今後とも精進、邁進、バクシンします。
医務室前の座面だけのソファに腰を下ろす。
久しぶりに走ったような気がする。
「あぁ、クソっ。」
シグが、倒れた。
既にレースの最初からおかしかった。
ゲートに入った途端震えだして、酷い出遅れをしたかと思えば巻き返してそのまま先頭に居る。……どう考えてもウマ娘の一般的なレースとかけ離れた暴れっぷりである。先輩から聞いた芦毛のウマ娘のようなことをしているが、あちらと違って此方はショッキングの面が強すぎる。
嫌な予感、というものはよく当たる……当たってほしくない時に限って。
ゲートの様子を見た時点で三階を出たのは正解だった。館内各地のテレビを横目に、どこまで走ったかを確認しながら一階、バ道と通じる扉へと駆けていく。警備員にはトレーナーライセンスを見せて一言「担当の様子が……」と言っただけですんなりと通った。
「オラ公のトレーナーか!はよ行け行け!」と、どうも特別な措置をもらったような。よかった、明らかにおかしいことなのだと俺以外にもちゃんと見えていた。
「先頭オラコシグニフェリ、今、一着でゴールインッ!」
突如スタンドがざわめいて、そしてコースからの悲鳴。
「オラコちゃん!お終いや!二周目無いで!」
居た。ゴールを過ぎて尚、更に走っていこうとする彼女が。二着だったアシュラエンパイアの呼びかけには応えたのか、血走った目でスピードを落としていく。
とっ、とっとっ、とっ、と歩き出して、咳込んだ。湿って、篭もったような響きと引っかかるようなくすんだ息。
抑えた手の指の隙間から、紅がふっ と落ちて。
ナイターのメタルハライドに燦いて。
「……えっ?」
口からの、
喀血か吐血か、唇を切ったかもしれないが、口から血が出るのは誰がどう見ても異常事態。あの量だと、少なくとも唇ではない。
競走は確定していないが、ルールとか知ったものか。公平性が何だ。少なくとも、走者が無事であることは全てに優先されると学んだのだから、それを信じてコースへ飛び出した。
そばにいたアシュラがこちらを見るなり叫んで、
「あ、オラコちゃんのトレーナーさんですか!はよオラコちゃんお願いします!」
「わかった!君は救護班と担架呼んできて!」
二つ返事でそのままアシュラが検量所のほうへ。全力疾走した後なのに、申し訳ない。この距離はトラックよりも担架のほうが小回りが効くだろうから、担架で運ぶことにした。
そのうち2人、3人とゴールした後のウマ娘も周りに集まってきた。
「どしたんオラコちゃん!?」
「血!血吐いてる!?血ぃ!」
「は……早くだれか呼んでって!!」
「アーちゃんが呼びに行っとる!」
さっきまで走っていた同じレースを走っていたと思ったらこうなっているのだ、パニックになってしまうのも当然。
けど、まずは。
「シグ!!」
スーツと革靴では本当に走りにくい。砂の上なら尚更。
周囲のウマ娘達を掻き分け、今にも崩れ落ちようとするシグを両手で引き止めるように抱き込む。
「んあぁ、なんや、シロウズ……っ!」
「シグ!どうしたんだよ、なぁ!」
少し首を左後……俺のほうへ。虚ろな目でこっちを流し見して。何かを伝えようにも、口だけが動いて言葉が出てきていない。
絞り出すようにまた、一言。
「……へへ、けどほら、勝ったで?」
「今は勝ち負けじゃない!」
あぁ、どうすれば。どうするんだったか。学んだ筈なのに、こんな時に限って出てこない。
パニックでシグを抱えるしかできない。
再度咳き込み、だらっと血がダートへと垂れ落ちる。
試験勉強の時にいくつかやったはずだ。吐いた血は鮮やかだが、泡立ってなくて、いや、そもそも消化器なのか肺なのか口なのか分からない。どうすれば。
何をすれば―――
「ボウズ!横や!オラ公寝かして横向かせぇ!」
突然罵声……いや、助言だろうか。中年の男性の怒号がスタンドのほうから真っ直ぐに聞こえてきた。
「血ぃ吐いとるんなら横にさして全部吐かせぇ!話さすな!詰まったら死ぬぞ!」
死。
そうだ、今のシグは口ではボケている癖して死のすぐ側まで来てしまっている。横……回復体位、というものまでは思い出せた。
また通る叫び声が届いた。自分の思いつきでやって最悪の結果になるぐらいなら、もう信じるしか無い。
「胸のどっちが痛いんかオラ公に聞きぃ!痛いほう下!」
肋骨の少し下。まずは左側を少し押さえて問う。
「喋らないで!こっち痛い!?」
こくこく、と頷く。目がまだ合っているならそれでいい。意識はあるはずだ。
左側を下に、少し腕を前に出させて、上になる膝を曲げさせる。
枕の代わりに腕を差し出して、頭の下へ。スーツが汚れようが、シグの命に比べれば安いものだ。
「口の血を全部出すんだ。力むなよ。」
こういう時に力めばきっともっと酷くなるだろう。落ち着いて、だらっと出させる。手に垂れる鮮血なんか知ったことか。
ダートと俺の手が赤黒く染まっていくと共に、スタンドのガヤつきも大きくなりながら。
「トレーナーさーん!担架来たでー!ってほらアンタら道空けてはよ帰れ!
