鍛錬、収斂、執念にて臨戦
卯月の癖してからっとしていて、厄介でないような温さの午後5時。ナイター開催ならではの熱気が針か静電気のように背中を刺す。
「なあシグ。そんな調整で大丈夫か?」
「大丈夫や、問題あらへん。……なんかどっかで聞かんかった?この下り。」
聞いたかもしれないし、聞いていないかもしれない。そも、『そんな調整』とは言ったがどんなものかといえば、こう、
ウマ娘のトレーニングにしては粗削りで、古典的で、それでいてそんじょそこらのウマ娘が倒れるレベルのそれであった。それは月曜のこと。
「ごめーんもう1周ええかー!?」
「ダメダメダメダメ!!戻ってきてくれるかー!?」
この問答をインコム越しに叫んでいた。
何せシグのやったことといえば、普段のレースよりも数倍の距離になることもある暴走そのもの。ちゃんとゲートを出ているだけありがたいと思ってしまうぐらいには怖がってしまった。
想定以上に長い間走っていた帰ってきたシグにため息を一息こぼす。
「あーーもーー、耳ン中キンキンするわ……って!なんやシロウズ、なんか不安げやな。フォームとかおかしいように見えたりしたん?」
「……レース教本とか、読んだことある?」
「レース教本……あ。」
「……読んでないだろ、さては。」
途端、明らかに顔が強張るシグ。深い浅葱色の中央に緋色を据えた双眸が震えて、二つ揃って左へ傾いて。
「座学は……苦手やし。あんな分厚いB4、ヒト殴るためにあるんやないの?」
「本でヒトを殴るな。よくそれで中央に行けたな……」
「ま、まあ走りがええから行けたワケで?」
激しく震える耳と尻尾からして、相当焦っているらしい。よくもまあ、これで死んだことを隠せたものだと一周回って関心する。
「なあシグ、君の適正距離って短距離マイルだろ?」
「んーと、一応園田走っとるわけやし。」
「じゃあさ。そこのコース、さっき何周した?」
「……何周やったっけ。」
またため息が漏れてしまう。
「6周。このコース、実際の園田のコースと距離なんだよね。一周何mかは知ってるよね?」
「えーと……1050m。」
「1m足りないぞ? 1051m。で、だ。6周したんでしょ?つまり何m走った?」
「せやから……1000は6000、五六で30の0付けて300、あとは6やから、えーと6306mで……あっ。」
そう。長くてマイラーのこのウマ娘、この一瞬で菊花賞の倍を走ってしまっていた。イギリスのグランドナショナルにもうすぐ届いてしまうような、練習で走るには異端の距離。
「レース、今週末だよね?」
「……ハイ、今週末デス。」
「あぁもう、そんな一気に走ったらそれまでに疲労も取れない……ん?」
違和感。一旦脳内の記録を組み直す。
まず、今日は月曜。レースは金曜9レース。距離は1400m、出走予定は9人。抽選は内枠だったのは幸いだった。
今さっき、シグは1周1051mのコースを6周してきて、目の前でふてくされている。ふてくされて……あった。違和感がここに。息が切れていない。肩で息もしていない。屈むこともなく突っ立っているだけ。もしこれで心臓が既に止まってしたとしても何らおかしくないような、無。しかしかすかに白く見える陽炎……いや、かすかにかいた汗が蒸発したそれは紛れもなく「走ってきましたよ」という証拠である。
「なあ、シグ。今って痛みとか苦しさとかあるか?脚とか、腰とか。」
「死んだ時はあったんやけど、今はなーんとも。そんな心配せんでも、生きとるほうの今の私は元気元気五体満足やで?」
しゃがみこんで、足元。
「……あ、あー、シロウズ?そんな脚見たいんやったら帰って嫌と言うまで見させたるんやけど……」「足踏みして。」
「足踏みぃ?き、急やな……まあええけど。」
眼前で、シグの足が上下する。えっちらおっちら、正面から、真横から、真後ろから見回す。ワンツーワンツー、とす、とす、とダートを鳴らして、コース特有の乾いた砂が頭にパラパラと落ちてくる……が、それよりも。
赤み、張り、遅れ、硬さ、足首と脛の連動。股関節から、骨格、筋肉、筋、骨。ぎこちなさは皆無、柔らかさと踏み込みの強さのバランスの両立。トレーナー試験の教科書にあった図解を当てはめていく。
「……いつまでやればええんや?これ。あん時の事故が2回済んでまうで?」
本人に嘘は無かった。これだけの距離を走っておいて、怪我も痛みも、疲れすらも無い。……いや、となれば答えは。
「さては本気じゃないでしょ、シグ。」
「バレてもた。けど、それでもちゃんとは走ってたはずやろ?」
そう。この問いの一番の矛盾点。本気で走っていないのならば、あのスピードと追い上げ、そして変わらないペースは何だったのだろうか?
