モンドの城壁が、近づくにつれて大きくなっていく。
遠くから見たときには、ただの巨大な建物にしか見えなかった。
けれど、近づいてみると、その印象はまるで違った。
高い石造りの城壁。
風に揺れる旗。
城門を行き交う人々。
荷物を積んだ荷車。
商人らしい人たちの声。
そして、その周囲を警戒するように立つ西風騎士団の兵士たち。
ゲームの中では、何度も見た光景だった。
モンド城。
俺が何度も画面越しに歩いた場所。
何度もクエストを受けて、何度も同じ道を通った場所。
それが今は――。
目の前にある。
「……本当にモンドだ」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
「ん?」
隣を歩いていたアンバーが振り返る。
「どうしたの?」
「いや……その」
危ない。
また余計なことを言うところだった。
俺は慌てて言葉を濁した。
「思っていたより、大きいなって」
「そうでしょ?」
アンバーは嬉しそうに笑った。
「モンドは自由の都だからね。初めて来た人は、みんな驚くんだ」
「へえ……」
パイモンが胸を張る。
「そうだぞ! モンドはいいところなんだからな!」
「パイモンが言うと妙に説得力あるな」
「なんでだ?」
「食べ物の話ばっかりしてるから」
「食べ物は大事だぞ!」
そんなやり取りを聞きながら、俺はもう一度モンドを見上げた。
ゲームの中では、背景として見ていた場所。
しかし現実では、そこに人がいる。
風が吹き、旗が揺れ、馬車が動き、商人が声を上げている。
画面の向こうでは決して感じられなかった匂いまである。
風の匂い。
土の匂い。
人の生活の匂い。
ここはゲームではない。
その事実を、俺は何度目か分からないほど思い知らされていた。
「……止まってください」
城門の前まで来たところで、騎士の一人が声をかけてきた。
アンバーが振り返る。
「どうしたの?」
「アンバー。後ろの方々は?」
「この人たちは――」
アンバーが説明しようとしたところで、俺はおじさんを見た。
おじさんは黙っている。
相変わらず、周囲を観察していた。
人の動き。
城壁。
騎士の配置。
逃げ道。
たぶん、俺が気にしていないところまで見ている。
異世界で十七年生きてきた人間。
ゲームの知識しかない俺とは、見ているものが違う。
「俺たちは日本から来た」
おじさんが突然言った。
「ちょっと待って!」
俺は思わず止めた。
アンバーも目を丸くする。
「日本?」
「うん」
「……それって、どこの国?」
「国というか、世界だな」
おじさんは淡々と答えた。
俺は頭を抱えたくなった。
この人、本当にこういうところを隠さない。
「おじさん、もう少し説明を――」
「嘘をつくよりいいだろ」
「いや、そうだけど!」
正論なのが余計に困る。
アンバーは困ったように俺たちを見たあと、少し考えた。
「……とりあえず、詳しい話は騎士団で聞いたほうがよさそうだね」
「騎士団?」
「うん。モンドの西風騎士団」
俺はその名前を聞いて、胸の奥が少しだけ緊張した。
知っている。
もちろん知っている。
西風騎士団。
モンドの治安を守る組織。
ゲームでは当たり前のように関わっていた場所だ。
けれど。
ここでは違う。
そこにいるのはNPCじゃない。
本物の人間だ。
俺たちを見て判断する。
俺たちを警戒する。
場合によっては、敵だと判断する可能性だってある。
「大丈夫だよ」
アンバーが俺の表情を見て言った。
「私がちゃんと説明するから」
「……ありがとう」
その言葉は自然に出た。
アンバーは少しだけ笑う。
「ううん。困っている人を助けるのは、偵察騎士の仕事だからね」
そう言って、アンバーは城門の中へ歩き出した。
俺たちもその後に続く。
モンドへ入る。
ただそれだけのことなのに、不思議と緊張した。
ゲームなら数秒で終わる行動だった。
でも今は違う。
一歩進むたびに、この世界で生きているという実感が増していく。
