草原を抜ける風が、頬を撫でていった。
さっきまでヒルチャールと戦っていた場所とは思えないほど、辺りは静かだった。
遠くには緑の丘が続いている。
ところどころに大きな岩があり、その向こうには森が見える。さらに視線を上げれば、青い空がどこまでも広がっていた。
雲がゆっくりと流れている。
日本で見る空と、特別違うわけじゃない。
それなのに。
「……本当に、別の世界なんだな」
俺は思わず呟いた。
さっきまでは、目の前にヒルチャールがいた。
ゲームの中では何度も倒した相手だ。
攻撃パターンも知っている。
出現する場所も、ある程度は分かる。
けれど、実際に目の前に立ってみれば全然違った。
武器を持って襲ってくる。
こちらを殺そうとしてくる。
攻撃を受ければ痛い。
倒れれば、ゲームみたいに復活する保証なんてない。
当たり前のことなのに、実際に経験すると重みが違う。
「たかふみ」
「ん?」
前を歩いていた蛍が振り返った。
その横にはパイモンが浮かんでいる。
少し離れたところでは、おじさんが周囲を確認しながら歩いていた。
「どうしたの?」
「いや……ちょっと考え事」
「そう」
蛍はそれだけ言うと、また前を向いた。
余計なことは聞いてこない。
そういうところは、ゲームで知っていた蛍の印象とあまり変わらない。
でも。
やっぱり本人が目の前にいると変な感じがする。
ゲーム画面の向こうにいたキャラクターじゃない。
今は同じ道を歩いている。
同じ風を受けている。
さっきの戦闘では、同じ場所で一緒に戦った。
それだけで、俺の中にあった「原神」というゲームの感覚が少しずつ崩れていく。
「なあ、蛍」
「なに?」
「モンドって、あとどれくらい?」
「もう少し」
蛍が遠くを見る。
「この道を進めば、モンドに着く」
「そっか」
「モンドってどんなところなんだ?」
俺が尋ねると、パイモンがすぐに口を挟んだ。
「モンドは自由の国だぞ!」
「自由の国?」
「そうだぞ! 風神バルバトスが治める国で――」
「パイモン」
「なんだ?」
「説明、長くなりそう?」
「……たかふみ、オイラをなんだと思ってるんだ?」
「説明役」
「その通りだぞ!」
胸を張るパイモン。
その様子を見て、俺は少しだけ笑った。
こういうところも、やっぱりゲームと変わらない。
パイモンはいつでもパイモンだ。
「モンドには大きな街があるんだ。西風騎士団っていう組織が街を守ってる」
「へえ」
「冒険者も多いし、旅人もたくさんいる。酒場もあるぞ!」
「最後の必要?」
「大事だぞ!」
パイモンが真剣な顔をする。
「旅には食事と休憩が必要だからな!」
「それはまあ……確かに」
俺が頷くと、パイモンは満足そうに笑った。
その少し後ろで、おじさんが口を開く。
「食事か」
「おじさん?」
「異世界でも食事は重要だった」
「……また異世界の話?」
「ああ」
おじさんは淡々と答える。
「食えるものがあるうちに食っておく。食料が手に入らない場所もあるからな」
「まあ、それは分かるけど」
「SEGAのゲームでも――」
「なんでそこにSEGAが入るんだよ」
俺が突っ込む。
おじさんは少し考えた。
「ゲームにも食事要素はある」
「現実の話からゲームに飛ぶなよ」
パイモンが笑う。
「おじさんって、本当にゲーム好きなんだな!」
「当然だ」
「その自信はなんなんだよ……」
俺は呆れながら歩いた。
少し前までなら、こんな会話をしている余裕なんてなかったと思う。
異世界に飛ばされた。
ヒルチャールに襲われた。
目の前ではゲームのキャラクターが動いている。
そんな状況なのだから、もっと緊張していてもおかしくない。
それでも、こうして歩いていると少しずつ落ち着いてくる。
もちろん、不安がなくなったわけじゃない。
むしろ逆だ。
落ち着いてきたからこそ、考えることが増えている。
