扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が、ものすごく嫌な笑い方をした。
「誰にだよォ?」
「刑場にいた優男」
顧大嫂が即座に口を挟む。
「もう優男で通じるのか?」
「そこ重要じゃないから!」
「で、何て?」
「『また会ったな』って」
孫二娘が吹き出した。
「三娘、嬉しかったァ?」
「違う! その後ちゃんと戦になったし、彭玘も捕まえたし!」
「男の話から戦果に逃げたねェ」
逃げてない……
しかも今度は、あの男の言った通りに動いたら、連環馬まで水辺で崩れた。
顧大嫂が笑う。
「それで?」
「……頼れる人だなって、ちょっと思っただけ」
孫二娘の笑みが深くなる。
「へェ?」
「その顔やめて!」
でも――
朝より気になっていたのは、もう否定できなかった……
――また、戦になる。
訓練場を抜けた途端、さっきまでとは違う空気が肌に触れた。
兵たちは武具を抱えて走り、馬を引く者が道を空け、あちこちから飛ぶ命令に合わせて隊列が組み上がっていく。
高唐州から戻ってきたばかりだというのに、梁山泊には休んでいる暇なんてないらしい。
「妖術の次は討伐軍って、予定詰め込みすぎじゃない?」
「わたくしに申されましても」
「知ってる!」
前から引かれてきた馬の手綱を受け取ると、鼻先を上下させながら一歩出ようとした。
軽く引けばすぐ止まり、こちらの合図を待つように耳が動く。
アタシが鐙へ足を掛ける前に玉楼が近づき、帯のずれと留め具を確かめた。
「よろしゅうございます」
「ありがと」
鞍へ上がれば、もう身体は迷わない。馬が動く前から腰が落ち着き、手綱を持つ指も自然に位置を取る。
初めてこの身体で馬へ乗った時には、何でこんなことができるのかと怖かったのに、今では周囲の騎兵の位置まで見る余裕があった。
玉楼もすぐ隣へ馬を寄せる。
「いる?」
「はい」
聞かなくても分かる。
それでも確認すると、少しだけ落ち着く。
やがて前の列が動き、蹄の音が重なり始めた。
アタシたちもその流れへ入り、梁山泊を離れて討伐軍の方角へ向かう。
しばらく進むと道が二つに分かれた。
右へ下れば梁山湖の水際へ出るらしく、木々の向こうに光る水面と何艘かの舟が見える。
その分かれ道に、一人の男が立っていた。
背が高く、細身で、朝から妙に頭へ残っていた整った顔立ちの男だった。
アタシの手綱を握る指が、ほんの一瞬だけ止まる。
……いた。
刑場で隣に立っていた、名前も知らない優男。
向こうもこちらへ気づいたらしく、片手を上げた。
「また会ったな」
何なの、その普通の挨拶。
こっちは昼までアンタの言葉を引きずってたんだけど。
もちろん、そんなことは言わない。
「ええ」
できるだけ何でもないように返すと、横から玉楼の視線が刺さってきた。
見ない。
今は絶対に見ない。
男もアタシの顔を見続けるわけではなく、すぐ前方の軍勢へ視線を戻した。
「正面でまともに受けるなよ」
「何を?」
「討伐軍だ」
「それくらい分かるわよ」
「ならいい」
またそれだけ?
朝からずっと、必要最低限しか喋らない人ね。
男は水際へ顎を向けた。
「押されたら、こっちへ流せ。水辺まで誘い込めれば何とかなる」
「その前に片が付くかもしれないわよ?」
少し意地になって返すと、男の口元がわずかに動いた。
朝と同じで、笑ったのかどうか分からない。
「そうかもしれん。だが、そうならんこともある」
また後から残る言い方をする。
朝は「面倒で済むうちは、まだいい」で、今度は「そうならんこともある」って、何でこの人こっちが後で考えそうな言葉ばっかり置いていくの?
「三娘様」
玉楼に呼ばれ、慌てて前へ視線を戻す。
先頭の騎兵が速度を上げ、こちらも間を詰め始めていた。
「分かってる!」
馬の腹へ合図を送り、男の前を通り過ぎる。
背後から、
「またな」
と聞こえた。
振り返らない。
でも、胸の中だけで突っ込む。
またって何よ?
