扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が盃を止めた。
「何を?」
「アタシが元の扈三娘じゃないって」
顧大嫂までこっちを見る。
「……ずいぶんでかい話を宴の後に出したね?」
「だって王英まで来るし、略奪は頭から離れないし、もう色々限界だったの!」
「王英は関係あるのかァ?」
「ある! たぶん!」
孫二娘が笑う。
「それで玉楼は?」
「『やはり』って」
「驚かなかったのかい?」
「全然!」
顧大嫂が頷いた。
「そりゃ、ずっと見てたなら気づくか……」
「もっとこう、『何者ですか!』とかないの!?」
「欲しかったのかァ?」
「欲しくないけど!」
でも、本当に怖かったのはその後。
アタシが元の扈三娘じゃないと知っても、玉楼はそばにいるのか?
だから聞いた。
――答えは、アタシが思ってたよりずっと重かった。
聚義庁の喧騒が、波のように寄せては引いていた。
盃が打ち合わされる音に、笑い声と机を叩く音が重なる。
高唐州を落とした祝いらしく、堂のあちこちで酒が回り、さっきまで命懸けで戦っていた人たちが、もう次の一杯を取り合っていた。
切り替え早すぎない?
アタシは目の前の盃に口をつけないまま、その騒ぎを眺めていた。
高廉を討った。
高唐州も落ちた。
だから今日は勝った側で、ここにいる人たちが笑う理由だって分かる。
それでも腹の奥だけが重かった。
酒の匂いの向こうに、まだ別の音が残っている。
城へ入った直後に聞いた、民家の戸を蹴破る音。
泣いていた女の声。
そして、それを面白がるような笑い声。
今ここで聞こえている笑い声と、同じ人間が出している。
そう思うと、どうしても一緒に笑えなかった。
「おい、扈三娘」
最悪のタイミングで聞き覚えのある声がした。
顔を上げるより先に、玉楼がわずかに動く。
本当に少しだけだった。
アタシの隣から半歩前へ出て、王英とアタシの間に入る。
それだけで、そこから先へ来るなら相応の覚悟をしてくださいませ、という空気になる。
便利。
いや、便利って言ったら怒られるか?
王英はそんな玉楼を見ても、懲りずに笑っていた。
「どうだ、この後――」
玉楼が一歩進んだ。
武器には触れていない。
微笑んでもいない。
ただ立っただけなのに、王英の口が止まった。
「……何で毎回いるんだよ?」
「おりますが?」
「そういう意味じゃねえよ」
アタシはようやく顔を上げた。
盃を持ったまま睨む。
それだけで十分だったらしい。
王英はアタシと玉楼を交互に見て、口元を引きつらせた。
「……まあいいや」
「諦めるという選択肢もございます」
「誰が諦めるか!」
元気ね……
あの霧の中でも、そのしぶとさを別の方向に使ってほしかった。
王英が去ると、何事もなかったように宴の音が戻ってくる。
誰も気にしていないし、王英自身もすぐ別の席で酒を飲み始めた。
アタシは盃を置いた。
玉楼を見る必要もなかった。
立ち上がると、隣でも衣擦れの音がする。
「帰る」
「はい」
それだけだった。
二人で聚義庁を出る。
背後の笑い声は、戸を一枚隔ててもまだ追ってきた。
高唐州を落とした勝利の声なのだろう。
でも、アタシには少しも軽く聞こえなかった。
外へ出ると夜気が頬に冷たい。
酒と料理の匂いが遠ざかり、代わりに湿った土の匂いが濃くなる。
少し歩けば聚義庁の明かりも背後へ回り、聞こえるのはアタシと玉楼の足音くらいになった。
玉楼は、いつもの位置にいる。
一歩後ろ。
近すぎず、離れすぎない。
前なら当然だと思っていた距離なのに、今は少し違って感じる。
霧の中では隣にいた。
高廉を討った時も隣だった。
それでも戦いが終われば、玉楼はまた一歩後ろへ戻る。
たぶん、そこがこの人の決めた場所なんだろう。
自分の部屋へ戻り、戸を閉めた。
音が、やけに重く残った。
さっきまで確かにあった宴の気配が、一瞬で遠ざかる。
静かだ。
なのに落ち着かない。
アタシはすぐには動けなかった。
帰ってきたという感じもしない。
ただ場所を移しただけで、高唐州で見たものも、宴で感じたものも、何一つ切り替わっていなかった。
背後で玉楼の足音が止まる。
振り返らなくても位置が分かる。
戸のそば、一歩引いたところ。
いつもの間合い。
「……変だと思わなかったの?」
口にした後で、自分でもずいぶん唐突だと思った。
玉楼は聞き返さない。
