扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜながら眉を上げた。
「集団幻覚かァ? 趣味の悪い戦場だねェ」
「しかも音まで信用できない! 林冲に“見ろ”って教わった直後にこれよ!」
顧大嫂が酒を置く。
「先生泣かせだねぇ」
「生徒が泣きたいの!!」
孫二娘が笑う。
「それで、どうしたァ?」
「玉楼が足元を見つけた。本物が立ってる場所だけ、霧の動きが違ったの」
「さすが玉楼だねぇ」
「でしょ? だからアタシが叫んで、林冲が軍全体に回した」
顧大嫂が頷く。
「二人で見たわけか」
そう。
一人の目が信用できないなら、二人で確かめる。
それで何とかなると思った。
――霧の向こうから、本物の矢が飛んでくるまでは……
朝になっても、空気は重いままだった。
空は白く曇り、陽が昇っているはずなのに野営地全体が薄暗い。
昨夜の鈴のことを忘れたふりでもしているのか、兵たちは火を片付け、馬へ水をやり、武具を確かめながら出陣の支度を進めていた。
ただ、いつもより声が少ない。
アタシもほとんど眠れていなかった。
隣へ来た玉楼に、
「お休みになられましたか?」
と聞かれて、素直に首を振る。
「ちょっとだけ。玉楼は?」
「十分でございます」
絶対嘘だ。
昨日の夜、交代すると言っておきながら、アタシが目を覚ますたび同じ場所にいたじゃない。
「アンタ、本当に寝た?」
「目は閉じました」
「それ睡眠時間の質問に対する答えじゃないからね?」
玉楼は答えなかった。
最近、都合が悪い時の黙秘まで上手くなっている。
冷たい風が吹いた。
湿った空気が頬へまとわりついた、その時だった。
前方で馬が激しく嘶いた。
何頭かが続けて首を振り、兵たちが手綱を押さえる。
昨夜まで落ち着いていた馬が、何もない高唐州の方角を嫌がるように後ずさった。
そして――
ゴォン、と鐘が鳴った。
腹の奥まで落ちてくるような音だった。
昨夜の鈴とは違う。
遠いはずなのに、地面の下から響いたみたいに近い。
兵たちの手が止まる。
アタシも高唐州を見る。
朝靄の向こうに灰色の城壁が浮かび、その上には人影が並んでいた。
十人。
いや、もっといる?
目を凝らした瞬間、人数が変わった。
「……また始まった」
隣で玉楼も目を細める。
「昨夜より、ひどいようでございます」
「朝になったら直るタイプの不具合じゃなかったのね」
そんな不具合があってたまるか。
もう一度、鐘が鳴った。
城壁の上で何かが揺れる。
旗じゃない。
細長い白布のようなものが何本も垂れ、風がこちらへ吹いているのに、なぜか逆方向へたなびいていた。
「……風、こっち向きよね?」
「はい」
「じゃあ、あれ何で逆なの?」
「分かりません」
またそれ。
昨日から「分からない」が増えすぎている。
その時、林冲が兵の前へ出た。
「前へ出るな」
大きな声ではない。
それでも、動きかけていた兵たちが止まった。
林冲は城壁を見たまま、周囲へ命を飛ばしていく。
「馬を中央へ寄せろ。盾を前へ。見えているものだけで動くな」
最後の言葉に、何人かが顔を見合わせた。
見えているものだけで動くな。
言っていることは分かる。
分かるけど。
「先生、それ今一番難しい課題なんだけど……」
「三娘様」
「分かってる。前に出ない」
言った直後だった。
城壁の下から白いものが流れ出した。
最初は煙に見えた。
炊煙か何かだと思った兵もいたらしく、何人かが息を吐く。
でも違った。
白い霧は地面を這い、風に逆らいながらこちらへ広がってくる。
「……あれ、普通の霧?」
「普通の霧は、あのようには動かないかと」
「聞かなきゃよかった」
遠いはずだった白さが、気づけば丘の下まで来ていた。
速い。
なのに、動いているように見えない。
距離そのものを飛ばしているみたいだった。
馬がまた暴れた。
一頭が前脚を上げ、兵が二人がかりで手綱を引く。
「引くな!」
林冲の声が飛ぶ。
「締めれば余計に暴れる! 目を覆え!」
兵がすぐ布を取り出し、馬の目へ巻く。
馬はまだ鼻を鳴らしていたが、少しずつ動きを止めた。
こんな時まで馬への対処は即答できるのね。
少し安心した。
本当に少しだけ。
白い霧が野営地の手前まで来たところで、前列の兵が叫んだ。
「人がいる!」
皆がそちらを見る。
アタシにも見えた。
霧の中に、人影がある。
一つ。
二つ。
十――
「右だ!」
別の兵が叫ぶ。
でも右には何もいない。
「違う、左だ!」
今度は左から声が上がった。
全員が違う場所を指している。
アタシももう一度正面を見る。
さっきまで十人はいた影が、一人になっていた。
その一人まで、すっと消える。
「……人数表示どころじゃなくなった」
玉楼が槍を握る。
「三娘様、わたくしから離れませんよう」
「玉楼もね」
一瞬、玉楼がこちらを見る。
「わたくしが、でございますか?」
「アンタだけ守る側みたいな顔しないで。今、どっちが消えても困るから」
玉楼は少し黙ってから頷いた。
「承知いたしました」
霧が足元まで来た。
白さが靴を隠し、膝のあたりまで這い上がってくる。
