モンドが近づいてくる。
遠くから見えていた城壁が、歩くにつれて少しずつ大きくなっていく。
白い石造りの城壁。
その中央にそびえる巨大な城門。
風に揺れる旗。
そして、その向こうに見える街並み。
俺は歩きながら、何度もその景色を見た。
知っている。
もちろん知っている。
ゲームで何度も見た。
最初にモンドへ向かうときも。
任務を受けるときも。
街の中を歩き回ったときも。
何度も何度も見てきた場所だ。
だけど。
「……本当にあるんだな」
思わず声が出た。
「何が?」
隣を歩いていたアンバーが振り返る。
「いや……」
俺は城門を見る。
「モンドが」
「ふふっ。変なの」
アンバーが笑った。
「モンドはちゃんとここにあるよ」
「そうなんだけどさ」
俺にとっては、その「ちゃんとある」ということ自体が問題だった。
画面の中にしかなかった街。
ゲームの中の背景として見ていた建物。
それが今、目の前にある。
しかも俺は、その道を自分の足で歩いている。
風が吹く。
服が揺れる。
土を踏む感触がある。
遠くから人の声も聞こえる。
ゲームでは再現されていなかった細かい音まで、全部現実だった。
「すごいな……」
俺が呟くと、パイモンがこちらを見る。
「何がそんなにすごいんだ?」
「いや、ちょっとな」
「?」
パイモンは首を傾げる。
説明できるわけがない。
ゲームで知っていた場所が現実に存在する。
そんなことを言われても、アンバーたちには意味が分からないだろう。
俺だって、まだ完全には整理できていない。
「たかふみ」
前を歩いていたおじさんが振り返る。
「なんだ?」
「門の前に人がいる」
「……ああ」
城門には、武器を持った騎士たちが立っていた。
西風騎士団。
ゲームで何度も見た名前。
そして、今から俺たちが会うことになる人たち。
アンバーが先に歩いていく。
「みんな、心配しなくて大丈夫だよ!」
騎士たちへ声をかける。
「私が案内してきた人たちだから!」
騎士の一人がアンバーを見る。
「アンバー! その方たちは?」
「途中で会ったんだ。ちょっと事情があってね」
アンバーがこちらを見る。
「異世界から来たんだって」
「……異世界?」
騎士たちの表情が変わった。
当然だ。
俺だって逆の立場なら警戒する。
突然、知らない二人が現れた。
しかも片方は、元素とは違う魔法を使う。
そんな人間を簡単に街へ入れるわけにはいかない。
「事情を確認する必要があります」
騎士の一人が言った。
アンバーが頷く。
「うん。だから団長に報告したほうがいいと思って」
「分かりました」
そして俺たちは、騎士団の案内を受けることになった。
その瞬間。
俺は少しだけ緊張した。
ゲームなら何度も会っている。
でも、これはゲームじゃない。
今から会うのは、本物のジンだ。
そしてガイア。
リサ。
ゲームで知っているキャラクター。
だけど、実際に会えば当然、俺たちを知らない。
俺たちにとっては知っている相手でも。
向こうからすれば、俺たちは正体不明の異邦人だ。
「たかふみ」
おじさんが小声で言う。
「余計なことは言うな」
「分かってる」
「特に、お前の知っていることについては」
「分かってるって」
俺も小声で返した。
ゲームのこと。
これから起こる出来事。
キャラクターについての知識。
そういうものは、できるだけ隠す。
もう決めている。
俺たちの知っている原神と、実際のテイワットが完全に同じとは限らない。
そもそも、おじさんがいる時点で違う。
精霊魔法まで存在している。
だからこそ、知識をそのまま答えにしてはいけない。
騎士団の建物へ向かって歩く。
モンドの街並みが視界に入ってくる。
人々が歩いている。
店が並んでいる。
騎士たちが行き交っている。
ゲームでは背景だった人たちが、普通に生活している。
俺は思わず周囲を見回してしまった。
「たかふみ」
「ん?」
「観光は後にしろ」
おじさんが言った。
「してねえよ!」
「しているように見える」
「だってモンドだぞ!」
「知っている」
「おじさんも知ってるのかよ!」
「見れば分かる」
「そういう意味じゃない!」
アンバーが振り返る。
「二人とも、仲いいね」
「よくない」
