扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜながら笑った。
「何がよ?」
「知らねェ場所で目を覚ます奴だよォ」
顧大嫂が酒を含んだまま頷く。
「しかも知らない服を着せられてたんだろ?」
「そうなのよ! 部屋も灯りも匂いも違うし、スマホもないの!」
「そこで三娘、何をした?」
「……頬をつねった」
二人が同時に吹き出した。
「二回なァ!」
「なんで知ってんのよ!!」
孫二娘は腹を抱え、顧大嫂は椀を置いて笑っている。
「で、中国語も喋れなかったんだろォ?」
「そこが一番怖かったの! 転生初日に言葉が通じなかったら終わりでしょ!」
「物の怪扱いかねぇ」
「最悪、火刑だよォ」
「笑いながら焼くな!!」
アタシが怒鳴ると、二人はますます笑った。
あの時のアタシは知らなかった。
次に聞こえた言葉を――
なぜか、全部理解できることを。
夜は、少し湿っていた。
階段に足をかけるたび、硬いヒールの音が、古びたアパートの外廊下へ小さく返ってくる。
見上げれば、蛍光灯の白い明かりが湿った空気の中でにじみ、塗装の剥げた壁をぼんやり照らしていた。
こんな時間だから、人の気配はない。
遠くで電線が揺れている。
どこかの道路を車が一台走り抜けたらしく、音だけが建物の隙間を通って消えていった。
アタシは青灰色のスーツの上着を片手に、自分の部屋へ向かっていた。
仕事帰りの独身女で、今夜も恋人との約束どころか、誰かと食事をする予定すらない。
こうして自分の現状を頭の中で確認すると、人生の在庫整理をしているみたいで腹が立つ。
しかも年齢イコール彼氏いない歴という、履歴書には絶対に書かなくていい経歴まできっちり更新中だ。
顔にはそれなりに自信があるし、スタイルだって悪くない。
むしろ、鏡を見る限りでは世間の男どもが見る目を失っている可能性の方を疑いたい。
ただし、誰も異議を申し立ててくれない。
自分の部屋の前まで来ると、バッグから鍵を出した。
金属は外気に冷やされていて、指先へひやりとした感触が伝わる。
鍵穴へ差し込み、ひねる。
かちり、と乾いた音がした。
たったそれだけで、肩から力が抜けた。
ここが帰る場所だと、毎晩同じ音に教えられている気がする。
扉を開ければ、当然ながら室内は静まり返っていた。
「ただいま」
言ってから、すぐに後悔した。
返事がある方が怖い。
電気を点ける。
淡い光の中へ、見慣れた家具が浮かび上がった。
ベッド、机、カーテン、壁際に積んだ本。
朝に飲み残したペットボトルと、出かける直前に放り出した小物まで、そのまま残っている。
当たり前だ。
泥棒が入って片づけて帰ったのでなければ、変わっているはずがない。
それなのに、扉を閉めた瞬間、小さく何かが鳴った。
木でも、金属でもない。
硬い何かが触れ合ったような、短い音だった。
アタシは上着を持ったまま動きを止めた。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
冷蔵庫は動いているはずなのに、その音さえ妙に遠い。
隣の部屋の住人はいつもならこの時間にテレビを点けている。
それも聞こえない。
廊下を歩いていたときより、部屋へ入ってからの方が静かだった。
いや、静かというより――
音を吸われているみたいだった。
「……何これ」
口にした自分の声が、やけに近い。
視線だけで部屋をなぞると、ベッドも机もカーテンも、壁際の本も飲み残したペットボトルも鞄も、見慣れた場所にきちんと収まっている。
配置まで合っているのに、自分の部屋を誰かが寸法通りに作り直した偽物みたいに見えた。
嫌な想像をしたせいで、急に背中が寒くなった。
アタシは一歩進んだ。
床が軋む。
その音だけが、馬鹿みたいに大きい。
「……こんな床、鳴ったっけ?」
声に出した途端、もっと嫌になった。
毎日暮らしている部屋なのに、すぐ答えが出てこない。
覚えている。
間違いなくここで寝て、朝は目覚ましを止め、顔を洗い、仕事へ行った。
帰宅すれば適当に食べて、お風呂に入り、動画を見ながら寝落ちする。
華やかさの欠片もないが、少なくともアタシの生活だった。
なのに今夜は、ひどく馴染まない。
空気が一枚、薄い膜をかぶっている。
疲れているだけだ、と決めることにした。
こういう時、人間は便利だ。
説明できないことの大半は「疲労」で処理できる。
肩こりも、頭痛も、人生への疑問も、だいたい疲労のせいにしておけば一晩くらいは逃げられる。
ネクタイを緩め、上着を椅子へ掛けて洗面所へ向かった。
鏡の中には、短い髪に淡い化粧、灰色がかった目をした疲れた女がいる。
顔立ちは悪くない。
ここは譲らない。
こんな状況でも自分の容姿の評価だけは下げないあたり、精神は案外元気らしい。
蛇口をひねると、水音が狭い洗面所へ広がった。
冷たい水で化粧を落とし、濡れた手で額に触れる。
熱はなく、顔色もまあ普通で、目の下に少し疲れが出ているくらいだった。
「寝れば治る」
たぶん……
何が治るのかは知らないけど…?
