!」
「謝らなくていい。もう一度」
「はい!」
ノエルは疲れているはずなのに、弱音を吐かなかった。
失敗すればやり直す。
注意されれば修正する。
そして、また繰り返す。
その様子を見ながら、俺は思った。
やっぱりノエルって真面目だな。
ゲームで知っていた性格と、実際に会った彼女の性格はほとんど変わらない。
人の役に立ちたい。
強くなりたい。
そのためなら努力を惜しまない。
ただ、実際の世界では、その真面目さがゲーム以上にはっきり見える。
「ノエル」
「はい!」
「攻撃するな」
「……はい?」
「今は攻撃しなくていい」
「分かりました」
「相手を見る」
「はい」
「相手が動くまで待て」
ノエルは構えたまま、おじさんを見る。
おじさんも動かない。
数秒。
さらに数秒。
訓練場に風が吹いた。
ノエルの髪が揺れる。
それでも二人とも動かない。
俺は思わず欠伸をしそうになった。
――いや、これ訓練としては地味すぎないか?
そう思った直後。
おじさんが踏み込んだ。
ノエルが反応する。
一歩下がる。
おじさんの手が空を切った。
「今」
「はい!」
ノエルが踏み込む。
しかし、おじさんはすでに横へ移動していた。
「遅い」
「はい!」
「でも、さっきよりいい」
「ありがとうございます!」
ノエルの表情が少しだけ明るくなる。
それからまた繰り返した。
一度。
二度。
三度。
何度失敗しても、ノエルは諦めない。
むしろ失敗するたびに動きが少しずつ変わっていく。
足の位置。
重心。
視線。
構え。
最初よりも明らかに動きが良くなっていた。
「すごいな……」
思わず俺が呟く。
「何がだ?」
「いや、おじさんじゃなくてノエル」
「そうか」
「そこはもうちょっと褒めろよ」
「本人が努力している」
「だから褒めろって」
ノエルがこちらを見る。
「ありがとうございます、たかふみさん」
「いや、俺は何もしてないけど」
「見ていただけるだけでも励みになります」
「……そういうところなんだよな」
「?」
ノエルは首を傾げた。
真面目すぎる。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、この世界で生きていくなら、こういう人が近くにいてくれるのはかなり心強い。
訓練は昼前まで続いた。
最後にはノエルの息も少し上がっていた。
「今日はここまで」
「はい!」
ノエルは剣を収めた。
「ありがとうございました、おじさん」
「どういたしまして」
「とても勉強になりました」
「そうか」
「はい」
ノエルは少し考えてから、頭を下げた。
「もしご迷惑でなければ、また教えていただけませんか?」
「必要なら」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに笑うノエル。
俺はその様子を見ながら、なんとなく思った。
たぶん、今日からノエルにとって、おじさんはただの異世界人じゃなくなった。
剣や戦い方を教えてくれる人。
言うなら――先生みたいなものだ。
「おじさん」
「なんだ」
「先生って呼ばれたりしない?」
「されない」
「今後されそうだけどな」
「そうか?」
「そうだよ」
おじさんは本当に分かっていない顔をしていた。
ノエルもそんなおじさんを見て、少しだけ笑う。
「では、次回もよろしくお願いします。おじさん」
「ああ」
モンドの風が、訓練場を静かに吹き抜ける。
この世界に来てから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも、少しずつ知り合いが増えている。
そして、俺たちの生活も少しずつ変わり始めていた。
ゲームの中で知っていたキャラクターたちと、実際に言葉を交わす。
それだけでも十分に不思議なのに。
おじさんの存在によって、その世界は俺の知っている『原神』から少しずつ違うものへ変わっていく。
ただ――。
「昼飯、どうする?」
俺が聞くと、おじさんは少し考えてから答えた。
「肉」
「雑だな」
「お腹が空いた」
「まあ、それは分かるけど」
ノエルがすぐに反応する。
「でしたら、私もお手伝いします。お昼ご飯をご用意しましょうか?」
「本当ですか?」
「はい。皆さん、まだモンドでの生活に慣れていないと思いますので」
「助かる……」
「ありがとうございます、ノエル」
「いえ。困った時は遠慮なく言ってください」
ノエルはいつものように、丁寧に微笑んだ。
その言葉に、俺は少しだけ安心した。
異世界に来てしまった。
帰る方法も分からない。
この先、何が起きるのかも分からない。
それでも。
こうやって少しずつ、この世界で頼れる人が増えていく。
それは悪いことじゃない。
「じゃあ、行きましょう」
「ああ」
俺たちはノエルと一緒に歩き出した。
その先に、どんな出来事が待っているのか。
この時の俺には、まだ分からなかった。