おじさんが即答する。
「いや、そこは否定するなよ……」
俺はため息をついた。
そんなやり取りをしながら歩いているうちに、騎士団本部へ到着した。
建物の中へ案内される。
そして、しばらく待つことになった。
俺は椅子に座りながら周囲を見る。
ゲームで見た場所。
でも、実際に来ると全然違う。
人の気配がある。
紙をめくる音がする。
騎士たちが忙しそうに動いている。
ここはゲームの舞台装置ではない。
本当に誰かが働いている場所なのだ。
「来たよ」
アンバーが言った。
俺は顔を上げた。
扉が開く。
最初に入ってきたのは、一人の女性だった。
金色の髪。
整った顔立ち。
騎士団の制服。
姿勢がまっすぐで、歩き方にも迷いがない。
見間違えるはずがない。
ジン。
西風騎士団の代理団長。
俺は一瞬だけ言葉を失った。
ゲームで知っている。
もちろん知っている。
でも、実物を見るとやっぱり違う。
画面越しではない。
本当にそこにいる。
「こちらが代理団長のジンさん」
アンバーが紹介する。
「ジンさん、この二人がさっき話していた人たちです」
ジンは俺たちを見る。
その視線は穏やかだった。
しかし、警戒している。
「初めまして」
ジンが口を開く。
「私はジン。西風騎士団の代理団長を務めています」
「……たかふみです」
俺は普通に名乗った。
そして隣を見る。
おじさんが立ち上がる。
「俺は――」
その瞬間。
おじさんが俺を見る。
ほんの一瞬だけ。
目が合った。
俺は嫌な予感がした。
「……ウルフガンブラッドだ」
「…………」
俺は固まった。
やっぱりそれか。
原作でも使っていた偽名。
だけど、実際に目の前で聞くと妙な感じがする。
ジンも少しだけ目を瞬かせた。
「ウルフ……ガンブラッド?」
「そうだ」
おじさんは平然としている。
俺は小声で聞いた。
「……その名前で通すの?」
「そのほうがいい」
「俺はたかふみでいいんだよな?」
「ああ」
「なんで俺だけ本名なんだよ」
「お前まで偽名を使う必要はない」
「まあ、それはそうだけど……」
俺はため息をついた。
おじさんは本当にこういうところだけ変に慎重だ。
ジンが俺たちを見ながら尋ねる。
「お二人は、異世界から来たと聞いています」
「はい」
俺が答える。
「その通りです」
「元いた場所について、話せる範囲で教えていただけますか?」
「日本という国です」
「日本……」
ジンが知らない名前を確認するように繰り返す。
「テイワットのどこかにある国ではない?」
「たぶん違います」
「なるほど」
ジンは否定も肯定もせず、静かに話を聞いている。
「こちらへ来た経緯は?」
「突然だった」
おじさんが答えた。
「気づいたら、あの場所にいた」
「転移のようなものですか?」
「そうだと思う」
「原因に心当たりは?」
「ない」
「帰還する方法は?」
「まだ分からない」
短い。
とにかく短い。
俺は横で聞きながら思う。
もう少し説明してもいいんじゃないか。
でも、余計なことを言わないという意味では、確かにおじさんのやり方は正しい。
ジンもそれを理解したのか、次の質問へ移った。
「では、次に魔法について伺います」
やっぱり来た。
ジンの視線がおじさんへ向く。
「アンバーから、あなたが特殊な魔法を使用したと聞いています」
「ああ」
「元素力ではない、とも」
「そうだ」
「それは、どのような力なのでしょうか?」
「精霊魔法だ」
おじさんは答える。
「精霊と意思を通わせて、力を借りる」
「精霊……」
ジンが考える。
「テイワットの元素とは異なるものなのですね?」
「違う」
「なるほど」
ジンは落ち着いている。
驚いてはいる。
だが、声を荒らげることもない。
「その力は、あなた以外にも使えるのですか?」
「使える者はいる」
「誰でも?」
「誰でもではない」
「条件がある?」
「精霊との意思疎通が必要だ」
ジンが少し黙る。
「……興味深いですね」
その言葉とともに、別の声が聞こえた。
「ええ、本当に興味深いわ」
扉の近くに、いつの間にか女性が立っていた。
紫色の髪。
眼鏡。
落ち着いた雰囲気。
俺は知っている。
リサ。
西風騎士団の図書館司書。
彼女はおじさんを見ながら、ゆっくり歩いてくる。
