第2話「異世界帰りの男」
モンドへ向かって歩き始めてから、しばらく経った。
先ほどまで響いていた戦闘の音は、もう聞こえない。
草原を渡る風が、四人の間を静かに吹き抜けている。
たかふみは歩きながら、何度も周囲を見回していた。
青い空。
遠くに見える山々。
風に揺れる草原。
そして、ゲームの中で何度も見たことのある景色。
やはり、ここは――。
「……テイワット、なんだよな」
小さく呟く。
隣を歩いていた蛍が、たかふみを見る。
「さっきも言っていたね」
「ああ」
たかふみは頷いた。
第1話の時点で、すでに気づいていた。
目の前にいるのは、ゲームの中で操作していた旅人そのもの。
蛍。
そして、その隣を飛んでいるのはパイモン。
ゲームで何度も見てきた世界が、現実として存在している。
それだけなら、まだ理解できる。
問題は――。
ここにいる蛍やパイモンが、ゲームの登場人物ではなく、実際に生きているということだった。
さっきまで戦っていたヒルチャールも同じだ。
ゲーム画面の中で何度倒したか分からない敵が、実際に目の前へ現れた。
殴られれば痛い。
斬られれば傷つく。
そして、おそらく殺されれば終わりだ。
ゲームのように、やり直せる保証などない。
その事実が、時間が経つほど重くなっていく。
「たかふみ」
前を歩いていたおじさんが呼んだ。
「何?」
「さっきから周囲を見すぎだ」
「いや、そりゃ見るだろ」
たかふみは思わず言い返した。
「ここ、原神の世界なんだから」
「原神?」
パイモンが首を傾げる。
たかふみは一瞬、言葉に詰まった。
「……俺たちの世界で、この世界を知るきっかけになったものだよ」
「ふーん?」
パイモンは完全には理解していないらしい。
蛍も詳しくは聞かなかった。
たかふみは、それでいいと思った。
ゲームの知識をすべて話す必要はない。
自分が知っているのは、あくまでゲームとしてのテイワットだ。
実際の世界が、その通りに進むとは限らない。
むしろ――。
自分たちがここに来た時点で、すでにゲームとは違っている。
「……おじさん」
「なんだ?」
「やっぱり、今回の異世界はグランバハマルとは違うんだよな」
おじさんは少しだけ視線を周囲へ向けた。
「違う」
即答だった。
「景色も違う。魔力の感じも違う。それに、知っている人間が一人もいない」
「そりゃそうだろ」
「そうだな」
おじさんは淡々と答えた。
たかふみは少し考える。
おじさんは、異世界へ行ったことがある。
それも一度ではない。
グランバハマルで十七年間を生き抜き、ようやく日本へ帰ってきた。
その後の日本での生活も含めれば、たかふみにとっておじさんの異世界経験は、もはや珍しい話ではなかった。
だからこそ、今回の状況が異常なのだ。
おじさんにとっても、ここは知らない異世界。
つまり――。
二人とも、完全に未知の場所へ放り出されたことになる。
「でも、おじさん」
「ん?」
「普通に落ち着いてるよな」
「俺は異世界帰りだからな」
おじさんは平然と言った。
たかふみは少しだけ苦笑する。
「それ、今の状況だと説得力あるのかないのか分からないな」
「経験はある」
「まあ、それはそうだけど」
おじさんは十七年間の異世界生活を経験している。
異世界で生きることがどういうものなのか。
食料の確保。
安全な場所の確保。
敵への警戒。
人間関係。
金の問題。
そして、帰る方法を探すこと。
たかふみも、おじさんの話を通してそれらを知っている。
だからこそ、今回もおじさんが最初に考えることは分かっていた。
「まずは街だな」
「モンド?」
「そうだ」
おじさんは前方を見た。
「人がいる場所へ行く。そこで、この世界の情報を集める」
「食料とか?」
「水、食料、金。寝る場所も必要だ」
現実的だった。
ゲームなら、最初の街へ行けば宿屋があり、店があり、武器や道具も買える。
だが、ここはゲームではない。
モラを持っていなければ、買い物もできない。
文字が読めなければ、店の看板すら分からない。
何より、この世界で自分たちがどう扱われるのかも分からない。
たかふみはスマートフォンを取り出した。
画面には電波表示がない。
当然だった。
日本ではないのだから。
「……圏外」
「まだスマホを持っていたのか」
おじさんが見る。
「持ってきてたんだよ。転移するなんて思わないだろ」
「そうか」
おじさんはそれ以上何も言わなかった。
たかふみはスマートフォンをしまう。
