モンドへ向かう道は、思っていたよりも長かった。
アンバーが先頭を歩き、その後ろを蛍、たかふみ、おじさん、パイモンの順番で進んでいる。
街へ近づいている。
その事実だけで、たかふみの中には少しだけ安心感があった。
何も分からない場所に放り出されてから、まだそれほど時間は経っていない。
日本に帰る方法も分からない。
この世界の常識も分からない。
モラがどれくらいの価値なのかも分からない。
文字すら読めない。
そんな状態で、ようやく西風騎士団の人間と接点を持てた。
アンバーが案内してくれるというだけでも大きい。
「モンドはもうすぐだからね!」
振り返ったアンバーが笑う。
「あと少し頑張れば、街が見えてくるよ」
「本当か?」
パイモンが嬉しそうに反応した。
「じゃあ、モンドに着いたらまず飯だな!」
「お前はそればっかりだな」
「大事なことだぞ!」
たかふみは苦笑する。
そんな何気ない会話をしながら歩いていた、そのときだった。
アンバーが突然、足を止めた。
「……待って」
声の調子が変わった。
さっきまでの明るさが消えている。
アンバーは弓へ手を伸ばした。
「魔物がいる」
たかふみも前方を見る。
草原の向こう。
木々の間から、何体かの影が動いている。
見覚えのある姿だった。
「ヒルチャール……」
ゲームの中なら、何度も戦ってきた相手だ。
しかし、実際に見ると印象はまるで違う。
身体が大きい。
武器を持っている。
こちらへ向けて動いている。
そして何より。
――殺意がある。
ゲーム画面越しなら、倒されても数秒後には別の敵が復活する。
けれど、この世界では違う。
攻撃を受ければ怪我をする。
場合によっては死ぬ。
たかふみは無意識に一歩下がった。
「私が先に撃つ!」
アンバーが弓を構える。
蛍も剣を抜いた。
その瞬間。
「俺がやる」
おじさんが前へ出た。
「え?」
アンバーが驚く。
おじさんは敵を見ながら、静かに手を上げた。
たかふみには分かる。
この構え。
何かの魔法を使うつもりだ。
「叔父さん、無理するなよ」
「分かってる」
短い返事。
おじさんは敵との距離を測るように目を細めた。
それから。
何もない空間へ向かって、静かに言葉を紡ぐ。
「レイローカ ミバルド バグルヒルド――氾蛇 唆昇」
瞬間。
空気が変わった。
地面に残っていた水分が、何かに引き寄せられるように集まっていく。
草の間を流れていた水が浮き上がった。
水流が渦を巻きながら形を変えていく。
蛇。
何本もの水の蛇が生まれた。
「えっ……?」
アンバーが目を見開く。
「水……?」
だが、元素によって作られたものとは明らかに違っていた。
蛍もまた、目の前の現象を観察している。
水の蛇はヒルチャールへ向かって伸びていった。
一本。
二本。
三本。
まるで生き物のように動きながら、敵の足や腕へ絡みつく。
「グルァッ!」
ヒルチャールが暴れる。
しかし、水蛇は離れない。
身体へ巻き付き、動きを封じていく。
おじさんは、その様子を冷静に見ていた。
敵が拘束されている。
ならば、今だ。
「蛍」
「分かってる」
蛍が地面を蹴った。
一気に距離を詰める。
剣が閃いた。
一体目。
二体目。
動きを封じられたヒルチャールを、次々と切り伏せていく。
アンバーもすぐに状況を理解した。
「なるほど!」
弓を引き絞る。
「これなら狙いやすい!」
放たれた矢が、敵の足元へ突き刺さった。
残ったヒルチャールが倒れる。
静かになった。
草原を風が吹き抜ける。
さっきまでの騒がしさが嘘のようだった。
「……終わったな」
おじさんが言った。
そして、何事もなかったように歩き始める。
「いやいやいや!」
たかふみは慌てて追いかけた。
「ちょっと待って!」
「なんだ?」
「今の魔法!」
「精霊魔法だ」
「そうじゃなくて!」
たかふみは後ろを見る。
アンバーと蛍が、まだ戦闘の跡を見ていた。
「アンバーが驚いてるだろ!」
「そうなのか?」
「そうだよ!」
おじさんはアンバーを見る。
「驚いてる?」
「そりゃ驚くよ!」
アンバーが答えた。
「今の魔法、水元素を使ったんじゃないの?」
「違う」
おじさんは即答した。
「精霊魔法だ」
「でも水を出してたよね?」
「ああ」
「じゃあ水元素じゃないの?」
「違う」
アンバーが困惑する。
たかふみは、そこで説明する必要があると判断した。
「精霊魔法は、この世界の元素を使った力とは別なんです」
「別?」
「はい」
たかふみは言葉を選んだ。
「この世界では、炎、水、風、雷、氷、岩、草みたいな元素があって、それを利用した力が一般的なんですよね?」