そして俺には、もう一つ気になることがあった。
ジン。
ガイア。
リサ。
原神を知っている俺にとっては、誰もが知っている人物だ。
でも。
この世界では、まだ一度も会ったことがない。
そして俺たちの存在によって、原作とは違う反応をするかもしれない。
そのことを考えると、どうしても落ち着かなかった。
◆
西風騎士団本部。
建物の中へ入った瞬間、空気が変わった。
外の街とは違う。
人の出入りはあるものの、そこには明確な緊張感がある。
騎士たちが行き交い、書類を運び、何かを報告している。
その一人一人が、俺たちをちらちらと見ていた。
当然だ。
見慣れない服装の男二人。
しかも、おじさんは異世界から来たと言っている。
さらに、ヒルチャールとの戦闘で正体不明の魔法を使った。
警戒されないほうがおかしい。
「まずは団長室に行こう」
アンバーが言った。
「ジンさんなら、きっと話を聞いてくれるよ」
「団長室……」
俺の心臓が少しだけ速くなる。
ジン。
実際に会うのか。
ゲームの中では、何度も見た。
声も知っている。
性格も知っている。
でも、それはあくまでゲームとして知っているだけだ。
目の前にいる本人が何を考え、どう判断するのか。
それは俺には分からない。
「たかふみ」
おじさんが小声で呼んだ。
「何?」
「緊張してる?」
「してるよ」
「そうか」
「おじさんは?」
「別に」
「なんでだよ……」
「異世界では、もっと怖い場所を歩いてきたから」
その言葉には冗談がなかった。
俺は少し黙った。
十七年間。
おじさんは、本当に異世界で生きてきた。
俺がゲーム画面で知っている世界とは比べものにならないほど、危険な場所を。
だからなのかもしれない。
目の前にいる騎士たちを見ても、おじさんは必要以上に怯えない。
警戒はしている。
けれど、恐怖に飲まれてはいない。
「……まあ、おじさんなら大丈夫か」
「何が?」
「なんでもない」
◆
団長室の前で、アンバーが立ち止まった。
「ここだよ」
扉を軽くノックする。
「どうぞ」
中から、落ち着いた女性の声が返ってきた。
扉が開く。
そこにいたのは――。
一人の女性だった。
金色の髪。
整った顔立ち。
騎士としての制服。
そして、静かながらも強い意志を感じさせる眼差し。
――ジン。
ゲームで知っている姿と、確かに同じだった。
けれど。
実際に目の前にすると、まったく違って見える。
画面越しでは感じられなかった圧がある。
ただ立っているだけなのに、この人がモンドを背負っているのだと分かった。
「アンバー。報告は?」
「はい」
アンバーは一歩前へ出た。
「城外で、この方たちと出会いました」
ジンの視線が俺たちへ向く。
まず俺。
次におじさん。
そして、蛍とパイモン。
その視線は穏やかだった。
しかし、決して警戒を解いてはいない。
「初めまして。私はジン。西風騎士団の代理団長を務めています」
「高丘敬文です」
俺は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
続いておじさんも頭を下げる。
「嶋㟢陽介です」
ジンは頷いた。
「アンバーから聞きました。あなた方は、この世界とは異なる場所から来たと」
「そうです」
おじさんは即答した。
「俺たちは日本という場所から来ました」
ジンの表情がわずかに変わる。
「日本……ですか」
「はい」
「テイワットには存在しない国ですね」
「たぶん」
おじさんは少し考えてから続けた。
「俺たちは突然ここへ来ました。帰る方法も分かりません」
俺は横で黙って聞いていた。
余計なことは言わない。
それが今の俺にできる最善だった。
ジンはしばらく考えてから、質問を続ける。
「あなた方の目的は?」
「日本へ帰ることです」
おじさんは迷わなかった。
「それと――」
一瞬だけ、蛍を見る。
「この子も兄を探しているらしい」
蛍が小さく頷いた。
「私は空を探しています」
ジンは蛍を見る。
「空……お兄さんですか」
