モンドへ向かう道は、たかふみがゲーム画面で何度も見てきたものとは、少し違っていた。
もちろん、見覚えのある景色はある。
なだらかな草原。
遠くに見える山々。
風に揺れる木々。
そして、青い空。
ゲームの中なら、プレイヤーは目的地へ向かって移動するだけだった。
道に沿って走り、敵がいれば倒し、宝箱があれば開ける。
それだけだ。
しかし、実際に歩いてみると、同じ景色でも感じ方がまるで違う。
風が冷たい。
草を踏む感触がある。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。
土と草の匂いまで感じられる。
――ここは、本当にゲームの世界なのか。
そんな疑問が、たかふみの中で何度も浮かんでは消えていった。
「モンドって、あっちで合ってるのか?」
少し前を歩いていたおじさんが、振り返りながら聞いた。
「たぶん。パイモンが言ってた方向なら」
「そうか」
おじさんはそれだけ答えると、また歩き始めた。
その横では、蛍が周囲を警戒しながら進んでいる。
パイモンは、その少し上をふわふわと飛んでいた。
「モンドはもうすぐだぞ!」
「もうすぐって、どれくらい?」
「うーん……歩けばそのうち!」
「具体性がないな」
「細かいことは気にするなよ!」
いつものようなやり取りを聞きながら、たかふみは苦笑した。
この世界に来てから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも、妙にこの三人と一緒にいることが自然になりつつあった。
もっとも。
たかふみにとっては、自然になればなるほど困ることもあった。
――蛍。
ゲームでは、何度も見た。
操作して、戦わせて、物語を進めた。
けれど今、目の前にいる彼女はゲームのキャラクターではない。
疲れれば足を止める。
周囲に敵がいないか確認する。
誰かが遅れれば自然と歩く速度を落とす。
そして、時々パイモンと話しながら笑う。
その姿を見ていると、どうしてもゲームの知識だけでは説明できない感覚があった。
――この世界には、ちゃんと時間が流れている。
そして、そこに生きている人間がいる。
だからこそ、たかふみは自分の知識を不用意に口にしないようにしていた。
知っていることを話すだけなら簡単だ。
モンドで起こる事件。
西風騎士団。
風魔龍。
そして、これから出会う人たち。
ゲームをプレイした人間なら知っていることでも、この世界の住人からすれば未来の出来事だ。
それを口にしてしまえば、どうなる。
たかふみには分からない。
「……ん?」
そのときだった。
蛍が足を止めた。
「どうした?」
おじさんも立ち止まる。
パイモンが前方を指差した。
「あそこ!」
草原の向こう。
一人の少女が立っていた。
赤い装備。
背中に背負った弓。
頭についた特徴的な髪飾り。
そして、こちらへ向けられた視線。
たかふみは、その姿を見た瞬間、思考が止まりかけた。
――アンバー。
知っている。
もちろん知っている。
原神を始めたばかりの頃から出会うキャラクター。
モンドの偵察騎士。
弓を使い、明るく、人懐っこい少女。
ゲームの画面で何度も見てきた。
台詞も知っている。
性格も知っている。
戦い方だって知っている。
だからこそ。
目の前に本人がいるという事実が、妙に現実感を失わせていた。
少女は警戒するように弓へ手を伸ばした。
「そこで止まって!」
明るい声。
しかし、警戒心は隠していない。
「あなたたちは何者?」
たかふみは息を呑んだ。
知っている声だった。
ゲームで何度も聞いた声。
だが、実際に聞くと印象が違う。
ゲームの音声ではない。
目の前の少女が、本当に声を出している。
風に乗って、その声が届いている。
「俺たちは――」
おじさんが答えようとする。
たかふみは慌てて口を挟んだ。
「待って」
「?」
おじさんがこちらを見る。
「俺たちは……旅をしている者です」
たかふみは慎重に言葉を選んだ。
嘘ではない。
ただ、全部を話していないだけだ。
「旅人?」
少女は少しだけ弓を下げた。
「そう。でも、モンドの人じゃないよね?」
「はい」
蛍が答える。
「私は蛍。彼らは――」
「俺はたかふみ」
自分から名乗った。
「こっちは叔父です」
「叔父……?」
少女が、おじさんを見る。
「俺は嶋㟢陽介」
「陽介……」
少女は名前を確認するように呟いた。
「それで、そっちの小さい子は?」
「オイラはパイモンだ!」
「ふふっ。元気ね」
少女はようやく笑った。
その笑顔を見た瞬間、たかふみは妙な気分になった。
知っている。
ゲームの中でも、アンバーはこういう笑い方をする。
けれど。
ゲームではない。
今の笑顔には、目の前にいる人間を安心させようとする意思があった。
「私はアンバー。西風騎士団の偵察騎士よ」
その名前を聞いても、たかふみは表情を変えないよう努力した。
――やっぱり、アンバーだ。
そして。
――西風騎士団。
モンドへ向かう途中で出会う。
ゲーム通りなら、この先はモンドへ向かうことになる。
