扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。
「逆じゃないのかァ?」
「昼はね。揉め事に飛び込みそうになったから」
顧大嫂が酒を置く。
「玉楼を止められるようになったか」
「ところが夕方、今度はアタシが飛び出しかけた」
「で?」
「玉楼に袖掴まれた」
二人が吹き出した。
「交代制かよォ!」
「違うわよ!!」
でも、そのおかげで見えた。
黙って揉め事を収める杜遷。
笑いながら酔っ払いを転がす阮小五。
梁山泊には、同じやり方をする人なんていない。
玉楼が前なら、アタシがその先を見る。
アタシが前なら、玉楼が見る。
顧大嫂が笑った。
「半歩ってのも忙しいねぇ」
そう、たぶんもう――
半歩は、前に立つためだけの距離じゃない。
昼を過ぎる頃には、梁山泊の空気にも少しだけ慣れていた。
慣れたと言っても、安心したわけじゃない。
鍛錬場の掛け声がどこから聞こえるのか、荷車が通る道はどこなのか、見張りが交代する頃になると足音が増える――その程度のことが分かり始めただけだ。
昨日までなら、何か音がするたびに身構えていた。
今は違う。
「あ、鍋」
「はい?」
「今の音。鍋の蓋」
玉楼が振り返る。
「左手奥の炊事場かと存じます」
「そこまで分かるの?」
「煙が上がっておりますので」
見ると、本当に屋根の向こうから細い煙が上がっていた。
「……アタシ、音だけで当てたのに」
「お見事でございます」
「玉楼に褒められると、急に幼児教育みたいになるのやめて」
意味が分からなかったらしく、玉楼は首を傾げた。
林冲に「まず見ろ」と言われてから、まだ一日しか経っていない。
なのにアタシは、完全に研修中の新人みたいになっていた。
違うのは、会社なら先輩社員の名前を覚えれば済むところを、こっちは下手すると相手が槍を持っていることくらいだ。
研修環境が物騒すぎる。
アタシと玉楼が道を歩くと、向こうから来た兵が少し端へ寄った。
別の男は一瞬こちらを見て、わざと顔を逸らす。
そのまた向こうでは、二人組が何か囁いていた。
「……見ていますね」
玉楼が言った。
「見せてるのよ」
「三娘様が、でございますか?」
「林冲が」
玉楼の足が、ほんの少し緩む。
アタシも昨日までは気づかなかった。
林冲はアタシたちを奥へ隠さなかった。
捕虜だった女を自分の麾下へ入れたなら、普通はしばらく目立たないところへ置くものじゃないの?
知らないけど。
少なくともアタシならそうする。
面倒だから。
でも林冲は違った。
朝の鍛錬場へ呼び、兵の前へ立たせ、それから梁山泊の中を好きに――完全に好きではないけど――歩かせている。
「アタシたちを見せて、向こうの反応も見てるのね」
「林冲殿が?」
「たぶん」
昨日、王英が絡んできた時もそうだった。
誰も止めなかった。
誰も助けなかった。
でも、笑った奴はいた。
王英に近づかなかった奴もいた。
アタシが王英を見ていたのと同じように、梁山泊の連中もアタシを見ていた。
「……嫌な研修ね」
「何のことでございますか?」
「こっちの話」
その時、前方で怒鳴り声がした。
「だから俺の番だって言ってんだろ!」
「昨日も使ったのはお前だろうが!」
見ると、荷車を挟んで男が二人、睨み合っていた。
昼なのに片方の顔は赤い。
酒臭さが、ここまで漂ってくる。
「昼から飲んでる……」
「先ほどのお話どおりでございましたね」
「そこ回収しなくていいのよ」
朝、山賊なら朝から酒を飲んでいる奴もいるんじゃないかと言った。
いた。
梁山泊、変なところで期待を裏切らない。
揉めている二人の周りには、すでに何人か集まっていた。
止める者はいない。
笑っている奴がいる。
面倒そうに避ける者もいる。
荷車を使いたそうにしているのに、巻き込まれたくないのか遠巻きに待っている男までいた。
玉楼の足が前へ出る。
アタシは反射的に、その袖を掴んだ。
「三娘様?」
「待って」
「ですが」
「見るの」
玉楼が二人を見る。
「殴り合いになれば?」
「その時は止める」
「どちらが?」
「……玉楼が」
「承知しました」
「そこはアタシも入れてよ」
玉楼は何も答えなかった。
信用されてない。
戦闘力じゃなく、止め方の問題な気がする。
揉めていた男の一人が荷車の柄を掴んだ。
もう一人も掴む。
引っ張り合いになった。
周囲の笑いが少し大きくなる。
まだ誰も動かない。
どこまで行ったら止めるの?