ライブは40分後、二着と三着……えーと、私とコルちゃん2人でセンター、オラコちゃんはまた今度ソロ!2人……ほなクリカラちゃんとマリャークちゃん、担架乗せるからこっち手伝って!もう運ぶだけやから残りは体操服着替えてライブ準備行き!40分後厳守やで!」
アシュラエンパイアがオレンジの担架を抱えて駆け寄ってきた。たしか短距離路線のウマ娘だったはずだが、事務室は目と鼻の先とはいえレース後にここまで走らせてしまって申し訳ない。
しかしさすが委員長、ゼエゼエと呼吸しつつも担架をシグの横へ、更に鶴の一声でコースからウマ娘が失せていく。
「トレーナーさんは頭ん方お願いします!2人は腰と腹!傾けんといてや!」
「わかった!じゃあ、せーのでお願い!」
俺、クリカラ、マリャーク、アシュラの順にシグの下へ手を伸ばす。四人でシグを囲むようにして、
「せぇ、のっ!」
体位をそのまま、担架の上へと。担架のオレンジに、まだ出切っていない鮮血が橙の上で黒になる。自費になろうが買い換えればいい、生命よりもずっと安いのだから。
砂に足を取られながら、地面が固くなった辺りでタイヤを下ろす。そして出てきた救護班に引き渡され、声を掛けながら着いていくように指示された。しかしその前に。
「ここまでありがとう。ライブ、いってらっしゃい。」
「委員長ですから、これぐらいできないと。オラコちゃん、よろしくお願いします。」
礼をしてすぐ、タッタッタッ、と3つ足音が重なって遠ざかっていく。
3人には少しは微笑めたのに、1人になるとポジティブな感情が失せてしまう。その上、去っていく担架の上からまたジロッと見られたような気がして。
そうして救護室の前、よく見る濁ったようなグリーンの穴あきソファに腰を下ろしたら、抑えていた一言が口から漏れてしまった。
「あぁ、クソっ。」
喀血、それか吐血。まずどっちみちの扱いとしては鼻出血と同じくくりになる症状。
……勝っている、はず。確定した掲示板には、確かに一着に『1』と、着差の欄には『4』と。こうして救護班のお世話にならなければ、最高のスタートだったに違いない。
「……どうしようか、どうしようか。」
今日は帰れない気がする。洗濯物は後で大家さんに連絡すればなんとかなるだろうか。
時間が止まったのか、動いているのかよく分からないまましばらくして。
「白渦トレーナー、ちょっとこっちへ。」
やっと時間が動いたような。
「えーと、ひとまず様子見たんやけど。気道粘膜傷んどったっぽいですね、過換気が原因やろかなぁ、と見てます。肺のほうはレントゲン撮ったんやけどこれといって変なとこは見えんくて。たぶんレース中に焦って呼吸乱れたんかな、とおもいますわ。」
「出遅れたから……とか?」
「十分あり得ます。まあ、診れるもんは診ときますさかい、なんとかしましょ。」
1つだけ懸念点が消えたのは不幸中の幸いだった。運動誘発性肺出血。トレーナー試験にも出た症状で、このような喀血では最悪クラスのケースを免れていたのはまだ良い方だった。……まあ、血を吐いたことに変わりはない。
「とりあえず、容態モニターしながら今晩はここで安静にしましょか。血は収まったんやけど、動かすんはダメなんで。レースについては今後20日間は出走停止、もし交流出るとかやったらURA規程のほうのやり方でお願いします、そういう決まりなんで。
ウイニングライブはまた今度やけどダンスとかは控えめに。練習もだいぶ控えめに。あ、出走停止の届け出はこっちから受診書と一緒に出しときますわ。これでも診療所なもんで。」
「わかりました。」
医師が書類を書きながらつらつら、フランクに話す。……此方の言葉にも慣れなければ。
「一応、今日は付き添いもお願いしますわ。トレーナーさんはカッコカリやけど一応暫定の保護者なんで。」
案内され、個室へ。シグは経過観察のため別室で寝かせているらしいが、はたして食事は食べてくれるだろうか。そも、マトモに寝込んでくれるかどうかすら怪しいところではある。
………
………暇だ。書類は全部読んでしまった。
消毒液の空気もうざったくなり、外の空気を吸おうと正門を出ようとすると、門の前に街灯の光で人影がすぅ、と伸びていた。
「よう、オラ公の容態どないや。」
ハンチング帽に、コートを羽織った中年の男性が門の前に立っていた。髭にボサボサの髪、年季の入った衣類。そしてこちらを睨む目は歴戦の何かである。