その夜は食事をする気にもならず、簡単に着替えてベッドへ入った。
照明を消すと、カーテンの隙間から街灯の白い筋だけが床へ伸びる。
シーツは少し冷えていた。
身体を横たえると、スプリングが沈む。
その感覚に安心した。
いつものベッドだ。
ここまで現実なら、さっきの違和感なんて単なる疲れに決まっている。
そう思いながら目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと妙なことを考えた。
もし明日の朝、全然知らない場所で目が覚めたらどうしよう……
漫画や小説なら、そこで異世界転生である。
いやいや――
そんなもの、読む側だから笑えるのであって、実際に起きたらただの拉致か脳疾患だ。
しかもアタシには剣も魔法もない。
あるのは会社員経験と、そこそこ高いヒールで長時間歩ける脚力だけ。
異世界で役に立つ気がしない。
そんな馬鹿なことを考えているうちに、意識はゆっくり沈んでいった。
どれほど眠ったのか分からず、夢を見ていたような気もすれば、何も見ていなかったような気もする。
ただ、暗いところで誰かに名前を呼ばれた。
――「扈三娘様」
知らない名前だった。
なのに、呼ばれた瞬間、胸の奥が反応した。
アタシじゃない。
そう思った。
アタシはそんな名前じゃない。
扈三娘なんて、いかにも古典の登場人物みたいな名前――
そこまで考えたところで、乾いた音がした。
小さな木片を打ち合わせたような音。
続いて、遠くで戸が開く。
空気が動く。
誰かの足音が近づいてくる。
その音を聞きながら、意識が浮かび上がった。
閉じたまぶたの裏へ、やわらかな明るさが滲んでいる。
朝には早い。
そう思いながら目を開けて――
アタシは固まった。
知らない天井だった。
「……はい?」
声だけが出た。
目の前にあるのは、アパートの白い天井じゃない……
木の梁が走り、その向こうに薄暗い天井板が見える。
横を向く。
小さな火が灯っていた。
行灯?
いや、たぶん行灯。
実物なんて見たことないけど、時代劇で見るやつにしか見えない。
「いやいやいや」
寝起きの頭が、急速に仕事を始める。
ここはどこ?
ホテルでも、旅館でもない。
何かの撮影所?
誰が何のためにアタシを寝ている間に時代劇のセットへ運ぶんだ?