そう思った時、人垣の後ろから大柄な男が出てきた。
髭が濃い。
肩幅も広い。
その男が近づいた途端、笑っていた連中が少しだけ場所を空けた。
男は何も言わず、荷車まで歩く。
それから二人の間に手を入れた。
「順番だ」
それだけだった。
怒鳴りもしない。
脅しもしない。
でも二人の手が離れた。
「昨日はこいつが――」
「昨日は昨日だ」
「だけどよ」
「次はお前だ。それで終いだ」
終わった。
本当に終わった。
さっきまで掴み合い寸前だった二人が、まだ不満そうな顔をしながらも離れていく。
「……何それ」
思わず漏れた。
玉楼がこちらを見る。
「何がでございますか?」
「説得、三行で終わった」
「十分だったのでしょう」
「会議しないの?」
「何を会議なさるので?」
正論が痛い。
大柄な男は、そのまま荷車の片側を持ち上げ、車輪を確かめてから押し始めた。
揉めていた本人より働いてるじゃん。
近くにいた兵へ声をかける。
「ねえ、あの人誰?」
兵がぎょっとした。
「知らねえのか?」
「知らないから聞いてるの」
「杜遷様だよ」
「杜遷……」
名前を頭へ入れる。
また知らない名前。
林冲、宋江、王英、梁山泊。
聞くたびに、どこかで引っかかるものはあるのに、そこから先が出てこない。
杜遷も同じかと思ったけれど――何もない。
本当に何もない。
「……これは知らないのね」
「はい?」
「何でもない」
杜遷は一度もこちらを見なかった。
アタシたちがいることに気づいていないとは思えない。
でも近づいてこない。
見せつけることもしない。
ただ揉め事を止めて、必要な方へ荷車を回した。
「止める人もいる」
「はい」
「でも、誰も彼に頼まなかった」
玉楼が少し考える。
「頼まれる前に動かれたのでしょう」
「そういう人なんだ」
梁山泊の輪郭が、また少し増えた。
林冲の命令だけで動いているわけじゃない。
宋江が全部決めているわけでもない。
必要だと思った人間が勝手に穴を埋めて、それで何とか回っている。
会社だったら属人化が酷いと言われそうだけど、山賊だからセーフなの?
いや、何がセーフなの。
「行きましょう」
玉楼が半歩前へ戻る。
アタシも歩き出した。
その半歩を見て、ふと思う。
昨日まで玉楼は、何かあれば必ず先に出た。
さっきもそうだった。
でもアタシが止めたら、止まった。
以前ならたぶん、止まらなかった。
それも変化なのかもしれない。
三娘様を守る。
それだけじゃなく、そのために何をするか考え始めている。
……林冲。
本当に教官じゃん。
嫌だなあ。
夕方が近づくにつれて、梁山泊の空気は少しずつ変わっていった。
鍛錬場の掛け声が減り、代わりに炊事場から立つ煙が増える。
昼間は急いでいた兵の足も、わずかに緩んでいた。
水場には桶を運ぶ女たちがいて、鎧を洗っている兵がいる。
その脇を子供が走り抜けた。
「山賊の砦で子供が鬼ごっこしてる……」
「元気で何よりでございます」
「アタシの中の山賊像が毎日壊されていくんだけど」
「新しくお作りになればよろしいのでは?」
簡単に言うな。
でも、たぶん玉楼が正しい。
知らないものを、知っているつもりで当てはめようとするから混乱する。
梁山泊は梁山泊。
今見えているものから覚えるしかない。
「離せって言ってんだろ!」
また怒鳴り声がした。
「……本日二件目」
「酒でございますね」
「何で分かるの?」
「千鳥足でございます」
見ると、本当に酔っていた。
若い兵の胸ぐらを、別の兵が掴んでいる。
周囲には数人。
今度は昼より空気が張っていた。
掴まれた側も怒っている。
このままなら殴る。
そう思って、アタシの足が前へ出た。
その袖を、今度は玉楼が掴んだ。
「何?」
「少々、お待ちくださいませ」
朝までなら逆だった。
アタシは玉楼を見る。
玉楼は揉めている二人ではなく、その斜め後ろを見ていた。
そこから細身の男が歩いてくる。
軽い足取りだった。
急いでいるようには見えない。
でも妙に速い。
「来ます」
玉楼が囁く。
男が二人の間へ入った。
酔った兵が振り向くより先に、その腕を取る。
捻った――ように見えた次の瞬間には、男の身体が地面へ転がっていた。
「え?」
何した?
