東京湾岸の夜は、妙に明るかった。
倉庫街の向こうで、湾岸道路を走る車列のライトが白い帯となって流れ、遠くにはお台場の建物群が人工的な光を放っている。海から吹きつける風は湿っていて、潮と重油、それにコンテナヤード特有の鉄錆の匂いを運んでいた。
その夜、その風景の中を、一台の軽トラックが常識外れの速度で突っ走っていた。
小さな荷台。
頼りない車体。
だが、その走り方だけは尋常ではなかった。
赤信号を無視し、交差点を抜け、タイヤを鳴らしながら大型車の間を縫っていく。
その後方。
赤色灯が二つ。
さらにその後ろに、もう一台。
「前の軽トラック、停止しなさい! 左に寄せて停止しなさい!」
拡声器の声が夜の埠頭に反響する。
だが、軽トラックは止まらない。
むしろ加速した。
パトカーの助手席に座る警察官が、無線機を握った。
「本部、本部、こちら湾岸三一。逃走車両、臨港地区を南進中。白色軽トラック一台。停止命令に従わず。速度、約八十……いや九十!」
運転席の警察官が前を睨んだまま叫ぶ。
「なんなんだ、あいつら!」
「若いのが何人か乗ってる! 助手席も学生に見えるぞ!」
「学生だぁ?」
前方の軽トラックが急激に車線を変えた。
大型トレーラーの横を、紙一重で抜ける。
「危ない!」
パトカーもハンドルを切る。
トレーラーのクラクションが耳をつんざいた。
巨大な荷台が横をかすめる。
運転席の警察官が歯を食いしばった。
「馬鹿野郎……!」
制服の背中に冷たい汗が流れる。
違反車両を追いかけること自体は珍しくない。
速度違反。
信号無視。
暴走。
飲酒。
盗難車。
警察官なら誰でも、似たような追跡に遭遇する可能性はある。
だが今夜の車は、何かが違った。
逃走の仕方に迷いがない。
ただ警察から逃げているのではない。
目的地がある。
そこへ一刻も早く辿り着こうとしている。
そういう走りだった。
助手席の警察官が無線に続ける。
「逃走車両、埠頭方面へ進入する模様。応援要請。周辺車両、進路封鎖願う」
『了解。湾岸三一、無理な追跡は避けろ』
「了解」
返事をした直後だった。
前方で軽トラックが左へ曲がった。
巨大な倉庫の影へ。
「曲がった!」
パトカーも追う。
視界が切り替わる。
そこには、東京湾へ突き出した長大な岸壁があった。
そして、その先。
夜の海を塞ぐように、一隻の巨大な船が停泊していた。
タンカー。
何万トンあるのか分からないほど巨大な船体。
岸壁の照明に照らされながら、黒い壁のようにそびえている。
運転席の警察官が眉をひそめた。
「おい……まさか」
軽トラックは速度を落とさない。
そのまま岸壁を走り抜ける。
向かう先は――
タンカーへ続く車両用ランプ。
「船に入る気か!?」
助手席の警察官が身を乗り出す。
軽トラックがランプへ突っ込んだ。
ガタン!