途端に景色がおかしくなった。
二、三歩先にいる兵が、十歩以上離れているように見える。
逆に、遠くの盾が目の前へ迫って見えた。
「玉楼」
「はい」
声はすぐ横だ。
見る。
玉楼も隣にいる。
でも姿だけが妙に遠い。
「……これ、酔う」
「目を閉じますか?」
「それはそれで怖い!」
笑えない。
本当に笑えない。
前方で金属がぶつかった。
「敵だ!」
兵が槍を振り回す。
だが、その前には誰もいない。
隣の兵が止めようと腕を伸ばした瞬間、槍の穂先がそちらへ向く。
「待って!」
アタシは反射で踏み出しかけた。
袖を掴まれる。
玉楼だった。
「三娘様、今はお待ちください」
「でも味方同士で――」
「だからでございます」
玉楼は槍を横に構えたまま、叫ぶ兵ではなく足元を見ていた。
「声の方向ではなく、地面を」
「地面?」
「影でございます」
言われて見る。
霧は濃い。
それでも、人が本当に立っている場所だけ地面の白さがわずかに乱れていた。
幻みたいな人影には、それがない。
「……玉楼、ナイス」
「何でございましょう?」
「褒めてる!」
アタシは地面を見る。
立っている兵。
倒れた槍。
馬の脚。
全部、輪郭より足元の方がまだ信用できる。
「足元見て!」
思わず叫んだ。
近くの兵たちがこちらを見る。
「人影じゃなくて、霧の動き! 本当にそこにいる奴だけ足元が変わる!」
林冲が振り向いた。
一瞬だけアタシを見て、それから地面へ視線を落とす。
「聞いたな!」
すぐ命令へ変わった。
「影を追うな! 足元を見ろ! 二人一組を崩すな!」
兵たちの混乱が少しだけ収まる。
「……採用された」
「よろしゅうございました」
「先生に褒められてないけど?」
「今はそれどころではございません」
はい……
分かってます。
その直後、近くで悲鳴が上がった。
一人の兵が槍を振り上げ、何もない場所へ突き出している。
目が合っていない。
「来るな! 来るな!」
何を見てるの?
玉楼が先に動いた。
真正面から止めるのではなく横へ回り、槍の柄で兵の武器を叩き落とす。
アタシも反対側から腕を取った。
兵が暴れる。
「敵が! そこにいる!」
「いない!」
「いる! お前の後ろだ!」
反射で振り向きそうになった。
玉楼の声が飛ぶ。
「三娘様!」
止まる。
見るな。
いや、見る。
でも信用するな。
何この無理ゲー。
「後ろに誰かいる?」
アタシが聞く。
玉楼は振り向かず、槍の石突を少し後ろへ伸ばした。
何にも当たらない。
「おりません」
「了解!」
二人で兵を地面へ押さえ込む。
幻を見ている兵はまだ叫んでいたが、近くの仲間が駆け寄って引き取った。
アタシと玉楼は同時に立つ。
今度はどっちが前とも決まっていない。
アタシが左を見る。
玉楼が右を見る。
一人では足りない。
だから二人で見る。
林冲の兵たちも、次第に同じやり方を始めていた。
誰かが叫んでも一人では動かない。
隣の者と確認してから動く。
霧の中に影が出ても、足元を見る。
少しずつ、隊列が戻り始めた。
でも、鐘が鳴った。
ゴォン――
今度は耳元だった。
身体がびくりと動く。
高唐州は遠い。
絶対に遠い。
なのに音だけが頭のすぐ横から落ちてくる。
「っ……!」
周囲の兵も耳を押さえる。
その瞬間だった。
霧の中へ無数の人影が現れた。
前。
後ろ。
右。
左。
城壁にいたはずの兵まで、すぐそこへ立っている。
「囲まれた!」
誰かが叫んだ。
「動くな!」
林冲の声が重なる。
それでも何人かが反射で武器を構えた。
アタシも双刀を抜く。
玉楼が半歩前へ出た。
「三娘様」
「分かってる」
見えているものを斬らない。
でも、本物が混じっていたら?
霧の向こうで、人影が腕を上げた。
妙にはっきり見えた。
細長い腕。
白い衣。
その指先が、こちらへ向く。
ぞくりと背中が冷えた。
「玉楼、あれ見える?」
「見えております」
「同じ場所?」
「正面、少し右」
同じだ。
初めて二人が同じものを見た。
だったら本物?
アタシが一歩出る。
今度は玉楼も止めない。
代わりに、同じ速度で隣へ出た。
黒と白なんて言葉が、また頭の奥へ浮かびかける。
今はどうでもいい。
見えるなら斬る。
見えなくても、二人で探す。
霧の中の白い人影が、もう一度腕を動かした。
その向こうで、小さく弦の鳴る音がした。
次の瞬間――
霧の中から、矢が飛んできた。
玉楼でございます。
「玉楼、霧の中で足元見ろって気づいたんだって?」
顧大嫂様が酒を置きました。
「はい、人影より霧の動きの方が確かでしたので」
孫二娘様が鍋を混ぜます。
「三娘より先に攻略法見つけたかァ」
幕舎の外から声が飛びました。
「アタシは全軍に広めたでしょ!!」
「林冲殿が、でございますね」
「そこ細かく訂正しないで!」
ですが、三娘様は仰いました。
「今、どっちが消えても困るから」
守るのは私だと思っておりました。
けれど霧の中では、一人の目だけでは足りません。
私が右を見るなら、三娘様は左を見る。
二人なら見つけられる。
そう思った矢先――
本物の矢だけは、幻ではございませんでした。