蒼穹の天駆翔 ~Learning to Fly~ 作:佐伯明人
第1話 はじめの一歩 1
春休みが終わるには、まだ数日あった。
IS学園の正門前には、新しい制服より私服姿の生徒の方が多い。大きな鞄やキャリーケースを引く者、家族と一緒に歩く者、入口で案内図を確認する者。入学式を待たず、今日から寮へ入る新入生たちだった。
その中を、織斑一夏も大きな鞄を肩に掛けて歩いていた。
「忘れ物はないな」
隣から聞こえた声に、一夏は前を向いたまま答える。
「たぶん」
「たぶんで生活するな」
「昨日一緒に確認しただろ」
「確認したのは私だ。お前じゃない」
「じゃあ大丈夫じゃん」
一夏の後頭部に軽い衝撃が来た。
「痛っ」
振り返ると、千冬は既に何事もなかったように歩いている。
家から学校へ向かう。
やっていることだけなら、これまでと大して変わらない。
ただし今日、一夏はこのまま家へ帰らない。
「しかし、千冬姉がいる学校の寮に入るって変な感じだな」
「学園では織斑先生と呼べ」
「今?」
「今は好きにしろ」
「どっちだよ」
返事はなかった。
正門を抜ける。
一夏が以前訪れた時とは雰囲気が違う。測定のために来た時は、案内されるまま施設へ入り、終われば帰った。
今日は違う。
これから三年間、ここが学校になる。
「一夏」
呼ばれて足を止める。
千冬は校舎ではなく、別方向を指した。
「男子寮はあっちだ」
「ああ」
「私は職員室へ行く」
「分かった」
一夏が歩き出そうとして、止まる。
「千冬姉」
「なんだ」
「……いや、行ってくる」
千冬は一瞬だけ一夏を見た。
「ああ」
それだけだった。
一夏は鞄を持ち直し、男子寮へ向かった。
***
IS学園に男子寮がある。
考えてみれば当然のことだった。
IS専攻科の操縦者が女子しかいないだけで、学園そのものが女子校というわけではない。普通科をはじめ、ISに直接搭乗しない生徒もいる。
にもかかわらず、男子寮へ向かう途中ですれ違った女子生徒の何人かは一夏を振り返った。
一夏は気づかないふりをした。
建物へ入り、受付を済ませる。
部屋番号と鍵を受け取る。
特別扱いはなかった。
それが少し嬉しかった。
「二階の二〇七号室ね。食堂と大浴場は一階。細かい決まりは部屋に置いてある冊子を読んで」
「はい」
「あと――」
受付の上級生らしい男子が、一夏の顔をもう一度見る。
「織斑一夏君?」
来た。
「そうです」
「ああ、やっぱり」
周囲にいた何人かがこちらを見る。
一夏は小さく息を吐いた。
「IS動かしたっていう」
「はい、一応」
「すげえな」
「俺もまだよく分かってないですけど」
「だよな。俺もニュース見て意味分からんかったし」
そう言って上級生は笑った。
「まあ、ここじゃ俺らと同じ寮生だから。困ったら聞いて」
「あ、はい。ありがとうございます」
「風呂でIS展開するなよ」
「しませんよ!」
近くにいた男子たちが笑う。
一夏も笑った。
思っていたより普通だった。
***
二〇七号室。
鍵を開ける。
ベッド。
机。
収納。
小さな冷蔵庫。
窓。
一人で暮らすには十分だった。
一夏は鞄を床へ置き、窓を開ける。
春の空気が入ってくる。
校舎の一部が見えた。
その向こうには、実技訓練に使われるアリーナらしい大きな建物もある。
自分があそこでISに乗る。
まだ実感は薄い。
一夏は鞄を開いた。
衣類。
日用品。
教科書。
IS関連の資料。
最後のものだけ、数か月前には荷物へ入る予定すらなかった。
「さて……」
まず何をするべきか。
荷解き。
当然である。
一夏は服を取り出した。
十分ほどして、飽きた。
「飯食いに行くか」
荷物は半分ほど残っていた。
***
食堂は既に営業していた。
入寮日ということもあり、新入生らしい顔が多い。
一夏が入口でトレーを取ったところで、
「あ」
声がした。
見る。
同じ年頃の男子が二人、こちらを見ていた。
一夏も見る。
三人とも少し止まった。
「織斑?」
「そうだけど」
「やっぱり!」
一人がもう一人の肩を叩く。
「だから言っただろ!」
「いや、本人に聞く前に決めつけるの失礼だろ」
「顔出てたじゃん」
「ニュースの写真と実物が同じとは限らんだろ」
「同じだよ!」
一夏は思わず笑った。
「とりあえず飯取っていいか?」
「あ、ごめん」
列が進む。
そのまま三人で同じテーブルにつくことになった。
二人とも普通科だった。
「じゃあ本当に専攻科なの?」
「入ることになった」
「なった?」
「最初は普通科で受けたんだよ」
「え?」
箸が止まる。
一夏は味噌汁を飲む。
「合格したあとにIS動かせるって分かって。それで専攻科に変更」
「そんな進路変更ある?」
「俺が聞きたい」
二人が笑った。
それから話はISから離れた。
出身地。
寮生活。
部屋。
授業。
食堂の飯。
校内のどこに自販機があるか。
