扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が首を傾げた。
「知らないよォ。昨日は前から鐘が鳴ったんだろ?」
「そうだけど!」
顧大嫂まで腕を組む。
「で、お前はどうした?」
「林冲先生が行くって言うから、行く」
「成長してないねェ……」
「違う! 今回はちゃんと見てから行くの!」
「それで?」
「普通に城を攻めたら、普通に押せた」
「おお」
「敵も慌てるし、矢もちゃんと飛んでくるし、人間って素晴らしい!」
顧大嫂が眉をひそめた。
「喜ぶところがおかしくなってるぞ?」
分かってるわよ!
でもね。
あと少しで門が破れる――
そう思った瞬間だった。
ゴォン――
「……また鐘かァ」
そう……
そして今度は、霧の上に誰か立ってたのよ。
昼を過ぎても、霧は完全には戻らなかった。
薄い白が城壁の下を這っているものの、昨日までとは違う。
高唐州の城門も見張り台も、その上を走る兵の姿も、今日はきちんと目で追える。
見える。
それだけで、ずいぶん戦いやすそうに思えた。
……そう思った時点で、昨日までが異常すぎたんだけど。
梁山泊軍の太鼓が鳴る。
止まっていた隊列が動き始めた。
誰も浮かれてはいない。
霧が薄くなった理由なんて分からないし、戴宗と李逵が呼びに行った公孫勝という人も、まだ戻っていない。
それでも林冲は進むと決めた。
安全だからじゃない。
今なら戦えるからだ。
アタシは馬上から城壁を見上げる。
「……よ〜く見えるわね」
玉楼も隣で目を細めた。
「昨日までよりは、はっきりしております」
「大丈夫そう?」
「そこまでは申し上げておりません」
「慎重!」
「確認できておりませんので」
昨日までなら、堅いなあと笑っていたかもしれない。
今日はありがたい。
見えるから安全。
そんな単純な話じゃないことを、アタシたちはもう嫌というほど知っている。
城壁の上で鐘が鳴った。
今度は鳴らしている場所まで分かる。
「梁山泊だ!」
「弓兵、前へ!」
「門を固めろ!」
兵が走る。
旗が振られる。
弓を抱えた男が隣とぶつかり、怒鳴られて慌てて持ち場へ戻っていく。
アタシは少し拍子抜けした。
「……人間ね」
「はい?」
「ちゃんと慌ててる」
昨日まで、高唐州そのものが巨大な化け物みたいに思えていた。
今は違う。
城壁の向こうにいるのは、怖がっている人間だ。
玉楼が右側の見張り台へ目を向ける。
「弓兵の間が空いております。あちらは動きが揃っておりません」
「アタシにも見える」
二人で同じ場所を見る。
今度は、勝手に人数が増えない。
林冲の蛇矛が上がった。
「前へ」
盾兵が進み、その陰を槍兵が詰める。
左右へ騎兵が開くと、高唐州側から矢が放たれた。
盾へ刺さる。
地面へ落ちる。
頭上を越えていく。
怖い。
でも、どこから来るのか分かる。
それだけで昨日とは全然違った。
城門へ大盾が寄る。
その陰から梁山泊の弓兵が射返し、高唐州兵が身を伏せた隙に、重い槌が運び込まれた。
ドン、と腹へ響く。
城門が揺れた。
もう一度。
今度は門の上から石が落ち、盾へ叩きつけられる。
梁山泊側にも悲鳴が上がったが、倒れた兵の穴へすぐ別の兵が入った。
「崩れないわね」
「林冲殿の兵でございますので」
「玉楼、完全に先生信者になってない?」
「事実を申し上げただけでございます」
便利に使うな、その言葉。
城門脇の小門が開いた。
高唐州兵が十数人ほど飛び出してくる。
「来た!」
アタシは馬を寄せた。
槍が伸びる。
双刀で穂先を外し、そのまま相手の肩へ刃を入れる。
身体が次の動きを知っている。
馬首を返したところへ別の兵が踏み込んできたが、その槍はアタシまで届かなかった。
玉楼の槍が割って入る。
