扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜる横で、顧大嫂が酒を含んだ。
「知らない女に心配されるってのも気味が悪いねぇ」
「そうなのよ! しかも普通に優しいの!」
「敵より怖がってるじゃないか」
「敵なら逃げればいいでしょ! 優しくされたら対応に困るのよ!」
孫二娘が吹き出した。
「三娘、“敵襲”より“お嬢様、お加減は?”に弱いんだねェ」
「比較がおかしい!!」
顧大嫂が笑いながら首を傾げる。
「でも言葉は通じたんだろ?」
「そこだけは運営さん仕事してたわ」
「誰だい、その運営ってのは?」
「説明すると長い!」
二人がまた笑う。
でも、アタシだけは覚えている。
知らない女が、アタシを見る目だけは――昔からアタシを知っている人のものだった。
そして、その人が口にした名前を、アタシだけが知らなかった。
気配は、もう灯りだけじゃなかった。
薄い幕の向こう、床に膝をついた人影がある。
アタシは寝具を握ったまま、その影を見つめた。
女だ。
長い袖の衣をまとい、両手を床について深く頭を下げている。
顔は見えないものの、背格好からすればそれほど年上ではなさそうだったが、問題は年齢じゃない。
なんでこの人、アタシに土下座してるの?
いや、土下座じゃないのかもしれない。
ここが昔の中国なら礼儀作法だって違う。
現代日本の物差しを持ち込んで「そこまで謝らなくても」なんて言ったら、開始早々に文化事故を起こす可能性がある。
結局、何ひとつ分からない。
こういう時こそ説明役が必要なんじゃないの?
さっきまで頭の中で要求していたチュートリアル担当が、本当に目の前へ現れた可能性もあるけれど、この人の頭上には名前も職業も表示されていない。
やっぱり運営が不親切だ。
女がゆっくり身を起こした。
衣の擦れる音がして、伏せていた顔が灯りの中へ現れる。
思っていたより若い。
整った顔立ちをしていて、目元には柔らかさがある。
少なくとも、目覚めたばかりの人間をそのまま殺しそうな顔には見えない。
殺しそうな顔って何だ?
寝起きから判断基準がおかしくなっている。
女はこちらを見ると、ほっとしたように微笑んだ。
その瞬間、少しだけ怖さが増した。
化け物なら分かりやすい。
叫べばいいし、逃げればいい。
刃物を持った知らない男でも分かりやすい。
全力で逃げる。
でも、目の前の女はあまりにも自然にアタシを見ている。
まるで、ここにアタシがいることが当然みたいに。
そこが一番おかしい。
「……」
声を掛けるべきか迷っているうちに、女が立ち上がった。
反射的に身体へ力が入る。
逃げ道はさっき確認した。
窓は遠く、履物もなければ、武器になりそうなものもない。
スマホは圏外どころか存在そのものが消滅している。
唯一あるのは寝具。
いざとなったら投げる?
布を?
何の役に立つのよ?
女はそんなアタシの脳内緊急会議を知るはずもなく、急がずこちらへ近づいてきた。
灯りも一緒に近くなる。
淡い橙色が、女の袖口と寝台の端を照らした。
逃げたい気持ちはある。
でも身体が動かない。
怖くて固まっているだけなのか、それともこの身体がまだ目覚め切っていないのか分からなかった。
女は寝台のそばで腰を落とすと、アタシと視線の高さを合わせた。
近い。
これ、敵だったら完全にアウトじゃない?
首を絞められる距離だ。
なのに不思議と、殺されるという感じはしない。
女の目には警戒より心配が浮かんでいる。
誰を心配してるの?
まさかアタシ?
だとしたら、どうして?
質問が増える一方で、答えは一個も増えない。
女は何かを確かめるようにアタシの顔を見たあと、手を伸ばした。
身体が強張る。
その手は途中で止まった。
アタシが嫌がっていないか確認するように、ほんの一瞬だけ待つ。
それから寝台の脇に置かれていた衣を取り、肩へそっと掛けてくれた。
肩へ掛かった衣は柔らかく、少しあたたかかった。
「……ありがとう」
反射的に口から出た。
言ってから固まった。
今、アタシ、日本語で言ったよね?
女は微笑んだ。
通じた?
