風魔龍の襲撃から、しばらくの時間が経っていた。
モンドの街には、少しずつ日常が戻り始めている。
広場を歩く人々の数も増えた。
閉まっていた店も営業を再開し、通りには商人の声が響いている。
風魔龍によって建物の一部が壊され、街のあちこちにはまだ修復途中の場所も残っている。
それでも、人々は立ち止まってはいなかった。
壊れたものを直し、散らかったものを片付け、以前と変わらない生活を取り戻そうとしている。
たかふみは、そんな街の様子を眺めながら歩いていた。
「……思ったより戻るの早いな」
「そうか?」
隣を歩くおじさんが答える。
「うん。もっと時間がかかると思ってた」
「人間、生活があるからな」
「まあ、そうだけど」
たかふみは広場を見る。
子供たちが走っている。
店先では客と店員が話をしている。
少し前まで風魔龍が空を飛び回り、街そのものが大きく揺れていたとは思えないほどだった。
もちろん、完全に元通りというわけではない。
よく見れば、建物の壁には補修した跡がある。
道路脇には片付けきれていない瓦礫も残っていた。
けれど、街の人々はそれを気にしながらも、普段の生活を続けている。
「モンドって、こういうところは強いな」
たかふみが呟く。
「みんな、慣れてるのかもな」
パイモンが答えた。
「風の国だからって、風魔龍に襲われるのが日常ってわけじゃないだろ」
「そりゃそうだぞ!」
パイモンがすぐに言い返す。
「オイラだって、あんなの何度も見たくないぞ!」
蛍は二人の会話を聞きながら、街の外へ続く道を見る。
「でも、問題は街の外」
「だな」
おじさんもそちらへ視線を向けた。
今回、四人が街の外へ出る理由もそこにある。
風魔龍の襲撃は終わった。
しかし、その影響がすべて消えたわけではない。
むしろ、街の外では新しい問題が起き始めていた。
◇
街を出ると、空気が変わった。
石造りの建物が並ぶモンドの街とは違い、街道の周囲には草原や森が広がっている。
穏やかな風が吹き、草が揺れていた。
遠くには山が見える。
一見すれば、いつもと変わらないモンド周辺の風景だ。
だが――。
「……やっぱり、街の外は違うな」
たかふみは足元を見る。
街道の端には、何かと戦った跡が残っていた。
草が踏み荒らされている。
地面には複数の足跡がある。
少し先には、折れた木の枝も落ちていた。
「これ、最近の?」
たかふみが尋ねる。
「ああ」
おじさんが答えた。
「まだ新しい」
おじさんはしゃがみ込み、地面を確認する。
指で土に触れることはしない。
足跡の大きさと向き、周囲の草の倒れ方を見ている。
「複数いるな」
「ヒルチャール?」
「おそらく」
たかふみは周囲を見回した。
街の中では、風魔龍の事件が終わったという空気がある。
けれど、ここにはそんなものはない。
魔物が動いている。
人間の生活圏のすぐ近くで。
「風魔龍の襲撃以降、モンド周辺では魔物の活動が活発になっている」
おじさんが言った。
「騎士団から聞いた話だと、冒険者や商人からの報告も増えてるらしい」
「そうなんだ」
蛍が答える。
「街道を通る人にも危険が増えてるみたい」
「だから今回の調査か」
たかふみは納得する。
西風騎士団は、風魔龍の襲撃によって周辺の環境に変化が起きた可能性を考えている。
魔物の活動範囲。
集団の規模。
移動経路。
そして、人間の生活圏への影響。
それらを調べるため、複数の調査隊が周辺へ派遣されている。
たかふみたちは、その一つに同行していた。
「それにしても……」
たかふみは森を見る。
「魔物って、本当に増えてるのかな」
「報告だけなら、そうみたいだぞ」
パイモンが答える。
「最近、ヒルチャールを見かける場所も変わってきてるらしい」
「活動範囲が広がってるってことか」
「そういうことだな」
おじさんが答える。
「原因はまだ分からない」
「風魔龍のせい?」
「可能性はある」
おじさんは森へ視線を向けた。
「大きな力が周辺に影響を与えた以上、魔物の行動に変化が起きても不思議じゃない」
「なるほど」
蛍も頷く。
「騎士団も、それを調べているんだよね」
「ああ」
おじさんが答えた。
「今回は、その確認だ」