これからどうするのか。
日本に帰れるのか。
おじさんはどうするのか。
俺はどうするのか。
そして。
蛍は、この世界で何をしているのか。
ゲームを知っている俺にとって、蛍が旅人であることは当たり前だった。
でも、本人から直接聞いたことはまだない。
俺は少し迷ったあと、蛍に声をかけた。
「蛍」
「うん?」
「一つ聞いていい?」
「いいよ」
「蛍は……なんで旅してるんだ?」
蛍の足が、ほんの少しだけ止まった。
パイモンも黙る。
おじさんもこちらを見る。
風の音だけが聞こえた。
「……兄を探してる」
「兄?」
「うん」
蛍は短く答えた。
「兄がいるの」
俺は知っていた。
ゲームをやっていたから。
旅人には双子の兄がいる。
名前は空。
蛍と空。
どちらが主人公になるかはプレイヤーが選ぶ。
俺がゲームで操作していたのは蛍だった。
だから、この世界では空が兄として存在している。
それも知っている。
でも。
本人の口から聞くと、やっぱり印象が違った。
「……空っていうのが、お兄さん?」
「そう」
「今、どこにいるんだ?」
「分からない」
蛍は前を向いたまま答えた。
「最初は一緒だった」
「最初?」
「この世界に来たとき」
蛍はゆっくりと話し始めた。
自分と兄は、もともと別の世界を旅していた。
いくつもの世界を渡り歩いていた。
そして、この世界――テイワットに来た。
だが、そこで何かが起きた。
謎の神。
突然の襲撃。
そして兄との離別。
気がついたときには、蛍は一人になっていた。
「兄とは、離れ離れになった」
「……」
「それから、ずっと探してる」
蛍の声は落ち着いていた。
泣いているわけでもない。
怒っているわけでもない。
ただ、目的を口にしている。
兄を探す。
それだけだった。
「だから、テイワットを旅してる」
「なるほど……」
俺はそれ以上、すぐには言葉が出てこなかった。
知っていた話だ。
ゲームのオープニングでも見た。
でも、ゲームではなかった。
ここでは、本当に兄妹が離れ離れになっている。
蛍にとっては、空は「設定」じゃない。
実際に一緒に旅をしていた兄だ。
会いたいと思うのも当然だ。
「兄さん、見つかるといいな」
俺がそう言うと、蛍はこちらを見た。
「ありがとう」
それだけだった。
でも、その表情が少しだけ柔らかくなった気がした。
パイモンも頷く。
「オイラもずっと蛍と一緒に兄ちゃんを探してるんだ!」
「そうなのか」
「そうだぞ!」
パイモンが胸を張る。
「だから、モンドにも行くんだ。モンドなら情報が集まるかもしれないからな」
「情報か」
「うん」
蛍が答えた。
「旅をしながら、兄の手掛かりを探してる」
「……」
俺は少しだけ黙った。
旅をしながら兄を探す。
ゲームで聞けば、普通の目的に聞こえる。
でも現実に置き換えると、かなり大変だ。
知らない土地を歩いて。
知らない人に話を聞いて。
危険な場所にも行って。
それでも手掛かりが見つからないことだってある。
それを、蛍はずっと続けている。
「おじさん」
俺が振り返る。
おじさんは少し離れた場所を歩いていた。
「どうした?」
「蛍の話、聞いてた?」
「ああ」
おじさんは答えた。
それから、蛍を見る。
しばらく何も言わなかった。
普段のおじさんなら、ここで変なことを言うかもしれない。
異世界の話に例えるか。
ゲームの話にするか。
あるいはSEGAの話に持っていくか。
俺はそんなことを考えていた。
けれど。
「帰りたいっていうのは、分かる」
おじさんはそう言った。
短い言葉だった。
「……」
俺は思わず、おじさんを見る。
蛍もおじさんを見ていた。
「俺も長い間、帰れなかった」
おじさんは前を向いたまま続ける。
「帰る方法が分からない場所にいるのは、簡単じゃない」
「おじさん……」
「だから、兄を探す気持ちは分かる」
それだけ言って、おじさんは黙った。