「初めまして。私はリサよ」
「……どうも」
「ウルフガンブラッドさん、だったかしら?」
「ああ」
「精霊魔法について、もう少し詳しく聞いてもいい?」
「必要なら」
「まあ」
リサが少し笑う。
「ずいぶん淡々としているのね」
「そうか?」
「ええ」
リサはおじさんを観察する。
「元素とは違う力を使う人間が目の前にいるのに、本人が一番普通そうな顔をしているわ」
「普通だからな」
「ふふっ」
リサが笑う。
「そういうところも興味深いわね」
俺は思った。
リサはかなり食いついている。
当然だ。
未知の魔法。
しかも、元素とは別系統。
魔術師として気にならないわけがない。
「具体的には、どんなことができるの?」
リサが尋ねる。
「風を動かす」
「他には?」
「剣を作る」
「他には?」
「記憶を見ることもできる」
「まあ」
リサの目が少し細くなる。
「ずいぶん幅が広いのね」
「精霊による」
「なるほど……」
リサは完全に研究者の目になっている。
俺は嫌な予感がした。
たぶん、これから質問攻めになる。
「ねえ、たかふみ君」
「はい?」
「あなたは彼の魔法についてどのくらい知っているの?」
「俺?」
「ええ」
「まあ……ある程度」
「じゃあ、あなたから説明してもらえる?」
「……」
俺は一瞬黙った。
どう答える?
俺が説明しすぎると、逆に怪しまれる。
「おじさんから聞いた範囲なら」
「おじさん?」
リサが首を傾げた。
俺はしまったと思った。
「……あ」
アンバーが反応する。
「おじさん?」
ジンもこちらを見る。
「今、おじさんと?」
俺は横を見る。
おじさんは何も気にしていない。
「俺は普段からそう呼んでいる」
「なるほど」
リサが少し笑った。
「では、ウルフガンブラッドさんのことを、おじさんと呼んでいるのね?」
「そうです」
「変わった呼び方ね」
「俺にとっては普通なんです」
「そう」
リサはそれ以上追及しなかった。
しかし。
「おじさん」
アンバーが呼んだ。
おじさんが振り向く。
「なんだ」
「精霊魔法って、やっぱりすごいね」
「ああ」
「もっと見てみたいな」
「必要なら見せる」
「本当に?」
「問題ない」
「おじさん、軽すぎるだろ……」
俺が呟く。
ジンも少し困ったような表情をしている。
そして、もう一人。
「へえ……」
いつの間にか部屋の入口に、青い髪の男が立っていた。
目元には余裕のある笑み。
片目を隠す眼帯。
俺はその姿を見た瞬間、誰なのか分かった。
ガイア。
西風騎士団の騎兵隊長。
「面白そうな話をしているじゃないか」
ガイアが部屋へ入ってくる。
「異世界人の魔法か」
そして俺たちを見る。
「俺はガイア。西風騎士団の騎兵隊長だ」
「たかふみです」
「よろしく、たかふみ」
ガイアは笑う。
それから、おじさんを見る。
「ウルフガンブラッド、だったか?」
「ああ」
「随分と勇ましい名前だな」
「そうか?」
「俺は嫌いじゃないぜ」
笑顔。
でも、目が笑っていない。
……探ってる。
たぶん。
「異世界から来たという話だが」
「そうだ」
「元の世界では、何をしていた?」
「動画配信者だ」
「へえ」
ガイアが少しだけ目を細める。
「魔法を使って?」
「そういうこともある」
「面白い仕事だな」
「そうか?」
「俺にはよく分からないがね」
軽い。
とにかく軽い。
でも、質問は一つ一つ意味がある。
俺は余計なことを言わないようにする。
「ところで」
ガイアが続ける。
「精霊魔法とやらは、戦闘以外でも使えるのか?」
「使える」
「例えば?」
「偵察、移動、拘束、変装」
「ほう」
ガイアが笑う。
「便利だな」
「そうだな」
「だからこそ、警戒されるわけだ」
その言葉だけ、少し空気が変わった。
俺も黙る。
ガイアは笑ったままだ。
「悪く思わないでくれ。騎士団としては、未知の力を持つ人物を放っておくわけにはいかないんでね」
「分かっている」
おじさんが答える。
「敵意はない」
「それを聞けて安心したよ」
ジンが静かに頷く。
「私たちも、あなた方を疑っているわけではありません」
少し間を置く。
「しかし、騎士団として確認する必要があります」
「分かりました」
俺が答える。