そんな悪ふざけに金をかける友人はいない。
というか、まず友人がそこまで暇じゃない。
身体を起こしかけたところで、胸元の布が目に入った。
白い合わせの衣。
シャツじゃない。
パジャマでもない。
病院の服でもない。
「……何着せた?」
思わず自分へ聞いてしまった。
もちろん答えは出ない。
布をつまむ。
薄くて柔らかい。
織り目も分かる。
安いコスプレ衣装のつるつるした生地ではなかった。
そこで、ようやく手そのものに目がいった。
細く白い指は、昨日までの自分より明らかに長く見えた。
手首まで妙に華奢で、どう見ても――
見覚えがない。
「待って」
両手を顔の前へ持ち上げた。
動かせるし、感覚もある。
指を曲げれば当然のように曲がるのに、見れば見るほど自分の手ではなかった。
爪の形も、指の長さも、手首の細さも、昨日まで毎日見ていたものとは違っている。
一気に眠気が消えた。
髪へ触れる。
長い。
「ちょっと待て」
今度はさっきより強く声が出た。
アタシはウルフカットだった。
それだけは昨夜まで絶対に間違いなかった。
なのに指の間を滑る髪は、肩どころか胸元まで落ちてくる。
この時点で、脳内会議は完全に炎上した。
拉致なら髪は伸びない。
記憶喪失でも手の形は変わらない。
整形でも一晩で全身は無理。
夢――
これが一番まともだ。
アタシは自分の頬をつねった。
痛い。
「夢って痛い場合もあるから」
誰に言い訳しているのか分からない。
もう一度つねった。
やっぱり痛い。
「二回やって何が変わるのよ……」
さすがに自分でも馬鹿らしくなった。
部屋を見回す。
壁は木と土でできていて、窓には見慣れたガラスさえなく、格子の向こうでは朝らしい白さが広がり始めている。
鼻先には乾いた木と薬草、それに藁のような匂いが届く。
冷暖房の気配はない。
コンセントもない。
そして、いつも枕元へ置くはずのスマホがどこにもないことに気づき、別の意味で血の気が引いた。
異世界転生より先にスマホの心配をしている自分が情けないが、現代人にとって通信手段の消失は文明の断絶そのものだ。
「……まさか」
口にしたくない単語が、頭の中へ浮かんだ。
口にしたくない単語は、転生だの転移だのと、現実ではまず使わない方向へ勝手に広がっていく。
どちらにせよ良くないし、むしろ最悪だ。
もし本当に古い時代へ来ているなら、アタシは歴史の知識なんて授業で習った程度しかない。
戦国時代なら有名武将の名前くらい分かる。
三国志なら有名どころを何人か知っているし、平安時代なら紫式部くらいは分かる。
でもさっき呼ばれた名前は――
扈三娘。
「……誰?」
本気で知らない。
ただ、どこかで耳にしたような気がしなくもない。
中国っぽい。
しかも三娘ってことは三女?
そこまで考えてから、もっと根本的な問題に気づいた。
「アタシ、中国語しゃべれないんだけど?」
詰んだ――
転生開始数分で言語問題が発生した。
せめてチュートリアルくらい付けてほしい。
異世界ものなら神様が出てきて説明するとか、ステータス画面が開くとか、便利な自動翻訳があるとか、そういう最低限のサービスがあるはずだ。
何もない。
あるのは知らない身体と、行灯と、薬草臭い部屋だけ。
運営が不親切すぎる。
その時、薄い布の向こうで影が動いた。
アタシは息を止めた。
誰かいる。
足音は一人。
ゆっくり、こちらへ近づいてくる。
まずい……
何を話せばいい。
日本語で通じるのか。
そもそもこの身体の持ち主が誰で、どんな性格で、家族が誰で、敵が誰なのか、一切分からない。
初対面のふりをしたら不審がられる。
記憶喪失を装う?
いや、本当に記憶ないけど。
下手をすると医者ではなく祈祷師を呼ばれる時代かもしれない。
もっと悪ければ、物の怪扱いで焼かれる。
転生一日目、火刑。
そんな最短記録は作りたくない。
布の向こうの影が止まった。
アタシは無意識に寝具を握りしめる。
逃げ道を探す。
窓は遠いし、履物も見当たらず、武器になりそうなものもない。
反射的にスマホを探しかけて、だから無いんだって、と心の中で自分へ突っ込んだ。
こんな時まで現代人の癖は抜けないらしい。
喉が鳴った。
影が、こちらへ手を伸ばす。
薄布がわずかに揺れた。
夢なら、ここで醒めてほしい。
そう思った。
けれど、影は消えなかった。
行灯の灯りも。
薬草の匂いも。
白い合わせの布も。
何ひとつ、消えてくれなかった。
そして、静かな足音が、アタシの知らない朝を連れて、すぐそこまで来ていた――
玉楼でございます。
「それで三娘のところへ、誰が来たんだい?」
顧大嫂様が酒の椀を置くと、孫二娘様が鍋を覗き込みながら笑いました。
「そこは次回だよォ」
「勝手に引っ張らないでくださいませ」
「玉楼、固いねェ。あとがきなんだから煽らなきゃ」
「煽る場所なのでございますか?」
幕舎の外から声が飛びます。
「アタシを勝手に次回予告に使うな!!」
顧大嫂様が笑いました。
「元気そうじゃないか」
「今はね!! あの時は誰が来るのか分からなくて死ぬほど怖かったの!」
孫二娘様が頷きます。
「でも、その相手の言葉は分かったんだろォ?」
外が静かになりました。
あの日、三娘様が最初に驚いたのは、相手の顔ではございません。
知らないはずの言葉が――
聞き慣れた言葉のように、耳へ入ってきたのでございます。