扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。
「新人研修、方針転換したのかァ?」
「違う! 霧の中じゃ見たもの全部が怪しいの!」
顧大嫂が酒を置く。
「じゃあ何を見るんだい?」
「隣」
「玉楼かァ」
「そう、玉楼がいる。それだけは間違えない」
孫二娘がにやりとする。
「ずいぶん信頼したねェ」
「今そこ拾わないで!」
見える敵は増える。
声も鐘も、距離まで狂う。
だから林冲は言った。
「遠くを見るな。隣だけ見ろ」
アタシの隣には玉楼がいた。
それなら逃げ切れると思った。
――高唐州を背にしたはずなのに、鐘が前から鳴るまでは……
玉楼が槍を振る。
乾いた音が弾け、飛んできた矢が霧の中へ消えた。
アタシは反射で身を沈めたまま、次を待つ。
来ない。
一本だけだった。
「……何それ」
大量に来るより、嫌だった。
狙いを確かめたのか、それともこっちがどう動くか見ているのか、どちらにしても、偶然飛んできた一本には思えない。
周囲では盾が上がっていたが、誰も前へ出ようとはしなかった。
矢が飛んできた方角さえ、本当に正しいのか分からない。
「玉楼、どこから来たか分かった?」
「正面からに見えました」
「“見えました”なのね」
「はい」
断言しないところが怖い。
霧の奥で鐘が鳴る。
ゴォン――
高唐州までは、まだ遠い。
頭では分かっているのに、音だけはさっきより近く、胸の内側へ直接落ちてきたみたいに響いた。
左で馬が暴れた。
手綱を取っていた兵が必死に宥めるが、馬は白い霧へ向かって首を振り、後ろ脚で地面を蹴る。
騎乗していた兵まで何かを見つけたらしく、突然槍を振り回した。
「いた! 今そこに――!」
穂先が空を切る。
誰もいない。
それでも兵の目は、何かを追っていた。
「……見えてるのね」
玉楼がその兵と足元を交互に見た。
「わたくしたちとは、違うものが」
嫌な確認だけど、たぶん正しい。
その時、霧の中から人が出てきた。
梁山泊の兵だった。
肩から血を流し、片手で傷を押さえながらこちらへ歩いてくる。
足元の霧も乱れている。
今度は幻じゃない。
「助け――」
声が途切れた。
兵の背後で、細長い影が揺れた。
「玉楼!」
「見えております!」
二人同時に踏み込んだ。
兵の身体が大きく震え、そのまま前へ崩れる。
アタシは倒れる身体を避けて双刀を振った。
手応えがない。
玉楼の槍も霧を裂いただけだった。
「いない!?」
「下がってください!」
玉楼に肩を引かれる。
その直後、アタシがいた場所へ何かが走った。
風だったのか。
刃だったのか。
それすら分からない。
右から悲鳴が上がる。
振り向けば、今度は左で鎧がぶつかった。
「後ろだ!」
「違う、前だ!」
兵たちの声が重なり、隊列がざわめく。
敵が見えないんじゃない。
見えすぎる。
しかも、一人ずつ違うものを見せられている。
「これ、最悪のチーム戦じゃない!?」
「何でございましょう?」
「全員に別画面見せてるの!」
「意味は分かりませんが、厄介なのは同意いたします」
そこは伝わるんだ。
玉楼が槍を横へ構え、近くの兵へ声を飛ばした。
「離れないでください! 見えたものへ一人で向かわないように!」
アタシも続ける。
「隣に確認して! 自分だけ見えてるなら追わない!」
霧の中から返事がいくつか来る。
全員には届かない。
鐘が鳴った。
今度は本当にすぐ近く――
そう感じた瞬間、霧の中へ人影がいくつも浮かび上がった。
三つ。
五つ。
もっと。
歩いているはずなのに、近づいているのか離れているのか分からない。
湿った風が霧を揺らした。
その向こうに、無数の矢じりが浮かんだ。
「伏せろ!」
林冲の声が通った。
次の瞬間、矢が降った。
盾へ突き刺さる音が続き、馬が嘶き、地面へ落ちた矢が跳ねる。
正面から来たと思った一本が横を抜け、遠くに見えた矢がいきなり目の前へ迫った。
アタシは身体を捻る。
頬の横を矢が掠めた。
「うわっ!」
玉楼の槍が続けて鳴る。
一本、二本と弾き、三本目を逸らしたところで、霧の向こうから兵同士がぶつかる音がした。
「敵だ!」
「俺だ! 味方だ!」
「槍を下ろせ!」
まずい。
幻を相手にしているうちに、こっちが勝手に潰し合う。
アタシが走りかけると、今度は玉楼が袖を掴んだ。
「待ってください」
「でも!」
「どこへ行かれるおつもりですか?」
言われて止まった。
……分からない。
声がした方。
それしか分からない。
「クッソ、これ腹立つ……」
「お気持ちは分かります」
「玉楼が分かってくれると余計腹立つ!」
「では、分からないことにいたしますか?」
「そこは分かってて!」
こんな状況で何をやってるんだ、アタシたち……
でも、その一往復で頭が少し戻った。
玉楼が隣にいる。
それだけは本当だ。
さっき三娘様と呼んだ声も、袖を掴んだ手も、ここにある。
アタシは玉楼の腕を掴み返した。
「離れないで」
「先ほど、わたくしが申し上げました」
「今はアタシが言ってるの!」
玉楼が一瞬だけこちらを見て、頷いた。
「承知いたしました」
前でも後ろでもない。
隣。
見るものが狂うなら、隣にいる相手を確かめればいい。
アタシが右を見る。
玉楼は左を見る。
何か見えたら、まず相手へ聞く。
二人とも見えたから本物、とはもう限らない。
さっきは同じ白い影を見た直後に矢が来た。
それでも、一人で決めるよりましだった。
前方の霧がゆっくり割れた。
白い隙間の奥に林冲が立っている。
蛇矛を下げたまま、高唐州の方を見ていた。
「動くな」
声が真っ直ぐ通る。
兵たちの動きが止まった。
「陣を崩すな」
林冲は一拍置いた。
「見るな」
……え?