おじさんも頷いた。
これで少なくとも、すぐに拘束されるような状況ではない。
俺は少しだけ息を吐いた。
ただ。
問題はこれからだ。
この世界で俺たちはどう扱われるのか。
異世界人。
それだけでも十分珍しい。
そこに精霊魔法まで加わっている。
おじさんは強い。
そして、俺たちはこの世界について普通の人間より多く知っている。
だからこそ、慎重に動かなければならない。
「たかふみ」
おじさんが小声で呼ぶ。
「何?」
「疲れたか?」
「いや」
「そうか」
「おじさんのほうが疲れてない?」
「問題ない」
「そういうところだよ……」
俺は小さく笑った。
そのやり取りを見ていたアンバーが笑う。
「やっぱり仲いいんだね」
「だから、よくないって」
俺が答える。
だが。
「おじさん」
アンバーが呼ぶ。
「なんだ?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ」
「その名前って、本当の名前?」
俺は思わず吹き出しそうになった。
来た。
ついに来た。
おじさんは真顔で答える。
「そうだ」
「本当に?」
「ああ」
「……?」
アンバーが首を傾げる。
俺は耐えられなくなった。
「いや、それ偽名だから」
「たかふみ!」
おじさんが初めて少し強めに俺を見る。
「何で言うんだよ!」
「だって明らかに変だろ!」
「問題ない」
「問題あるよ!」
ガイアが笑った。
「ははっ」
リサも口元を隠している。
ジンだけは困ったような顔をしていた。
「……偽名なのですか?」
ジンが聞く。
「そうだ」
おじさんはあっさり認めた。
「身元を隠す必要があるから使っている」
「なるほど」
ジンは納得したように頷いた。
「それなら理解できます」
ガイアが面白そうに聞く。
「では、本当の名前は?」
「言わない」
「おや」
ガイアが笑う。
「徹底してるな」
「必要なことではない」
「確かにそうだ」
ガイアはそれ以上聞かなかった。
俺も少し安心する。
少なくとも、今のところは。
「たかふみ君は?」
リサが俺を見る。
「あなたも偽名なの?」
「俺は本名」
「そう」
「たかふみでいいです」
「分かったわ、たかふみ君」
こうして。
俺は本名。
おじさんは偽名。
二人の扱いには、ほんの少しだけ違いができた。
とはいえ。
俺自身は普段から、おじさんを「おじさん」と呼んでいる。
それを今さら変えるつもりもない。
「おじさん」
「なんだ」
「行くぞ」
「ああ」
「……」
アンバーが俺たちを見る。
そして、ぽつりと言った。
「おじさん、か」
俺は嫌な予感がした。
「アンバー?」
「いや、呼びやすいなって」
「やめといたほうがいいぞ」
「なんで?」
「本人は偽名を使ってるから」
「でも、たかふみはおじさんって呼んでるんでしょ?」
「まあ」
「じゃあ、私もおじさんって呼ぶね」
「……」
俺はおじさんを見る。
おじさんは特に気にしていない。
「好きにしろ」
「ほら」
アンバーが笑った。
「おじさん、って呼ぶね」
ガイアが面白そうに笑う。
「おじさん、か。確かにそっちのほうが覚えやすいな」
「ガイアまで……」
リサも笑う。
「まあ、本人が気にしていないならいいんじゃない?」
ジンまで少し困ったように頷く。
「……」
俺は黙った。
なんだこれ。
偽名を使って身元を隠そうとしているのに。
数分で別の呼び方が広まり始めている。
「おじさん」
パイモンが飛んでくる。
「オイラもおじさんって呼んでいいか?」
「構わない」
「じゃあ、おじさん!」
「なんだ」
「お腹すいた!」
「そうか」
「いや、そこは何か食べ物を出してくれって意味だぞ!」
俺がツッコむ。
部屋の中に笑い声が広がった。
おじさんはいつも通り、あまり気にしていない。
俺はそんな叔父を見ながら思った。
偽名を使う意味、あるのか?
……いや。
たぶん本人にとっては必要なんだろう。
ただ。
少なくとも、この先もずっと「ウルフガンブラッド」と呼ばれ続けることはなさそうだった。
俺がいつも「おじさん」と呼んでいるせいで。
そして、その呼び方は。
思っていた以上に簡単に、テイワットへ広がっていくことになる。
俺はまだ、そのことを知らなかった。