蛍が頷く。
「そう」
「でも、叔父さんの魔法は、それとは違う」
たかふみはおじさんを見る。
「精霊との契約……というか、意思疎通によって力を借りている」
「そうだ」
おじさんが頷いた。
アンバーはしばらく黙っていた。
「じゃあ……さっきの水は?」
「精霊の力だ」
「水の精霊?」
「そういうものだ」
説明としては簡単すぎる。
だが、おじさんにとってはそれが普通なのだろう。
たかふみ自身も、精霊魔法について完全に理解しているわけではない。
グランバハマルでおじさんが身につけた魔法。
この世界の元素とは違う。
それだけは分かる。
しかし、原神というゲームを知っているたかふみにとって、そこには大きな意味があった。
――ゲームには、こんな能力は存在しない。
少なくとも、たかふみの知る『原神』には。
精霊と契約して魔法を使うキャラクターなんていなかった。
元素力とも違う。
元素反応でもない。
ゲームのシステムにも存在しない。
つまり。
おじさんがこの世界に存在しているだけで、すでにゲームとは違う。
「……」
たかふみは黙り込んだ。
「たかふみ?」
蛍がこちらを見る。
「どうしたの?」
「いや……」
たかふみは首を横に振った。
「なんでもない」
言えるわけがない。
――これはゲームの設定にはない。
――だから、この世界は俺の知っている原神とは完全に同じじゃない。
そんなことを言っても、説明できない。
そもそも。
ゲームを基準に考えること自体が、もう危険なのかもしれない。
たかふみが考え込んでいると、アンバーが口を開いた。
「でも、珍しい魔法なのは間違いないわね」
「珍しい?」
おじさんが聞き返す。
「少なくとも私は見たことない」
アンバーはおじさんをじっと見る。
「モンドに着いたら、騎士団のみんなにも話してみようかな」
たかふみは、その言葉に反応した。
「……それは」
嫌な予感がした。
「まずいか?」
おじさんが聞く。
「いや、まずいというか……」
たかふみは言葉を濁した。
西風騎士団には、魔法を研究している人物もいる。
特に。
――リサ。
ゲームの知識が頭に浮かぶ。
彼女なら、この精霊魔法を見ればどうするだろう。
興味を持つ。
間違いなく。
そして、もしかしたら。
この世界に存在しない新しい力として研究しようとするかもしれない。
それは悪いことではない。
むしろ、この力を理解するためには必要なのかもしれない。
しかし。
未知の力。
異世界人。
そして、ゲームには存在しない魔法。
それらが組み合わさったら、自分たちがどう見られるのか。
たかふみにはまだ分からなかった。
「まあ、隠す必要もないだろ」
おじさんが言う。
「俺は別世界から来たし」
「叔父さんは、もうちょっと警戒してくれよ……」
「そうか?」
「そうだよ」
アンバーが苦笑する。
「でも、悪い人じゃなさそうなのは分かるよ」
「そうか」
おじさんはそれだけ言った。
そのまま歩いていく。
たかふみは、その背中を見つめた。
異世界で十七年間生きてきた男。
魔法を使い。
剣を使い。
知らない世界でも、生き延びてきた。
そして今。
その経験が、この世界でも役に立っている。
たかふみは、少しだけ考え方を変え始めていた。
自分にはゲームの知識がある。
けれど、おじさんには異世界で生き抜いた経験がある。
どちらがこの世界で役立つのか。
まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
――自分たちは、もう『原神の世界に来た』だけの存在じゃない。
この世界には、精霊魔法が存在している。
それを使うおじさんがいる。
そして、その力を見たアンバーがいる。
これからモンドへ行けば、さらに多くの人間と出会う。
そのたびに、ゲームにはなかった出来事が増えていくかもしれない。
たかふみは歩きながら、もう一度空を見上げた。
青い空。
吹き抜ける風。
遠くには、モンドへ続く道。
ゲームなら、ここから先に決められたイベントが待っている。
けれど。
今は違う。
おじさんがいる。
精霊魔法がある。
そして自分もいる。
「……もう、始まってるんだな」
小さく呟く。
「何が?」
蛍が聞いた。
「いや」
たかふみは前を向いた。
「この世界の物語が」
その先には、まだ見えないモンドがある。
ゲームでは知っているはずの街。
しかし、今度はプレイヤーとしてではない。
一人の人間として、その街へ入る。
そして、その瞬間から。
たかふみの知っている『原神』は、さらに大きく形を変えていくことになるのだった。