◇
一行は街道を外れ、森へ入っていった。
木々の間から差し込む光が、地面にまだらな模様を作っている。
風が吹くたびに葉が揺れ、枝同士が擦れる音がする。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえた。
静かな森だった。
だからこそ、たかふみは少しだけ緊張していた。
こういう場所には、何かいる。
ゲームなら、それほど気にすることではない。
敵がいる場所は大体決まっている。
近づけば戦闘になる。
倒せば終わる。
それだけだった。
けれど、今は違う。
森の中を歩けば、足元の草を踏む感触がある。
風が肌に当たる。
葉が揺れる音が聞こえる。
少し離れた場所で鳥が飛び立つ。
ゲーム画面では見えなかったものが、ここにはいくらでも存在している。
(……やっぱり、現実になると全然違うな)
たかふみは周囲を見回した。
見覚えのある地形。
どこかで見たことのある景色。
それでも、同じ場所だとは思えない。
ゲームの中では、ここは単なるフィールドだった。
敵が出てきて、素材を拾って、次の場所へ向かう。
それだけだった。
今は違う。
この森にも、生き物がいる。
人間が暮らしている。
そして、魔物もいる。
「たかふみ?」
蛍の声がした。
「ん?」
「さっきから静かだけど」
「ああ」
たかふみは少し考えてから答えた。
「周りを見てただけ」
「そう」
蛍はそれ以上聞かなかった。
たかふみは少し助かったような気持ちになる。
原神を知っている。
それは、この世界で確かに役立つ。
でも、何もかも分かるわけではない。
まして、今の状況はゲームとは違っている。
風魔龍の事件が終わった後。
自分たちがここにいる。
それだけで、以前知っていた流れから少しずつ外れているような気がする。
「……」
たかふみは歩きながら考える。
でも、今はまだ考えても仕方がない。
まずは目の前の調査だ。
そのときだった。
先頭を歩いていたおじさんが、突然立ち止まった。
「……」
「どうしたの?」
蛍も足を止める。
パイモンがその背中から顔を出した。
「何か見つけたのか?」
おじさんは答えなかった。
森の奥へ視線を向けている。
右。
左。
街道。
岩場。
木々の隙間。
まるで目では見えない何かを探しているようだった。
「おじさん?」
たかふみが声をかける。
「少し待て」
おじさんは目を閉じた。
そして、静かに意識を集中させる。
「……」
風が吹いた。
木々が揺れる。
しかし、それだけだった。
元素を使ったときのような分かりやすい変化は起こらない。
「何してるんだ?」
たかふみが尋ねる。
「精霊に頼んでいる」
「索敵?」
「ああ」
たかふみはおじさんを見る。
これも精霊魔法の一つだ。
元素を感知する方法とは違う。
精霊と意思を通わせ、その力を借りる。
だから、単純に風元素を探るのとは違う。
おじさん自身が歩いて確認するよりも広い範囲を調べられることがある。
しばらくして、おじさんが目を開いた。
「……いるな」
「何が?」
「魔物だ」
おじさんは森の奥を見る。
「この先に複数いる」
「ヒルチャール?」
「ああ」
たかふみは少し身構えた。
「何体くらい?」
「十体以上」
「十体以上?」
思わず声が大きくなる。
「多くないか?」
「さらに別の場所にもいる」
おじさんは続けた。
「街道の反対側に数体。森の奥にも集団がいる」
「……かなり広がってるな」
蛍が周囲を確認する。
「近い?」
「近いが、こちらへ向かっているわけじゃない」
「なら、先に調査を続けよう」
「そうだな」
おじさんが頷いた。
パイモンが少し不安そうに森を見る。
「でも、十体以上いるんだろ?」
「今すぐ戦う必要はない」
「そっか」
「ただし、近づきすぎるな」
おじさんはそう言って歩き出した。
たかふみも続く。
その後ろを蛍とパイモンが追った。
◇
森の中をさらに進むと、西風騎士団の調査員たちと合流した。
「お疲れさまです」
騎士団員の一人が声をかける。
「こちらでも、いくつか痕跡を確認しています」
「どんな痕跡?」
蛍が尋ねる。
「ヒルチャールの足跡です。以前より活動範囲が広がっているようです」