いや、待って。
まだ向こうは何も喋っていない。
たまたま表情で意味を察しただけかもしれない。
安心するのは早い。
それにしても妙だった。
知らない場所で、知らない身体になり、知らない女に服を掛けてもらっている。
それなのに肩に残った温もりだけは、嫌になるほど本物だった。
夢ならもっと適当でいいでしょ。
夢のくせに布の手触りまで作り込まないでほしい。
女はアタシの顔色を確かめるように眺めてから、ようやく口を開いた。
「……お目覚めでございますか?」
意味が分かった。
普通に……
あまりにも普通に耳へ入ってきたので、危うくそのまま返事をするところだった。
「……え?」
女が少し首を傾げる。
「お加減は、いかがでしょうか?」
また分かった。
待って。
待って待って待って。
この人、日本語喋ってる?
そんなわけない。
耳に入る響きは、どう考えてもアタシの知っている日本語じゃない。
発音も音の繋がりも違う。
それなのに頭へ届いた瞬間には、意味だけが何の抵抗もなく理解できている。
何これ?
自動翻訳?
あった――
チュートリアル特典、あったわ。
「よかった……」
思わず漏れた。
女が目を丸くする。
マズい……
「い、いや、こっちの話」
そう答えると、それも通じたらしい。
女は少し戸惑いながらも頷いた。
すごい――
会話できる。
ありがとう、運営さん。
さっき不親切って言ってごめん……
でも説明書はまだ欲しい。
「……ここ、どこ?」
ようやく、一番聞きたかったことを口にした。
女の表情がほんの少し変わった。
驚いたというより、聞かれると思っていなかった顔だ。
「こちらは、いつもお休みになっておりますお部屋にございます」
「いや、それは見れば……いや、見ても分からないけど」
危ない。
今のツッコミ、絶対に変な人だと思われた。
聞き方を変える。
「ここって、何ていう場所?」
女の眉がわずかに寄った。
明らかにおかしい質問をされた顔になっている。
非常にヤバい……
いきなり記憶喪失判定が近づいてきた。
火刑への道が再び開通しそうになっている。
「お嬢様……?」
お嬢様――
アタシが?
生まれて初めて呼ばれた。
前世では独身の会社員で、ワンルーム暮らしだった。
誰かから「お嬢様」なんて呼ばれる要素は、どこを探してもなかった。
なのに今は、知らない女が当然のようにアタシをそう呼んでいる。
悪くない。
いや、喜んでる場合じゃない。
「ちょっと寝ぼけてるみたい。たぶん」
自分でも最低の言い訳だと思った。
女は真面目に頷いた。
通った。
これで通るの?
昔の人、優しいな。
女は少し身を寄せ、心配そうにアタシの顔を覗き込んだ。
「昨夜は早くにお休みになられましたゆえ、お疲れではないものと存じておりましたが……どこか、お痛みになりますか?」
昨夜は早くに寝たらしい。
つまり、この身体の持ち主にも昨日があった。
当たり前の事実なのに、急に胸の奥がざわつく。
アタシが昨日まで生きていたように、この身体の女にも昨日までの生活があったはずだ。
じゃあ、その女はどこへ行った?
アタシが入ったから消えた?
それともアタシ自身が――
考えるのをやめた。
今そこへ踏み込むと、頭が壊れそうだった。
まずは、ここがどこで、いつの時代なのか、この女が誰で、そして自分が何者なのかを確かめるしかない。
「アンタは……」
口にした途端、女が固まった。
やった。
言葉遣いだ。
お嬢様が使用人らしき女性へ「アンタ」。
絶対に普段と違う。
女の顔に、今度こそはっきり心配が浮かんだ。
「……わたくしでございますか?」
「そう……名前、何だっけ?」
完全に駄目な質問だった。
女の顔色が変わる。
ああ――
記憶喪失確定コースに自分から突っ込んだ。
もっと自然に聞けなかったの?
