そもそも、この話は最初から奇妙だなとは思っていた。
兵庫トレセン学園、園田分校への出向。これでも新卒1年目のはずだが、付いてくる先輩もアドバイザーのような者の人っ子一人いない。こういう時はせめて一人は付いてくるのが一般的、まだ一年目の俺にはハードすぎる仕事なのだから。
他の同僚は皆中央で少なくとも一人はウマ娘の指導にあたっているのに、俺だけが突如出張を命じられたのはやはりおかしい。あったとしてもまずは浦和だの名古屋だの、中央とも関係のある大手のところが選ばれるのが定石。それこそ、ここに飛ばされるようなまでの始末書を一枚すら書いた覚えはないし、ましてや厳重注意なぞ受けたこともない。何だ。何がきっかけだったのか。何が。
ふと、とある記録を閲覧したことが脳裏によぎる。
「模擬レースでのドーピング事件」「悪質な進路妨害」「被疑者は……」
……最後はたしか、生死不明の二文字。興味本位で覗いた倉庫の中、古ぼけたパソコンにあった重大事案。誰も話さない忌み嫌われた記録。
そして、「なぜ『旧版トレーナー教本の写し』のファイルに置いておくのか」という疑問。それに閲覧者も数名しかいない。
こうも大きな事件であれば、もっと大きな場所に残して再発防止などを議論すべきではないのだろうか。ドーピングなぞあってはならない。意図した進路妨害もそうだ。しかし地方の未勝利戦の斜行ですら詳細に残るのに、なぜこんなに大きな事件のデータが無かった?なぜ検査の結果やビデオの資料が無いのか?
誰が―――
「ッカー!!エエ風呂やったわ、ありがとうな!」
なぜかキッチンから声がした。振り返るとそこには、これといった布一枚たりと巻かず、ただ肩にバスタオルを掛けただけのシグが勝手に牛乳を開けてコップに注ぎ入れ……
肩にしかないバスタオル、風呂上がり。そう、裸。
「なっなななな何勝手に飲んでるの!?あと服着て服服服!」
慌てて目を伏せたために健康的な背中と火傷の痕、ボサボサの鹿毛のトリコロールだけが実体を伴わない残像として残った。
台所から背を向けていただけ幸運だった。しかしその斑の背中の凹凸でこの新人の眼でも理解してしまう。やはりこのウマ娘はアスリートとしての上澄みに立っている。
「いや、風呂上がりって言ったら牛乳やん。こうな、腰に手を当てて、瓶やのうてマグカップやけどこないして喉鳴らして……」
ごっきゅごっきゅと力強い音と、ばさっという何か重い布が落ちる柔らかい音。おそらく、纏っていた最後の布が肩からはだけ落ちた音。
「んー、やっぱりこれやわぁ……丸ごとコーヒー牛乳にしてええ?やっぱ砂糖多め、ミルク多め、あと練乳も……」
「その前に服とか着なさい!!ウマ娘が病気にならないとでも!?というか今丸ごとコーヒー牛乳にするって!?」
「ンなもん新しいの一本買えばええやん。でも服……というか肌着すらあらへんのに何を着るん?まさか全身タイツの着ぐるみとかコスプレ衣装でもあるんか?
いやまさか下だけ持っとるのも堪忍してや、大人の男のヒトが持っとるのはまずあらんやろ?……あー、いや否定はせえへんで、否定は。あんたがそういうシュミやったらまあ、『紳士の嗜み』とかでフリフリスケスケのレースのを持っとったり?ピンクは合わへんからモノトーンの無地、装飾あらへんやむつない?」
そうだった。あの身に纏っていた外套のようなボロ布は流石に汚かったので今は洗濯機の中で回っているが、正直着られるかどうかわからない。その下は長い端切れを胴に巻いただけのものらしく、服を脱いだあと捨てていたが今から河川敷へ拾いに行けどまず衛生面が良くないだろう。そして、男性の一人暮らしの自宅に女子高生の衣類一式なんてあるわけがないしそもそも俺はそういう性癖ではない。
「……じゃあ一旦タオル巻きなさいタオル!足元の白のそれ!」
「えー?あーこれ、布地がザラザラしとるから嫌やわ。身体拭くぐらいならええけど纏うにはどうも肌が好かん。柔軟剤ちゃんとしたやつ使いよ?それよりあんたのシャツとかでええか?重ねて着たら透けへんやろ。」
「……っ」
まあ、どうしようもないのでとりあえず着古したシャツとズボン―――といえど人前で着るには少し心許ないが無いよりかはマシなそれ―――を渡す。本人はおおきに、とぱぱっと着こんだ。オーバーサイズのシャツっぽくはなったが、これからずっと着させる訳にはいかない。ひとまず通販で一般的なサイズの下着を買うことにした。
「なーなー私これがいいー、こっちのメーカーの……」
