扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
「それ、結構まずくない?」
孫二娘が首を傾げる。
「忘却は普通の働きだけどねェ。使わない記憶は薄れるもんさ」
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「難しく言ってるが、要するに忘れてんだろ?」
「雑だねェ!」
「でもアタシ、こっちのことはどんどん覚えてるのよ。戦い方とか、玉楼の声とか……」
孫二娘がにやつく。
「李俊の顔とか?」
「何でそこ入れた!?」
「よく見てるからねェ」
「戦術上!」
顧大嫂が腕を組む。
「戦術で男の顔をそんなに見るのか?」
「見る時もある!」
「あるんだねェ」
もうイヤ……
前の世界は薄れていくのに、こっちには忘れられないものばかり増えている。
――この時はまだ、それが一つ減るなんて思ってなかった。
最近、前の世界の夢を見なくなった……
気がつけば、思い出そうとする回数まで減っている。
残っているのは、断片だけだ。
夜の廊下。
白い灯り。
鍵を回した指先。
どれも夢だったのか、本当にアタシがそこにいたのか、少しずつ分からなくなってきた。
代わりに鮮明なのは、馬の背の揺れと、土の匂いと、隣を走る玉楼の気配だった。
「……それでいいわけないでしょ」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
前を見れば、童貫の軍がこちらへ迫っている。
斥候の報せどおり、正面は厚い。
槍兵の後ろに騎兵を置き、こちらが動けばすぐ穴を埋められるように列を重ねていた。
しかも向こうも、連環馬の失敗を聞いているらしい。
岸へ近づく道だけ、妙に警戒が厚い。
「水へ寄せられるのを嫌がってるわね」
玉楼が前方を見たまま答える。
「李俊様方を警戒しているのでございましょう」
少し後ろから、聞き慣れた声が飛んだ。
「そりゃ一回沈められた話が広まってりゃ、学習するだろォ」
振り向かなくても分かる。
孫二娘だ。
「何でアンタが普通にアタシの隊にいるのよ!」
「別に隊へ入った覚えはないよォ。面白そうだから近くにいるだけさ」
「戦場でその理由!?」
「人間、危機状況じゃ本性が出るからねェ。観察には最高だよォ」
「心理学のフィールドワークみたいに言わないで!」
玉楼が静かに口を挟む。
「孫二娘様、三娘様がお怒りになると前しか見なくなることがございますので、後方もお願いいたします」
「任されたよォ」
「玉楼まで自然に使わないで!」
二人とも返事をしなかった。
……敵が増えた。
いや、味方だけど。
前方で角笛が鳴った。
童貫軍が動く。
「前列、出すわよ!」
「前列、前へ!」
玉楼の号令が走り、こちらの騎兵が進む。
敵も正面から踏み込んできた。
最初の衝突は重かった。
槍と刀がぶつかり、馬同士が鼻先を振る。
押し返そうとすれば押し返せる。
でも、今はそれをやらない。
「止めるだけ! 押さないで!」
玉楼が言葉を変えて後ろへ通す。
前列は踏み止まり、敵の勢いだけを受けた。
童貫軍は押せると思ったらしい。
二列目まで前へ寄ってくる。
「まだよ」
手綱を握る。
玉楼も待つ。
横から孫二娘が言った。
「前の奴ら、勝った顔し始めたねェ」
「分かるの?」
「肩が上がった。視線もこっちじゃなく、後ろへ逃げる場所を見始めてる。もう追う側の頭になってるよォ」
心理学用語は出てないのに、何か怖い。
「じゃあ、もう一歩」
「そうだねェ。今引いたら警戒が戻る」
玉楼がこちらを見る。
三人の視線が一瞬だけ重なった。
「前列、半歩退いて」