騎士団員が地面を指す。
そこには複数の足跡が残っていた。
「数は?」
たかふみが尋ねる。
「正確には分かりません。ただ、複数の集団が同じ方向へ移動している可能性があります」
「同じ方向?」
「はい」
騎士団員は地図を取り出した。
簡単な地図に、いくつかの印がつけられている。
「こちらが現在確認できている場所です」
たかふみも地図を覗き込む。
複数の地点に印がついている。
「……結構広いな」
「ええ」
騎士団員が頷く。
「以前なら、ここまで広い範囲で確認されることはありませんでした」
「やっぱり、風魔龍の襲撃と関係してるのかな?」
たかふみが尋ねる。
「まだ断定はできません」
騎士団員は首を横に振った。
「ただ、時期が重なっていることは確かです」
「風魔龍が暴れた後から、こうなった?」
「正確には、襲撃の後から報告が増えています」
たかふみは地図を見る。
魔物の活動範囲。
街道。
森林。
丘陵地帯。
それぞれの情報を組み合わせていく。
ゲームなら、こんな調査をすることはほとんどない。
クエストを受ければ目的地が表示され、そこへ行けばいい。
しかし現実では、そう簡単にはいかない。
どこに敵がいるのか。
どれくらいいるのか。
どこを通っているのか。
それを一つずつ調べなければならない。
「……」
たかふみが黙っていると、おじさんがまた足を止めた。
「もう少し先を見てくれ」
おじさんは精霊へ呼びかける。
たかふみはその様子を見る。
騎士団員たちも興味深そうに見ていた。
「その魔法は……」
騎士団員が尋ねる。
「元素感知とは違うんですか?」
「ああ」
おじさんは短く答えた。
「俺の使う精霊魔法は、元素とは別のものだ」
「別の力……」
「そうだ」
騎士団員は少し驚いた顔をする。
「風を使っているようにも見えましたが……」
「風を使うことはある」
「では、風元素では?」
「違う」
おじさんは淡々としている。
「精霊の力だ」
騎士団員はしばらく黙った。
「……興味深いですね」
「珍しい?」
パイモンが尋ねる。
「少なくとも、私はこのような魔法を知りません」
「そりゃそうだぞ!」
パイモンが胸を張る。
「おじさんは異世界から来たんだからな!」
「パイモン」
蛍が呼ぶ。
「ん?」
「言い方」
「あっ」
パイモンが口を押さえる。
たかふみは思わず苦笑した。
「まあ、そこは今さらだろ」
「そうだな」
おじさんも特に気にしていない。
騎士団員は改めておじさんを見る。
「異世界の魔法……」
「そんな大げさなものじゃない」
おじさんはそう言った。
「必要だから使っているだけだ」
「またそれかよ……」
たかふみが呟く。
「何が?」
「いや、おじさんの説明」
おじさんは首を傾げた。
「必要なことは言った」
「だから足りないんだって……」
蛍が小さく笑う。
パイモンも笑った。
騎士団員まで少し困ったような顔をする。
森の中には、わずかに空気の緩む時間が生まれた。
だが――。
おじさんは再び森の奥へ目を向ける。
「……まだいる」
「また?」
たかふみが聞く。
「ああ」
「今度は?」
「別の集団だ」
おじさんの言葉に、たかふみの表情が変わった。
やはり、魔物の活動は広がっている。
◇
調査はその後も続いた。
街道沿いを確認する。
森の中へ入る。
足跡を調べる。
魔物が使ったと思われる簡単な跡を確認する。
複数の地点を回る。
そのたびに、ヒルチャールの活動が確認された。
しかも、一つの集団だけではない。
小さな集団が複数存在している。
これまでよりも広い範囲を動いている。
「……本当に増えてるな」
たかふみは地図を見ながら言った。
「ああ」
おじさんが答える。
「少なくとも、活動範囲は広がっている」
「原因は分からない?」
「まだだ」
蛍が地図を見る。
「でも、風魔龍の襲撃の後から変化が出ている」
「偶然とは考えにくいな」
おじさんが言った。
「ただ、断定するには情報が足りない」
「慎重だな、おじさん」
「分からないことを分かったふりする必要はない」
「まあ、それはそうだけど」
たかふみは頷いた。
おじさんは強い。
精霊魔法も使える。
戦闘経験もある。