「はい」
短い返事だった。
でも、その声には強い意志があった。
ジンはそれ以上、深く追及しなかった。
代わりに、おじさんへ視線を戻す。
「アンバーから、あなたが特殊な魔法を使ったと聞いています」
「精霊魔法です」
「精霊魔法……」
その言葉に反応したのは、ジンだけではなかった。
部屋の外から、別の声が聞こえた。
「へえ。随分と興味深い話をしているじゃないか」
軽い口調。
しかし、その声を聞いた瞬間、俺は誰なのか分かった。
――ガイア。
扉の近くに、一人の男が立っていた。
青い髪。
隻眼。
そして、どこか人を食ったような笑み。
「ガイアだ。騎兵隊長を務めている。」
俺は一瞬、言葉を失いかけた。
やっぱり本物だ。
ゲームのキャラクター。
でも、目の前にいるのはゲームのキャラクターではない。
俺たちを観察している、一人の人間だ。
「よろしく」
ガイアが笑う。
「異世界から来たという話、少し詳しく聞かせてもらえるかな?」
「……」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
どこまで話せばいい?
原神を知っている。
この世界がゲームだったことを知っている。
モンドの未来も知っている。
そんなことを言えるわけがない。
その横で、おじさんはいつものように淡々としていた。
「俺の魔法は、この世界の元素力とは違います」
「ほう?」
ガイアの目が細くなる。
「つまり?」
「精霊と契約して、力を借りる魔法です」
「元素ではない?」
今度は別の声。
部屋の奥から女性が姿を現した。
紫色の髪。
眼鏡。
落ち着いた雰囲気。
「興味深いわね」
――リサ。
俺はまた、心の中で名前を呼んだ。
彼女はおじさんを見て、楽しそうに微笑んでいる。
「元素力とは異なる魔力体系……。もう少し詳しく聞かせてもらえるかしら?」
おじさんは少しだけ困った顔をした。
「説明するのは苦手なんですが」
「ふふっ。そうなの?」
「はい」
「なら、実際に見せてもらうという方法もあるわね」
「それは……」
俺は嫌な予感がした。
この流れ。
もしかして、精霊魔法の研究対象にされるんじゃないか?
そんなことを考えていると、ジンが静かに口を開いた。
「リサ」
「分かっているわよ」
リサは肩をすくめた。
「まずは事情の確認、でしょう?」
ジンは頷いた。
そして、もう一度俺たちを見る。
「あなた方が敵対する意思を持っていないことは理解しました」
少し間を置いて。
「ですが、未知の力を持つ異世界人を完全に信用することもできません」
当然の判断だった。
俺はむしろ、その言葉に安心した。
簡単に信用されるほうが怖い。
「そのため、しばらくは騎士団の監督下で行動してもらいます」
「分かりました」
おじさんは素直に頷いた。
俺も続いて頭を下げる。
「お願いします」
ジンは柔らかく微笑んだ。
「ようこそ、モンドへ」
その言葉を聞いた瞬間。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
ゲームでは簡単に聞いていた言葉。
でも現実では、重みが違う。
ここから先、俺たちはどうなるのか。
ゲームの知識は、どこまで役に立つのか。
そして――。
おじさんの存在によって、原作はどこまで変わるのか。
俺には、まだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
俺たちは今。
ゲームの世界に入ったのではない。
人間が生きている、本物のテイワットに足を踏み入れたのだ。
そして、その変化はもう始まっている。
「たかふみ」
おじさんが小さく呼ぶ。
「何?」
「モンドって、セガのゲームに出てきそうな街だな」
「今その話する!?」
俺の声が団長室に響いた。
ジンが目を丸くする。
ガイアが笑う。
リサは楽しそうに微笑み。
アンバーは困ったように首を傾げた。
そして、蛍は――。
少しだけ、笑っていた。