スマホを弄っているとだいぶ口出ししてくる。一応初対面からまだ半日も経っていないのだが。しかし傷だらけの見た目に反して意外とそういうのはこだわ「身体は資本やで?ちゃんとしたもん着なお肌があかんことなる。まー今の私やと?既にぐっちゃぐちゃなんやけどな!ダァッハッハッハァ!」
……読心術でもできるのか?それに、タコの如く絡み付く四肢の肌や筋肉を見るにやはり上物だろうか、上物の朝引きささみのようなしなやかさやハリの良さから相当の筋力があるように見せる。それにしがみつかれている身体の痛みもそれの理由にもなる。
腕と、脚。瞬発力に長けた、健康的なベージュと濁った海老色に隠された微かに白っぽい筋肉。ガワはそうだとしても本人が嘲笑うような「ぐっちゃぐちゃ」なんかではない。相当のダイヤモンドがアスリートとしての価値を底上げしている。
しかし服抜きでまとわりつかれるのは本当に心臓に悪い。死人がヒトを殺してどうする。それも社会的に。
「せやせや、色々質問してええか?」
ふと、ぐるりと正面へ回り込まれる。抱きつかれたまま、
「……唐突すぎないか。」
「いやぁ気になる事とか多いんよなぁ。あと一つ聴かれたらそっちからも一つ聴いてもええよ? ま、答えられる範囲の中でやけどな。まあ最初は私から。名前は?」
「白渦 朗。ロウでいい。」
「はくか……はくか……。漢字は……」
「色の白に渦潮の渦、朗報の朗。」
「白……渦……ふーーん。シロウズとかあかん?」
シロウズ。たしかに「はくか」と初見で読めたヒトは誰も居なかった。シロウズはよく呼ばれる名だが、他はシローだのウッチャンだの過労ズとか言われたりもした。が、まあ自分だと分かればそれでいい。けれど過労ズはやめてほしかった。まるでここ最近を予言されたようで今はもっと腹が立つ。
「別に、構わないけど。」
「ほな、シロウズ。よろしく頼むで。」
右手を差し出されよろしく頼むで、とは言われたが、それが俺が質問すべきことに引っ掛かってしまった。
「よろしく、って……君、トレーナーは?あんなことになっていたけど、もうスカウトの時期は過ぎただろ?」
そもそもこうして家まで連れてきたのはひとまず服と飯、屋根を準備してあげることである。捨て犬を見てしまって何度連れ帰ったことか。きっとあの子たちのように引き取り手も居ると信じて。
アイドリング運転中の柴犬のような顔がダイヤルの如く傾く。
「トレーナー?おらんよ、元々。園田のフリーでやっとるし。」
……まぁ、トレーナーが居たなら少なくともあのような乞食の格好ではなかったはずではある。
「そら、こーんな傷まみれのウマ娘なんて世話したくあらへんやろ?……んしょ、っと。ほらここやろ……?」
身体から剥がれたかと思ったら、羽織っていたシャツをガバッと脱ぎ去るシグ。やり方は二枚貝が開いたかのようだが、中身はヴィーナスとは正反対、美しいとはお世辞にも言いがたい歴戦の……肉体?
そう、隠すものの無いゼロ距離の体。空気だけが俺とシグの間に挟まれた、上も下も何もかもがもろに見えるだけ。
「ッウワァァァ!?!?!?」
慌てて畳に突っ伏す。……少なくとも傷や火傷の痕のそれではない色々が見えたような気がするが傷よりも見たくはなかった。忘れたい。忘れさせろ。
「……いや、何しとるん?私はちゃんと確認させとるんやで?」
「確認ってなんだよ確認って!!急に服を脱ぐな!着ろ!布を纏え!というかまず異性にそんなにいとも容易く見せつけないでくれ!!お互いに社会的に生きられなくなるから!!」
当然である。異性は当然、同性だろうが風呂屋でも無いのに不必要でないタイミングで惜し気もなく肉体を露にするなぞ道徳の教科書にすら書くわけがない。常識のじの字。まだ野外でないだけマトモのまの字が残っていることを期待したい。
「いや、服が邪魔やん?ほらここの傷とか……」
「この傷はアイツらの道具が……」
「ここ私からは見えへんけど、この凹みの下の……」
まの字……頭のMすら無かった。目の前で何を見せられているのだろうか。赤ん坊みたいな動きをして、生の反対のような身体。
「えーと、順番抜かさせてもらうんやけど、なんで私を見いひんの?そんなショックやった?」
「……シグ。君が今やってること、わかる?」
「私の身体がどんなんか見せとるだけやで?」
「いやえっと……じゃあなんでそんなことをするの? 言葉で説明とかしないの?」
「あのなシロウズ。中古品買う時はな?こういう傷、欠け、ヒビ、あと染みとか使用痕とかそういうのちゃーーんと実物を自分の目で見いひんと大損するんやで?