ほどなく討伐軍の姿が見えた。
こちらと同じように隊列を整え、正面から受ける構えを取っている。
梁山泊軍も止まらず、そのまま距離を詰めた。
最初に矢が飛び、その後すぐ騎兵同士がぶつかった。
一気に戦場になる。
アタシは横から伸びた槍を双刀で払い、そのまま相手の懐へ馬を入れた。
玉楼が反対側から来た兵を止める。
アタシが開けた場所へ玉楼が入り、玉楼が止めた相手の横をアタシが抜ける。
高唐州で何度も繰り返した動きが、もう言葉を交わさなくても噛み合った。
押す。
向こうも押し返す。
林冲の隊列は崩れないが、討伐軍も簡単には退かない。
互角だった。
その中で、一人だけ明らかに動きの違う男がこちらへ向かってきた。
手には長い三尖両刃刀。
雑兵の持つ得物ではない。
向こうもアタシを見つけ、馬を寄せてくる。
「――我は天目将、彭玘!」
名乗った。
こっちも名乗る流れ?
「扈――」
最後まで言わせず、三尖両刃刀が振り下ろされた。
「名乗らせる気ないじゃん!」
双刀で受けると、腕まで衝撃が走った。
重い。
でも耐えられる。
一合目を外し、二合目はこちらから打ち込む。
互いの馬がすれ違い、すぐに向きを変える。
三合、四合と刃を合わせるうちに、彭玘の間合いが分かってきた。
長い得物を無理に懐へ入れて崩す必要はない。
だったら――追わせる。
五合目を受けたところで、アタシはわざと馬を下げた。
彭玘が逃がすまいと距離を詰めてくる。
「三娘様!」
玉楼が声を上げたが、追っては来ない。
アタシが何か狙っていると察したらしい。
もう一度だけ下がり、そのまま背を向ける。
彭玘の蹄が迫った。
身体が知っている。
何故できるのかは、今でも分からない。
でも、この距離なら外さない。
振り返ると同時に、からめ縄を放った。
縄が彭玘の腕へ巻きつく。
三尖両刃刀を持つ腕ごと引けば、馬上の身体が大きく傾いた。
「なっ――!」
踏ん張り切れず、彭玘が地面へ落ちる。
すぐ馬を寄せ、双刀の切先を向けた。
玉楼も横へ入り、助けに来ようとした討伐軍の兵を槍で追い払う。
「取った!」
彭玘を後方の兵へ渡した、その時だった。
討伐軍の奥で空気が変わった。
さっきまで聞こえていた蹄とは違う。
数が増えたわけでもないのに、地面そのものが重く鳴る。
アタシは前を見る。
討伐軍の列が左右へ開き、その奥から鉄に覆われた騎兵が現れた。
馬にも人にも鎧が重ねられ、しかも一騎ずつではない。
横へ並んだ馬同士が鎖で繋がれ、その列が何組も続いている。
「……何よ、あれ?」
隣の玉楼が息を呑む。
「連環馬でございます」
「知ってるの?」
「聞いたことはございます」
「じゃあ弱点は?」
「実物を見るのは初めてでございます」
「そこが一番欲しかった!」
連環馬が動いた。
重装備なのに速い。
黒い列が地面を震わせながら前へ出て、梁山泊の騎兵へまともにぶつかる。
先頭の馬が弾き飛ばされ、その後ろの兵まで巻き込まれた。
歩兵が槍を揃えて止めようとするが、穂先は鉄へ当たって滑り、次の瞬間には隊列ごと押し潰されていく。
これは硬いとか強いとか、そんな話じゃない。
走ってくる壁だ。
一騎を止めても隣と繋がっている。
横へ逃げようとしても、何騎もの馬体が一つの塊になって押してくる。
まともに受けたら駄目。
そう思った瞬間、朝の男の言葉が頭をよぎった。
――正面でまともに受けるなよ。
「……最初から、これ知ってたの?」
答える人はいない。
考える暇もない。
「玉楼、下げる!」
「はい!」
玉楼がすぐ兵へ声を飛ばす。
「退いてください! 中央を詰まらせないように!」
アタシも馬を走らせ、崩れた兵を左右へ流していく。
「そこで止まらないで! 一度下がって!」
押される者も、馬を失った者もいる。
今は戦わせるより、連環馬の進路から外す方が先だった。
玉楼が右を開け、アタシが左へ兵を流す。
二人の間を抜けるように梁山泊軍が後退していく。
連環馬は追ってきた。
重い鉄の音が、離れるどころか少しずつ近づいてくる。
前方に梁山湖が見えた。
水面と、岸へ並ぶ舟。
そして、その手前に――いた。
名前も知らない男。
朝の刑場で目を逸らさず、さっき分かれ道で「水際へ流せ」と言った優男が、連環馬の突撃を目の前にしても逃げずに立っている。
「来るわよ!」
馬を寄せながら叫ぶ。
男は迫ってくる黒い列を見たまま答えた。
「見りゃ分かる」
「もう少し慌てなさいよ!」
「慌てて止まるなら、慌てる」
何なの、この人!
