草原を歩き始めて、少し時間が経った。
先ほどまでの戦闘の緊張感は薄れていたが、俺の頭の中は逆に落ち着かなかった。
何度考えても、状況がおかしい。
俺たちは日本から、この世界へ飛ばされた。
そこで出会ったのが、蛍とパイモン。
しかも、蛍は俺がゲームで知っている「旅人」本人だった。
ゲームの中では当たり前だった存在が、今は同じ道を歩いている。
その事実が、どうしても現実として受け入れきれない。
「そういえば」
俺は前を歩く蛍に声をかけた。
「蛍は、どうして旅をしてるんだ?」
蛍が足を止める。
「私?」
「ああ」
ゲームでは知っている。
けれど、ゲームの設定として知っていることと、本人から聞くことは違う。
俺はそう思っていた。
蛍は少しだけ遠くを見る。
「兄を探しているの」
「兄……」
「空という名前の兄」
その名前を聞いた瞬間、頭の中にゲームの記憶が蘇った。
空。
蛍の兄。
そして、彼女がこの世界を旅する最大の理由。
俺は知っている。
この旅が、ただの人探しでは終わらないことも。
けれど――。
「どうして離れ離れになったんだ?」
「分からない」
蛍は静かに答えた。
「私たちは一緒に旅をしていた。でも、この世界に来たとき……何者かによって引き離された」
「何者か?」
「うん」
蛍の表情が少しだけ険しくなる。
「その人物のことも探している」
俺は黙って聞いていた。
ゲームでは何度も聞いた話だ。
でも、本人の口から聞くと重さが違う。
これは設定じゃない。
この世界で、本当に家族を失った人間の話だ。
「……そっか」
俺は、それ以上簡単な言葉を出せなかった。
そのとき。
「俺も、帰る場所がある」
おじさんが言った。
振り返る。
叔父さんは、いつものような無表情ではなかった。
少し遠くを見るような目をしている。
「俺も昔、元の世界へ帰れなくなった」
「……」
蛍が叔父さんを見る。
「十七年間だ」
短い言葉だった。
でも、その数字だけで十分だった。
十七年。
俺がまだ生まれていない頃から、叔父さんは異世界で生きていた。
帰りたいと思っても帰れない。
日本に戻る方法も分からない。
それでも、生きるために戦い続けた。
俺は今まで何度もその話を聞いてきた。
でも、今この状況になって初めて、その意味が少しだけ分かった気がした。
「帰りたい場所がある」
叔父さんが呟く。
「それだけは、分かる」
蛍はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……私も」
その一言だけだった。
でも、それで十分だった。
目的は違う。
蛍は兄を探している。
叔父さんは日本へ帰ろうとしている。
それでも。
どちらも、自分がいた場所へ帰りたいと思っている。
俺は二人を見ながら、不思議な感覚を覚えた。
ただの偶然なのだろうか。
異世界へ飛ばされた叔父さんと、別の世界から来た旅人。
二人とも、帰る場所を求めている。
「……似てるな」
思わず呟いた。
「何がだ?」
叔父さんがこちらを見る。
「いや」
俺は首を振った。
「なんでもない」
まだ、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、二人が一緒に旅をすることには、何か意味があるような気がした。
もちろん、そんなことを考えても答えは出ない。
だから俺は、別のことを考える。
ゲームの知識だ。
蛍がこれから向かう場所。
モンド。
そこから始まる物語。
俺は知っている。
これから何が起きるのか。
誰と出会うのか。
そして、どんな事件に巻き込まれるのか。
でも――。
俺はその知識を口にすることができなかった。
例えば、
「このあと風魔龍が襲ってくる」
なんて言ったらどうなる?
当然、怪しまれる。
そもそも、なぜそんなことを知っているのか説明できない。
ゲームをやっていました。
この世界を知っています。
そんな話をしても、信じてもらえるとは思えない。
それに。
未来を知っていること自体が、この世界にとって良いことなのかも分からない。
俺たちが来たことで、すでに何かが変わっている可能性がある。
なら。
ゲームの知識をそのまま未来だと思い込むのは危険だ。
「たかふみ?」
「え?」
蛍に呼ばれて、俺は顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや……ちょっと考え事」
「そう」
蛍はそれ以上聞かなかった。
その距離感が、ありがたかった。
俺は小さく息を吐く。
知識は使える。
でも、絶対じゃない。
それを忘れないようにしよう。
そう考えていると、パイモンが前から飛んできた。
「なあなあ!」
「どうした?」
「さっきからずっと話してるけど、そろそろモンドへ行こうぜ!」
「モンド?」
おじさんが反応する。
「ああ! モンドなら人もいっぱいいるし、二人がこれからどうすればいいか相談できると思うぞ!」
パイモンは得意げに胸を張る。
「街なら情報も集めやすいからな!」
確かに、その通りだった。
俺たちには情報がない。
なぜここへ来たのか。
どうすれば日本へ帰れるのか。
そもそも、ここが本当にテイワットのどこなのか。
分からないことだらけだ。
だったら、人の集まる場所へ行くのが一番いい。
「モンドか……」
俺はその名前を口の中で繰り返した。
ゲームでは最初の国。
プレイヤーが最初に訪れる場所。
俺も何度も歩き回った。
街の構造も、店も、騎士団も知っている。
でも。
ここはゲームの中じゃない。
実際に人が暮らしている。
俺たちが街へ入れば、そこには本物のモンド市民がいる。
ゲームの背景ではない。
一人一人が、この世界で生活している人間だ。
「行こう」
俺は言った。
「モンドへ」
蛍が頷く。
「うん」
おじさんも頷いた。
「まずは情報を集める」
「それと、帰る方法だな」
俺が付け加える。
「ああ」
叔父さんは空を見上げた。
青い空。
風。
遠くの山々。
そこには、日本へ帰るための手掛かりがあるのかもしれない。
あるいは。
何もないのかもしれない。
俺には分からない。
でも、歩くしかない。
蛍には蛍の目的がある。
叔父さんには叔父さんの目的がある。
そして俺には、その二人を手助けするという役割がある。
ゲームを知っている。
それだけが、俺の持っている特殊なものだった。
だからこそ、慎重にならなければならない。
知っている未来を、そのまま未来だと思わない。
この世界を、自分の目で確かめる。
それが必要だった。
「たかふみ」
「ん?」
叔父さんが振り返る。
「モンドは遠いのか?」
「ゲームだと……」
言いかけて、俺は止まった。
「……そこそこ歩く」
「そうか」
叔父さんはそれだけ言った。
そして。
「なら、歩くか」
「うん」
俺たちは再び歩き始めた。
先頭を蛍とパイモンが進む。
少し離れて叔父さん。
その後ろを俺が歩く。
草原を風が吹き抜ける。
その風景を眺めながら、俺はふと思った。
この旅は、きっとゲームとは違う。
叔父さんがいる。
俺がいる。
ゲームには存在しなかった二人の人間が、この世界にいる。
なら。
原作通りに進む保証なんて、どこにもない。
それでも。
今は前へ進むしかなかった。
モンドへ行く。
情報を集める。
日本へ帰る方法を探す。
そして、蛍の兄――空を探す。
それが、俺たち四人の最初の目的になった。
俺はまだ知らなかった。
この旅が。
ゲームで知っている「原神」の物語そのものを、大きく変えていくことになるなんて。
このときの俺は、まだ。
何も知らなかった。