車体が跳ねる。
そのまま巨大船の内部へ消えていった。
数秒遅れてパトカーも接近する。
「本部! 逃走車両、停泊中タンカー内部へ進入!」
『船名確認できるか』
「確認中!」
警察官はフロントガラス越しに船腹を見る。
だが暗い。
照明と構造物が重なって船名までは読めない。
「駄目だ、見えん!」
後続のパトカーが追いつく。
さらに遠くから別の赤色灯が近づいてくる。
逃げ場はない。
そう思った。
海の上の船だ。
出口さえ押さえれば、追い詰められる。
助手席の警察官が言う。
「応援が来る。挟めるぞ」
運転手も頷いた。
「よし」
アクセルを踏み込む。
パトカーがランプへ向かう。
二十メートル。
十五メートル。
十メートル。
その時だった。
岸壁の奥。
巨大なコンテナと積み荷の影。
そこから――
何かが動いた。
運転席の警察官は一瞬、それが何なのか理解できなかった。
クレーン。
大型作業機械。
あるいは積荷を運搬する特殊車両。
そう思った。
だが違う。
音がした。
低い。
機械音。
重い金属同士が噛み合うような音。
ギィ……
ゴン。
岸壁が震える。
巨大な影が、一歩、前へ出た。
パトカーのヘッドライトがそれを照らした。
最初に見えたのは脚だった。
人間の脚に似ている。
しかし巨大だった。
パトカーより遥かに高い位置に膝がある。
装甲板。
関節。
油圧機構。
さらに上。
胴体。
腕。
肩。
そして――
頭部。
助手席の警察官が呆然とした。
「……は?」
運転席の男も言葉を失う。
人型。
明らかに人型だった。
高さは八メートルほど。
暗色の装甲に覆われた、巨大な人型兵器。
警察官たちは知らない。
それがM9ガーンズバックという名のアーム・スレイブであることを。
ミスリルという組織が運用する第三世代ASであることも。
彼らに分かるのは、ただ一つ。
目の前にいるものが、警察の常識の外にあるということだけだった。
「な……」
後続車両の警察官もブレーキを踏む。
キィィィッ!
岸壁にタイヤの悲鳴が響く。
二台目のパトカーが斜めに停止する。
無線が騒がしくなる。
『湾岸三一、どうした?』
返事がない。
『湾岸三一?』
助手席の警察官が、ようやく無線機を握った。
だが何を報告すればいいのか分からない。
巨大ロボットがいる。
そんな報告を誰が信じる。
「本部……」
声がかすれる。
『どうした』
「……進路を……」
そこで言葉が止まる。
M9がもう一歩動いた。
ドン。
足が岸壁を踏む。
重量のある振動がパトカーの床を通じて伝わってきた。
警察官二人が反射的に身構える。
巨大な人型機械は攻撃してこない。
ただ立っている。
ちょうど――
タンカーへ続く進路を塞ぐ位置に。
完全に。
意図的に。
運転席の警察官がゆっくりアクセルから足を離した。
「……こいつ」
助手席の警察官も気づいた。
「俺たちを……止めてるのか?」
M9は動かない。
その背後。
わずかに見えるタンカーのランプ。
先ほどの軽トラックは既に船内へ消えている。
追わなければならない。
だが。
その間に立っているものは、パトカーで押し退けられるような相手ではない。
車載スピーカー。
警棒。
拳銃。
防刃ベスト。
警察官が普段携行している全ての装備。
どれも目の前の存在に対して、あまりにも現実感がなかった。
後続車の若い警察官がドアを開けかける。
「降ります!」
運転席の上司が叫んだ。
「待て!」
「でも逃走車両が!」
「待てと言ってる!」
珍しいほど強い声だった。
若い警察官が止まる。
先頭車両の助手席。
警察官が無線機を両手で握り締めた。
「本部」
『湾岸三一、状況を報告せよ』
数秒。
警察官は目の前の巨体を見上げる。
東京湾の夜景。
停泊する巨大タンカー。
赤色灯。
そしてその中央に立つ、正体不明の人型機械。
現実離れした光景だった。
ようやく彼は口を開く。
「……逃走車両を追跡中、タンカー進入口にて進路妨害を受けています」
『妨害? 誰にだ』
「……」
答えに詰まる。
隣で運転手が、小さく呟いた。
「言うしかないだろ」
警察官は息を吸った。
「大型の……」
一瞬ためらう。
