ヒルチャールたちが去ってから、しばらくの間。
俺たちはその場から動かず、周囲の様子を確認していた。
さっきまで戦闘が行われていたとは思えないほど、辺りは静かだった。
風が吹いている。
草が揺れている。
遠くでは鳥の鳴き声が聞こえる。
空は青い。
日本にいた頃と同じような青空なのに、俺にはまったく別のものに見えた。
「……」
俺はもう一度、周囲を見渡した。
広い草原。
遠くに見える山々。
そして、少し離れたところに立っている巨大な神像。
さっき戦ったヒルチャール。
目の前には蛍。
その隣にはパイモン。
そして、俺の横には――。
「おじさん」
「なんだ」
「ちょっと確認したい」
「分かった」
おじさんは相変わらず落ち着いている。
さっきヒルチャールに襲われたばかりなのに、特に慌てた様子もない。
むしろ、周囲の地形を観察していた。
「ここ、本当に原神だと思う」
「まだ断定するのか?」
「いや、だってさ」
俺は指を一本ずつ折りながら説明する。
「まず、モンド周辺っぽい景色」
「うん」
「巨大な七天神像」
「うん」
「ヒルチャール」
「さっきいたな」
「パイモン」
「いるな」
「蛍」
「いる」
「あと、さっきの元素の力」
俺は蛍を見る。
蛍は特に何も言わず、こちらを見返している。
「これだけ揃ってて別の世界って考えるほうが難しいだろ」
「そうかもしれないな」
「でしょ?」
「だが、ゲームの世界と現実の世界が同じとは限らない」
「……」
やっぱりそこか。
おじさんは簡単には信じない。
「でも、原神っていうゲームの内容と一致してるんだぞ?」
「それだけなら、似た世界という可能性もある」
「いや……」
俺は言葉を止めた。
確かに、おじさんの言うことにも一理ある。
俺が知っているのは、あくまでゲームとしての原神だ。
ゲームに登場する場所。
ゲームに登場するキャラクター。
ゲームの設定。
ゲームのストーリー。
それを知っているだけだ。
実際に、この世界を見たことがあるわけじゃない。
だからこそ。
目の前にある景色を「ゲームそのもの」と決めつけるのは、少し危険なのかもしれない。
「……でもさ」
「なんだ」
「蛍がいる」
「それは見れば分かる」
「いや、そうじゃなくて」
俺は蛍を見る。
ゲームの主人公。
旅人。
兄を探して、この世界を旅している少女。
俺はその設定を知っている。
でも、目の前にいる蛍はゲームのキャラクターではない。
俺たちを見ている。
俺たちの会話を聞いている。
そして、さっきはヒルチャールと戦っていた。
「本人がいるんだよ」
俺が言うと、蛍が少し首を傾げた。
「本人?」
「いや……なんでもない」
「そう」
蛍はそれ以上聞かなかった。
このあたりもゲームの印象と少し違う。
当たり前だけど。
ゲームでは主人公を操作している。
俺が動かしていた。
でも今は違う。
蛍自身が考えて、動いている。
俺が知っているのは、ゲームの中で描かれていた彼女だけ。
今ここにいる蛍の全部を知っているわけじゃない。
「……ゲームと同じじゃないのかもな」
思わず口に出した。
「そうだ」
おじさんが答える。
「ここは現実だ」
その言葉は妙に重かった。
俺は足元を見る。
草がある。
さっき転んだ時についた土が服についている。
手で触ると、本当に土の感触がする。
ゲームなら、そんなことは気にしたこともなかった。
でもここでは違う。
地面は地面だ。
転べば痛い。
敵に殴られれば怪我をする。
死んだとしても、セーブデータからやり直せるわけじゃない。
「……リセットできないんだよな」
「何?」
パイモンが聞いてきた。
「いや、こっちの話」
俺は誤魔化した。
ゲームなら、何か失敗してもやり直せる。
ロードすればいい。
でも、この世界にはそんなものはない。
俺たちがさっき戦ったヒルチャールだってそうだ。
攻撃を受ければ本当に痛い。
矢が刺されば、本当に怪我をする。
そんな当たり前のことを、俺はようやく実感し始めていた。
「たかふみ」
「ん?」
「さっきの敵について、何か知っているのか?」
蛍が尋ねてきた。
「え?」
「ヒルチャールを見た時、名前を言っていた」
「ああ……」
しまった。
