扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が盃を置いた。
「とうとうやったかァ」
顧大嫂まで頷く。
「遅かったくらいだね」
「そこ!?」
しかも、その一部始終を例の優男に見られた。
「笑われたのかァ?」
「笑われた。そのうえ名前まで分かったのよ」
「へえ、何て?」
「李俊」
言った瞬間、孫二娘と顧大嫂が顔を見合わせる。
「何よ、その顔!」
「いやァ、名前を言う時だけ嬉しそうだと思ってねェ」
「普通だから!」
普通よ。
たぶん……
その後、少し話して、ちょっと笑われて、もう少し話したいなんて思っただけ。
そして出陣前――
李俊はアタシに、一言だけ言った。
「……生き残れ」
……そういうの、急に言うの反則じゃない?
聚義庁の空気は、まだ完全には解けていなかった。
彭玘と韓滔が加わった夜、梁山泊では当然のように宴が開かれた。
酒は回り、笑い声も上がっているのに、ついさっきまで斬り合っていた者同士が一晩で昔馴染みになれるはずもない。
彭玘も韓滔も勧められた盃は受け取るが、自分から輪の真ん中へ入ろうとはせず、周囲の顔と距離を測っていた。
その辺を無理に「今日から仲間!」で押し切らないところは、梁山泊も意外と大人だ。
……王英を除けば。
「三娘殿ォ! こっち空いてるぞ!」
聞こえなかったことにしようと盃へ口をつけた瞬間、王英が本当にこちらへ来た。
「今日は勝った祝いだ。俺が酌して――」
アタシと王英の間へ、玉楼が静かに入る。
「王英様、ご自分のお席へお戻りくださいませ」
「固いこと言うなよ。三娘だって俺と飲みてえだろ?」
「飲みたくない」
「照れるなって!」
何をどう変換したらそうなるのよ?
王英が玉楼の横から手を伸ばした。
たぶん、アタシの肩へ触ろうとしただけだと思う。
だからこそ、玉楼も最初は手首を取るだけで済ませるつもりだったのだろう。
でも王英は笑いながら、その手を振り払おうとした。
次の瞬間、鈍い音がした。
王英の身体が宙を飛び、二つ向こうの卓へ突っ込んだ。
盃が跳ね、皿が回り、宴席の一角だけが見事に静まり返る。
「……玉楼?」
玉楼は拳を下ろした。
「申し訳ございません。少々、力加減を誤りました」
「絶対嘘でしょ!」
床で王英が呻く。
「ぐ……三娘の……愛が、痛ぇ……」
「アタシの愛、一滴も入ってないから!」
周囲から笑いが爆発した。
玉楼は何事もなかったようにアタシの隣へ戻る。
怖い。
頼もしい。
そして王英には、たまにこれくらい必要なのかもしれない。
そんな騒ぎの向こうで、あの優男が笑っていた。
声を上げるほどではなく、盃を口元へ寄せながら肩を揺らしている。
……見てたの?
いや、そりゃ見るわよね。
人が卓ごと飛んだんだから。
「何よ」
思わず視線だけで睨むと、男はまだ少し笑っていた。
その時、別の席から声が飛んだ。
「おい、李俊! 今日はよくやったな!」
男がそちらを向く。
アタシは盃を持ったまま止まった。
――李俊。
そういう名前なのね。
李俊。
……何で頭の中でもう一回言ったの、アタシ……
「三娘様」
「何?」
「何も申し上げておりません」
玉楼の口元が、ほんの少しだけ上がっている。
「今、絶対何か思ったでしょ?」
「いいえ」
「その顔、最近信用できない!」
騒ぎの中心では、李俊が仲間から肩を叩かれていた。
「騎兵と歩兵で止められねぇなら、俺たちが沈めるしかねえだろ」
大したことではないように言うと、また笑いが起こる。
やっぱり水軍の人なんだ。
あの連環馬を真正面から止めようとせず、水際へ引き込んだ理由がようやく腑に落ちた。
李俊がこちらを向いた。
目が合う。
今までなら、何となく見ていたことを誤魔化すために逸らしたかもしれない。
でも今は、何故かそのまま見返してしまった。
先に動いたのは李俊だった。
盃を片手にこちらへ歩いてくる。
何で来るの?