でも、目は真剣だった。
連環馬の位置と速度、その後ろの討伐軍まで見ている。
「そのまま引け。水際まで来させろ」
アタシは思わず男を見る。
「信じていいの?」
男も一瞬だけこちらを見る。
「ここまで来たんだろ?」
たったそれだけ。
なのに、妙に迷いが消えた。
何でよ?
名前も知らないのに……
「玉楼!」
「はい!」
兵をさらに左右へ逃がし、中央を空ける。
アタシたちもぎりぎりまで残り、連環馬を水際へ引きつけた。
男は退かない。
もう黒い鉄の列がすぐそこまで来ているのに、水面と連環馬を交互に見るだけだった。
先頭の馬が岸へ入る。
湿った地面を踏み、そのまま浅瀬へ足を入れた。
そこで蹄が沈んだ。
前脚を取られ、馬体が傾く。
しかし、一頭だけでは終わらない。
横の馬と鎖で繋がれている。
沈んだ馬が隣を引き、隣が体勢を崩せば、そのさらに隣まで引かれる。
一直線だった黒い壁が端から傾き、水と泥を跳ね上げながら崩れ始めた。
騎兵が鎖を外そうとする。
間に合わない。
馬が暴れれば暴れるほど、隣の馬まで巻き込む。
さっきまで最大の武器だった重さと繋がりが、今度は逃げることまで邪魔している。
「……うわ」
声が漏れた。
真正面から止める必要なんてなかった。
走らせればよかった。
止まれない場所まで。
アタシはそこで、ようやく男の言った意味を理解した。
戦う場所を変えただけだ。
高唐州で林冲がやったことと似ている。
違うのは、この人は最初から水を見ていたこと。
アタシは連環馬より、いつの間にか男の横顔を見ていた。
刑場では、目を逸らさなかった。
戦が始まる前には、正面で受けるなと言った。
そして本当に押されたら、水まで引いて崩した。
何なの……
朝より気になる。
さっきより、もっと気になる。
「……アンタ、何者なのよ?」
聞こえないくらいの声で呟いた。
名前すら知らない。
どこの隊にいるのかも知らない。
なのに、次に何を言うのかが気になる。
次に何を見るのかも。
そして、この状況で何故そんな顔をしていられるのかも。
水の中では、まだ連環馬が崩れていた。
悲鳴も、馬の嘶きも、鉄の音も続いている。
それなのに男は浮かれない。
勝ち誇りもしない。
朝の刑場と同じ目で、ただ結果を見届けている。
アタシは手綱を握ったまま、その姿からなかなか目を外せなかった。
ただ、その場にいる。
意外と豪胆で、頼れる男だと思ってしまった……
玉楼でございます。
「玉楼、三娘は今日もあの優男を見てたんだって?」
孫二娘様が楽しそうに仰いました。
「はい、戦の最中にも」
三娘様が勢いよく振り向きます。
「言い方! 連環馬を崩す策を見てただけだから!」
顧大嫂様が笑いました。
「男じゃなくて策を見てた、と?」
「そう!」
「では、何故あの方の横顔をご覧になっていたのでしょう?」
「玉楼!?」
孫二娘様が吹き出します。
「よく見てるねェ?」
「三娘様の隣におりますので」
「そういう時だけ観察力を使わないで!」
ですが、以前とは少し違います。
言葉が気になるだけではなく、今度は「頼れる」とまで仰いました。
三娘様は、まだ気づいておられないようでございますが――
その優男を見る時間は、確実に長くなっております。