扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜながら笑う。
「林冲の新人研修、飯場で実務編に入ったかァ?」
「しかも玉楼だけ先に水運びへ採用された!」
顧大嫂が酒を置いた。
「できないって言ったのはアンタだろ」
「本人が言うな!!」
「で、三娘は?」
「椀を数えさせられた」
孫二娘が吹き出す。
「武将の初仕事が棚卸しかよォ!」
「途中で分かんなくなった!!」
「見るの得意になったんじゃなかったのかい?」
「人と椀は違うの!!」
でも、顧大嫂の言ったことだけは残った。
止めるだけじゃ、明日には続かない。
誰かが飯を作り、怪我人を食わせ、人を動かす。
「回すんだ」
梁山泊には――
戦わなくても、強い女がいた。
火の匂いが、少しずつ濃くなっていく。
夕方の支度が始まったらしく、水場を離れてしばらく歩くと、薪の爆ぜる音に大鍋の蓋が鳴る音、まな板を叩く包丁の音まで重なって聞こえてきた。
「……今度は何の研修?」
「お食事ではございませんか?」
「食べるだけなら研修じゃないのよ」
そう言ったものの、林冲から次の指示は来ていない。
ということは、まだ「見ろ」が続いているのだろう。
課題だけ渡して採点基準を教えないあたり、本当に嫌な教官である。
飯場へ近づくにつれて熱気が増し、いくつもの大鍋の間を女たちが忙しく行き交っているのが見えてきた。
水を運んできた者が空の桶を持つ者と入れ替わり、薪を抱えた娘が火の前へ入れば、その背後を器を積んだ女がするりと抜けていく。
忙しいのに、妙にぶつからない。
「これ、誰かが決めてるの?」
玉楼も人の流れを追いながら答えた。
「恐らくは」
「誰が?」
答えは、すぐ向こうから飛んできた。
「そこへ置くんじゃないよ! 通れなくなるだろ!」
声の主は、大鍋の向こうに立つ身体つきのしっかりした女だった。
袖を肘までまくり上げ、自分の鍋を見ながら、離れた場所の動きまで拾っている。
「負傷兵の分は先に取っときな! そっちは薪を一度に突っ込むんじゃないよ。火を殺したら煮えるもんも煮えないだろ!」
注意された者は言い返さず、かといって怯えて固まることもなく、すぐに手を動かした。
怒鳴っているのに、場が乱れない。
むしろ、あの声が飛ぶたび流れが整っていく。
「三娘様」
「うん、たぶんあの人ね」
「はい」
何を確認したわけでもないのに通じた。
あの女が、この場所を回している。
そう思った直後、その本人がこちらを向いた。
目が合う。
嫌な予感がした。
こういう人は見つけるのが早い。
「あんたら、そこで何してんだい?」
ほら……
周りの女たちがこちらを見かけたが、その女が一度視線を流すだけで、すぐ仕事へ戻っていった。
玉楼が自然に半歩前へ出る。
女はそれを気にも留めず、アタシと玉楼を一度ずつ見てから鼻を鳴らした。
「林冲のところへ入った二人だね?」
「そういうことになったみたい」
「みたい、って自分の話だろ?」
初手から強い。
「アタシもまだ状況整理中なのよ」
「整理してる間にも腹は減るよ」
返しも速い。
何なの、この梁山泊……
林冲といい、この女といい、会議という文化をどこかへ置いてきてない?
