扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。
「道に迷ったんじゃなくてェ?」
「軍勢まるごと迷子にする霧って何よ!!」
顧大嫂が酒を置く。
「それで、また突っ込んだのかい?」
「行かないわよ! アタシだって成長してるの!」
「そこ威張るところかァ?」
「少しは褒めて!!」
でも、止まったのはアタシだけじゃなかった。
李逵の声に玉楼の手が強張った時も、あの子は動かなかった。
「平気だったのかい?」
「違う。平気じゃないって、自分で言った」
そして霧が薄くなった時、アタシはもう一度聞いた。
「それ、自分で決めた?」
玉楼は迷わなかった。
「はい、今度はわたくしが決めました」
――だから今度は、二人とも自分の足で高唐州へ向かう。
霧の中を、梁山泊軍はゆっくり進み続けていた。
誰も走らない。
走れば隣を失い、一度隊列が切れれば、今度こそ戻れないかもしれない。
その恐怖を、もう全員が知っている。
遠くは見ない。
自分の足元と、隣にいる者だけを確かめる。
アタシも玉楼の腕から手を離さず、前を行く兵の踵だけを追っていた。
「まだいる?」
「おります」
「確認しただけ」
「三娘様こそ」
「いるわよ」
こんな会話を何度したか分からない。
でも今は、それでいい。
見えるものは信用できない。
聞こえるものも怪しい。
だったら、触れて確かめられる相手くらいしか頼れるものがない。
霧が少し薄くなった。
前方の兵の背中が、ようやく普通の距離に見える。
その時だった。
先頭近くの兵が、急に足を止めた。
「……え?」
掠れた声だった。
後ろもつられて止まりかける。
「止まるな」
林冲の声が飛び、列が辛うじて動きを保つ。
けれど前の兵は、青ざめたまま何かを見ていた。
アタシも、つい視線を上げる。
「……嘘でしょ?」
霧の向こうに火が見えた。
天幕がある。
荷車もある。
さっき置き捨てたものと、配置まで同じだった。
玉楼の手が止まる。
「……先ほどの野営地でございます」
「いやいやいやいや」
思わず首を振る。
「アタシたち、ずっと後ろへ下がってたよね?」
「そのはずでございます」
「高唐州を背にして?」
「はい」
「じゃあ、何で野営地が前にあるのよ!?」
誰も答えない。
答えられるわけがない。
霧の向こうで、置き去りにした火が揺れている。
その奥には人影まで立っていた。
鎧姿――
こちらへ背を向け、動かない。
「……アタシ、あれ確認しに行かないからね?」
「賢明でございます」
「成長したでしょ?」
「はい」
「もうちょっと感動して!」
「今はそれどころではございません」
またそれ……
でも、今回は本当にその通りだった。
林冲も野営地へ近づかなかった。
しばらく眺めた後、蛇矛を上げる。
「右へ取る」
前でも後ろでもない。
横へ抜ける。
「地形を見るな。足元の傾斜だけ拾え。丘へ出る」
兵たちがすぐ命に従った。
もう誰も「野営地へ戻ればいい」なんて言わない。
あそこに見えているものが、本当に自分たちの捨てた野営地なのかすら分からないのだ。
「マップがループしてる……」
「何でございましょう?」
「知らなくていい。知ってても解決しないから」
玉楼は素直に頷いた。
しばらく進むと、ようやく足元の草が変わった。
霧も薄くなり、低い丘の斜面が見える。
林冲はそこで軍を止めた。
今度こそ霧の外だった。
兵たちが一斉に腰を落とすことはなかったが、張り詰めていた息が少しだけ漏れた。
負傷者が後ろへ運ばれ、馬の目を覆っていた布が外される。
捨てずに済んだ荷だけを集め、盾を外側へ置いて、小さな陣が作り直されていった。
林冲は高唐州へ戻ろうとはしなかった。
「今日は寄せん」
それだけだった。
誰も反対しなかった。
アタシも反対する気にはならない。
むしろ今日だけは、先生の「無理しない」が神々しく見える。
「……林冲でも止まるのね」
隣で玉楼が霧を見る。
「止まるべき時に止まれる方なのでしょう」
「褒めるわねぇ」
「事実でございます」
その時、後ろから怒鳴り声が響いた。
「何なんだよ、あの霧は!」
空気が変わった。
李逵だった。
アタシは霧ではなく、隣を見る。
玉楼の指が止まっていた。
本当に一瞬だけ。
槍を握る手に力が入り、その視線が李逵の方へ向く。
でも、身体は動かない。
祝家荘を焼いた男。
玉楼にとって、忘れられるはずのない相手。
李逵はこっちに気づいた様子もなく、周囲へ不満をぶちまけている。
「敵がいるなら殴ればいいだろうが! 何で霧なんぞ相手に引かなきゃならねえ!」
殴れるならアタシだって苦労してない。
霧を殴れるなら好きなだけ殴ってきてほしい。
でも、口には出さなかった。
玉楼がいるから……
「……玉楼」
「はい」
返事はいつも通りだった。
「大丈夫?」
玉楼は少し黙る。
「大丈夫ではございません」
意外だった。
誤魔化すと思っていた。
「ですが、今は高唐州が先でございます」
「……そっか」
「はい」
それ以上は言わなかった。
アタシも言わない。
ただ、いつもより少しだけ近くに立った。
玉楼が何も言わないから、たぶん許された。
それから数日、林冲の隊は丘を動かなかった。
正確には、何もしなかったわけじゃない。
斥候は霧へ近づきすぎない範囲で地形を確かめ、負傷者は治療され、失った荷の代わりも調えられていく。
ただ、高唐州へは入らない。
霧は城の周りへ居座ったままだった。