「右でございます!」
「見えてる!」
アタシが前へ出れば、玉楼が空いた側を見る。
玉楼が止めれば、その横をアタシが抜く。
どちらが前かなんて、もう決めていない。
必要な方が動く。
それでいい。
高唐州兵が小門へ戻り始めた。
「押してる!」
「はい!」
玉楼の声にも力がある。
城門へ三度目の槌が叩き込まれた。
ギシッ、と木が軋む。
城壁では鐘と命令が重なり、弓兵の一部は狙いを定める前に射っている。
矢が梁山泊軍の手前へ落ちた。
化け物の城じゃない。
追い詰められている城だ。
林冲も見逃さなかった。
「右を押せ!」
騎兵が動く。
高唐州側の兵がそちらへ引かれた隙に、城門へ四度目の衝撃が入る。
閂が軋んだ。
もう少し。
そう思った、その時だった。
ゴォン――
一度だけ。
別の鐘が鳴った。
身体が先に固まった。
昨日の音。
「止まれ!」
林冲の声が飛ぶ。
城壁の下を這っていた薄霧が、一気に膨れ上がった。
「……やっぱり終わってない!」
白いものが地面から巻き上がり、城門を包む。
さっきまでそこにいた兵の輪郭が歪んだ。
近かった門が、急に遠く見える。
「三娘様!」
「いる!」
玉楼の声へ返す。
今度は慌てない。
隣を確かめる。
足元を見る。
だけど霧の勢いは止まらなかった。
城壁から歓声が上がる。
「高廉様だ!」
その名に顔を上げる。
城門楼の上へ、一人の男が姿を現していた。
顔色は悪い。
けれど目だけが異様にぎらついている。
男が両腕を広げると、霧がその周囲へ集まり始めた。
あれが高廉。
「今まで隠れてたの!?」
もちろん返事なんてない。
高廉の口が動く。
途端に白い霧の中へ影が浮かび上がった。
一人。
三人。
十人。
数えた意味がなくなる速度で増えていく。
「またこれ!?」
「全軍、下がれ! 二人一組を崩すな!」
林冲の命令が飛ぶ。
昨日と違って、兵たちもすぐ反応した。
一人で影を追わない。
隣を確かめる。
それでも霧の中から矢が飛び始めれば、前進は止まる。
せっかく門まで押したのに、また同じ場所で足を奪われた。
アタシは双刀を握る。
高廉本人は見えている。
はっきりと。
なのに城門楼の上だ。
「三娘様、行ってはいけません」
「分かってる!」
腹は立つ。
今すぐ斬りたい。
でも、届かない敵へ突っ込むのは勇気じゃない。
ただ死にに行くだけだ。
高廉の足元に霧が集まり、白い雲のように膨らんでいく。
その身体まで城壁から浮き上がった。
昨日の地獄が、もう一度始まる。
そう思った時だった。
後方から声が上がった。
「来たぞ!」
最初は誰もすぐ振り向かなかった。
音だけなら信用できない。
ところが、霧の薄い場所から三つの人影が飛び込んでくる。
……飛び込んでくる?
馬じゃない。
走ってる。
三人とも。
しかも速い。
速いとかいう次元じゃない。
「ちょっと待って! 人間ってあんな速度で走れるの!?」
先頭は戴宗だった。
その後ろを李逵が、巨体とは思えない勢いで駆けている。
さらにその隣には道士姿の男までいる。
三人とも、自分の脚で。
「何あれ!? 足に何つけてるの!?」
「甲馬でございます!」
近くの兵が答えた。
聞いても分からない!
「公孫勝殿!」
梁山泊側の声が一気に変わる。
道士姿の男が公孫勝らしい。
李逵が見えた瞬間、隣の玉楼の指がほんの少しだけ止まった。
けれど、それだけだった。
すぐ高廉へ目を戻す。
アタシが何も言わなくても分かった。
今は、あっち。
玉楼が自分で決めた。
公孫勝は走る勢いを落とすと、そのまま高廉を見上げた。
説明を求めない。
霧を見る。
高廉を見る。
それだけだった。
高廉の顔色が変わる。
「公孫勝……!」
知ってるのね。
だったら専門家同士でお願いします!