いや、来ちゃ駄目ってわけじゃないけど……
何でアタシ、ちょっと姿勢直したの?
「さっきは大変だったな」
李俊は床の向こうで介抱されている王英を見た。
「主に玉楼がね」
「見事だった」
「そこ褒めるんだ?」
「飛び方が良かった」
「競技みたいに言わないで!」
李俊が今度ははっきり笑った。
……あ。
この人、ちゃんと笑うんだ。
刑場でも、水際でも、笑ったような笑ってないような顔しか見ていなかった。
そのせいか、ただ口元が緩んだだけなのに妙に印象へ残る。
いけない……
何がいけないのか分からないけど、とりあえず盃を飲もう。
「それより」
李俊が声を戻した。
「水際まで引いた判断、ありゃあんただろ?」
「アンタが引けって言ったんでしょ」
「言っただけだ。あれだけ迫られて、そのまま兵を動かせる奴は少ねえ」
褒められた。
何よ……
普通に嬉しいじゃない。
「……失敗したらどうするつもりだったの?」
「その時は俺も水へ入る」
「それで?」
「泳ぐ」
「アタシも!?」
「泳げねえのか?」
「そういう問題じゃない!」
また笑われた。
この人、無口なのかと思ってたけど、意外とこっちが喋れば返してくる。
しかも腹立つ。
腹立つのに、もう少し話していたい。
そこまで考えて、アタシは盃を持つ手を止めた。
……いやいやいや。
ちょっと待って……
何、この流れ?
玉楼を見る。
目が合った。
何も言ってこない。
でも、何か全部見抜かれている気がする……
「玉楼」
「はい」
「何も言わないで」
「まだ何も申しておりません」
「だから怖いのよ!」
李俊が不思議そうにこちらを見る。
「仲がいいんだな」
「いいわよ!」
即答したら、玉楼がほんの少し笑った。
そこだけは迷わない。
李俊は盃を上げ、アタシも応じる。
縁が軽く触れて澄んだ音がした。
宴はその後も続いた。
けれど、梁山泊の時間は酒だけでは止まらない。
数日後、青州から届いた使者が聚義庁へ転がり込むように現れた。
土と血で汚れ、肩で息をしながら膝をつく。
「桃花山が……官軍に攻められております!」
広間からざわめきが消えた。
「木柵を破られ、山道も押さえられました。このままでは保ちませぬ!」
宋江が身を乗り出す。
「総大将は誰だ?」
使者が息を吸った。
「呼延灼にございます!」
空気が変わる。
その名を知っている者たちの顔から、宴の名残が完全に消えた。
アタシにはまだ、どれほどの相手なのか分からない。
でも、分からないからこそ周囲を見る。
林冲の表情。
呉用の目。
そして――李俊。
彼も笑っていなかった。
「数は?」
李俊が尋ねる。
「数え切れませぬ。山の下が官軍で埋まっております!」
宋江が立ち上がった。
「青州三山を見捨てるわけにはいかぬ。すぐに軍を整える!」
聚義庁が一斉に動き始めた。
アタシも玉楼と外へ出る。
廊下へ出たところで、後ろから呼ばれた。
「待て」
振り返れば李俊だった。
何故か、それだけで胸が一度だけ強く鳴る。
走ってもいないのに……
李俊が近づく。
「呼延灼は止まらねぇぞ。真正面から受ければ、そのまま押し切られる」
「分かってる。連環馬で十分勉強したわよ」
「ならいい」
またそれ?
でも今度は、少しだけ分かる。
この人にとって「ならいい」は、たぶん本当にそれで終わりなのだ。
李俊が一歩退いた。
「……生き残れ」
胸の奥へ、今度こそ真っ直ぐ刺さった。
何、それ……
そういうの急に言うの反則じゃない?