風が吹いても散り切らず、夜になると時折あの鐘が聞こえた。
「昨日は右から聞こえた」
「俺は左だ」
そんな話が兵たちの間で出るようになったが、もう誰も確かめようとはしない。
学習速度だけは上がってる。
そこは本当に偉い。
三日目の夕方、アタシと玉楼は幕舎へ呼ばれた。
中には林冲のほか、梁山泊の頭領たちが集まっていた。
羽扇を持つ男――
呉用が地図の前に立っている。
「戴宗と李逵を出しました」
また……
玉楼の指が止まった。
でも今度は、アタシが声をかける前に戻った。
自分で。
「公孫勝殿を呼びに向かわせています」
知らない名前だった。
いや、知らないはずなのに、少しだけ引っかかる。
頭の奥に、薄い紙が一枚挟まっているみたいな感覚。
でも、何も出てこない。
無理に追うのはやめた。
この世界に来てから、それで何度も空振りしている。
「その人が来たら、何とかなるの?」
アタシが聞くと、何人かの視線が集まった。
呉用は怒らなかった。
「何とかしていただかねば困ります」
「すごい回答ね?」
「他に手がありませんので」
さらにすごい回答だった。
「林冲は?」
聞くと、林冲は地図を見たまま答える。
「待つ」
短っ……
でも、今回は意味が分かる。
霧の中へ突っ込んで兵を減らすより、打てる手が来るまで止まる。
「……先生が待つって言うなら、待つしかないか」
「誰が先生だ?」
「今さらそこ拾う!?」
幕舎の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
玉楼が横で小さく口元を動かした。
笑ったわね……
「玉楼」
「何でございましょう?」
「今笑ったでしょ」
「気のせいでございます」
「霧じゃないんだから誤魔化さないで!」
呉用まで羽扇で口元を隠した。
ちょっと……
軍議よね、これ。
幕舎を出ると、夜の空気は冷たかった。
丘の向こうでは、白い霧がまだ高唐州を覆っている。
アタシは肩を回した。
「待つのって疲れるわね」
「戦うよりは安全かと」
「そういう正論を求めてないの」
玉楼が隣へ並ぶ。
今では、半歩前に出る時もあれば、普通に隣に立つ時もある。
「玉楼」
「はい」
「さっき李逵の名前、平気だった?」
玉楼は少し考えた。
「平気ではございません」
やっぱり、そこは変わらない。
「ですが、三娘様が隣におられましたので」
今度はアタシが止まった。
「……何それ」
「事実でございます」
「そういうの急に言うの禁止」
「なぜでございますか?」
「こっちが困るから!」
玉楼は本気で分からない顔をした。
この人、たまに無自覚で刺してくる。
「ホント、アタシ専用のお姉さんよね」
「お姉さん、でございますか?」
「そこだけ深掘りしないで……」
玉楼は少しだけ困った顔をしたものの、否定はしなかった。
その夜も鐘は鳴った。
けれど誰も動かなかった。
翌日も、その次の日も。
そして数日後。
朝、妙な静けさで目が覚めた。
何かが違う。
幕舎を出ると、兵たちも同じことを感じたらしく、何人も丘の方へ集まり始めていた。
アタシも見る。
高唐州。
白い霧はまだある。
でも――薄い。
「玉楼」
「はい」
隣で、玉楼も息を呑んだ。
城壁が見える。
見張り台も。
灰色の輪郭が、何日ぶりかで霧の向こうに浮かんでいる。
「……晴れる?」
「まだ分かりません」
「そこは“はい”って言ってよ」
「確認できておりませんので」
「相変わらず堅い!」
でも、嫌じゃなかった。
昼になる頃には、霧はさらに薄くなった。
完全には消えていない。
それでも城門が見える。
城壁にいる兵の数も、今度は目を逸らしても勝手に増えたり減ったりしない。
少なくとも、そう見える。
兵たちが動き始めた。
武具を確かめ、馬を引き出し、盾を並べる。
止まっていた軍が、少しずつ元の形へ戻っていく。
アタシも双刀の位置を確かめた。
隣では玉楼が槍を持つ。
「また行くのね」
「はい」
「怖くない?」
「怖うございます」
即答だった。
「でも行く?」
玉楼がこちらを見る。
「三娘様は?」
「行く」
「でしたら、わたくしも」
「それ、自分で決めた?」
少し意地悪だったかもしれない。
でも玉楼は迷わなかった。
「はい、今度はわたくしが決めました」
その答えに、アタシは笑った。
丘の上へ林冲が出る。
白い披風が風を受けた。
兵たちの視線が集まり、ざわめきが消える。
林冲は霧の薄くなった高唐州を見据えた。
「行くぞ……」
それだけだった。
だが、止まっていた梁山泊軍が、一気に動き出す。
霧の前で止められていた時間が、ようやく流れ始めた。
兵達が隊列を組み、旗が上がる。
太鼓が鳴る。
高唐州攻略戦が、再び動き始めようとしていた。
玉楼でございます。
「玉楼、李逵の声を聞いても飛び出さなかったんだって?」
顧大嫂様が酒を置きました。
「はい、腹は立ちましたが……」
孫二娘様が鍋を混ぜます。
「そこは平気じゃないんだねェ」
「平気ではございません」
幕舎の外から声が飛びました。
「そこ正直になったのよ!」
「三娘様がお尋ねになりましたので」
「アタシのおかげ!?」
「少しは」
「少しなの!?」
ですが、以前の私なら、三娘様がお進みになるから参る、と答えたでしょう。
今回は違います。
怖いものは怖い。
許せないものも、まだ許せない。
それでも――
高唐州へ戻ると決めたのは、私でございます。
そして隣には、三娘様がおられました。
今度は二人とも、自分で選んだ道を進むのでございます。