「使用済みでも新品でも他人にそこまで身体は見せないものなの!まさか他の人にやってないだろうね、というか中古品じゃないでしょ君は!デビュー間もないはずの未成年だろ!?あとごめん、かしなんたらって聞いたこと無いんだけど何!?」
「んー?そらやらへんよ、トレーナーどころか警察官やてこんなの拾わんし。あと輸送途中で付いた傷なら割引品にはなるで?安く見積もって3割引とかお得でしかあらへんよ?それと瑕疵担保責任言うのは……」
常識が通用しない……いや、無い。ゼロ、というよりもNull。虚無の、欠如しているコモンセンスと身体をこれでもかと見せつける。
夏の開放的な人ですらここまでやることはない。
それに、身体の隅々まで見せつける理由すらおかしい。「中古品」と言えどそもそもヒトもウマ娘も商品ではない。
それに正直3割引にするにしてはキズが多い。俺が割引する店員なら残念だが廃棄処分にしてしまおうか考えてしまうほどだ。彼女が言う欠陥、ならそれそのものに値段はつけられない。
けれど廃棄するぐらいなら無断で持ち帰ってしまいそうな、原石。
「ほら、まだここにも傷あるんやで?」
背中と足の裏を向けて屈もうとするシグにすかさず手元のブルペンからもうすぐ今シーズン引退の毛布捕手を向かわせる。フライアウト、攻守交代。勝利投手は俺自身。
「うわぁっ!なんやなんや、また包まれるんか!?」
「これにくるまってなさい!風呂上がりで身体冷やすから!というかまだ春だからなおさら暖めなさい!」
六畳一間のリビングのリングでもみくちゃになる。突如不意に蹴られるが、今まで「ウマ娘はこういうので骨折するからな」とトレーナー過程で繰り返し聞いていたほど痛くなかった。
抵抗されながらもとりあえずシグをおくるみにしてやった。赤子のくせして可愛げの無い傷まみれのお顔と過激な関西訛りの産声はベテランの助産師に泡を吹かせて気絶させるには十分。
「……で、そういえば質問二つしたんわかる?」
「え、俺はトレーナーの有無聞いたぐらいで……」
いや、確かにもう一つの質問の履歴が脳裏に滑り込んできた。
「……あんなことをなんでするか、も入るの?」
あったりまえやーん、と言うようにニマッと口元が上へと歪んでいくシグ。
「ほな、二つ質問するで。一つ。あんたはUCACの犬か?」
瞬きと同時に目が変わる。先程までおちゃらけていた目ではない、見たことの無い……いや、一度だけ見た。高校生の時に友人たちと年齢を偽って見に行った18禁の映画の、あの冷酷な殺人鬼の眼。そんな目をしていた。冷たい瞳孔。その人殺しの眼球が二つ、視線の銃口を突きつける。
UCAC。正式名はたしか、ウマ娘クリエイティブアソシエーションアンドクラブ。トレーナーやウマ娘でここに籍を置き、成功しなかった者はいない超の付く名門。
「ウマ娘による時代の創造性を支援する」とうたってPRは大々的に、冠番組だの新聞のコラムだの、なんなら中央でG2などの冠レースなんかもある。周年にはG1に名前が入っていた程だ。
トレーナーの組合としての面もあり、UCAC所属かそのトレーナーにスカウトされたウマ娘には補助や優待を初めとして多くの優遇がある。比較的新しい団体らしいが既に権力や名声は莫大なもので、地方レース組合のNARは勿論、かのURAすら凌駕し始めていた。
「……いや、入れさせて貰えなかった。」
「ん、なんや変な言い方やな。んな拒否とかあるん?」
「あるからこうなってるんだけど。」
「ほな、心当たりとかあらへん?上司の顔面でも蹴り飛ばした?何ダメージ出たん?」
「同期の皆はUCACに入れたんだけど、俺だけ加入で弾かれてさ。拒否された理由とかは記載が無かったけど、少なくともドロップキックもタイキックもやってない。」
取り出したトレーナーライセンスにある空白欄の「所属」を見せると、引き金から指が離れて殺し屋の目はホルスターへ納められた。……最初は入れなかったことは悶々としていたが、もしも今入っていたらと考えてしまい心の臓がおかしな動きをしてしまう。
「ほー、それなら私も安心安心、や。」
謎。協会に所属できたのならばほぼ確実にスターになれるのに、UCACに入っていないのが『安心』?
「何や、私がなんでそんなあいつらに殺意向けとるか知りたいん?」
「……気にはなる。気には。」
「まあ二つ目の質問の参考にもなるやろうし、一緒に話そか。」
また、殺戮者の目。けれど、まるでそれは、依頼人に慈悲を向けるように。
「シロウズ、私の共犯者にならへんか?トレーナーとして、アイツらに消された私を供養するための、復讐の共同正犯に。」