また余計なことを言った。
「ゲームで知ってたんだ」
「ゲーム?」
「俺の世界にあったもの」
「そう」
蛍はそれ以上追及しなかった。
パイモンは興味津々だった。
「お前の世界にもヒルチャールがいるのか?」
「いや、いない」
「じゃあなんで知ってるんだ?」
「それは……ゲームに出てくるから」
「ゲームって何だ?」
「……説明すると長くなる」
「なんだそれ!」
パイモンが頬を膨らませる。
その反応も、なんだか懐かしい。
俺は本当に原神の世界に来てしまったらしい。
まだ完全には信じ切れない。
でも。
少なくとも、ここが俺の知っている世界とかなり近いことだけは間違いない。
◆
「ところで」
パイモンが俺たちを見回した。
「お前たち、どこから来たんだ?」
「日本」
「ニホン?」
「俺たちのいた国」
「聞いたことないな」
当然だ。
テイワットに日本があるわけじゃない。
少なくとも、俺の知っている原神にはそんな国は存在しない。
「どこにあるんだ?」
「それが分からない」
「分からない?」
「気づいたらここにいたんだ」
俺は説明する。
家にいた。
突然光に包まれた。
そして、気がついたらこの草原にいた。
蛍とパイモンは黙って聞いていた。
おじさんは特に口を挟まない。
「異世界から来たってことか?」
パイモンが聞く。
「たぶん」
「たぶんって……」
「俺たちもよく分かってないから」
「なるほどな」
パイモンは腕を組む。
「それならモンドに行ったほうがいいぞ」
「モンド?」
「近くに街があるんだ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ安心した。
やっぱりモンド。
ゲームの中で最初に訪れる国。
俺にとっては見慣れた場所だ。
ただし。
実際のモンドは知らない。
どんな場所なのか。
人々がどう暮らしているのか。
ゲームでは描かれていない細かい部分が、いくらでもあるはずだ。
「……モンドに行けば何とかなるか」
「少なくとも人はいる」
蛍が言う。
「それに、私も用事がある」
「用事?」
「兄を探している」
その言葉に、俺は反応した。
兄。
蛍が探している兄。
空。
ゲームのストーリーを思い出す。
でも。
ここで先の展開を全部話すわけにはいかない。
俺は口を閉じた。
「……そうなんだ」
「うん」
蛍はそれ以上言わなかった。
俺も聞かなかった。
今はまだ、それでいいと思った。
ゲームの知識があるからといって、全部知っているふりをする必要はない。
むしろ、やらないほうがいい。
ここが本当に現実なら。
俺の知識が外れた時、取り返しがつかなくなる。
「たかふみ」
「何?」
おじさんが呼ぶ。
「俺たちもモンドへ行こう」
「そうだな」
帰る方法を探すにしても、まずは人のいる場所へ行く必要がある。
情報が必要だ。
食料も必要。
寝る場所も必要。
そして。
この世界のルールを知らなければならない。
ゲームでは簡単だったことが、現実ではそうとは限らない。
俺たちは歩き出した。
蛍とパイモンが先を進む。
俺とおじさんがその後ろを歩く。
しばらく進んだところで、俺は隣のおじさんを見る。
「……そういえば」
「なんだ」
「おじさん」
「なんだ」
「さっきパイモンに名前聞かれた時、なんで偽名使おうとしたの?」
「身元を隠すためだ」
「いや、分かるけど」
俺はため息をついた。
「この世界でいきなり『俺は異世界から来ました』って言うのも怪しいけどさ」
「だから偽名だ」
「俺は普通にたかふみって名乗るけど」
「それでいい」
「おじさんだけ?」
「そうだ」
「なんか変じゃない?」
「問題ない」
「問題あるだろ」
おじさんは真顔だった。
どうやら本気らしい。
「じゃあ、なんて名乗るの?」
「……」
おじさんが少し考える。
俺は嫌な予感がした。
「おじさん」
「それはお前が呼んでいるだけだ」
「いや、じゃあ何?」
「必要になったら考える」
「まだ決めてないのかよ!」
「そうだ」
「先に決めとけよ!」
前を歩いていたパイモンが振り返る。
「おじさんって誰だ?」
「俺の叔父さん」
「名前は?」
「……」
俺はおじさんを見る。
おじさんは何も言わない。
「ほら」