「大型の人型機械ですASです」
無線の向こうが静かになった。
『……もう一度言え』
「ASです!アーム・スレイブです!」
赤色灯が、港湾道路のコンクリートを血のような赤に染めていた。
タンカーへ続く進入口。
その中央に立ちはだかる巨大な人型兵器――M9。
交通機動隊の警察官たちは、パトカーを盾にするようにして距離を取りながら、誰一人として目を逸らさなかった。
警察官の一人が無線機を掴む。
「本庁へ! 本庁へ! 国籍不明機のASがタンカーを襲撃している! 機動隊の出動を要請――」
その言葉を、隣の警察官が怒鳴り声で遮った。
「バカヤロウ! 相手はASだぞ! 機動隊だけじゃ無理だ!」
振り返りもせず、巨大なM9を睨みつける。
「本庁へ! 特車二課にも出動を要請しろ! レイバーじゃないが、人型機械相手ならあそこが一番慣れてる!」
無線の向こうで、一瞬の沈黙。
そして、本庁の指令台から冷静な声が返ってきた。
『了解。現在、関係各方面へ照会中。第四機動隊ならびに特車二課への出動要請を検討する』
警察官が食い気味に返す。
「検討じゃなくて急いでくれ! こっちはパトカーしかないんだ!」
『湾岸方面各車へ。本庁から指示。応援到着までタンカーの安全を確保せよ』
その指令を聞いた瞬間。
現場の警察官は、思わず無線機を見つめた。
「……安全を確保せよって」
もう一度、前を見る。
全高八メートル近い人型兵器。
こちらの進路を完全に塞いでいる。
その向こうには巨大タンカー。
船内には、先ほど追跡していた軽トラックが入り込んでいる。
何が起きているのか分からない。
何人いるのかも分からない。
武装しているのか。
人質がいるのか。
そもそもあの人型兵器が敵なのか味方なのかすら分からない。
警察官は無線機を握りしめたまま、低く呟いた。
「……本庁」
『どうした』
「安全を確保しろと言われましても……」
M9の頭部がわずかに動く。
警察官の顔が引きつった。
「相手、パトカーよりでかいんですが」
一瞬。
無線の向こうから返答がない。
隣の警察官がぼそりと言った。
「本庁も困ってるんだよ」
「でしょうね!」
その時。
後続のパトカーが到着した。
さらに一台。
もう一台。
赤色灯の列が伸びる。
「規制線張れ!」
現場指揮を取る警察官が声を張り上げた。
「一般車両を全部下げろ! 絶対に近づけるな!」
「了解!」
「救急にも連絡!」
「了解!」
「海側は!?」
「海保に連絡中です!」
警察官たちは動き始める。
目の前のASをどうにかすることはできなくても。
少なくとも、一般人を近づけないことはできる。
負傷者が出た時の準備もできる。
道路を封鎖することもできる。
それが今の彼らにできる「安全確保」だった。
そしてその頃。
東京・立川。
警視庁第四機動隊宿舎。
普段なら比較的静かな建物の廊下に、突然、短い電子音が響いた。
直後。
天井のスピーカーが一斉に鳴る。
『警視庁より入電』
隊員たちが顔を上げる。
食堂にいた者。
装備品を整備していた者。
休憩室でコーヒーを飲んでいた者。
全員の動きが止まった。
『お台場付近港湾地区にて、被疑車両追跡中の交通機動隊員が、タンカー付近においてASと遭遇』
ざわり。
空気が変わる。
AS。
その単語だけで、通常の出動ではないことが分かった。
『ASは国籍、所属ともに現在不明。タンカー周辺において活動中』
隊員の一人が小さく呟いた。
「……AS?」
別の隊員が顔を上げる。
「東京で?」
スピーカーは続ける。
『警視庁第四機動隊に出動指示』
一瞬の静寂。
続いて。
『繰り返す。第四機動隊に出動指示。装備区分は特別警備。詳細は追って指示する』
その瞬間。
宿舎全体が動いた。
椅子が引かれる音。
ロッカーが開く音。
廊下を走る足音。
隊員たちは何も言われなくても、それぞれの配置へ向かい始める。
隊長室。
机上の書類に目を通していた白峰あかねは、スピーカーから流れる放送を最後まで聞いていた。
表情は変わらない。
だが。
ペンを置く動作だけが、いつもより僅かに速かった。
「AS……」
白峰は立ち上がる。
そして扉を開けた。