「顧大嫂様、こっちの鍋を」
近くの娘が呼ぶ。
顧大嫂と呼ばれた女は振り向きもせず、「見えてるよ。火を弱めな」と返した。
顧大嫂――
また知らない名前だった。
林冲や宋江、王英の時みたいな引っかかりすらない。
本当に知らない人らしい。
顧大嫂は今度は玉楼を見る。
「そっちは三娘の侍女かい?」
玉楼の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「三娘様のお側におります」
「侍女じゃないとは言わないんだね?」
「ですが、それだけではございません」
あ、来た。
声は丁寧なのに、一歩も引かない時の玉楼だ。
ところが顧大嫂は、しばらく玉楼を見ただけで「ああ、そうかい」と流してしまった。
「え?」
思わずアタシの方が声を出す。
「何だい?」
「いや、もう少し揉めるかと思った」
「何であたしが揉めるんだい?」
「玉楼、今ちょっと圧出してたでしょ?」
「出しておりません」
「アンタは黙ってて」
顧大嫂が鼻で笑った。
「面倒くさい二人だねぇ」
初対面からまとめて面倒扱いされた。
しかも否定しにくい。
顧大嫂は大鍋の蓋を開け、立ち上った湯気の向こうから言った。
「で、手伝うのかい? 見物なら邪魔にならないところへ行きな」
「手伝っていいの?」
「何ができる?」
即座に聞き返され、アタシは飯場を見回した。
料理そのものなら前の世界でもやったことはある。
だけど目の前にあるのは一人分や二人分じゃない。
大鍋が並び、何十人分もの器が積まれ、負傷者用らしい薄い粥まで別に用意されている。
家庭料理と大量炊き出しを同じ技能欄に入れないでほしい。
「……たぶん、今のアタシが入ったら邪魔」
顧大嫂が初めて少し笑った。
「そこまで分かるなら上等だ。端で見てな」
褒められたらしい。
梁山泊に来てから褒め言葉まで判定が難しい。
「三娘様」
玉楼が声をかけてきた。
「わたくしでしたら、水や薪を運ぶ程度はできます」
「玉楼、できるの?」
「運ぶだけでございますので」
顧大嫂が聞きつけて、「じゃあ水だ。向こうの桶を二つ、いっぱいにはするんじゃないよ。こぼした分だけ仕事が増える」と即座に仕事を振った。
「承知いたしました」
玉楼が行ってしまった。
「ちょっと待って。アタシだけ見学?」
「できないって言ったのはアンタだろ」
「そうだけど!」
何だろう、この置いていかれた感じ。
玉楼だけ先に職場体験へ進んだみたいで、地味に悔しい。
その時、器を運んでいた若い娘が足を滑らせた。
木の器が一つ落ち、中の汁が地面へ広がる。
娘が慌ててしゃがもうとした瞬間、
「触るんじゃないよ!」
顧大嫂の声が飛んだ。
娘の身体が止まる。
「先に一歩下がりな!」
言われるまま退いた直後、その脇を熱い鍋を二人がかりで運ぶ女たちが通り抜けた。
もし娘がそのまましゃがんでいたら、ぶつかっていた。
顧大嫂は事故が起きなかったことを確認すると、もう次の指示へ移っている。
「布を持っといで! 器は後でいいから、まず汁を拭くんだよ。そこを通る奴は外を回りな!」
数人が動いたことで人の流れが少し膨らみ、それから何事もなかったように元へ戻った。
水桶を持ってきた玉楼が足元を一度見て、アタシへ視線を向ける。
「三娘様」
「うん、今のは見てた」
「はい」
顧大嫂にも聞こえたらしい。
「見るだけじゃ腹は膨れないよ」
「でも、見てなかったら誰か火傷してたでしょ?」
鍋を混ぜていた手が、わずかに止まった。
「……林冲に何を教わった?」
「まず見ろ、って」
「ああ」
顧大嫂は、それだけで妙に納得した顔をした。
「あの男らしいね」
アタシはさっきの一連の動きを思い返す。
「ここでも同じなのね。誰が動いて、誰が止めて、誰が周りを見てるか」
「同じじゃないよ」
即座に否定された。
「え?」
「戦なら、勝って終わることもあるだろ」
顧大嫂は火加減を見ながら薪を一本ずらした。
「でも飯は明日も作る。怪我した奴は明日も腹を減らすし、今日食った奴だって明日になればまた腹を減らす。喧嘩する馬鹿も、たぶん明日またいる」
最後だけ妙に現実味があった。
王英の顔まで浮かんだ。
いるわ。
絶対いる。
「だから止めるだけじゃ駄目なんだよ」
「じゃあ、どうするの?」
「回すんだ」
その一言が、妙にはっきり耳へ残った。
杜遷は揉め事を止めた。
阮小五は酔っ払いを転がしたあと、笑いで空気を戻した。
でも顧大嫂が見ているものは、もっと長い。
何か起きた瞬間だけじゃなく、その後も飯場が動き続けることまで見ている。
「……回す、ね」
後ろで玉楼が水桶を置いた。
顧大嫂が振り返らずに言う。
「そこじゃ邪魔だよ。半歩右」
玉楼が素直に半歩ずれた。
「こちらでございますか?」
「そこならいい」
思わず吹き出した。
「玉楼、半歩を指導されてる」
「三娘様」
「何よ」
「笑っておられる場合ではございません」
「何でアタシまで注意されるの?」
顧大嫂が今度ははっきり笑った。
「なるほどねぇ」
アタシと玉楼が同時に見る。
「何が?」
「林冲が二人まとめて置いた理由が、ちょっと分かった」
「何?」
「教えないよ」
「何でよ!」
顧大嫂は平然と鍋へ向き直る。
「自分で見な」
またそれ。
「アンタまで林冲方式!?」
「何の話だい」
「こっちの話!」
その間にも玉楼へは「水をもう一度」と指示が飛び、玉楼も当然のように従っていく。
「玉楼まで普通に馴染まないで!」
「必要なことかと存じます」
「誰の味方なのよ!」
「三娘様の味方でございます」
そう答えながら水を取りに行くのだから、本人には何の矛盾もないらしい。
玉楼、最近自由度が上がってない?
