扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。
「城攻めで最初に出る感想がそれかァ?」
「だって十人が三十人になって、また十人に戻るの!」
顧大嫂が酒を置く。
「見間違いじゃないのかい?」
「玉楼まで人数確認してるから余計怖いのよ!!」
孫二娘が笑った。
「林冲先生は何てェ?」
「鈴みたいな音がして、“何の音?”って聞いたら――」
少し間を置く。
「“分からん”」
二人が黙った。
「……林冲が?」
「そう! あの林冲が!!」
顧大嫂が眉を寄せる。
「そりゃ嫌だねぇ」
「でしょ!?」
見ることは覚えた。
玉楼も、アタシも。
だから分かった。
高唐州は、おかしい。
問題は――
見ても、何がおかしいのか分からないことだった。
梁山泊軍は、北へ進み続けた。
山道を越え、川を渡り、小さな村をいくつも抜けていく。
林冲の隊は速さを競うような進み方をしないのに、前後の間隔がほとんど崩れず、荷車が遅れれば近くの兵が言われる前に手を貸していた。
アタシも馬上から、その流れを見るようになっている。
以前なら林冲しか見なかった。
今は、その後ろまで見る。
先頭が速度を落とせば、中ほどの兵が気づき、後ろへ合図が伝わる。
誰かが大声で怒鳴らなくても、長い隊列が一つの生き物みたいに速度を変えていた。
「……綺麗な隊列ね」
隣を進む玉楼が頷く。
「はい、無理に揃えているようには見えません」
「そこなのよね」
揃えろと言われて揃っているんじゃない。
崩したら自分たちが困ると、全員が知っている。
顧大嫂の飯場で見たものと、少し似ていた。
鍋が槍に変わり、桶が馬に変わっただけで、人が流れを作っているのは同じなのかもしれない。
「林冲先生、実地研修まで抜かりないわね……」
「また先生でございますか?」
「だってそうでしょ。見るだけの研修が終わったと思ったら、今度は移動しながら見ろよ? しかも目的地が戦場」
「林冲殿は、そのようには仰っておりません」
「課題を口に出さないタイプが一番面倒なの!」
玉楼は何も答えなかった。
最近、こういう時に反論しない。
たぶん呆れている。
それはそれで、なんか腹立つ。
昼を過ぎた頃、空の色が変わり始めた。
雨が降りそうというほどではないけれど、薄い雲が広がり、風には梁山泊を出た頃より湿り気が混じっている。
夕方、野営へ入ってからも林冲の隊は止まらなかった。
馬を見る者がいて、水場を確かめる者がいる。
荷を降ろす側では、明朝すぐ出せるものと今夜使うものが自然に分けられていた。
アタシが火のそばへ座ると、玉楼が湯を差し出してくる。
「ありがと」
受け取って一口飲み、それから周囲を見回した。
「……硬いわね」
「何がでございますか?」
「空気……野営なのに誰も完全に休んでない」
兵たちは話しているし、笑う者もいる。
それでも槍を手の届かない場所へ置く者はいないし、誰かが立ち上がれば近くの人間が一瞬だけ視線を向ける。
玉楼も同じだった。
座っているのに、目は周囲を見ている。
「玉楼も硬い」
「気を抜く場所ではございませんので」
「今のところ敵なんて見えてないでしょ?」
「見えてからでは遅いかと」
正しい。
正しいんだけど。
「最近、林冲に似てきてない?」
玉楼が珍しく眉を寄せた。
「どの辺りがでございますか?」
「返事が全部正論」
「それは良いことでは?」
「ほら、それ!」
玉楼は本気で分かっていない顔をしている。
玉楼、着実に先生側へ染まってる。
翌日も、その次の日も、梁山泊軍は北へ進んだ。
そして数日後、山道を抜けたところで前方の列がゆっくり止まった。
怒鳴り声はない。
先頭から伝わってきた停止が波のように後ろへ届き、アタシたちの馬も自然に足を止める。
林冲が前へ出た。
「行く?」
アタシが言うと、玉楼はもう周囲を見ていた。
「前方だけをご覧くださいませ」
「何か見つけた?」
「まだ何も……ただ、皆様が同じ方向を見ておられます」
言われて気づいた。
前の兵も、その隣も、誰もこちらを見ていない。
全員が前方を見ている。
アタシも馬を進めた。
山道の先が開け、その向こうに灰色の城壁が見える。
高唐州。
高い壁が曇った空の下へ横たわり、見張り台には旗も立っていた。
でも、最初に浮かんだのは立派だとか大きいとか、そういう感想じゃなかった。
「……静かすぎない?」
玉楼も城壁を見つめている。
「はい」
梁山泊軍がここまで来ている。
斥候くらい出ているだろうし、城側だって知らないはずがない。
だったら普通は、もっと慌ただしいものじゃないの?