一夏は途中から、自分が世界初の男性IS操縦者だということを忘れていた。
食べ終わる頃には、二人の部屋番号まで知っていた。
「じゃ、また夕飯で」
「おう」
別れる。
一夏は食堂を出てから、少しだけ振り返った。
普通の高校生活というものがどういうものか、まだ知らない。
けれど少なくとも、全部がISになるわけではなさそうだった。
***
翌日。
一夏は講義室の席で配布資料を眺めていた。
入学前特別講義。
専攻科の新入生を対象にした、安全教育と基礎講習である。
参加は任意。
一夏には任意という選択肢があるようには思えなかった。
知らないことが多すぎる。
周囲を見る。
女子ばかりだった。
昨日まで男子寮にいたせいで、余計に違和感がある。
何人かはこちらを見ている。
一夏は資料へ視線を戻した。
「やっぱりこっちはこうなるか……」
「何が?」
横から声がした。
「うわっ」
振り向く。
いつの間にか一人の女子生徒が隣の席に座っていた。
肩ほどまでの黒髪。
配布資料をめくっている。
「いや、男子寮は当然男ばっかりだったから」
「ああ」
それだけ言って、また資料を見る。
一夏も前を向く。
少しして気づく。
見覚えがある。
どこだったか。
入学前。
アリーナ。
自分の測定ではない。
その前に学園から見せられた、専攻科の測定資料。
全員分ではなかったが、同学年の傾向を説明するため、いくつか映像を見た。
打鉄で飛んでいた少女。
「高瀬……だっけ?」
女子生徒が顔を上げる。
「はい。高瀬しょう」
「俺、織斑一夏」
「知ってます」
「だよな」
しょうは少し考える。
「ニュースで」
「うん」
「あと測定の記録で」
「俺のも見たの?」
「少し」
一夏は何とも言えない顔になる。
「恥ずかしいな、それ」
「なんで?」
「俺、全然上手くなかっただろ」
しょうは一夏を見る。
「初めてだったんですよね?」
「まあ」
「じゃあ、あんなものじゃないですか」
慰めているようには聞こえなかった。
ただそう判断しただけの言葉だった。
一夏は少し笑う。
「高瀬は飛んだんだろ。最初から」
「飛びました」
「どうやったんだ?」
しょうは黙った。
考えている。
一夏は答えを待つ。
「……跳んだら」
「うん」
「落ちなかったです」
「それだけ?」
「それだけです」
一夏は机に肘をつきかけて、やめた。
「参考にならねえ」
「私もそう思います」
そこで前方の扉が開いた。
講義室の声が少しずつ止まる。
入ってきたのは、作業着の上に白衣を羽織った男だった。
教卓へ資料を置く。
学生たちを見る。
一夏のところでも、しょうのところでも視線は止まらない。
「佐伯です。今日の講義ではISの安全運用と、機体側から見た操縦者について話します」
黒板へ大きく二文字を書く。
『安全』
「最初に言っておきます」
振り返る。
「ISは皆さんを守ります」
少し間を置く。
「だからといって、壊れないわけでも、怪我をしないわけでも、死なないわけでもありません」
講義室が静かになる。
佐伯は続ける。
「絶対防御があるから安全。シールドエネルギーがあるから大丈夫。そういう理解でここへ来た人は、今日捨てて帰ってください」
一夏は資料から顔を上げた。
しょうも前を見ている。
「エネルギーは有限です。機体も有限です。操縦者の体力も集中力も有限です。使えるものは全部、使えば減ります」
佐伯は黒板に一本の線を引く。
「これから皆さんは、どうすれば強くなれるかをたくさん教わるでしょう」
その下に、もう一本。
「私は逆を教えます」
教室を見渡す。
「どうすれば、生きて帰れるか」
誰も話さない。
「では始めます」
***
講義が終わる頃には、一夏の資料には大量の書き込みが増えていた。
分からない単語には丸。
重要そうな箇所には線。
あとで調べるものには印。
「多いな……」
ページをめくる。
まだある。
隣でしょうが資料を閉じた。
「高瀬、分かった?」
「半分くらい」
「よかった」
しょうが一夏を見る。
「何が?」
「俺だけじゃなかった」
「たぶん、分からないところ違いますよ」
「それはそうだろうけどさ」
前方では佐伯が質問に来た生徒へ対応している。
一夏も聞きたいことはいくつもあった。
だが列が長い。
今日はやめておく。
「じゃあ」
しょうが立つ。
「ああ。また入学式で」
「同じクラスとは限らないですよ」
「そういやそうか」
しょうは軽く頭を下げて講義室を出ていった。
一夏はその背中を見送る。
飛んだら落ちなかった。
改めて考えても、意味が分からない。
「……まあ、いいか」
自分だって、触ったら動いた。
似たようなものかもしれない。
一夏も席を立つ。
廊下へ出る。
窓の向こうにはアリーナが見える。
そのさらに向こうには、まだ一夏の知らない場所がいくつもある。
入学式まで、あと数日。
高校生活はまだ始まっていない。
それでも一夏のIS学園での生活は、もう始まっていた。