「前列、半歩退いてください!」
列を下げると、押せると見た敵がそのまま食いついてくる。
もう一度だけ勢いを受けてから、今度は左を開けた。
「左、ほどいて!」
玉楼の声で列の左端が崩れたように下がる。
童貫軍の騎兵がそこへ向きを変えた。
だが全部は来ない。
敵の将も馬鹿じゃない。
中央を残し、こちらの誘いを疑っている。
「半分しか乗らないねェ」
「十分よ。全部欲しがって失敗するよりマシ」
アタシは馬首を左へ向けた。
追ってきた敵の先頭へ近づき、双刀で槍を払って一騎を馬上から落とす。
そのまま退けば、今度は二騎が追い、その後ろからも騎兵が続いた。
けれど岸へ近づくにつれて、目に見えて踏み込みが鈍くなる。
やっぱり水際へ寄せられるのを警戒している。
「三娘様、これ以上は寄りません!」
「分かってる!」
その時、右後方で怒号が上がった。
童貫軍の別働が回り込んでいる。
こちらが左へ意識を向けた瞬間を狙ったらしい。
「玉楼!」
「参ります!」
アタシが言い終わる前に、玉楼はもう馬を返していた。
長槍を横へ振り、回り込んできた一騎の進路を逸らす。
そのまま二騎目の胸元へ穂先を入れ、後続を止めた。
アタシが左を受け持てば、玉楼は右へ回る。
役割は固定せず、必要な方が必要な場所へ出ればいい。
そこへ孫二娘が後ろから叫んだ。
「三娘! 左の三列目、止まったよォ!」
「何で分かるの!?」
「前の奴が振り返った! 命令待ちだ!」
見ると確かに、追っていた騎兵の奥が詰まっている。
追ってきた騎兵の列が伸びた。
――今だ。
「玉楼、左を戻す!」
「承知いたしました!」
開いていた兵を一気に寄せる。
逃げ道を塞ぐのではなく、敵の列を横から押して進路を変える。
童貫軍もすぐ立て直そうとするが、前と後ろの命令がずれた。
ほんのわずかな乱れだったが、それで十分だった。
「李俊!」
岸の方へ声を飛ばす。
少し離れた場所で、李俊がこちらを見た。
「まだ遠い!」
「分かってる! だから寄せるの!」
何で戦場でも普通に会話できるのよ、この人……
李俊の横で舟が動き始める。
その姿を確認して、アタシはまた前を見る。
……戦術上だから。
見たのは戦術上必要だったから。
脳裏で孫二娘の声が勝手に蘇る。
――単純接触効果。
今それ要らない!
「三娘、顔が怖いよォ!」
「誰のせいよ!」
「敵のせいじゃないのかい?」
最悪……
でも笑ったおかげで、肩の力が抜けた。
童貫軍は岸を避けて中央へ戻ろうとしている。
なら、戻らせなければいい。
アタシが前へ出て進路を塞ぎ、玉楼が後ろからこちらの列を斜めへ動かす。
孫二娘は戦うより、兵の顔と敵の動きを見て声を飛ばしていた。
「右、怯んだ!」
「二列目を入れて!」
「後ろ、詰まりすぎだよォ! 三歩空けな!」
いつの間にか普通に指示してる。
しかも兵が聞いてる。
何なの、この妖艶なお姐さん。
敵の一部がとうとう岸へ向いた。
そこへ李俊が動いた。
舟が横から滑り込み、岸際へ矢が飛ぶ。
驚いた敵兵がさらに陸側へ寄ろうとするが、こちらの兵が道を塞いでいた。
「もう少し!」
アタシが一騎を押し込み、玉楼が反対側から列を狭める。
前へ進めば李俊たちの水軍が待ち、陸へ戻ろうとすればアタシたちが塞ぐ。
その間で、童貫軍の動きがついに止まった。
それを待っていたように、李俊が声を上げる。
「今だ!」
舟から鉤が飛び、岸へ寄った馬具へ絡む。
一騎が体勢を崩し、その後ろが止まり切れない。
水へ落ちた者を追って、さらに列が乱れた。
「任せたわ!」
「任せろ!」
李俊が短く返す。
その声だけで、何故か胸の奥が少し軽くなる。
……いや、だから戦術上!