そこから物語が始まる。
たかふみは、頭の中でゲームの展開を思い出しかけて――止めた。
今は違う。
自分たちがいる。
おじさんがいる。
そして、すでにゲームには存在しない出来事が起きている。
「ところで」
アンバーが、おじさんの姿を見ながら首を傾げた。
「さっきの戦い、あなたがやったの?」
「ああ」
「魔法を使ってたよね?」
「精霊魔法だ」
「精霊魔法?」
アンバーの目が少し大きくなる。
「聞いたことないわ」
「この世界の元素とは別のものらしい」
たかふみが補足した。
「俺たちは、この世界の人間じゃないから」
「やっぱり!」
アンバーが驚いた。
「他の国から来たってこと?」
「日本という場所から来た」
「ニホン?」
アンバーが聞き返す。
「聞いたことない国ね」
「まあ、そうだろうな」
おじさんは淡々としていた。
「俺たちは別世界から来た」
「……別世界?」
アンバーの表情が固まる。
たかふみは思った。
普通なら信じてもらえない。
だが。
「本当よ」
蛍が静かに言った。
「彼らは私たちとは違う場所から来た」
「蛍がそう言うなら……」
アンバーは少し考えたあと、弓から手を離した。
「分かった。少なくとも、今ここで争うつもりはなさそうね」
「助かる」
たかふみは内心で胸を撫で下ろした。
しかし、おじさんは妙に落ち着いていた。
異世界で十七年間生きてきた男にとって、初対面の人間から警戒される程度は、それほど珍しいことではないのかもしれない。
たかふみは改めて叔父を見る。
自分なら、もっと緊張している。
ゲームで知っている世界とはいえ、現実になったことで危険の重みは増している。
けれど、おじさんは違う。
知らない世界。
知らない人間。
知らない常識。
それでも、必要以上に動揺していない。
十七年間。
あの人は、本当に何も分からない異世界で生きてきたのだ。
「モンドへ行くんでしょ?」
アンバーが尋ねた。
「そうです」
たかふみが答える。
「だったら、私が案内するよ」
「いいのか?」
「もちろん。モンドの近くには魔物も出るし、初めて来た人を放っておくわけにはいかないから」
その言葉に、たかふみは少し驚いた。
ゲームでは簡単な一言だった。
けれど現実では、それは仕事としての判断なのだろう。
偵察騎士として。
モンドに暮らす人たちを守るために。
アンバーは自分たちを案内しようとしている。
「よろしくお願いします」
蛍が頭を下げる。
「こちらこそ!」
アンバーが笑った。
「モンドを案内するなら任せて!」
「頼りになるな」
おじさんが言った。
「まあね!」
アンバーは胸を張った。
「私は西風騎士団の偵察騎士だから!」
「騎士団って、モンドの治安維持とかをやってるんだよな?」
たかふみが確認する。
「そう。街の警備や魔物の討伐、それに周辺の調査も仕事よ」
「なるほど」
おじさんは周囲を見回した。
「この世界にも騎士団があるのか」
「あるわよ」
「異世界にも似たような組織はあった」
「そうなの?」
「まあな」
おじさんは少しだけ遠くを見る。
たかふみには、その横顔の意味が分かった。
グランバハマル。
叔父が十七年間生きた異世界。
そこにも、人がいて。
国があり。
魔物がいて。
騎士や冒険者がいた。
この世界とは違う。
けれど、似ている部分もある。
だからこそ、おじさんはこの世界でも比較的冷静に状況を見られるのかもしれない。
たかふみは、自分とは違う叔父の強みを少し理解した気がした。
「じゃあ、行きましょう!」
アンバーが先頭に立つ。
四人はその後ろを歩き始めた。
道の先には、モンドがある。
まだ遠く、街の姿ははっきりとは見えない。
それでも。
たかふみには、少しだけ安心感があった。
西風騎士団という、この世界で生活するための足場。
アンバーという案内役。
そして、これから訪れるモンド。
何も分からなかった場所に、ようやく手がかりができた。
――これで少しは何とかなる。
そう思った。
だが。
同時に、別の考えも浮かんでくる。
ゲーム通りなら。
この先には、モンドの物語が待っている。
風神。
西風騎士団。
風魔龍。
そして、数々の出会い。
たかふみは知っている。
少なくとも、ゲームの中では。
けれど――。
今のモンドには、自分たちがいる。
おじさんもいる。
蛍もいる。
パイモンもいる。
そして、もうアンバーとも出会った。
ゲームには存在しなかった人間が、物語の中に入り込んでいる。
「……本当に、同じ未来になるのか?」
たかふみは小さく呟いた。
「どうした?」
隣のおじさんが聞く。
「いや……なんでもない」
たかふみは前を見る。
風が吹く。
草原が揺れる。
その向こうに、モンドへの道が続いている。
ゲームでは何度も歩いた道。
けれど今は違う。
ここから先で何が起きるのか。
もう、プレイヤーとして知っているだけでは判断できない。
――ゲームの物語を追うのか。
――それとも。
この世界で生きる人たちと、新しい物語を作るのか。
その答えを、たかふみはまだ知らなかった。