兵が走るとか、旗が動くとか、こっちを警戒して人が増えるとか。
見えている兵はいる。
なのに少ない。
一人が城壁の上を歩いていたかと思えば、次に目を向けた時にはいなくなっている。
「……今、右の塔に人いたわよね?」
「おりました」
「どこ行ったの?」
玉楼は答えなかった。
代わりに、左の見張り台へ目を向ける。
「三娘様」
「何?」
「あちらには、先ほど三人おられました」
見る。
一人しかいない。
「下りたんじゃない?」
「階段へ向かわれた様子はございませんでした」
嫌なこと言わないで。
前方から馬が駆け戻ってきた。
斥候の兵だった。
「林教頭!」
兵は馬を止めると、息を整える間も惜しむように報告する。
「城門は閉じています。ですが、城壁の兵の動きが妙です」
林冲は城から目を離さない。
「どう妙だ」
「人数が合いません」
周囲の空気が変わった。
兵は言葉を選ぶように続ける。
「東側では十人ほど見えました。少し目を離した後、同じ場所に三十人ほどおります。ところが近づけば、また十人ほどしか……」
「交代では?」
誰かが聞く。
兵が首を振った。
「入れ替わる動きがありません」
アタシは思わず城を見る。
何それ。
戦う前から人数の表示がバグってるんだけど。
「玉楼」
「はい」
「アタシだけがおかしいと思ってる?」
「ご安心くださいませ。わたくしもおかしいと思っております」
安心できない。
林冲はしばらく高唐州を見ていたが、無理に近づこうとはしなかった。
「下がる。今日は城へ寄せん」
誰も異を唱えない。
「野営地を取れ。見張りは通常より増やす」
命令が飛ぶと、それまで止まっていた軍がまた動き始めた。
アタシは少し意外だった。
「攻めないのね」
「見えぬものがある状態で近づく必要はないのでしょう」
「玉楼、本当に先生の優等生になったわね」
「三娘様も、先ほど同じことをお考えでは?」
図星だった。
「……そういうとこだけ見なくていいのよ」
「先を見るよう教わりましたので」
使い方……
絶対それ違う。
野営地は高唐州から距離を取り、背後に林、前方に低い丘を置く場所へ決まった。
兵たちは慣れた手つきで陣を作り始めたが、梁山泊を出てから見てきた野営とは少し違う。
誰も余計な方へ背を向けない。
水を運ぶ兵まで、時々城の方角を確認している。
アタシと玉楼も火のそばへ腰を下ろした。
遠くに高唐州が見える。
夕暮れの中で灰色の壁だけが重く残り、ところどころに灯が浮かび始めていた。
「……嫌な城」
「城が、でございますか?」
「何ていうか……こっちを見てる感じがする」
言ってから、自分で嫌になった。
城に目なんてない。
「三娘様」
玉楼が城を見たまま言う。
「わたくしも同じでございます」
「やめて……玉楼まで言うと本当に怖くなる」
「申し訳ございません」
謝られても怖さは減らない。
夕餉の後、林冲が野営地を一周した。
特別なことは何もしない。
見張りの位置を確かめ、馬の場所を見て、火が多すぎるところだけ減らさせる。
それなのに林冲が通った後は、兵たちの表情が少しだけ締まる。
昼間なら頼もしく見えたかもしれない。
今は、その林冲まで城を長く見ているのが嫌だった。
「林冲も気にしてる」
「はい」
「先生が警戒してるものを、生徒にどうしろっていうのよ?」
「同じく警戒すればよろしいのでは?」
「模範解答やめて」
夜が深くなるにつれ、火は少しずつ落とされた。
暗闇に目が慣れてくると、遠い高唐州の輪郭だけが逆に目立つ。
城壁の灯は、時々場所を変えていた。
歩いているなら分かる。
でも、一つ消えた直後、離れた場所に別の灯が浮かぶことがある。
アタシはしばらく追ってみたけれど、規則が分からなかった。
