扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。
「高唐州の件かァ?」
「扈家荘の次は柴進! アイツ、事件発生装置なの!?」
顧大嫂が酒を置く。
「で、行くのかい?」
「行く」
「即答じゃないか」
「だって柴進って人は別でしょ!」
孫二娘が笑った。
「林冲にも聞いたんだって?」
「“李逵が原因でも?”って」
「噛みついたねェ」
「そしたら、“李逵の始末と柴進を救うのは別だ”よ」
顧大嫂が鼻を鳴らす。
「筋は通ってる」
「だから困るの!」
梁山泊はまだ嫌い。
李逵も許してない。
それでも林冲は、全部納得しろとは言わなかった。
「全部じゃない」
そう答えたアタシに、あの人は言った。
「それでいい」
……だからアタシは、自分で馬を進めることにした。
聚義庁へ向かう途中から、空気が違っていた。
昼間まで聞こえていた飯場の笑い声が遠ざかり、代わりに人の走る足音や、矢束をまとめる音があちこちから聞こえてくる。
水袋が運ばれ、馬の腹帯が締め直され、武具を抱えた兵がこちらの横を急ぎ足で通り過ぎていった。
さすがのアタシにも分かる。
「……何かあったわね」
玉楼は返事をせず、いつもの半歩前を歩いている。
けれど、その半歩が昼間とは違った。
人の流れを見ている。
運ばれていく矢の数、馬の向き、兵が集まっている場所まで拾っているらしく、視線が絶えず動いていた。
「出るのね?」
「恐らくは」
「林冲先生、研修二日目で実地試験?」
「何のお話でございますか?」
「こっちの話」
冗談にしてみたものの、胸の奥は笑っていなかった。
聚義庁の前には、すでに何人もの頭領が集まっている。
中から聞こえる声にも、これまでの会議とは違う緊張が混じっていた。
アタシたちが入ると、いくつかの視線が向いた。
宋江がいる。
その傍らには羽扇を持った男がいて、少し離れたところに林冲も立っていた。
壁際には蛇矛が置かれ、中央の卓上には地図が広げられている。
林冲の目が一度だけこちらへ向く。
来たことを確かめただけらしい。
紹介も説明もなし。
本当に研修担当として不親切。
羽扇の男が地図へ指を置いた。
「柴進殿が捕らえられました」
柴進――
また名前が増えた。
アタシの頭の中では「知らない人一覧」へ入りかけたけれど、聚義庁の空気がそれを許さなかった。
息を呑む者がいる。
顔色を変える者もいる。
林冲まで、さっきより明らかに目つきが変わった。
軽い人じゃない。
それくらいは、説明されなくても分かるようになってきた。
「高唐州にて、高廉の手に落ちております」
高唐州――
高廉――
知らない名前が連続で来る。
お願いだから人物相関図を配って。
ところが、どこかから「高俅の従弟か」と声が漏れた瞬間、さすがにアタシの中でも嫌な響きだけは残った。
高俅――
何か知っている気がする。
でも、やっぱり出てこない。
記憶の棚にファイル名だけ残って、中身が全部消えてるみたいで気持ち悪い。
羽扇の男――誰かが呉用と呼んだ――は、そのまま話を続けた。
「発端は殷天錫の一件です。李逵が殷天錫を殴り殺し、その後、高廉側が柴進殿を捕らえました」
その名だけは、もう知っている。
李逵――
隣で、玉楼の気配が変わった。
ほんのわずかだった。
肩が上がったわけでも、顔色が変わったわけでもない。
ただ、さっきまで周囲を追っていた視線が止まり、前だけを見た。
アタシは横顔を見る。
扈家荘を焼いた男。
玉楼から帰る場所を奪った男。
そして今度は、人を殴り殺して、その後始末に梁山泊全体が動こうとしている。
「……またアイツなの?」
声が漏れた。
何人かがこちらを見た。
林冲も見た。
でも、誰も咎めなかった。
むしろ、咎められた方が楽だったかもしれない。
宋江が卓へ手を置いた。
「柴進殿を救い出す」
迷いのない声だった。
「高廉が相手であろうと、見捨てることはできぬ。高唐州へ向かう」
頭領たちが頷く。
誰も「李逵が悪いんだから知らない」とは言わない。
それが少し腹立たしくて、同時に少しだけ分かってしまうのが、もっと腹立たしかった。
柴進という人は、李逵じゃない。
原因を作った男と、牢へ入れられた男は別だ。