少しだけ間があってから、静かに答えた。
「違和感は、扈家荘の頃からございました」
即答だった。
「でしょうね……」
思わず笑ってしまう。
そりゃそうだ。
朝起きたら人が変わってました、なんて本人だけが誤魔化せているつもりでも、ずっとそばにいた人間には無理がある。
そこで終わらせてもよかった。
でも今日は、どうにも口が止まらなかった。
高唐州で人を斬った。
その直後に、味方が民家を荒らしているのを見た。
自分は混ざらないと決めた。
だったら、そろそろこれも逃げずに言わなきゃいけない気がした。
「元からこうじゃないわ」
振り返る。
玉楼は驚かなかった。
ただ、待っている。
「身体は扈三娘よ」
自分の腕を見る。
刀を振れば、アタシより先に動いてくれる身体。
馬へ乗れば、考えなくても姿勢を取れる。
兄様を見れば、頭で誰だか分かる前にそう呼んだ。
玉楼の名前だってそうだった。
知らないはずなのに、この身体は知っていた。
「でも、中身は違う」
玉楼の目を見る。
「気が付いたら、この世界にいた。扈三娘って名前も、兄様のことも、祝彪のことも知らなかった。アンタの名前だけは、何故か口から先に出たけど」
「覚えております」
「そこは忘れててほしかった!」
「難しいかと」
「こういう時だけ記憶力いいわね!」
思わずいつもの調子で返したら、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
でも、玉楼は笑って誤魔化さない。
アタシも逃げなかった。
「……だからアタシは、元の扈三娘じゃない」
静かに言った。
言ってしまった。
部屋の灯りが揺れる。
玉楼はしばらく何も言わなかった。
そして――
「……やはり」
小さく頷いた。
アタシは眉を寄せる。
「……それだけ?」
「完全には理解できておりません」
「でしょうね。アタシだって理解してないし」
「ですが、説明のつかない差異は確認しておりました」
出た――
事実。
「アンタ、その言葉ほんと好きよね?」
「便利でございますので」
「認めた!」
でも、そのいつもの調子がありがたかった。
化け物を見るような目も、気味悪がる様子もない。
ただ、今まで分からなかったことに答えが一つ増えた、くらいの顔をしている。
「……夜ってさ」
気づけば、また口が動いていた。
「はい」
「こんなに暗くなかったんだよ」
玉楼が黙って聞く。
頭の中に、遠い光景が浮かぶ。
白くて、まっすぐな灯り。
夜なのに真っ暗にならない道。
「前にいたところは、外にも灯りがあって、一人で歩いて帰れたの。まあ、危ない時は危ないんだけど、少なくとも毎晩、賊に襲われる前提では生きてなかった」
少し笑う。
「こっちで夜中に女一人で歩いてたら、無事に帰れた方がニュースでしょ」
「にゅうす、とは?」
「そこ拾わなくていい!」
危ない。
説明を始めたら終わらない。
「部屋だって違った。戸を閉めれば風なんて入らないし、冷たい箱があって、そこへ食べ物を入れておけば長く持つの」
玉楼がわずかに首を傾げる。
「氷室のようなものでございますか?」
「すっごく小さくして、どこの家にも置けるようにした感じ」
言ってから、自分でも無茶な説明だと思った。
「……何で冷えるのかは聞かないで。アタシも知らない」
「承知いたしました」
助かる。
そういう仕組みを説明しろと言われたら、転生者以前に現代人として詰む。
少し笑った。
でも、笑った後に残ったものは寂しさだった。
「楽だったわ」
その言葉だけは、すんなり出た。
「水もすぐ飲めた。火を起こさなくても明るかった。食べたい時に食べられて、眠る時に戦の心配なんてしなかった」
そこまで言って、口が止まる。
「でも、もう思い出せない」
玉楼の表情がわずかに変わった。
「何を、でございますか?」
「細かいところ」
指先を握る。
「匂いとか、空気とか。覚えてるはずなのに、掴もうとすると逃げるの。住んでた部屋だって分かってるのに、どこに何を置いてたか、前よりぼやけてる」
怖かった。
忘れることが。
でも、忘れないことだって怖い。
「夢みたいに遠くなってる」
逆に、こっちは鮮明だった。
刀の重さも、馬の息遣いも、血の匂いも。
玉楼の足音さえ、今なら振り返らなくても分かる。
「……だから、たまに分かんなくなる」
「何がでしょう」
「アタシが、どっちなのか」
前の世界のアタシなのか?