……明らかに、不審者。こういう時にけしかけてくる輩は対策するのが警備の仕事……なのにゲートの両端に立っている2人はやれやれ、となぜかその男ではなく俺に目線を向けているように見える。
「……すみません、貴方は?」
「オイオイ、貴方は、て。ワテの言ったように処置やっとったやんけボウズ。」
「あ、あの叫んでた。」
たしか、血を吐き出させる、とか。
「ほれ、ちょっとこっち座りや。何、すぐ終いにするから。」
……警備員を呼ぼうと振り返ったが、明らかに「話、したりや。」とでも言いそうな目つきが2人分。
仕方なく、レンガの植え込みに座る。相手の手には、新聞とワンカップ。コースのほうへ乾杯、そして一口煽って語りだす。
「ワテが昔救急隊員やった頃な、当直明けの日は毎週ここ来とったんよ。酒飲んで、アテ食って、若いねぇちゃんらにうつつを抜かしてしとってな、カミさんには『アンタいつまでレース場居んのや!そない若い娘見とったって浮気でもする気!?』なんてよう言われたもんや。まあとうの妻やてウマ娘やし、ワテがいっちゃん好きなんは妻やからな!」
きっとかかあ天下に違いない。ウマ娘はいくつになってもウマ娘、その力の衰えはかなりゆっくりとしか進まない。
「そいである日……メインレースやったかな、オラ公が走っとるん見たんよ。荒っぽくて、勝とうと足掻いて、強うてな。ファンサやてちゃんとしてくれはったわ。あぁ、もしかしたら同い年ん時のカミさんより綺麗やったかもな、ガハハハッ!
しっかし、オラ公はほんま中央をギャフン言わしてくれるような、ここのスターやった。あないして、事故に遭わされるまでは。」
「……廃工場の。」
「せやせや、まあ何をどない見ても事故やのうて事件や、せやろ? 生きてただけ嬉しいんやけど、せっかくのべっぴんさんの顔があないなってもたんはほんま許さんわ。マトモな治療せえへんまんまこっち来て、あと数時間遅れとったら手遅れやったらしい。ほんま、これでダメやったら閻魔さんが地獄でカンカンやぞ。『
きっ、と眼が強張る。やはり地元の人々も勘づいていたのだろうか、誰が話しても同じように表情が曇る。
半分しか無いカップ酒をまた煽って、ふうと一息ついて。
「まあ、自治体で隠しとるだけはあるわ。バレたら皆クビ飛ぶんや、そないしてでも皆オラ公に夢を見とる。この先、あの娘が変えてくれると信じとる。」
「……夢。」
「そう、夢。昔みたいな、眩しいぐらいのレースがまた見たいんや。誰が勝つかもわからんような、ローカルやて希望を持てるような、そないなレース。」
「まあ、またレースあるようやったらまた見に来るわ。阪神か京都も待っとるで、それにまた血吐いたら同じようにやりや、兄ちゃん。」
空になったビンを自販機の横、青いゴミ箱へ放りこんで。
「気張りや。」
そう言って手を降りながら住宅地へ消えていく。不思議と、彼は厄介者ではないような雰囲気を漂わせながら。
せっかく外に出たので、大家さんにも連絡を取った。事情を話したところ、片付けた洗濯物を畳んでくれるらしい。
安堵して電話を切ってすぐ。
「トレーナーさーん、ちょっと来てもらえまっか。」
背後から呼ばれた。先程の医師が玄関からこちらへ手招きしている。
「っはい、今行きます。」
個室へ戻り、用意されていた白と黄色のカップへと湯を注ぎ入れて、医師と共に書類に目を通していく。
3分で用意された今晩の夜食……とはいえ、いつものカップ麺。手を合わせて、割り箸を割いて。吹いて冷ましては、ズズッ、と啜って。こういう時のクミンとターメリックのなんと心身に染みることだろうか。……書類とスーツにハネないかの心配があることだけを除けば。
「しっかし呼吸器アカンのかな……あの娘。酸素カプセルにでも入れたったらちょっとはマシなるんちゃう?本人があの空間好むんかは知らんけど。」
「酸素……カプセル?あの、ヒトのアスリートとかも使うような代物を?」
汁の絡んだ麺を噛みちぎり、飲み込んで問う。
そんなもの、中央ではシニア級の一線で走るウマ娘―――今ではほぼUCAC所属のウマ娘だけ―――ぐらいしか使えないような大人気のそれ。高額、高性能の機材がなぜ園田に?
「え、聞いとらへんの?今度こっちのトレセン学園に中央のお医者さんがそれやとかなんか色々医療機器持って来るって、理事はんら言っとらへんかった? それに元G1ウマ娘のお医者さんやし、せっかくやから診て貰いや、アンタら。」