玉楼だって、それくらい分かっているはずだ。
分かっているからこそ、何も言わない。
アタシなら噛みつく。
玉楼は飲み込む。
黒と白って、こういう時まで面倒くさい。
会議が終わり、人が次々に聚義庁を出ていく中、林冲だけが地図の前へ少し残った。
アタシは玉楼を見る。
「行く?」
「三娘様がお決めになることにございます」
いつもの答えに聞こえた。
でも、今日は違う。
アタシは首を振った。
「それじゃ駄目」
玉楼がこちらを見る。
「アタシは行く。でも、玉楼は?」
一瞬だけ沈黙があった。
「李逵様が原因でございます」
やっと出た。
「うん」
「扈家荘のことを、忘れたわけではございません」
「うん」
「ですから、梁山泊のために戦えと言われれば、今は答えられません」
それでいい。
それが玉楼の答えだ。
「でも、柴進って人は別?」
玉楼はすぐには頷かなかった。
その代わり、林冲を見た。
林冲は壁際の蛇矛を手に取っていた。
「林冲殿が、お行きになる理由は知りたいと思います」
アタシも同じだった。
だから、二人で林冲のところまで行った。
「林冲」
「何だ?」
「柴進って誰?」
聚義庁に残っていた何人かが、一斉にこっちを見た。
そんな顔しないで。
知らないものは知らないの。
林冲だけは表情を変えなかった。
「昔、世話になった」
短っ……
「どのくらい?」
「牢へ入れられていた俺を気遣い、その後も丁重に扱ってくれた」
少しだけ分かった。
林冲にとっての柴進は、「梁山泊の仲間」というカードが先に付く人じゃない。
自分が落ちていた時に手を差し伸べた人だ。
「だから行く?」
「ああ」
「李逵が原因でも?」
聚義庁の空気が止まった。
玉楼が、ほんの少しだけアタシの横へ寄る。
止めない。
今日はアタシが聞く番だと分かっている。
林冲は蛇矛を持ったまま答えた。
「李逵の始末と、柴進殿を救うことは別だ」
それだけだった。
正論……
嫌になるくらい分かりやすい。
「……そう」
「納得したか?」
「全部じゃない」
「それでいい」
林冲は本当に、それ以上求めなかった。
梁山泊を好きになれとも、李逵を許せとも言わない。
ただ、自分は恩のある人を助けに行く。
「玉楼」
アタシが呼ぶ前に、玉楼は林冲へ頭を下げた。
「柴進殿をお救いになる理由は、分かりました」
「ならば十分だ」
「ですが、李逵様の件まで納得したわけではございません」
周りがまた静かになった。
玉楼……
敬語のまま刺すの、本当に強くなったわね……
林冲は玉楼を見た。
「それも構わん」
そこで終わり。
説教なし。
忠義確認なし。
反省文なし。
この人、人事面談が異常に短い。
アタシは息を吐いた。
「じゃあ行く」
「命には従え」
「分かってる」
「玉楼もだ」
「承知いたしました」
「アタシより返事いいのやめて」
林冲の口元が、ごく僅かに動いた気がした。
絶対笑った。
聚義庁を出る頃には、夜の冷気が下り始めていた。
昼間まで顧大嫂に椀を数え直させられていたのに、今度は高唐州へ出陣。
研修制度どうなってるの。
部署異動どころか戦場異動が早すぎる。
林冲の兵が集まる場所では、もう出立の準備が始まっていた。
馬が並び、槍が揃えられ、水袋が積まれている。
それぞれ勝手に動いているように見えるのに、よく見ると誰がどこを担当しているか決まっていた。
林冲が姿を見せる。
それだけで、周囲の動きが一段締まった。
「明朝出る。馬を見ろ。水は多めに持て。夜明け前には揃えろ」
命令は短い。
でも兵たちは迷わない。
一人が馬へ走り、別の者が水袋の数を確認し、遅れていた者には隣の兵が何も言わず手を貸している。
昨日までなら「統率が取れてる」で終わっていた。
今は少し違う。
林冲だけを見なくなったからだ。
誰が命を受けるか。
誰が先に動くか。
誰が遅れた穴を埋めるか。
顧大嫂の飯場と同じで、一人だけが全部を動かしているわけじゃない。
「……回ってる」
思わず呟く。
玉楼が隣で頷いた。
「はい」
その時、近くにいた馬が急に首を振った。
若い兵が慌てて手綱を引き、馬はさらに苛立って後ろ脚を踏み替える。
アタシの身体が先に動きかけた。
でも、その前に玉楼の手が腕へ触れた。
「林冲殿が」
見ると、林冲がすでに馬の横へ入っていた。