「あれで、手を抜いてた?」
「そら……最初から全力で走ったら保たへんやん?色々。」
「何が保たないって?」
即座に聞き返す。
「まず靴が耐えられへんやろ?あと頭ボーっとしてまうし。中央の靴って脆いもんやったから……」
靴は昔の話で聞いたことがあった。練習で一カートン使い潰した漆黒のステイヤー、バ場と蹄鉄ごとすり潰す踏み込みの地方からの灰色の怪物。後者の靴事情に至っては後援者が居たからなんとかなったとか。
しかし、もう一つのほうが気になる。
「頭がボーっとする、か。」
恐らく、循環器か呼吸器。トレーナー課程でやったことがある。血液の値がおかしいとは言っていたが、走れると判断されたから通ったのだろう……となればシグの課題は。
「呼吸器。」
肺、気管、横隔膜。少なくとも、次のB1では大丈夫と信じたいが今後にきっと響くだろうと確信があった。
「肺とか、後でできるだけ診て貰おうか。」
「医者はちょっと苦手なんやけどなぁ。まあシロウズが言うんやったらええで。なんか匂いがアカンのやけど……」
俺が中央のツテでも使えたのなら名医を呼べたのだが、今は追われる身のシグには厳しい風当たりになるだろう。しかし今はオラコシグニフェリの彼女なのだ、きっと誰かは受け入れてくれると信じてドリンクを手渡して、
「よし、じゃあ上がるか。」
あとは水曜のことだっただろうか。
「なあ、シグ。」
「なんや、シロウズ。」
あんまり人気のないトレーニングルーム。他のウマ娘やトレーナーは新品の器具が置いてある別室に行ってしまうが、古いほうの此方で何をしているのかオラコシグニフェリ。
「明後日に向けての調整?」
「せやせや、温めとこー思うてな。こない、し……てっ!」
たしかこのやり方はバーベルスクワット。オリンピアンですら身震いするような数のウエイトがすっと持ち上がる。
それが地面へ投げ捨てられるかのようにして、次に地響き。
「……何キロ?それ。」
「ん?あー、そこら辺にあったんを全部纏めてもたからようわからん……ちょい待っとって。」
慣れた手つきでウエイトが外れていく。もしもあれば薄いベニヤ板であればやっと俺にでも真似できそうな速さ。
「40、20、20のこれで3つ合わせて80やろ?んで同じのんをもう片方にも着けたから……」
「……160kg?」
いや、流石に160kgはおかしい。こういう時はたしか……lbs、つまりポンド。古い器具だとkgではなかったりするらしいのだ、シグの言う80なら、きっと半分ぐらいの重さになるだろう。
「棒の重さが15kgだっけ……?それなら大体90弱とか?」
それなら少し軽い気がしてならない……ならば持ってみるのが早いか。再度ウエイトをフル装備にしてもらったバーベルに手を掛け、腰を落とし、ゆっくり、ゆっくりと……
……
あれっ。
……
いや、これkg表記かもしれない。持ち上がらない……動かない。地面に張り付いているか、一体化したオブジェかのように、マットのそれに沈み込んだまま。
「おーおー、トレーニング足りてへんのはシロウズなんちゃう?ほれ、これとか持ってみ?。」
ウエイト単体で手渡される。瞬間、両手をぶん殴ってくるかのようなG。田舎の実家で運んだ米袋より重いと本能で計量する。
「ぐぬぬっ……!」
えっちらおっちら、体重用の計器に乗せてみる。銭湯で見たような、ないような、いややはりこの古さからして間違いなく見覚えのあるそれにゆっくりと下ろす。