「玉楼」
「はい」
「右端の灯、今消えた?」
「消えました」
少し待つ。
左の塔に灯が浮かんだ。
「……移動、速すぎない?」
「人が運んでおられるのであれば」
それ以上は言わない。
言わないところが余計怖い。
玉楼は槍を手元に置いたまま座っている。
「寝ないの?」
「三娘様がお休みになりましたら」
「またそれ?」
「必要でございます」
「明日戦うかもしれないんだから、アンタも寝なさい」
「でしたら三娘様から」
「何で譲り合いになるのよ」
こんなところで護衛精神を発揮しないでほしい。
しばらく睨み合っていると、玉楼が小さく息を吐いた。
「では、交代で」
「最初からそう言いなさいよ」
「三娘様がお先に」
「結局アタシから!?」
近くで休んでいた兵が布を被ったまま肩を震わせた。
笑ったわね……
昼なら睨んでやるところだけど、今は少しだけその笑い声に救われた。
まだ普通の夜だと思える。
火がある。
人がいる。
玉楼もいる。
少し離れたところには林冲の兵たちがいる。
そう思った、その時だった。
チリン……
遠くで音がした。
アタシは顔を上げた。
玉楼も同時だった。
「……今の」
「はい」
鈴に似ている。
高くて、小さい。
でも馬具の鈴とは違う気がした。
風がこちらへ吹いてくる。
もう一度、耳を澄ます。
何も聞こえない。
見張りの兵も二人ほど高唐州へ顔を向けていた。
聞いたのは、アタシたちだけじゃない。
「城から?」
「距離がございます」
「じゃあ何?」
玉楼は答えない。
少しして、林冲が歩いてきた。
「今の音を聞いた者は?」
見張りの兵が数人、手を上げる。
アタシも上げた。
林冲は人数を見ると、それ以上問い詰めなかった。
「見張りを二人組にしろ。単独で動くな」
「はい!」
空気が一段硬くなる。
「林冲」
思わず呼ぶ。
林冲が振り向いた。
「何?」
「……何の音?」
「分からん」
即答だった。
「分からないんだ」
「ああ」
怖っ……
林冲が分からないって言った。
今日一番怖い。
玉楼が槍を手に取った。
「三娘様、今夜はわたくしが先に起きております」
「寝る話、消えたわね」
「状況が変わりましたので」
そこだけ判断早い。
アタシも立ち上がり、高唐州を見る。
城壁は暗い。
さっきまで見えていた灯も減っている。
何も動いていないように見える。
でも、見ているうちに分からなくなってきた。
本当に動いていないのか。
それとも、動いているのに見えていないのか。
チリン……
もう一度。
今度は、さっきより近かった。
野営地の何人かが一斉に振り向く。
アタシと玉楼も同時に立つ。
「玉楼」
「はい」
「城、遠いわよね?」
「遠うございます」
「じゃあ何で――」
三度目の音は来なかった。
湿った風だけが野営地を抜け、火を小さく揺らしていく。
遠い。
なのに、何か近い。
その感覚だけが、ずっと消えなかった。
玉楼でございます。
「玉楼、高唐州の兵が増えたり減ったりしたんだって?」
顧大嫂様が酒を置きました。
「はい、大変不可解でございました」
孫二娘様が鍋を混ぜます。
「三娘の数え間違いじゃなくてェ?」
幕舎の外から声が飛びました。
「椀の話はもう忘れて!!」
「三娘様だけでしたら、わたくしも疑いました」
「玉楼まで!?」
事実でございます。
ですが、夜に聞こえた鈴の音だけは笑えませんでした。
城は遠い。
それなのに、二度目の音は近づいてきたのでございます。
「林冲は?」
「分からぬ、と」
顧大嫂様と孫二娘様が黙りました。
見ることなら覚えました。
三娘様の先を見ることも。
けれど――
見えないものが近づいてくる時、どこを見ればよいのでしょう?