会社で何年働いてきたのよ。
会話力どこへ置いてきた。
「お嬢様……本当に、わたくしをお忘れに?」
「いや! 忘れたっていうか、今ちょっと記憶の読み込みが遅いというか!」
「よみ……?」
「忘れて」
自動翻訳にも限界があるらしい。
現代用語までは変換してくれない。
微妙に使えない。
女は困惑している。
こちらも困っている。
しばらく二人で見つめ合った。
先に折れたのはアタシだった。
「ごめん。ちょっと混乱してる。だから、少しだけ教えて」
なるべく穏やかに言った。
女はまだ不安そうだったが、拒まなかった。
「何を、お知りになりたいのでございますか?」
全部――
そう言いたかった。
でも全部と言ったら、本当に何も覚えていないと宣言するようなものだ。
何から聞けば怪しまれない?
自分の名前を聞くのは危険すぎる。
家族の名前も危ない。
国の名前?
ここはどこ?
今は何年?
全部危ないじゃない。
転生者向け会話選択肢、難易度高すぎない?
アタシが黙り込んでいると、女の方が気遣うように声を掛けてきた。
「お父上を、お呼びいたしましょうか?」
父――
いるんだ。
この身体には父親がいる。
「……父?」
またやった。
女の目が大きくなる。
もう駄目だ。
ここまで来たら誤魔化すより押し切った方がいい。
「寝起きだから! 今、本当に頭が回ってないだけ!」
「されど……」
「大丈夫! たぶん!」
たぶんを付けるな、アタシ……
女は明らかに大丈夫ではない人を見る目になっていた。
医者。
祈祷師。
火刑。
嫌な三段活用が頭をよぎる。
何とか流れを変えなければならない。
そう思った時、女がふと寝台の脇へ置かれた水差しに手を伸ばした。
器へ水を注ぎ、こちらへ差し出す。
「まずは、お水を」
ありがたい。
喉がからからだった。
両手で受け取る。
器も知らない形だが、この際どうでもいい。
一口飲むと、ちゃんと普通の水で、それだけで妙に安心した。
水が普通というだけで泣きそうになる日が来るとは思わなかった。
「ありがとう」
今度は自然に言えた。
女も少し安心したように微笑む。
悪い人じゃない。
少なくとも、今のところは。
だからこそ慎重に聞かなければならない。
「ねえ」
「はい」
「アタシのこと……何て呼んでた?」
これなら名前を直接聞くより少しは自然。
そう思った。
女の微笑みが止まった。
全然自然じゃなかったらしい。
また選択肢を間違えた。
「お嬢様……」
「いや、違う! その、お嬢様以外で!」
何を言ってるのアタシ。
墓穴を掘る速度だけは前世より上がっている。
女はますます心配そうにこちらを見つめた。
それから、何かを確かめるようにゆっくり息を整える。
「本当に、お分かりにならないのでございますか?」
逃げられない。
ここで嘘を重ねても仕方がない。
アタシは器を握ったまま、黙って女を見返した。
女の表情から笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、怯えではなく心配だった。
それが少し痛い。
この人はたぶん、本当にこの身体の女を知っている。
ずっと前から。
アタシの知らない誰かを。
女は寝台のそばへ膝をつき直すと、まっすぐこちらを見た。
灯りが、その顔を静かに照らしている。
アタシも目を逸らさなかった。
何を言われても受け止めるしかない。
自分が誰なのか。
少なくとも、その最初の答えだけは。
女性は、ほんのわずかに息を整えた。
「……扈三娘様」
その名前を聞いた瞬間、夢の中の声が現実になった――
玉楼でございます。
「で、三娘を怯えさせた女って、玉楼なんだろォ?」
孫二娘様が笑うと、顧大嫂様まで酒の椀を置きました。
「敵意もなく、衣まで掛けてやったのに怖がられたのかい?」
「甚だ遺憾でございます」
幕舎の外から、すぐ声が飛びます。
「だって玉楼、全部知ってる顔してたじゃない!!」
「扈三娘様のことは存じておりましたので」
「アタシは玉楼を知らなかったの!!」
孫二娘様が腹を抱えました。
「最悪のすれ違いだねェ!」
「しかも自分の名前まで玉楼に教わったんだろ?」
「そうよ! 本人より周りの方がアタシに詳しいのよ!」
顧大嫂様が笑います。
「それで三娘、お前さんが誰かは分かったわけだ」
外が静かになりました。
いいえ、あの時わかったのは、名前だけ。
扈三娘という女が、これから何に巻き込まれるのか――
貴女様は、まだ何ひとつ知らなかったのでございます。