廊下の向こう。
ちょうど副隊長の矢崎がこちらへ向かってくる。
白峰は短く告げた。
「矢崎副隊長」
「はい」
「当直 全員集めてください」
矢崎の返答は早い。
「了解です」
「大隊指揮所も開設。現場情報を全部こちらへ回してください」
「了解」
「特型警備車、放水車、輸送車両の出動準備」
矢崎が僅かに眉を動かす。
「どう対応しますか?」
白峰は一瞬だけ考えた。
「私たちがASを倒す必要はありません」
静かな声だった。
「第四機動隊の仕事は、まず現場を封鎖すること。一般市民を遠ざけること。タンカーから避難者が出れば保護すること。そして――」
白峰は廊下の窓から、遠い東京湾の方向を見る。
「専門部隊が到着するまで、現場を崩壊させないことです」
矢崎が頷く。
「了解です」
その時。
再び館内放送。
『追加情報。現場警察官より、本庁に対し特車二課の出動要請あり』
隊員たちの間に、再びざわめきが走った。
特車二課。
警視庁内でも極めて特殊な部署。
レイバー犯罪を専門に扱う部隊。
白峰も当然、その名前は知っていた。
「特車二課まで呼ぶのか……」
矢崎が呟く。
白峰は答える。
「人型機械ですからね」
「しかしASはレイバーとは別物です」
「ええ」
白峰の視線が鋭くなる。
「だからこそです」
矢崎が彼女を見る。
「現場の交通機動隊員が、機動隊だけでは足りないと判断した。それなら、その判断は尊重します」
その直後。
若い隊員が駆け込んできた。
「隊長!」
「どうしました」
「本庁から続報です!」
隊員はメモを読み上げる。
「対象AS、推定全高約八メートル。機種不明。高機動型と思われるとのこと!」
矢崎の表情が変わった。
「八メートル」
若い隊員が続ける。
「現場車両との距離十数メートル。一時、警察車両の進路を意図的に遮断した模様!」
白峰が確認する。
「警察官に被害は?」
「現在なし!」
「発砲は?」
「確認されていません!」
「AS側から攻撃行動は?」
「現在のところ確認なし!」
白峰は数秒黙った。
その情報は重要だった。
進路は塞いだ。
しかし撃ってはいない。
警察官を排除するだけなら、巨大な人型兵器にはいくらでも方法があったはずだ。
なのに、それをしていない。
「……妙ですね」
矢崎が言う。
「敵対する意図がない?」
「まだ分かりません」
白峰は即座に否定する。
「ただし、少なくとも現時点では警察官への積極的な攻撃意思は確認されていない」
若い隊員を見る。
「本庁へ確認してください。現場には絶対に不用意な接近をさせないこと。発砲も原則禁止」
「了解!」
「相手が動かないなら、こちらも刺激しない」
「はい!」
隊員が走っていく。
矢崎が白峰を見る。
「出動時の武装は?」
白峰は少し考える。
「通常の特別警備装備を基本にします」
「拳銃は?」
「当然携行。」
「催涙弾」
「人間に対して必要になる可能性があります」
「放水車は?」
「一応持ってきます」
「特型警備車」
「盾です」
矢崎が理解した。
ASと戦うためではない。
ASと一般市民の間に壁を作る。
それが第四機動隊の役割。
白峰は腕時計を見る。
「集合まで?」
「三分以内」
「十分です」
そして。
白峰は廊下を歩き始める。
その足取りに迷いはない。
装備室前。
次々と隊員たちが集まってくる。
ヘルメット。
防護ベスト。
盾。
警棒。
無線機。
普段なら暴徒や凶悪犯を相手にするための装備。
だが今夜。
彼らの前にいるのは、人間ではない。
全高八メートルの正体不明AS。
しかも、その背後には巨大タンカー。
その内部では何が起きているのか分からない。
白峰は集合しつつある隊員たちを見渡した。
「全員、聞いてください」
ざわめきが消える。
第四機動隊の視線が、一斉に隊長へ集まった。
白峰あかねは短く息を吸った。
「今夜の相手は、私たちが普段扱う事件とは違います」
誰も動かない。
「ですが――」
白峰は静かに続ける。
「私たちがやることまで変わるわけではありません」
外では。
次々と車両のエンジンが始動し始めていた。
立川からお台場へ。
第四機動隊が動き出そうとしていた。