「何がだ」
「もうパイモンが『おじさん』って呼び始めそうになってる」
「別に問題ない」
「あるだろ!」
蛍がこちらを見る。
「おじさん」
「なんだ」
「呼びやすい」
「だろ?」
「いや、納得するなよ!」
俺は頭を抱えた。
こうして、まだ偽名すら決まっていない。
なのに、なぜか周囲では「おじさん」という呼び方が定着しつつある。
まあ。
本人が気にしていないなら、俺もそこまで気にする必要はないのかもしれない。
「とにかく」
俺は言った。
「俺はたかふみ」
「分かった」
「おじさんは……」
「俺は俺だ」
「いや、それ名前じゃないから」
「問題ない」
「問題しかないって」
パイモンが笑う。
「面白い奴らだな、お前たち!」
蛍も少しだけ笑っていた。
俺はため息をつく。
こんな状況なのに。
妙にいつも通りだった。
◆
歩きながら、俺は改めてこの世界を観察していた。
草原。
道。
遠くの山。
そして巨大な神像。
ゲームではマップとして表示されるだけだった場所。
でも今は違う。
道には轍がある。
草は風に合わせて揺れる。
小さな虫が飛んでいる。
遠くに動物らしき姿も見える。
世界が動いている。
俺はスマホを取り出した。
電波はない。
インターネットも使えない。
でも写真は撮れる。
俺は一枚、景色を撮った。
「何をしている?」
おじさんが聞く。
「写真」
「記録か」
「うん」
おじさんは特に興味を示さなかった。
俺は画面を見る。
写真の中には、テイワットの景色が映っている。
現実の写真だ。
そう思うと、変な感じがした。
俺のスマホの中に。
原神の世界の写真がある。
ゲームの画面じゃない。
本物の景色だ。
「……やっぱり変だな」
「何が?」
パイモンが聞く。
「いや、何でもない」
俺はスマホをしまった。
その時。
おじさんが足を止めた。
「どうした?」
「人がいる」
前方を指差す。
遠くに何人かの人影が見えた。
商人らしい荷車。
旅人らしき人。
道を歩いている。
人間だ。
俺は少しだけ安心した。
少なくとも、完全に無人の世界ではない。
「モンドは近い」
蛍が言った。
「街に着けば、情報を集められる」
「そうだな」
俺は頷いた。
そして。
ここで初めて気づいた。
「……お金」
「何?」
「お金持ってない」
俺とおじさんは顔を見合わせる。
「……」
「……」
「どうする?」
俺が聞く。
「働けばいい」
「そういう問題じゃなくて」
この世界のお金。
モラ。
ゲームでは何度も使っている。
でも、実際にどれくらいの価値があるのかは分からない。
そもそも俺たちはモラを持っていない。
日本円しかない。
そして日本円は、この世界では使えない可能性が高い。
「まあ、街に着いてから考えよう」
今はそれしかなかった。
俺たちは再び歩き始める。
その途中。
俺は何度も後ろを振り返った。
草原。
山。
神像。
さっきまでいた場所。
もう日本は見えない。
当然だ。
ここは日本ではない。
ゲームの中かもしれない。
別の世界かもしれない。
でも。
一つだけ確かなことがある。
俺たちは今。
この世界で生きている。
「おじさん」
「なんだ」
「ゲームの世界だとしてもさ」
「うん」
「気をつけよう」
「最初からそのつもりだ」
「……そっか」
おじさんは前を見ている。
その顔には、異世界を生き抜いてきた人間らしい警戒心があった。
俺も前を見る。
蛍とパイモンが歩いている。
少し先には、モンドへ続く道がある。
ゲームでは何度も通った道。
でも今は。
初めて歩く道だ。
俺の知識がどこまで通じるのか。
まだ分からない。
ゲームと現実。
同じところもある。
違うところもある。
だからこそ、俺は思った。
知っているから大丈夫。
――とは、考えないほうがいい。
「まずはモンドだな」
「そうだ」
おじさんが答える。
「情報を集める」
「うん」
「帰る方法も探す」
「……うん」
そして。
俺たちは歩き続けた。
青空の下。
風に揺れる草原を抜けて。
モンドへ向かって。
この世界が本当に『原神』のテイワットなのか。
それを確かめるために。
そして。
日本へ帰る方法を探すために。
俺たちの異世界生活は、まだ始まったばかりだった。