扈三娘なのか?
どちらでもない何かなのか?
「前にいた世界じゃ、人を斬るのは駄目だった」
玉楼は口を挟まない。
「傷つけるのも駄目。殺すなんて論外。それが普通だった」
自分の手を見る。
今日、その手で高廉を斬った。
「でも、ここじゃ斬らなきゃ死ぬ。だからやるしかない。戦うし、必要なら殺す。それ自体はもう分かってる」
そこまでは、慣れ始めた。
だからこそ怖い。
「でも毎回、どっかで文句言ってるのよ。こんなの駄目でしょって」
苦笑する。
「うるさいの。ホントに」
それでも消えてほしくない。
「怖いのは、それがなくなること」
玉楼を見る。
「何も思わなくなったら終わりよ」
はっきり言えた。
「でも、いちいち傷ついてたら生きていけない。鈍くならなきゃ死ぬ。でも鈍くなりきったら、それはもうアタシじゃない」
どうしろっていうのよ。
「だから中途半端なの」
玉楼は、すぐには答えなかった。
慰めもしない。
大丈夫だとも言わない。
ただ、まっすぐこちらを見ている。
その沈黙に耐えられなくなって、アタシの方から口を開いた。
「……何?」
玉楼が小さく息を吐く。
「残っているのですね」
「何が?」
「留めるものが」
一瞬、意味が分からなかった。
でも、すぐに分かった。
高廉を斬れるアタシ。
民家から銀を奪う兵を見て、嫌だと思ったアタシ。
どちらも今のアタシだ。
「……消えたら終わりよ」
「では、それは持つべきです」
「簡単に言わないでよ……」
少し睨む。
玉楼は逸らさなかった。
「簡単ではございません」
静かな声だった。
「ですが、それがあるからこそ、三娘様は壊れておられません」
言葉が止まった。
今度はアタシが黙る番だった。
「……ずるいわ」
やっと出たのが、それだった。
玉楼は答えない。
ただ、そこにいる。
いつもの一歩後ろ。
けれど、さっきまでとは違って見えた。
「ねえ、玉楼」
「はい」
「アタシが元の扈三娘じゃないって分かっても、そこにいるの?」
少しだけ怖かった。
今日、一番聞きたくて、一番聞きたくなかったことかもしれない。
玉楼は迷わなかった。
「今、わたくしがお仕えしているのは、三娘様でございます」
「答えになってるような、なってないような……」
「では、もう少し簡単に申し上げます」
玉楼がほんの少し笑った。
「ここにいると、わたくしが決めました」
ずるい。
またそれだ。
今度は、笑うしかなかった。
部屋は静かだった。
けれど最初とは違う。
遠い記憶も、ここにいる自分も、どちらか一つに決めなくていいのかもしれない。
今すぐ答えが出なくてもいい。
玉楼は一歩後ろにいる。
必要なら、きっと隣へ来る。
それだけはもう、疑わなくてよかった。
遠い記憶と、ここにある現実と、その間にいる自分と――
全部を抱えたまま、夜が深くなっていった……
玉楼でございます。
「玉楼、三娘に全部聞かされたんだって?」
孫二娘様が身を乗り出されました。
「元の三娘様ではない、と」
顧大嫂様が眉を上げます。
「驚かなかったのかい?」
「違和感は以前からございましたので」
「怖いねェ、ずっと観察されてたのかァ」
三娘様が顔を出されました。
「言い方! アタシ、監視対象だったの!?」
「確認対象でございます」
「もっと怖い!」
ですが、三娘様が本当に知りたかったのは、そこではありませんでした。
自分が元の扈三娘ではなくても、わたくしが残るのか?
「で、何て答えたんだい?」
「ここにいると、わたくしが決めました」
孫二娘様が笑います。
「三娘、泣いたかァ?」
「泣いてない!」
「聞いてないのに来たねェ」
……三娘様が何者であるかは、まだ分かりません。
けれど、わたくしが誰の隣にいるかは、もう決めております。