後ろから孫二娘が笑った。
「何も言ってないよォ?」
「心を読むな!」
「顔に出てるだけさ」
「もうイヤ!」
童貫軍の前線が割れた。
一度崩れた列は戻らない。
こちらが横から押し、水軍が岸側を奪うと、敵はついに退き始めた。
追撃の合図が上がる。
でもアタシは深追いしなかった。
玉楼も同じだった。
孫二娘が馬を寄せてくる。
「勝ったねェ」
「ええ」
口ではそう答えた。
でも、胸の奥は妙に静かだった。
その夜、宴が始まった。
盃が回り、童貫軍を退けた話が何度も大きくなる。
さっきまで三人でどうにか作った隙も、宴の中ではいつの間にか「官軍が恐れをなして逃げた」ことになっていた。
いつもの山賊式報告会ね。
盃を口へ運ぶ。
味がしない。
もう一口飲んでも同じだった。
「まただねェ」
孫二娘が向かいへ座った。
隣には玉楼。
いつの間にこの配置が固定されたのよ。
「何が?」
「酒の味してないだろォ?」
アタシは盃を見る。
「……分かる?」
「顔見りゃねェ。快楽反応が薄い」
「宴会で臨床観察しないで」
孫二娘は笑わなかった。
玉楼も静かにこちらを見る。
「青州から、ずっとでございます」
一人なら誤魔化せても、二人に見られると逃げ道まで塞がれる。
「当たり前なのよ、この世界では」
城を落とせば奪う。
勝てば持っていく。
負ければ取られる。
「でも、アタシには耐えられない」
孫二娘が頬杖をついた。
「じゃあ慣れなくていいんじゃないかい?」
「簡単に言わないで」
「簡単じゃないよォ。慣れたふりして自分を壊すよりマシだって話さ」
玉楼が続ける。
「では、どうなさいますか?」
「変えられないわ」
二人とも否定しない。
それが逆にきつい。
「……やるしかないのよ。アタシが嫌だと思うことには、できる範囲で混ざらない。それしかない」
「でしたら」
玉楼が言った。
「わたくしも、ついて参ります」
「アタイも、気が向いたらねェ」
思わず孫二娘を見る。
「そこは普通、一緒に行くって言うところじゃない?」
「重い女が二人もいたら暑苦しいだろォ?」
玉楼が少し笑った。
アタシも、ほんの少しだけ笑えた。
宴を抜けると、廊下に李俊がいた。
壁へ背を預け、こちらを見る。
「顔が疲れてるぞ」
「今日はみんなして顔を見る日なの?」
「何だそりゃ」
「こっちの話」
李俊が壁から離れる。
「少し休め」
「命令?」
「違う」
一拍置いて、
「心配してるだけだ」
不意打ちだった。
アタシの足が止まる。
何でそういうの急に真っ直ぐ投げてくるのよ。
「……ありがと」
今回は、気持ちだけなんて付けなかった。
李俊もそれ以上言わない。
すれ違ってから、背後で孫二娘の声がした。
「へえェ」
振り返る。
「いつからいたの!?」
「最初から」
「最悪!」
玉楼まで口元を隠している。
「三娘様」
「何よ?」
「お顔が――」
「言わなくていい!」
その夜は、久しぶりに前の世界の夢を見た。
でも朝には、ほとんど覚えていなかった。
それから何日か経った頃、聚義庁へ呼ばれた。
報せは曾頭市からだった。
「頭領の首を狙うと、公言しているとのこと」
晁蓋が笑う。
「面白い」
立ち上がった。
宋江が止める。
「軽々しく動く相手ではありません。罠の可能性もあります」
「だからどうした」
晁蓋は退かなかった。
嫌な感じがした。
出陣の日、朝の空気は冷たかった。
アタシは玉楼と並び、少し後ろには孫二娘もいる。
「今回は見物じゃないでしょうね?」
「さあねェ」
「さあねじゃない!」
そんな声さえ、木々が深くなるにつれて消えていった。
道が細い。
静かすぎる。
前を行く晁蓋の影が止まる。
一瞬、風が変わった。
「三娘様!」
玉楼の声と同時だった。
空気が裂ける。
矢が飛んだ。
晁蓋の身体が大きく揺れ、馬上から崩れる。
「頭領!」
声が弾けた。
首に矢が深く刺さっている。
「退け!」
誰かが叫ぶ。
玉楼が前へ出て道を開け、孫二娘も負傷者を下がらせる。
アタシは動けた。
動けたはずなのに、晁蓋が運ばれていく姿だけが妙に遅く見えた。
梁山泊へ戻ると、矢が布の上へ置かれた。
血に濡れた軸に文字がある。
――史文恭。
「一々、矢に名前を書くのね……」
玉楼が答える。
「挑発でしょう」
笑えない。
奥へ入る。
晁蓋の呼吸は浅かった。
誰かが何かを言っている。
宋江が耳を寄せる。
アタシには聞こえない。
やがて、晁蓋の胸が一度だけ上下した。
それきり、動かなかった。
孫二娘も何も言わない。
玉楼が隣にいる。
それでも、急に足元がなくなったような気がした。
梁山泊の中心にいた人が、今、消えた。
アタシたちは、どうなってしまうのだろう……
玉楼でございます。
「玉楼、三娘が李俊に『ありがと』って素直に言ったの、聞いたかい?」
孫二娘様が楽しそうに笑います。
「はい」
三娘様が振り返りました。
「即答しないで!」
顧大嫂様まで頷きます。
「前なら一言余計につけてたな」
「分析しなくていい!」
「防衛機制が弱くなってきたねェ」
「心理学で恋愛実況するな!」
けれど、その夜のことを笑えるのは、そこまででした。
晁蓋様が倒れ、梁山泊から一つの大きな柱が失われました。
孫二娘様も、顧大嫂様も、もう笑いません。
三娘様は矢を見つめたまま動かない。
わたくしは、その隣に立ちました。
これから何が変わるのかは分かりません。
ただ――
変わらないままでは、いられないのでしょう。