アタシはその背中を見送り、それから飯場全体へ視線を戻した。
顧大嫂が一人で全部をやっているわけではなかった。
女たちは隣の動きを見ながら場所を空け、誰かが遅れれば別の者が自然に穴を埋めている。
火を見る者もいれば、足元を気にする者もいる。
その真ん中に顧大嫂が立ち、必要なところだけ押して流れを変える。
なるほど。
これが「回す」なのか……
「分かったかい?」
顧大嫂の声が飛ぶ。
「少し」
「だったら、そこに積んである椀を数えな」
「え?」
「見るのは得意になったんだろ?」
完全に捕まった。
「研修が実務になった!」
「数えるだけで何が研修だい。口より手ぇ動かしな!」
アタシは仕方なく椀の山へ向かった。
隣では玉楼が水を運んでいる。
目が合う。
玉楼の口元が、ごくわずかに上がった。
「今、笑ったでしょ?」
「いいえ」
「絶対笑った!」
顧大嫂の声がすぐ飛んでくる。
「喋るたびに数を忘れるなら、最初からやり直しだよ!」
「何で!?」
飯場のあちこちから笑いが漏れた。
玉楼まで顔を逸らした。
絶対笑ってる。
林冲の麾下へ入ったと思ったら、二日もしないうちに二人揃って飯場で働かされている。
何この展開。
戦場より先に炊き出し適性を測られる武将っている?
それでも、不思議と嫌ではなかった。
王英に向けられた視線とはまるで違う。
顧大嫂が見ているのは、アタシたちが女かどうかでも、顔がどうだとかでもない。
何ができるか?
何を見ているか?
どこへ置けば役に立つのか?
ただ、それだけだ。
やがて夕餉の時間が近づき、人が集まり始めると、顧大嫂の声がさらに忙しくなった。
「負傷兵の分から出しな! 林冲のところはその次だよ!」
林冲の名に、アタシは顔を上げた。
「そこの二人も一緒だ」
「アタシたちも?」
「今は林冲のところなんだろ」
顧大嫂は、あまりにも簡単に言った。
昨日まで敵だったとか、捕虜だったとか、そんなことではなく、今どこへ置かれ、誰が責任を持っているのか。
それで今日の飯まで決まるらしい。
「……梁山泊って、本当に面倒」
顧大嫂が鼻で笑った。
「今さら気づいたのかい?」
玉楼が水桶を置き、またアタシの半歩前へ戻ってきた。
でも、今までとは少し違って見える。
アタシだけを守るために前へ立っているのではなく、その先の火も、人も、流れも見ている。
たぶん、アタシも同じだ。
戦う奴だけを見ていたら、この場所は分からない。
林冲も、杜遷も、阮小五も、それぞれ違う。
そして今度は、戦わなくても梁山泊の一日を止めない女まで出てきた。
全部まとめて「山賊」と呼んでしまえば簡単なのに、一人ずつ顔が見えるたび、その言葉だけでは足りなくなっていく。
梁山泊は、ますます分からなくなる。
けれど、分からないからこそ、見なければならないのだろう。
誰かが揉め事を止めても、そのあとを回す人間がいなければ一日は続かない。
そう思ったところで、顧大嫂の声がまた飛んだ。
「三娘! 椀はいくつあった!」
「……最初から数え直していい?」
「今まで何してたんだい!」
飯場が笑いに包まれた。
隣で玉楼まで俯いている。
「玉楼、笑ってるでしょ!」
「いいえ」
「顔見せなさいよ!」
「お仕事中でございますので」
玉楼が逃げた。
夕方の火が、少しずつ赤くなる。
アタシは、その火を見ながら立っている。
まだ、この場所は嫌いだ。
でも――
昨日よりは、少しだけ見えていた。
玉楼でございます。
「玉楼、あたしが水運べって言ったら即やったねぇ」
顧大嫂様が酒を置きました。
「必要な仕事でしたので」
孫二娘様が鍋を混ぜます。
「三娘にはァ?」
「椀を数えさせたよ」
幕舎の外から声が飛びました。
「何でアタシだけ数える係なのよ!!」
「水運びは玉楼の方が向いてたからさ」
「適材適所が容赦ない!!」
「なお、三娘様は途中で数をお忘れに」
「玉楼、報告しないで!!」
顧大嫂様が笑います。
「だから最初から数え直させたんだよ」
甚だ合理的でございます。
ですが、あの日教わったのは仕事だけではありませんでした。
止めるだけでは、一日は続かない。
人を動かし、次へ繋げる。
顧大嫂様の仰る――
「回す」という強さを、私は初めて知ったのでございます。