公孫勝が何かを唱え始めた。
意味は一つも分からない。
でも、風が変わった。
高廉の周囲で渦を巻いていた霧が裂ける。
一度は押し返された。
高廉が叫び、両腕を振る。
霧が再び集まる。
公孫勝の衣が大きく煽られた。
白と白がぶつかっているだけにしか見えないのに、その間だけ空気が震えている。
「……どっちが勝ってるの?」
「わたくしにお尋ねになられても」
「だよね!」
林冲は動かない。
ただ二人を見ている。
高廉の顔から、少しずつ余裕が消えていった。
公孫勝が片手を上げる。
次の瞬間――
高廉の足元の雲が崩れた。
身体が傾く。
「落ちる!」
高廉が必死に腕を振る。
雲へしがみつこうとしているように見えるけど、雲なんだから掴めるわけがない。
そのまま城門楼の外へ投げ出された。
林冲の声が飛ぶ。
「逃がすな!」
それなら分かる。
「玉楼!」
「はい!」
アタシは馬を蹴った。
玉楼も同時に出る。
高廉が落ちてくる。
地面へ叩きつけられ、何度か転がった。
でも、生きていた。
身体を起こす。
口も動いている。
まだ術を使う気だ。
アタシが馬から飛び降りる。
高廉がこっちを見る。
怒り。
焦り。
そして――恐怖。
……やっぱり、人間だ。
あんな化け物みたいな霧を作って、アタシたちを散々迷わせたくせに。
最後には怖がる。
「させない!」
一太刀目。
術のために上げた腕を斬る。
高廉が呻いた。
二太刀目を胸へ入れる。
身体が大きく揺れる。
それでも唇が動いた。
何かを唱えようとする。
アタシの横を玉楼が抜けた。
呼ぶ必要なんてない。
槍が真っ直ぐ伸びる。
穂先が高廉の喉を貫いた。
声が止まった。
高廉の目が見開かれる。
玉楼が槍を引く。
男の身体が地面へ沈んだ。
一拍遅れて、霧の動きが止まる。
そして――ほどけた。
今度は風に逆らわない。
白いものが薄くなり、流れ、普通の霧みたいに消えていく。
アタシは双刀を下ろした。
玉楼と目が合う。
「……今度こそ?」
「そう願いたいところでございます」
「最後まで慎重!」
でも、アタシも同じ気持ちだった。
林冲の声が飛ぶ。
「門を取るぞ!」
梁山泊軍が一気に動いた。
高廉を失い、妖霧まで消えた高唐州側は、もう持たなかった。
傷んでいた城門へ槌が叩き込まれ、閂が砕ける。
門が開いた。
兵が雪崩れ込む。
怒号と足音が城内へ広がった。
アタシと玉楼も続く。
勝った。
そう思えたのは、ほんの少しだけだった。
「開けろ!」
民家の扉が蹴破られる。
「金を出せ!」
女の悲鳴が上がった。
アタシの足が止まる。
「……もう?」
玉楼の表情も硬い。
「まだ戦は終わっておりません」
梁山泊の兵が民家から飛び出してきた。
腕には布袋。
口から銀が覗いている。
アタシを見て、次に玉楼を見る。
一瞬だけ目を逸らし、そのまま走り去った。
追えば止められる。
あの一人なら。
でも別の通りでも扉が壊れた。
悲鳴が続く。
兵の笑い声まで聞こえた。
高廉を斬った時にはなかったものが、腹の奥へ溜まっていく。
「……これ、違うでしょ」
勝ったはずなのに、全然気持ちよくない。
「……見たくない」
玉楼が頷いた。
「はい」
「戦なら出る。必要なら斬る。でも、勝った後のこれまで混ざりたくない」
玉楼は少し考えてから答えた。
「わたくしも望みません」
「玉楼も、自分で決めた?」
「はい」
それならいい。
蹄の音が近づく。
林冲だった。
白い披風には血と土が付いている。
林冲は城内の奥を一度見た。
悲鳴も、扉が壊れる音も聞こえているはずだ。
それでも何も説明しない。
アタシたちを見る。
「門を押さえろ」
「……アタシたちが?」
「ああ」
それだけだった。
城内へ行けでもない。
略奪へ混ざれでもない。
門を押さえる。
逃げる兵を見る。
出入りする者を確かめる。
戦がこれ以上崩れないようにする。
それならできる。
「分かった」
玉楼も槍を持ち直す。
「承知いたしました」
林冲は馬首を返した。
「先生、こういう時だけ察し良すぎない?」
聞こえたはずなのに振り向かない。
玉楼の口元が少し動いた。
「笑った?」
「気のせいでございます」
「妖霧はもう消えたからね?」
今度は、はっきり笑った。
アタシも双刀を収める。
二人で門へ向かう。
梁山泊を好きになったわけじゃない。
勝ったから全部正しいとも思わない。
玉楼は、自分でここへ来た。
アタシも、自分でここに立つ。
まだ、霧は残っている。
城内の音も消えない。
でも、全部に染まらなくてもいい。
アタシは、アタシの立つ場所を決めればいい。
玉楼でございます。
「玉楼、高廉の喉を一突きしたんだって?」
孫二娘様が楽しそうに聞いてこられました。
「三娘様が斬られた後でございます」
顧大嫂様が笑います。
「呼吸ぴったりじゃないか」
「呼ばれて動いたわけではございません」
「おやァ?」
「わたくしが、そうすると決めました」
そこへ三娘様が顔を出されました。
「そう! そこ大事!」
「本人が一番うるさいねェ」
「何でよ!」
けれど、高廉を討った後の三娘様は笑っておられませんでした。
城へ入れば、民家の戸が壊され、女たちの悲鳴が聞こえる。
「勝ったのにねェ」
「はい、ですから三娘様は、混ざらないと決められました」
顧大嫂様が頷きます。
「で、林冲は?」
「門を押さえろ、と」
三娘様が胸を張りました。
「先生、アタシの扱い分かってきたわよね!」
「逆じゃないかァ?」
……わたくしも、そう思います。