「アンタもね」
それだけ返して歩き出す。
隣へ玉楼が並んだ。
十歩ほど進んだところで、玉楼が口を開く。
「三娘様」
「何?」
「お顔が少々赤うございます」
「走ったから!」
「まだ走っておりません」
「うるさい!」
背後から笑い声が聞こえた気がした。
振り返らない。
絶対に振り返らない。
梁山泊を発ち、青州へ近づくにつれて、そんな余裕は消えていった。
遠くに見えていた煙は一本ではなくなり、焼けた木と油の臭いへ血の臭いまで混じる。
桃花山はまだ落ちていなかったが、木柵は何か所も破られ、斜面を下がってくる負傷兵の数が多すぎた。
その下に、官軍がいる。
見た瞬間に息が詰まった。
槍の穂先が揃い、盾の並びにも隙がない。
騎兵まで整然と列を作り、誰一人として勝手に前へ出ようとしない。
「……あれが呼延灼軍?」
「想像以上でございますね」
玉楼が馬を寄せる。
高唐州の妖術とは違う。
何が起こるか分からない怖さじゃない。
何をしてくるか分かるのに、それでも止められる気がしない。
官軍の騎兵が動いた。
最初はゆっくりに見えたのに、列を崩さないまま速度が上がる。
桃花山の兵が矢を射るが、前列が盾で受け、空いた場所へ後ろの兵が詰めた。
穴が開かない。
やがて蹄の振動が、こちらの馬の脚から身体へ伝わってきた。
――真正面から受けんな。
李俊の声がまた浮かぶ。
「玉楼」
「はい」
「あれ、正面は無理」
「同感でございます」
アタシは左を見る。
山裾が迫り、騎兵の幅を狭められそうな場所がある。
「あそこから入る」
玉楼も一度見ただけで理解した。
「列を薄くさせるのでございますね」
「そういうこと」
「では、わたくしが外を押さえます」
「アタシが中へ入る」
これだけで決まる。
もうどちらが前かなんて考えない。
必要な方が出る。
もう一人が、その先を塞ぐ。
馬腹を蹴った。
アタシが先に加速し、玉楼が半歩外へつく。
後ろの兵たちもこちらの動きを見て斜めへ列を変えた。
その時、官軍から角笛が鳴る。
騎兵が一斉に速度を上げた。
重いのに速い。
桃花山の前列へぶつかり、盾も兵も馬もまとめて押し崩していく。
それでも後続は止まらず、倒れた者の脇を抜けて前へ出る。
受け止めれば終わる。
だったら、切る。
「行くわよ!」
左から回り込む。
こちらへ気づいた官兵が槍を向けた。
最初の穂先を双刀で弾き、その勢いのまま懐へ入る。
返した刃が鎧の隙間を走り、横では玉楼の槍が別の騎兵を馬上から突き落とした。
二人で外側の列へ食い込む。
一騎を抜き、その後ろへ食い込み、さらに奥を目指す。
止めるために正面へ立つ必要はない。
横から噛みついて、列の形を壊せばいい。
「三娘様、右から来ます!」
「そっちお願い!」
「承知いたしました!」
玉楼が馬首を返し、こちらへ寄ろうとした騎兵を塞ぐ。
アタシは開いた隙間へさらに入った。
官軍の列が、ほんの少しだけ乱れる。
でも、まだ足りない。
後ろから次の騎兵が詰めてくる。
呼延灼軍の勢いは死んでいない。
喉が鳴る。
怖い。
それでも双刀を握り直す。
李俊の言葉が、また胸の奥に残っていた。
――生き残れ。
「言われなくても!」
誰に返したのか、自分でも分からない。
馬をさらに前へ出す。
止めるんじゃない。
崩す――
少しでも――
あの流れを……
玉楼でございます。
「玉楼、とうとう王英を殴ったんだって?」
孫二娘様が嬉しそうに仰いました。
「少々、力加減を誤りました」
顧大嫂様が笑います。
「二つ向こうの卓まで?」
「はい」
「絶対わざとだろォ?」
三娘様が横から頷きます。
「アタシもそう思う!」
ですが、それより気になることがございました。
「三娘様、李俊様に『生き残れ』と言われてから、お顔が赤うございました」
「玉楼!?」
孫二娘様が身を乗り出します。
「走ったからじゃなかったのかァ?」
「まだ走っておられませんでした」
「それ言わなくていいから!」
顧大嫂様が笑いました。
「で、戦場でも思い出したんだろ?」
三娘様が固まります。
「……何で知ってるの?」
存じません。
ただ――
あの一言は、三娘様が思っておられるより深く残っているようでございます。