今まで散々、まず見ろって言ってた人が?
「先生、教育方針変わるの早くない!?」
近くの兵がこんな時なのに吹き出した。
林冲だけは振り向かない。
「遠くを見るな。隣だけ見ろ」
あ……
玉楼と顔を見合わせた。
同じこと考えてた。
何それ、ちょっと悔しい。
「三娘様、林冲殿も同じ結論のようでございます」
「言わなくていい!」
「良い教えかと」
「優等生!」
鐘が鳴る。
頭の中で響いたような音に、兵たちの肩が揺れた。
それでも今度は、誰も影へ飛びつかなかった。
隣と足元だけを見て、手の届く範囲を確かめる。
林冲の命が短く飛ぶ。
「下がれ。二人一組を崩すな」
軍が少しずつ動き始めた。
その時、後ろから声がした。
「待ってくれ!」
何人かが振り向く。
霧の中に梁山泊の兵がいた。
片腕を押さえ、こちらへ手を伸ばしている。
足元も――
見えない。
霧が濃すぎる。
「置いていくのか……!」
兵が一歩出ようとした。
「行くな」
林冲が止めた。
「でも!」
霧の中の男が、また手を伸ばす。
「たす……け……」
声が歪んだ。
次の瞬間、その身体が横へ滑った。
歩いたんじゃない。
足を動かさないまま、霧の奥へ流れて消えた。
誰も追わなかった。
追えなかった。
玉楼が槍を握り直す。
「あれは、人ではございません」
「……うん。アタシも今のは同じの見た」
一致して嬉しくないものばっかり増える。
林冲が蛇矛を上げた。
「野営地を捨てる」
その言葉に、荷を守っていた兵たちが顔を上げた。
「持てるものだけ持て。霧の外まで下がる」
荷車も天幕も、ここまで運んできたものだ。
それを捨てる。
でも誰も反論しなかった。
ここに留まる方が危ないと、もう全員が知っている。
霧のどこかから笑い声がした。
近いようで遠い。
今度は誰も探さない。
「聞くな。動け」
林冲の一言で、兵たちが後退を始めた。
誰も走らず、隣を失わない速度で下がっていく。
盾持ちは仲間の肩を確かめ、槍兵も前ではなく互いの位置を見る。
馬には布をかけたままだ。
アタシも玉楼と並んで下がった。
「これ、逃げてるのよね?」
「戦う場所を変えているのでは?」
「先生の優等生は言い方まで前向きね!」
「では、逃げております」
「急に現実を突きつけないで!」
玉楼、絶対ちょっと楽しんでる。
こんな状況なのに、口だけはいつも通りだ。
それがありがたいなんて、本人には絶対言わない。
少しずつ野営地が遠ざかる。
いや、遠ざかっているはずだった。
霧の中では、置いてきた天幕がまだ近くに見える。
数十歩下がったのに、さっきの火がすぐ横で揺れているようにも見えた。
「玉楼」
「見ないでくださいませ」
「まだ何も言ってない」
「火をご覧になっておられましたので」
先回りされた。
アタシは視線を地面へ落とす。
自分と玉楼の足、それから前を行く兵の踵だけを追った。
今はそれだけでいい。
後方で馬が暴れた。
悲鳴が上がる。
反射で振り向きそうになった兵を、その隣が肩を掴んで止めた。
教わったことが回っている。
見るな。
一人で行くな。
隣を確かめろ。
少し前なら、アタシも真っ先に駆けていた。
今だって行きたい。
でも、玉楼の手がここにある。
アタシの手も、玉楼の腕を掴んでいる。
だから止まれる。
やがて霧が少し薄くなった。
兵たちの輪郭が戻ってくる。
遠くの木も見え始めた。
誰かが息を吐いた。
「抜けるぞ……」
その声に、初めて空気が緩んだ。
アタシも思わず高唐州の方を振り返りそうになる。
「三娘様」
「分かってるって」
前を見る。
林冲の白い披風が、ようやく普通の距離に見えた。
ここまで来れば――
ゴォン。
鐘が鳴った。
兵たちが止まる。
アタシも止まった。
誰も高唐州の方を見ていない。
必要なかった。
音の方向だけは、全員が分かったから。
今度は、前から聞こえた。
玉楼でございます。
「玉楼、三娘に“離れないで”って言われたんだって?」
顧大嫂様が酒を置きました。
「はい」
孫二娘様が鍋を混ぜます。
「いつもと逆じゃないかァ?」
「わたくしも先に申し上げております」
幕舎の外から声が飛びました。
「今はアタシが言ったの!!」
「承知しております」
「そこ譲って!!」
顧大嫂様が笑います。
「で、林冲は?」
「遠くを見るな。隣だけ見ろ、と」 「玉楼じゃないかァ」
「はい、良い教えでございます」
「また優等生!!」
霧の中では、目も耳も信用できませんでした。
ですが、三娘様が隣にいることだけは確かめられます。
それなら下がれる――
そう思っておりました。
高唐州は、すでに背後のはずでした。
それなのに――
次の鐘は、私たちの前から聞こえたのでございます……