扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記―   作:Cima4910

15 / 17
「霧の中で全員、別々の敵を見てたのよ!」
孫二娘が鍋を混ぜながら眉を上げた。
「集団幻覚かァ? 趣味の悪い戦場だねェ」
「しかも音まで信用できない! 林冲に“見ろ”って教わった直後にこれよ!」
顧大嫂が酒を置く。
「先生泣かせだねぇ」
「生徒が泣きたいの!!」
孫二娘が笑う。
「それで、どうしたァ?」
「玉楼が足元を見つけた。本物が立ってる場所だけ、霧の動きが違ったの」
「さすが玉楼だねぇ」
「でしょ? だからアタシが叫んで、林冲が軍全体に回した」
顧大嫂が頷く。
「二人で見たわけか」
そう。
一人の目が信用できないなら、二人で確かめる。
それで何とかなると思った。
――霧の向こうから、本物の矢が飛んでくるまでは……


二人で見る

朝になっても、空気は重いままだった。

空は白く曇り、陽が昇っているはずなのに野営地全体が薄暗い。

昨夜の鈴のことを忘れたふりでもしているのか、兵たちは火を片付け、馬へ水をやり、武具を確かめながら出陣の支度を進めていた。

ただ、いつもより声が少ない。

アタシもほとんど眠れていなかった。

隣へ来た玉楼に、

「お休みになられましたか?」

と聞かれて、素直に首を振る。

「ちょっとだけ。玉楼は?」

「十分でございます」

絶対嘘だ。

昨日の夜、交代すると言っておきながら、アタシが目を覚ますたび同じ場所にいたじゃない。

「アンタ、本当に寝た?」

「目は閉じました」

「それ睡眠時間の質問に対する答えじゃないからね?」

玉楼は答えなかった。

最近、都合が悪い時の黙秘まで上手くなっている。

冷たい風が吹いた。

湿った空気が頬へまとわりついた、その時だった。

前方で馬が激しく嘶いた。

何頭かが続けて首を振り、兵たちが手綱を押さえる。

昨夜まで落ち着いていた馬が、何もない高唐州の方角を嫌がるように後ずさった。

そして――

ゴォン、と鐘が鳴った。

腹の奥まで落ちてくるような音だった。

昨夜の鈴とは違う。

遠いはずなのに、地面の下から響いたみたいに近い。

兵たちの手が止まる。

アタシも高唐州を見る。

朝靄の向こうに灰色の城壁が浮かび、その上には人影が並んでいた。

十人。

いや、もっといる?