俺は少し意外だった。
おじさんは、異世界での出来事をよく話す。
グランバハマルで何をしたとか。
どんな魔物と戦ったとか。
どんな魔法を覚えたとか。
そして、SEGAのゲームがどれだけ素晴らしいか。
俺が聞いている限り、おじさんは異世界での生活を、かなり軽い調子で話すことも多い。
もちろん、本当に軽く考えているわけじゃない。
それは分かっている。
でも。
「帰れない」という話だけは違う。
そこだけは、おじさんが冗談にしない。
俺は何度もそれを見てきた。
日本に帰れたときのおじさんが、どれだけ安心していたか。
元の世界に戻ってからも、異世界での生活を忘れているわけじゃない。
むしろ、今もずっと抱えている。
だからこそ。
蛍の話が他人事には聞こえなかったのだと思う。
「おじさんも、日本に帰りたいんだよな」
「ああ」
「まだ帰る方法は分からない?」
「分からない」
おじさんは即答した。
「この世界に来た理由も分からない。帰る方法も分からない」
「そっか」
「ただ、探すしかない」
俺はその言葉を聞いて、蛍を見る。
蛍もおじさんを見ていた。
二人の目的は違う。
蛍は兄を探している。
おじさんは日本に帰ろうとしている。
でも。
どちらも、離れてしまった大切なものを取り戻そうとしている。
「……似てるな」
俺が呟く。
蛍が少し考える。
「そうかもしれない」
「俺は兄を探す」
「俺は日本へ帰る」
蛍とおじさんが、ほぼ同時に言った。
「目的は違うけど」
蛍が続ける。
「旅を続ける理由にはなる」
「ああ」
おじさんも頷いた。
「十分だ」
それだけだった。
俺は二人を見ながら、少しだけ笑った。
「なんか、妙な組み合わせだな」
「そう?」
蛍が首を傾げる。
「兄を探してる旅人と、日本に帰りたい異世界人だぞ」
「たかふみもいる」
「俺?」
「うん」
蛍がこちらを見る。
「たかふみは?」
「え?」
「あなたは、どうしたいの?」
「……」
急に話を振られて、俺は言葉に詰まった。
どうしたい。
そんなこと、まだ考えていなかった。
日本に帰りたい。
もちろんそうだ。
俺の家は日本にある。
生活も日本にある。
友達もいる。
それに、ここはゲームの世界だと思っていた。
だから、最初は「戻る方法を探す」ということしか考えていなかった。
でも。
今は少し違う。
蛍は兄を探す。
おじさんは日本へ帰る。
そして俺は――。
「……俺も帰るよ」
「日本に?」
「うん」
俺は頷いた。
「俺も日本に帰りたい」
「そう」
蛍はそれ以上聞かなかった。
ただ、少しだけ頷いた。
パイモンが明るい声を出す。
「じゃあ、みんな目的はあるんだな!」
「まあ、そうなるな」
「なら一緒に旅すればいいじゃないか!」
「簡単に言うなよ」
「でも、もう一緒にいるだろ?」
「それは……そうだけど」
言われてみれば、その通りだった。
俺たちは、まだ出会ってからそれほど時間が経っていない。
なのに、もう同じ道を歩いている。
蛍とパイモン。
おじさん。
そして俺。
変な四人組だ。
少なくとも、俺がゲームをやっていた頃には絶対に存在しなかった組み合わせだ。
俺は遠くに見える山を眺めた。
ゲームの中では、目的地までの道なんてほとんど意識していなかった。
マップを開いて。
目的地を確認して。
必要ならワープポイントを使う。
敵が出れば倒す。
素材を拾う。
それだけだった。
でも今は違う。
歩けば疲れる。
腹も減る。
喉も渇く。
道を間違えれば戻らなければならない。
敵が出れば戦わなければならない。
そして、何より。
俺たちには「ゲームオーバー」がない。
「……本当に、ゲームじゃないんだな」
また口から言葉が漏れた。
「何か言った?」
蛍が聞く。
「いや」
俺は首を振った。
「こっちの話」
ゲームだったら、俺は画面の向こうから蛍を操作していた。