ウエイトの数字は「40」。この目盛りにもキログラムとポンドの二種類があるらしい、どちらの40を指し示すのか。
「……あらま。」
ぴったり、40kg。そんな重さのウエイト……数字が違うにしても、あんなにも。
つまりあのバーベルは。
「本当に160kg……?」
「うっわ、そんな重いん?私からしたら床抜けへんほうがすっごいわ。」
「いや、相当の重さなんだけどさ。」
体重と同じ重さを上げることができればヒトなら良いほうである。となるとウエイトで160、そういやバーの重量もあっただろうから、およそ……180kg。シグの体重はたし「オイ。乙女のヒミツやぞ?」
「……ゴメンナサイ。」
バレている。何が見えているのか、聞こえているのか。
「ま、まあ……だいぶ凄いってことで。けど、なんでそんな重さのでバーベルスクワットしてるんだ?」
「そこにあった。そない大した理由とちゃうし、おニューのトレーニングルームに置いとらへんからなぁ。あそこのはすぐ壊れてまうから……」
そこにそれがあったから、使った。シンプルな理由で結構だが、流石に置いてあったからといってそのまま使うのはどこか奇妙。
ならば。
「質問。」
「どないした急に。」
「それ、重さをわかってて使った?」
「ぜーんぜん?ほらさっき言うたやろ?『そこら辺にあったんを全部纏めてもた』って。」
無頓着。そういうところは今後なんとかしなければならないだろう。特に、今後中央に乗り込むとなれば。
「力があるのは良いことなんだけどね……勉強、しようか。」
明らかに目を逸らされた。
「……まあ、身体は問題ないだろうからさ。身体で覚えたんなら早いんじゃない?」
「私、そないな文字で覚えんの下手くそやし。……ま、まあ、シロウズがやれ言うんならやらんこともあらへんで?」
「言われてからやるものでもないんだけどなぁ……」
しかし、戦略は戦略。シグの強みのアンプリファイア。これさえ、ここさえなんとかしてしまえば。
「UCACも敵じゃない。」
そんなこんなで、今日に日付を戻して。俺とシグの二つ返事の問答がこだまする。
「スタートは?」
「飛び出す。」
「最初の直線。」
「インコース、けど最内は避ける。」
「理由は?」
「私のゲートは1枠1番、せやけど最内は重なるからちょっと外め。外から被せられへんようにリードを取る。」
一つ一つ、半夜漬けで押し込んだ情報を流していく。
「外から並ばれたら?」
「息入れて内には行かん。相手に外走らせて距離ロスさせる。」
「じゃあ内から強引に来たら?」
「内ラチ幅寄せ、通さへん。」
「3コーナーから4コーナー。」
「3コーナーは外へ張り過ぎず、外警戒で早めに抜ける。4コーナーは外に出すぎんように。遠心力で相手に不利を押し付ける。」
「じゃあ直線は?」
「「短いから、かっ飛ばす!」」
とりあえず、どうにかなると思う。
「おっしゃシロウズ、行く前にちょっと頼むわ。」
「頼む、って何を?」
背中をこちらに向けて、膝に手を付けて。
「背中。一発シバいてくれへんか?強めに、痛めに。目ぇ覚まさせてや。……あ、でもアイツらみたいにバットでやらんといてや?」
「いやいや、素手だから。じゃあ……せぇ、のっ!」
おおきく振りかぶって、平手で思い切り。乾いた音が響いて、更衣ブースのカーテンへ響鳴が吸われて。
「〜〜っ、ッカァ!ッシャァ!」
これで良かったらしい。ぱんぱん、と頬を軽く叩き、此方を一瞥する。
「おーきに!ほな、行ってくるわ!」
「おう、行ってきなさい。」
出走まで、あと23分。