第8話「吟遊詩人」
モンドの城門を抜け、一行は街の中へ戻ってきた。
街道の外でヒルチャールとの戦闘を終えたばかりだというのに、モンドの街は一見すると何事もなかったかのように穏やかだった。
行き交う人々。
店先に並べられた商品。
風に揺れる旗。
街のあちこちから聞こえてくる話し声。
そして、モンドの街を象徴するように、穏やかな風が建物の間を吹き抜けていく。
たかふみは、その光景を眺めながら歩いていた。
ゲームで何度も見た場所だ。
石造りの建物も。
街を歩く人々も。
風車の動きも。
どれも記憶にあるモンドそのものだった。
けれど、実際に歩いてみると、どうしてもゲームとは違って感じる。
ゲーム画面越しに見ていた世界ではない。
人々が生活している。
風が吹けば髪や服が揺れる。
店からは料理の匂いがする。
遠くでは誰かが話している。
その一つ一つが、現実として存在している。
たかふみは改めて、そのことを実感していた。
「まずは西風騎士団へ戻りましょう」
ジンが前方を見ながら言った。
「先ほどの戦闘について、報告する必要があります」
「了解です!」
アンバーが元気よく返事をする。
その隣ではガイアがいつものように余裕のある表情を浮かべていた。
「それにしても、今日は妙にヒルチャールが多いな」
「そうですね」
ジンが頷く。
「朝から街の周辺で目撃報告が増えています」
その言葉を聞いて、たかふみは少しだけ考え込んだ。
ゲームでも、モンドではヒルチャールと戦う機会が多い。
しかし、現実のテイワットでは、魔物との遭遇はゲームのように「敵が配置されている」という単純なものではない。
相手にも生活がある。
縄張りがある。
行動する理由がある。
先ほどの戦闘でも、それを感じた。
ゲームでは敵として表示されるヒルチャールも、この世界では生きている存在なのだ。
「……」
そんなことを考えていると。
ふと、どこからか音楽が聞こえてきた。
軽やかな竪琴の音。
風に乗って、街の中へ静かに広がっている。
「ん?」
パイモンが足を止めた。
「音楽が聞こえるぞ」
「広場の方じゃない?」
アンバーが音のする方向を見る。
「行ってみようか」
蛍が頷いた。
一行は音のする方へ歩いていく。
そして。
広場の一角に、一人の吟遊詩人がいるのが見えた。
緑色の服。
羽根飾りのついた帽子。
手には竪琴。
まだ若い少年のような姿をしている。
その姿を見た瞬間。
たかふみは、思わず息を呑んだ。
――知っている。
目の前にいる人物を、たかふみは知っていた。
ゲームの中で何度も見た。
モンドを代表するキャラクターの一人。
吟遊詩人。
ウェンティ。
そして、その正体は――。
風神バルバトス。
たかふみの中に、ゲームの知識が一気に蘇る。
しかし。
それを口にすることはできなかった。
ここはゲームではない。
自分が原神を知っていることを、今の段階で周囲に知られる必要はない。
むしろ、知られない方がいい。
「……」
たかふみは黙って吟遊詩人を見つめる。
すると、その吟遊詩人がこちらに気づいた。
「こんにちは!」
明るい声が響く。
演奏を止めた少年が、笑顔でこちらへ近づいてきた。
「モンドへようこそ!」
そして、軽く帽子を持ち上げる。
「ボクはウェンティ。しがない吟遊詩人さ」
やはり間違いない。
ゲームで知っているウェンティ本人だった。
「こんにちは」
蛍が自然に挨拶する。
「君も旅人なのかな?」
「そう」
「そっか。じゃあ、モンドは初めて?」
「少し前に来た」
「なるほどね」
ウェンティは楽しそうに笑った。
その様子には、こちらを警戒しているような雰囲気はない。
むしろ、とても自然だった。
パイモンがウェンティの横から顔を出す。
「なあ、ウェンティ!」
「なんだい?」
「さっきの演奏、結構よかったぞ!」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」
「他にも歌えるのか?」
「もちろん!」
ウェンティは得意そうに胸を張った。
「モンドの英雄譚から恋物語まで、歌にできるものなら何でも歌うよ」
「へえ!」
パイモンの目が輝く。
「じゃあ、何か歌ってくれよ!」
「もちろんさ」
ウェンティは楽しそうに竪琴を構えた。
その様子を、たかふみは黙って見ていた。
やはり、おかしい。