力任せじゃない。
殴ってもいない。
なのに倒れた。
細身の男は相手の腕を離し、何事もなかったように立ち上がる。
「飲むなら寝る前にしろよ。夕餉にもまだ早いぞ」
周囲から笑いが起こった。
倒された男が何か言おうとする。
「まだやるか?」
細身の男が笑う。
酔っ払いは黙った。
「また朱貴殿に怒鳴られるぞ」
誰かが言う。
「俺は嫌だね」
それで終わった。
昼の杜遷とは全然違う。
あっちは立って、言葉で止めた。
こっちは転がして、笑って終わらせた。
なのに、どちらも後へ残さない。
倒れた桶を誰かが起こし、水を汲み直す。
周囲の人間もすぐ日常へ戻った。
「……今度は誰?」
近くにいた女へ聞く。
「阮小五様ですよ」
「阮小五」
また名前を覚える。
阮小五はこちらを見た。
一瞬だけ目が合う。
アタシが見ていることまで気づいている顔だった。
軽く口元を上げたけれど、こちらへ来ることはなく、そのまま人の間へ紛れていった。
「……あの人、絶対こっち見てた」
「はい」
「玉楼も気づいた?」
「先に」
「それ言う?」
「事実でございますので」
くっ。
でも、今回は玉楼に止められた。
アタシが先に飛び込もうとして、玉楼がその先を見つけた。
昼は逆だった。
玉楼が前へ出ようとして、アタシが止めた。
どっちが前なのか、もう決まっていない。
必要な方が出る。
もう一人が、その先を見る。
「……なるほどね」
「何がでございますか?」
「半歩って、前後だけじゃないのかも」
玉楼は答えなかった。
ただ、少しだけ考える顔をした。
梁山泊は、誰か一人で回っているわけじゃない。
林冲が全部を押さえているわけでも、宋江が全部を見ているわけでもない。
杜遷みたいに黙って止める人がいる。
阮小五みたいに笑って転がす人もいる。
止めない人もいるし、面白がる人もいる。
昨日のアタシなら、たぶん全部まとめて「山賊」で終わらせていた。
今は、少し違う。
一人ずつ、顔が見え始めている。
それが良いことなのかは、まだ分からない。
敵なら敵のままでいてくれた方が簡単だった。
嫌えばいい。
警戒すればいい。
でも、人の顔が見えてしまえば、それだけでは済まなくなる。
梁山泊は、少しずつ面倒な場所になっていた。
そして――たぶん林冲は、それを最初から分かっていた。
戦わせる前に、ここを見せた。
誰が命を聞くのか。
誰が勝手に動くのか。
誰が揉め事を止め、誰が笑って眺めるのか。
それを知らずに人を率いれば、戦場で後ろから崩れる。
「……先生、本当に嫌な課題出すわね」
「林冲殿のことでございますか?」
「他に誰がいるのよ」
「良い教えかと存じます」
「玉楼、先生側に回らないで」
「事実を申し上げただけでございます」
最近それ便利に使ってない?
風が吹く。
水場の水面が揺れ、夕餉の煙が空へ伸びていく。
遠くで、また鍋を叩く音がした。
夕方が近い。 梁山泊の一日が、 また次の空気へ変わろうとしていた。
玉楼でございます。
「玉楼、三娘に袖を掴まれたんだって?」
顧大嫂様が酒を置きました。
「はい、止まれとのことでしたので」
孫二娘様が鍋を混ぜます。
「素直に止まったのかァ?」
「三娘様のご判断ですので」
幕舎の外から声が飛びました。
「その夕方、アタシの袖掴んだでしょ!!」
「必要でございました」
「即日でやり返すな!!」
顧大嫂様が笑います。
「どっちが護衛なんだい?」
「わたくしでございます」
「そこは譲らないのかよォ!」
もちろんでございます。
ですが、昼は三娘様が私の先を見て、夕方は私が三娘様の先を見ました。
半歩前に立つだけでは、もう足りないのでしょう。
ならば次は――
三娘様が踏み出す、その一歩先を見ておきます。