目を凝らした瞬間、人数が変わった。

「……また始まった」

隣で玉楼も目を細める。

「昨夜より、ひどいようでございます」

「朝になったら直るタイプの不具合じゃなかったのね」

そんな不具合があってたまるか。

もう一度、鐘が鳴った。

城壁の上で何かが揺れる。

旗じゃない。

細長い白布のようなものが何本も垂れ、風がこちらへ吹いているのに、なぜか逆方向へたなびいていた。

「……風、こっち向きよね?」

「はい」

「じゃあ、あれ何で逆なの?」

「分かりません」

またそれ。

昨日から「分からない」が増えすぎている。

その時、林冲が兵の前へ出た。

「前へ出るな」

大きな声ではない。

それでも、動きかけていた兵たちが止まった。

林冲は城壁を見たまま、周囲へ命を飛ばしていく。

「馬を中央へ寄せろ。盾を前へ。見えているものだけで動くな」

最後の言葉に、何人かが顔を見合わせた。

見えているものだけで動くな。

言っていることは分かる。

分かるけど。

「先生、それ今一番難しい課題なんだけど……」

「三娘様」

「分かってる。前に出ない」

言った直後だった。

城壁の下から白いものが流れ出した。

最初は煙に見えた。

炊煙か何かだと思った兵もいたらしく、何人かが息を吐く。

でも違った。

白い霧は地面を這い、風に逆らいながらこちらへ広がってくる。

「……あれ、普通の霧?」

「普通の霧は、あのようには動かないかと」

「聞かなきゃよかった」

遠いはずだった白さが、気づけば丘の下まで来ていた。

速い。

なのに、動いているように見えない。

距離そのものを飛ばしているみたいだった。

馬がまた暴れた。

一頭が前脚を上げ、兵が二人がかりで手綱を引く。

「引くな!」

林冲の声が飛ぶ。

「締めれば余計に暴れる! 目を覆え!」

兵がすぐ布を取り出し、馬の目へ巻く。

馬はまだ鼻を鳴らしていたが、少しずつ動きを止めた。

こんな時まで馬への対処は即答できるのね。

少し安心した。

本当に少しだけ。

白い霧が野営地の手前まで来たところで、前列の兵が叫んだ。

「人がいる!」

皆がそちらを見る。

アタシにも見えた。

霧の中に、人影がある。

一つ。

二つ。

十――

「右だ!」

別の兵が叫ぶ。

でも右には何もいない。

「違う、左だ!」

今度は左から声が上がった。

全員が違う場所を指している。

アタシももう一度正面を見る。

さっきまで十人はいた影が、一人になっていた。

その一人まで、すっと消える。

「……人数表示どころじゃなくなった」

玉楼が槍を握る。

「三娘様、わたくしから離れませんよう」

「玉楼もね」

一瞬、玉楼がこちらを見る。

「わたくしが、でございますか?」

「アンタだけ守る側みたいな顔しないで。今、どっちが消えても困るから」

玉楼は少し黙ってから頷いた。

「承知いたしました」

霧が足元まで来た。

白さが靴を隠し、膝のあたりまで這い上がってくる。

途端に景色がおかしくなった。

二、三歩先にいる兵が、十歩以上離れているように見える。

逆に、遠くの盾が目の前へ迫って見えた。

「玉楼」

「はい」

声はすぐ横だ。

見る。

玉楼も隣にいる。

でも姿だけが妙に遠い。

「……これ、酔う」

「目を閉じますか?」

「それはそれで怖い!」

笑えない。

本当に笑えない。

前方で金属がぶつかった。

「敵だ!」

兵が槍を振り回す。

だが、その前には誰もいない。

隣の兵が止めようと腕を伸ばした瞬間、槍の穂先がそちらへ向く。

「待って!」

アタシは反射で踏み出しかけた。

袖を掴まれる。

玉楼だった。

「三娘様、今はお待ちください」

「でも味方同士で――」

「だからでございます」

玉楼は槍を横に構えたまま、叫ぶ兵ではなく足元を見ていた。

「声の方向ではなく、地面を」

「地面?」

「影でございます」

言われて見る。

霧は濃い。

それでも、人が本当に立っている場所だけ地面の白さがわずかに乱れていた。

幻みたいな人影には、それがない。

「……玉楼、ナイス」

「何でございましょう?」

「褒めてる!」

アタシは地面を見る。

立っている兵。

倒れた槍。

馬の脚。

全部、輪郭より足元の方がまだ信用できる。

「足元見て!」

思わず叫んだ。

近くの兵たちがこちらを見る。

「人影じゃなくて、霧の動き! 本当にそこにいる奴だけ足元が変わる!」

林冲が振り向いた。

一瞬だけアタシを見て、それから地面へ視線を落とす。

「聞いたな!」

すぐ命令へ変わった。

「影を追うな! 足元を見ろ! 二人一組を崩すな!」

兵たちの混乱が少しだけ収まる。

「……採用された」

「よろしゅうございました」

「先生に褒められてないけど?」

「今はそれどころではございません」

はい……

分かってます。

その直後、近くで悲鳴が上がった。

一人の兵が槍を振り上げ、何もない場所へ突き出している。

目が合っていない。

「来るな! 来るな!」

何を見てるの?

玉楼が先に動いた。

真正面から止めるのではなく横へ回り、槍の柄で兵の武器を叩き落とす。

アタシも反対側から腕を取った。

兵が暴れる。

「敵が! そこにいる!」

「いない!」

「いる! お前の後ろだ!」

反射で振り向きそうになった。

玉楼の声が飛ぶ。

「三娘様!」

止まる。

見るな。

いや、見る。

でも信用するな。

何この無理ゲー。

「後ろに誰かいる?」

アタシが聞く。

玉楼は振り向かず、槍の石突を少し後ろへ伸ばした。

何にも当たらない。

「おりません」

「了解!」

二人で兵を地面へ押さえ込む。

幻を見ている兵はまだ叫んでいたが、近くの仲間が駆け寄って引き取った。

アタシと玉楼は同時に立つ。

今度はどっちが前とも決まっていない。

アタシが左を見る。

玉楼が右を見る。

一人では足りない。

だから二人で見る。

林冲の兵たちも、次第に同じやり方を始めていた。

誰かが叫んでも一人では動かない。

隣の者と確認してから動く。

霧の中に影が出ても、足元を見る。

少しずつ、隊列が戻り始めた。

でも、鐘が鳴った。

ゴォン――

今度は耳元だった。

身体がびくりと動く。

高唐州は遠い。

絶対に遠い。

なのに音だけが頭のすぐ横から落ちてくる。

「っ……!」

周囲の兵も耳を押さえる。

その瞬間だった。

霧の中へ無数の人影が現れた。

前。

後ろ。

右。

左。

城壁にいたはずの兵まで、すぐそこへ立っている。

「囲まれた!」

誰かが叫んだ。

「動くな!」

林冲の声が重なる。

それでも何人かが反射で武器を構えた。

アタシも双刀を抜く。

玉楼が半歩前へ出た。

「三娘様」

「分かってる」

見えているものを斬らない。

でも、本物が混じっていたら?

霧の向こうで、人影が腕を上げた。

妙にはっきり見えた。

細長い腕。

白い衣。

その指先が、こちらへ向く。

ぞくりと背中が冷えた。

「玉楼、あれ見える?」

「見えております」

「同じ場所?」

「正面、少し右」

同じだ。

初めて二人が同じものを見た。

だったら本物?

アタシが一歩出る。

今度は玉楼も止めない。

代わりに、同じ速度で隣へ出た。

黒と白なんて言葉が、また頭の奥へ浮かびかける。

今はどうでもいい。

見えるなら斬る。

見えなくても、二人で探す。

霧の中の白い人影が、もう一度腕を動かした。

その向こうで、小さく弦の鳴る音がした。

次の瞬間――

霧の中から、矢が飛んできた。




玉楼でございます。
「玉楼、霧の中で足元見ろって気づいたんだって?」
顧大嫂様が酒を置きました。
「はい、人影より霧の動きの方が確かでしたので」
孫二娘様が鍋を混ぜます。
「三娘より先に攻略法見つけたかァ」
幕舎の外から声が飛びました。
「アタシは全軍に広めたでしょ!!」
「林冲殿が、でございますね」
「そこ細かく訂正しないで!」
ですが、三娘様は仰いました。
「今、どっちが消えても困るから」
守るのは私だと思っておりました。
けれど霧の中では、一人の目だけでは足りません。
私が右を見るなら、三娘様は左を見る。
二人なら見つけられる。
そう思った矢先――
本物の矢だけは、幻ではございませんでした。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。