手綱を奪うのではなく、首筋へ手を当て、兵に言う。
「引くな。手を緩めろ」
若い兵が従う。
馬の首の動きが少しずつ小さくなった。
「焦れば馬も焦る。相手を見ろ」
また見る。
本当にそれしか言わないの、この先生。
若い兵が何度も頷くと、林冲は手綱を戻し、もう次の場所へ向かった。
「……怒らないのね」
「怒る必要がないからでは?」
「玉楼まで林冲方式になってない?」
「良い教えは学ぶべきかと」
「先生の優等生になってる!」
「三娘様もお学びくださいませ」
「アタシも学んでるわよ!」
「椀の数は?」
「今それ関係ないでしょ!!」
近くの兵が吹き出した。
振り向くと、すぐ真顔に戻る。
見たわよ……
玉楼も見たらしい。
二人で同時に兵を見ると、今度は完全に目を逸らされた。
アタシたち、こういう時だけ連携完璧。
夜が深くなる前に、アタシたちにも荷が渡された。
玉楼は水袋の口を確認し、紐を引き、馬具まで見ている。
手つきには迷いがなかった。
「慣れてるわね」
「扈家荘でも、出陣前は同じでございました」
胸の奥が、少し痛んだ。
アタシには思い出せない場所を、玉楼は覚えている。
玉楼は水袋を荷へ結びつけながら続けた。
「違うのは、帰る場所がもう無いことでございます」
泣いてはいない。
責めてもいない。
だから余計に重かった。
アタシは何も言えず、代わりに玉楼の隣へ立った。
半歩前でも後ろでもない。
隣――
玉楼が一度だけこちらを見る。
何も言わなかった。
今は、それでいい気がした。
夜明け前、梁山泊はもう起きていた。
火はまだ残っているのに空の端が僅かに白み、馬へ鞍を載せる音と革紐を締める音が、冷えた空気の中を行き交っている。
眠そうな兵はいない。
アタシも帯を締め直し、馬へ足を掛けた。
身体は、やっぱり迷わない。
跨がった瞬間、重心の位置まで勝手に決まる。
「こういうところだけ説明不要なの、本当に腹立つわね……」
「何か?」
「何でもない」
前方で林冲が馬へ乗った。
白い披風が夜明け前の風を受ける。
「出る」
その一言で列が動いた。
誰も叫ばない。
車輪が軋み、馬が鼻を鳴らし、長い隊列が梁山泊から山道へ流れ出していく。
アタシの横には玉楼がいる。
少し前には林冲。
昨日まで捕虜だった場所から、自分の意思で外へ出ていく。
目的地は高唐州。
助ける相手の顔さえ知らない。
原因を作った男には、まだ腹が立っている。
梁山泊に忠義を誓った覚えもない。
なのに、馬は前へ進んでいる。
林冲の隊列は速すぎず、遅すぎず、前が詰まれば後ろも自然に合わせている。
号令が飛ばなくても間が保たれ、誰かが遅れれば隣が気づく。
「……綺麗ね」
思わず口から出た。
玉楼が周囲を見ながら頷いた。
「よく揃っております」
アタシは林冲の背中を見る。
この人は前にいる。
でも、前にいるだけじゃない。
後ろが崩れないように、人を見ている。
だから兵も、この背中を追えるのだろう。
そして気づく。
アタシも今、その中にいる。
梁山泊は、まだ嫌いだ。
李逵のことだって忘れていない。
それでも林冲の隊列へ馬を合わせ、玉楼と並んで高唐州へ向かっている。
昨日までなら、もっと強く拒めた気がする。
今は、人の顔を知り始めてしまった。
林冲の理由を知った。
玉楼が何を許せないのかも知った。
それでも進むと、自分で決めた。
だからこそ――
この軍の中にいると、 少しだけ、自分が流されそうになる。
それが、少し怖かった。
玉楼でございます。
「玉楼、林冲に言ったんだって?」
顧大嫂様が酒を置きました。
「何をでございますか?」
孫二娘様が鍋を混ぜます。
「“李逵の件まで納得してません”ってよォ」
「事実でございますので」
幕舎の外から声が飛びました。
「敬語なら何でも刺していいと思ってない!?」
「思っておりません」
「即答!!」
顧大嫂様が笑います。
「それで高唐州には行くんだね」
「はい」
李逵様を許したわけではございません。
梁山泊へ忠義を誓ったわけでもございません。
ですが、柴進様を救うことは別だと、林冲殿は仰いました。
そして三娘様も、ご自分で行くと決められた。
ならば私は――
今度はただ半歩前ではなく、三娘様の隣で戦うのでございます。