ゲームの知識を持っているからこそ分かる。
目の前にいるのは、ただの吟遊詩人ではない。
だが。
それを説明することはできない。
そんなたかふみの横で。
「吟遊詩人か」
おじさんが呟いた。
「……それだけ?」
たかふみが小声で尋ねる。
「それだけだ」
「いや、もうちょっと何かないの?」
「何かって?」
「……まあいいや」
おじさんは本当に興味がなさそうだった。
たかふみは少し安心した。
ゲームを知らないおじさんからすれば、ウェンティはただの吟遊詩人にしか見えないのだろう。
少なくとも、たかふみはそう思っていた。
しかし。
しばらくして。
たかふみは、おじさんの視線がウェンティから離れていないことに気づいた。
「……おじさん?」
「何だ?」
「さっきから、ウェンティ見てない?」
「見ている」
「何か気になる?」
「少しな」
たかふみは眉を寄せた。
「何が?」
「分からない」
「分からないのに気になるの?」
「ああ」
おじさんは淡々と答えた。
「ただ、普通の吟遊詩人には見えない」
「……!」
たかふみは驚いた。
自分だけが知っていると思っていた。
ウェンティの正体。
それを、おじさんはゲーム知識とはまったく違う方法で感じ取っている。
「どうして?」
「風だ」
「風?」
「あいつは、風を意識している」
おじさんはウェンティを見ながら続けた。
「演奏しているだけなら、あそこまで風の流れを気にする必要はない」
たかふみも改めてウェンティを見る。
言われてみれば、確かにそうだった。
ウェンティは時々、空を見ている。
風が吹く方向。
旗の揺れ方。
木々の動き。
周囲の空気。
まるで、風そのものを確認しているようだった。
「それに」
おじさんが続ける。
「気配が薄い」
「気配?」
「普通の人間なら、もっと隙がある」
たかふみは黙った。
それは、十七年間の異世界生活で身につけた感覚なのだろう。
敵の気配。
危険な場所。
自分より強い存在。
おじさんは、そういったものを理屈だけではなく、経験から判断する。
「……おじさん」
「何だ?」
「あの人、強いと思う?」
「それは分からない」
「分からないんだ」
「戦っていないからな」
おじさんらしい答えだった。
「ただ、何かを隠しているとは思う」
たかふみは、もう一度ウェンティを見る。
そのとき。
ウェンティと目が合った。
「……」
「……」
一瞬だけ。
ウェンティの笑顔が止まった。
ほんの一瞬だった。
しかし、たかふみには分かった。
ウェンティの視線が、おじさんへ向いている。
そして。
「ふふっ」
ウェンティは再び笑った。
「変わったおじさんだね」
「よく言われる」
「そこは否定しないんだ……」
たかふみが呟く。
パイモンが横から口を挟んだ。
「おじさんは変なおじさんだからな!」
「お前まで言うな」
「本当のことだろ?」
ウェンティが楽しそうに笑う。
その様子だけを見れば、何もおかしくない。
人懐っこくて、軽い性格の吟遊詩人。
しかし、たかふみは知っている。
目の前の人物は、それだけではない。
「ところで」
ウェンティが蛍を見る。
「君は何か目的があって旅をしているのかな?」
「兄を探している」
蛍が答えた。
「兄?」
「そう」
ウェンティの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「それは大変だね」
「だから、いろいろな場所を旅している」
「なるほど」
ウェンティは頷く。
「それなら、モンドの風もきっと君を助けてくれるよ」
「風が?」
「うん」
ウェンティは空を見上げた。
「風は、どこへでも吹いていくからね」
その言葉を聞いた瞬間。
たかふみは妙な感覚を覚えた。
ただの吟遊詩人の言葉。
そう考えることもできる。
だが。
ゲームを知っているたかふみには、その言葉が妙に引っかかった。
風。
モンド。
そしてウェンティ。
すべてがつながっているように思える。
「ねえ、おじさん」
ウェンティが今度はおじさんへ視線を向けた。
「君は魔法使いなのかな?」
「魔法は使う」
「どんな魔法?」
「精霊魔法」
「精霊魔法?」
ウェンティが興味深そうに首を傾げた。
「聞いたことがないな」
「この世界の魔法じゃない」
「へえ……」
ウェンティの表情が少し変わった。
「異世界の魔法なんだ?」
「ああ」