けれど、だからといって何でも知っているわけではない。
それはたかふみ自身も分かっている。
むしろ、分からないことを分からないままにしない。
確認してから動く。
そういうところは、この世界ではかなり頼りになる。
「おじさんの魔法って、こういう調査にも使えるんだな」
たかふみが言う。
「戦うためだけのものじゃないからな」
「確かに」
たかふみは頷いた。
精霊魔法。
戦闘だけを目的とした力ではない。
周囲を探る。
移動する。
物を運ぶ。
状況に応じて使い方を変えられる。
その柔軟さが、おじさんの強さの一つなのだろう。
◇
夕方が近づき、調査隊は一度休憩することになった。
森の外へ出ると、空が少し赤くなっている。
風が昼間より冷たく感じられた。
たかふみは近くの岩に腰を下ろす。
「疲れた……」
「歩いただけだぞ?」
パイモンが言う。
「それでも疲れるんだよ」
「たかふみは体力ないな!」
「お前に言われたくない」
「なんでだよ!」
パイモンが頬を膨らませる。
蛍が二人を見ている。
「でも、今日はかなり歩いた」
「蛍は平気そうだけどな」
「慣れてるから」
「そっか……」
たかふみは空を見上げた。
夕暮れの空。
街の向こうに風車が見える。
モンドはいつも通りに見えた。
けれど、今日一日歩いて分かった。
風魔龍の事件は終わっていない。
正確には、事件そのものは終わった。
でも、その影響は残っている。
街の外では魔物が増え、活動範囲も広がっている。
「風魔龍の事件は終わったと思ってたんだけどな……」
たかふみが呟く。
「事件が終わったからって、全部がすぐ元通りになるわけじゃないよ」
蛍が言った。
「そうだな」
おじさんも頷く。
「風魔龍が暴れた影響は、しばらく残るだろう」
「……」
たかふみは黙って周囲を見る。
ゲームなら。
風魔龍の事件が終われば、次の展開へ進んでいく。
大きな事件が終われば、次のイベントが始まる。
プレイヤーからすれば、それが当たり前だった。
でも、ここはゲーム画面ではない。
人が暮らしている。
店を開いている。
畑を耕している。
道を歩いている。
魔物もまた、何かの理由で移動している。
一つの大きな事件が起きれば、その影響はすぐには消えない。
(……やっぱり、現実なんだな)
たかふみは思った。
そして、おじさんを見る。
自分たちがここにいる。
それだけでも、ゲームとは違う。
ゲームの中に存在しなかった人間がいる。
ゲームの中では起こらなかった出来事も、これから起きるかもしれない。
(本当に、これからも原作通りになるのか?)
その疑問が、改めて頭に浮かんだ。
「……まあ、考えても仕方ないか」
「何が?」
パイモンが振り返った。
「いや、なんでもない」
「?」
パイモンは首を傾げた。
たかふみは苦笑する。
ゲームのことを話すつもりはない。
少なくとも、今は。
自分が知っている未来。
ゲームの中で見た出来事。
それが、この世界で同じように起きる保証なんてどこにもない。
なら――。
「今は目の前のことを考えよう」
たかふみはそう言って立ち上がった。
蛍が小さく頷く。
「うん」
おじさんも立ち上がる。
「戻るか」
「ああ」
パイモンも二人の後を追う。
「おーい! 待ってくれよ!」
夕暮れの街道を、四人が歩いていく。
遠くにモンドの街が見える。
街の中には、少しずつ日常が戻っている。
人々は笑い、店は営業を続けている。
けれど――。
街の外では、まだ魔物たちが動いている。
風魔龍の襲撃によって生まれた変化は、始まったばかりだった。
たかふみは一度だけ森を振り返った。
そこには、夕暮れに染まった木々が広がっている。
静かだった。
だが、その静けさがいつまで続くのかは分からない。
「……明日も調査かな」
「たぶんな」
おじさんが答える。
「じゃあ、今日は早く休もう」
たかふみが言う。
「そうだな」
蛍が頷く。
「オイラも腹減ったぞ!」
「結局それかよ」
「だって腹減ったんだぞ!」
パイモンが声を上げる。
たかふみは笑った。
こうして、一行はモンドへ戻っていった。
風魔龍の事件は終わった。
しかし――。
その余波は、まだモンドに残っていた。