敵が来れば、攻撃ボタンを押す。
回避する。
元素スキルを使う。
必要なら料理を食べる。
そして、失敗してもやり直せる。
でも今は。
俺自身が歩いている。
自分の足で地面を踏んでいる。
自分の目で空を見ている。
自分の耳で風の音を聞いている。
ヒルチャールに襲われたときも、画面の中の出来事ではなかった。
あれは現実だった。
「たかふみ」
「ん?」
おじさんが呼んだ。
「前を見ろ」
「え?」
おじさんが指差す。
遠くの丘の向こう。
そこには大きな石造りの建物らしきものが見えていた。
街。
いや。
まだ距離があるから、はっきりとは分からない。
「モンドか?」
俺が聞く。
「たぶん」
蛍が答えた。
パイモンが嬉しそうに声を上げる。
「モンドが見えてきたぞ!」
「本当に?」
「ほら!」
パイモンが指を伸ばす。
確かに見える。
遠くの景色の中に、巨大な風車がいくつか立っていた。
そして、その向こう。
高い城壁に囲まれた街がある。
俺は思わず立ち止まった。
見覚えがある。
ゲームで何度も見た景色だ。
モンド。
最初に旅人が訪れる国。
西風騎士団が街を守り、風神を信仰する人々が暮らしている場所。
俺にとっては、何度も見たことのある街だった。
でも。
今は初めて見る。
「……すごいな」
思わず声が出た。
「ゲームで見るより、ずっと大きい」
「ゲーム?」
蛍がこちらを見る。
「……いや」
俺は慌てて誤魔化した。
「なんでもない」
「そう?」
「うん」
危ない。
また余計なことを言うところだった。
俺は自分の口を少しだけ警戒した。
ゲームの知識を持っていること。
この世界について知っていること。
それを、どこまで話していいのかはまだ分からない。
おじさんにも言われた。
ゲームの世界と現実の世界が同じとは限らない。
俺自身も、もうそれを実感し始めている。
だから、知っていることを全部話すのはやめておこう。
今は、それでいい。
「たかふみ」
蛍が歩き出す。
「行こう」
「ああ」
俺も歩き出した。
隣には蛍。
少し前にはパイモン。
その向こうには、おじさん。
四人で、モンドを目指して進んでいく。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くで鳥が飛んでいる。
ゲームでは何度も見ていた風景。
だけど今は、その一つ一つが現実だった。
そして俺は気づいた。
もう俺は、ゲームの中の旅人を見ているだけじゃない。
俺自身が、この世界を歩いている。
蛍が兄を探す旅。
おじさんが日本へ帰る旅。
そして俺自身も、日本へ帰るために、この旅についていく。
「……まあ、なるようになるか」
俺が呟く。
「何か言ったか?」
おじさんが振り返る。
「いや、なんでもない」
「そうか」
おじさんはそれ以上聞かなかった。
その横で、パイモンが叫ぶ。
「ほら、早く来いよ! モンドはもうすぐだぞ!」
「分かったって!」
俺は走り出した。
蛍も少しだけ速度を上げる。
おじさんはいつものように淡々と歩いている。
その背中を見ながら、俺は思った。
この先、何が起こるのか。
ゲームなら、だいたい知っている。
でも。
この世界では、きっと同じにはならない。
なぜなら。
俺たちが、ここにいるからだ。
蛍の隣に、俺がいる。
そして。
おじさんもいる。
ゲームには存在しなかった異世界人が、この世界を歩いている。
それだけで、何かが変わる可能性はある。
だったら。
俺はもう、ゲームの展開を追いかけるだけではいられない。
目の前にいる人たちを見て。
自分で考えて。
自分で選ぶしかない。
遠くに見えるモンドの街が、少しずつ大きくなっていく。
俺たちは、そのまま街へ向かって歩き続けた。
まだ知らない世界へ。
そして。
それぞれの目的を果たすために。
俺たちの旅は、始まったばかりだった。