「それは面白いね」
軽い口調だった。
しかし、たかふみは、その反応にも違和感を覚えた。
普通なら、異世界という言葉を聞けばもっと驚くはずだ。
ところがウェンティは、妙に自然に受け入れている。
まるで。
異世界というものを、最初から否定していないような反応だった。
「ねえ、その精霊魔法」
ウェンティが笑う。
「いつか見せてもらえないかな?」
「必要なら」
「うん。いつかお願いするよ」
ウェンティは楽しそうに笑った。
おじさんはそれ以上何も言わない。
だが、たかふみには分かった。
おじさんもウェンティを警戒している。
表には出していないだけだ。
そのときだった。
風が吹いた。
さっきまで穏やかだった風が、一瞬だけ強くなる。
街の旗が大きく揺れた。
風車の羽根が勢いよく回る。
「……ん?」
アンバーが空を見上げた。
「風、強くなった?」
「そうだな」
ガイアも空を見る。
ジンの表情が変わった。
「……全員、警戒を」
その声を聞いた瞬間、一行の空気が変わった。
街の人々も、何人かが空を見上げている。
雲が流れていく。
ただの風の変化。
そう思うこともできる。
だが。
たかふみには分かっていた。
これは、ただの風ではない。
「……まさか」
小さく呟く。
「どうした?」
蛍が尋ねる。
「いや……」
たかふみは空を見る。
ゲームで見た光景が、頭の中に浮かんでいた。
巨大な影。
モンドの空を飛ぶ竜。
そして。
これから始まる一連の事件。
――風魔龍。
その名前が頭に浮かぶ。
けれど、たかふみは口にしなかった。
まだ確定していない。
それに。
ここはゲームの世界ではない。
自分の知識通りに進むとは限らない。
おじさんがいる。
精霊魔法がある。
蛍もいる。
そして、目の前には本来ならこの事件の中心にいるはずの人物がいる。
「……来たか」
ウェンティが小さく呟いた。
「え?」
たかふみが反応する。
「どうしたの?」
「ううん」
ウェンティは笑った。
「なんでもないよ」
だが。
その笑顔からは、先ほどまでの軽さが消えていた。
おじさんも、その変化に気づいたようだった。
「……」
黙ってウェンティを見る。
ウェンティも、おじさんを見る。
二人の間に、短い沈黙が流れた。
たかふみは、その光景を見ながら思う。
おじさんは、ウェンティの正体を知らない。
自分も、正体を説明していない。
それでも。
二人はそれぞれ別の方法で、同じ違和感へたどり着いている。
自分はゲーム知識から。
おじさんは、異世界で生き抜いてきた経験から。
知識の種類は違う。
けれど。
見えているものは、同じなのかもしれない。
「おじさん」
「何だ?」
「ウェンティのこと……」
「分かってる」
「……何を?」
「普通じゃない」
たかふみは黙った。
それ以上は聞かなかった。
今はまだ、ウェンティの正体を明かすべきではない。
少なくとも、たかふみはそう判断した。
ゲームの知識を持っていることを知られるわけにはいかない。
そして何より。
この世界では、知っている未来がそのまま訪れるとは限らない。
風が再び強く吹く。
ウェンティの帽子が揺れる。
彼は竪琴を抱えたまま、静かに空を見上げていた。
その横顔は、ただの吟遊詩人にしか見えない。
けれど、たかふみには分かっている。
この人物は、モンドという国そのものに深く関わっている。
そして。
モンドの空に起き始めた異変も、決して偶然ではない。
遠くで、低い風の音が響いた。
街の人々が空を見上げる。
ジンは警戒を強める。
アンバーは弓へ手を添える。
蛍も周囲を確認する。
パイモンは不安そうに空を見つめている。
そして、おじさんは静かに立っていた。
まだ光の剣は呼び出さない。
敵の姿が確認できていないからだ。
だが、いつでも戦えるようにしている。
たかふみは、そんな叔父の横顔を見た。
そして、再び空を見る。
青かった空に、少しずつ不穏な雲が広がっていく。
――物語が動き始める。
ゲームで知っていた物語。
しかし。
今回は、ゲームとは違う。
精霊魔法を使う異世界人がいる。
その隣には、ゲームの未来を知る自分がいる。
そして、目の前には風神がいる。
ただし、その正体を知っているのは、今のところ自分だけだ。
たかふみは黙ったまま、空を見上げ続けた。
モンドの風が、今までとは違う音を立て始めていた。