便利だった道具が、突然ただの機械になった。
それだけでも、自分たちが元の世界から切り離されたことを実感する。
「ねえ」
蛍が口を開いた。
「たかふみは、この世界を知っているんだよね」
「知っていると言っても、ゲームとしてだけだけど」
「それでも、私より詳しいことがある」
「たぶん」
蛍は前を向いた。
「なら、分かることは教えて」
たかふみは少し迷った。
蛍は空を探している。
自分には、その旅の大まかな流れを知る知識がある。
ゲームでは、彼女がどんな場所へ行き、誰と出会い、どんな事件に巻き込まれるのかも知っている。
しかし――。
今ここにいる蛍は、ゲームのキャラクターではない。
目の前で歩いている、一人の人間だ。
しかも、おじさんという本来存在しない人物が同行している。
たかふみ自身も、この世界には存在しないはずの人間だ。
ならば、ゲームの展開をそのまま信じるのは危険だった。
「俺が知ってることは話す」
たかふみは答えた。
「でも、ゲームと同じになるとは限らない」
蛍は静かに頷いた。
「分かった」
「……それでいいの?」
「うん」
蛍の返事は短かった。
「私たちは、私たちの方法で進めばいい」
その言葉を聞いて、たかふみは少しだけ目を見開いた。
ゲームの中では何度も聞いたような言葉だった。
けれど、実際に本人から聞くと意味が違う。
この世界で、蛍自身が旅をしている。
兄を探すために。
その事実を、たかふみは改めて実感した。
「そうだな」
たかふみも頷いた。
そのとき、少し前を歩いていたおじさんが口を挟む。
「俺も帰る方法を探す」
「うん」
蛍が答える。
「たかふみも?」
「俺は……」
たかふみは少し考えた。
自分は日本へ帰りたい。
もちろん、それは間違いない。
だが、それだけではなかった。
この世界で何が起きるのか。
なぜ自分たちが転移したのか。
そして、ゲームで知っている世界と現実の世界が、どこまで同じなのか。
確かめなければならないことが多すぎる。
「俺は二人を手伝うよ」
たかふみは言った。
「おじさんが日本へ戻る方法を探すのも、蛍が空を探すのも」
「ありがとう」
蛍が短く答える。
パイモンも嬉しそうに笑った。
「四人なら、きっと何とかなるぞ!」
「四人……か」
たかふみは、その言葉を聞いて少しだけ周囲を見る。
おじさん。
蛍。
パイモン。
そして自分。
本来なら、交わるはずのなかった四人だった。
それでも今は、一緒に同じ道を歩いている。
不思議な感覚だった。
「ところで」
おじさんが言った。
「モンドにはセガはあるのか?」
「あるわけないだろ!」
たかふみは即座に突っ込んだ。
「セガって何だ?」
蛍が尋ねる。
「気にしなくていいよ。おじさんのいつもの病気だから」
「病気ではない」
「いや、十分病気だよ」
「セガは人生だ」
「はいはい」
パイモンが笑う。
「おじさんって変なやつだな!」
「パイモン、お前も人のこと言えないだろ」
「なんでだよ!」
そんなやり取りを聞きながら、たかふみは小さく笑った。
少なくとも、おじさんはいつものおじさんだった。
異世界へ再び飛ばされても。
知らない世界に放り込まれても。
SEGAについて語るところだけは変わらない。
それが妙に頼もしかった。
だが、安心してばかりもいられない。
ゲームでは、この先にモンドがある。
そして、物語も始まる。
本来なら、知っているはずの展開が待っている。
しかし――。
今回は違う。
おじさんがいる。
自分もいる。
そして、二人ともゲームには存在しない。
だから、この先で何が起こるのかは分からない。
たかふみは前方を見た。
遠くの景色に、少しずつ人工物が見え始めている。
モンドへ続く道。
ゲームで何度も見た場所。
けれど、今度は画面の向こうではない。
自分の足で歩いている。
自分の目で見ている。
自分の命が懸かっている。
「……ゲームじゃないんだよな」
たかふみは小さく呟いた。
「何か言った?」
蛍が振り返る。
「いや」
たかふみは首を横に振った。
「なんでもない」
そして、四人は再びモンドへ向かって歩き始めた。
おじさんは日本へ戻るために。
蛍は空を探すために。
パイモンは旅人と共に旅を続けるために。
そして、たかふみは二人を助けながら、この世界の本当の姿を知るために。
このときのたかふみは、まだ知らなかった。
自分たちがこの世界へ来たことで、ゲームには存在しなかった出来事が、少しずつ始まろうとしていることを。