扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
「名前だけなら模様替えみたいなんだけどね」
孫二娘が笑う。
「でも集団の看板を替えると、行動までそっちへ寄ることがあるよォ」
顧大嫂が腕を組んだ。
「で、今度は盧俊義って金持ちを山へ引っ張るのか?」
「本人、絶対断るでしょ」
「断った後が本番だったりしてねェ」
「怖いこと言わないで!」
しかも、その盧俊義にアタシが酌をしたら――
「李俊、妬くんじゃないか?」
「何でそうなるの!?」
孫二娘までにやつく。
「三娘、それは観察価値が高いねェ」
「人の恋愛を実験にするな!」
……いや、恋愛って認めてないから。
まだ……
問題は、盧俊義も李俊も――
断って終わる相手じゃなかったことだ。
晁蓋が亡くなってから、梁山泊の空気は少し変わった。
人が減ったわけじゃない。
兵は動いているし、見張りも立っている。
炊事場からは朝も昼も煙が上がり、夜になれば酒を飲む声だって聞こえる。
それでも、前とは違う。
アタシは建物の前で足を止め、掲げられた額を見上げた。
――忠義堂。
少し前まで、ここは聚義庁だった。
名前が変わっただけと言えば、それまでだ。
でも、妙に引っ掛かる。
「また見ておられるのですか?」
隣で玉楼が尋ねる。
「見てるだけよ」
そう答えても、視線は額から離れなかった。
晁蓋がいた頃、こんなに『忠義』なんて言葉を意識したことがあっただろうか?
酒を飲み、喧嘩をして、勝手に騒ぐ。
まとまりなんて無さそうなのに、晁蓋が真ん中にいれば何となくまとまっていた。
今は逆だ。
以前より整っているのに、どこか息苦しい。
「忠義ねぇ……」
「引っ掛かるのかい?」
振り返ると、孫二娘が当然のように立っていた。
「またいる!」
「何だい、その言い方」
「最近、アタシと玉楼がいるところに高確率で出現するじゃない!」
「同類なんだから仲良くしようと思ってねェ」
「距離の詰め方が早いのよ!」
孫二娘は気にもせず、アタシの横から額を見上げた。
「名前を変えるってのは案外大きいよォ。集団に『こうあるべきだ』って言葉を置けば、皆がそこへ寄っていくこともある」
「社会心理学?」
「お、覚えてきたねェ」
「嬉しくない!」
玉楼が少し笑う。
そのまま三人で忠義堂へ入ると、すでに頭領たちが揃っていた。
上座だけが空いている。
晁蓋の席だった。
誰も見ない。
でも、誰も忘れていない。
少し離れた場所には李俊がいた。
目が合った。
向こうが軽く顎を上げる。
アタシも何となく同じように返した。
「今、安心したねェ」
「してない!」
孫二娘の声に、周りの何人かが振り返った。
李俊まで笑っている。
……絶対あとで覚えてなさいよ。
やがて宋江が立つと、堂内が静まった。
「首領不在のままでは、梁山泊はまとまりませぬ」
反論する者はいない。
晁蓋が亡くなってから、実際に多くの報告が宋江へ集まっている。
指示を出すのも、人を動かすのも、以前より宋江が中心になっていた。
呉用が扇を手に口を開く。
「まずは宋江殿に、山寨をお預かりいただくのがよろしいでしょう」
何人かが頷いた。
宋江は首を横へ振る。
「私には荷が重い」
その言葉を聞いて、何とも言えない気持ちになる。
本気でそう思っているのかもしれない。
でも、誰も「では別の者を」とは言わない。
もう答えが出来ているように見えた。
「同調圧力って便利だねェ」
「孫二娘、今は黙って」
「アタイ、事実を言っただけだよォ」
やがて呉用が告げた。
「河北に名高き義士、盧俊義殿はいかがでしょう」
知っている名前だ。
武芸、財、人望。
どれを取っても一流で、梁山泊とは本来なら縁のない人物。
だからこそ、思わず口が出た。
「待って」
視線が集まる。
慣れない。
でも、黙っている方が嫌だった。
「晁蓋様は、史文恭を討った者を次の首領にしろって言ったんでしょ?」
堂内が静まる。
林冲は何も言わない。
李俊も腕を組んだままだ。
「曾頭市はまだ落ちてないし、史文恭だって生きてる。それなのに、何で先に次の首領候補を探してるの?」
呉用は扇を閉じた。
「三娘殿の仰ることはもっともです」
またそれだ。
もっともと言いながら、止める声じゃない。
「盧俊義殿ほどの豪傑であれば、史文恭を討つことも叶いましょう」
そこで、ようやく筋が見えた。
先に盧俊義を連れてくる。
史文恭を討たせる。
晁蓋の遺言どおり、首領へ据える。
「……出来すぎじゃない?」
呉用の目が一瞬だけ細くなる。
「何がでしょう?」
「何でもない」
証拠なんてない。
ただ、綺麗に並びすぎている気がした。
軍議が終わって外へ出ると、李俊が後ろから追いついてきた。
「気になるか?」
「アンタは?」
聞き返すと、李俊は忠義堂を振り返る。
「話が早すぎるとは思う」
胸に引っ掛かっていたものが、少しだけほどけた。
「……やっぱりそうよね?」
「だが、誰かがまとめなきゃ沈む」
「分かってるから面倒なのよ」
李俊が笑う。
「お前、最近ずっと面倒だな」
「誰のせいよ」
「俺か?」
「違う!」
後ろから孫二娘が割り込んだ。
「今の間は怪しかったねェ」
「何でも恋愛に結びつけるな!」
数日後、盧俊義が梁山泊へ来た。
実際に会ってみると、拍子抜けするほどまともな男だった。
威張らず、相手の話を最後まで聞き、こちらが山賊だと分かっていても露骨に見下さない。
「まともな人ね」
玉楼に小声で言う。
「はい」
孫二娘まで覗き込んでくる。
「だからこそ、入らないだろうねェ」
その予想は当たった。
宋江から入山を勧められた盧俊義は、丁寧に頭を下げた。
「お気持ちは有難く存じます。しかし、私には北京に家もございます。皆様のお仲間になるつもりはございません」
でしょうね……
ところが、そこで終わらなかった。
「せっかくお越しいただいたのです。しばしご逗留を」
その『しばし』が長かった……
次の日も宴。
その次の日も宴。
三十人あまりの頭領が順番に盧俊義を招き、酒を勧め、入山を勧める。
十日を過ぎた頃、アタシは日数を数えるのをやめた。
ひと月を越えても、盧俊義はまだ梁山泊にいた。
「これ、もてなし?」
「心理学的には反復接触で態度変容を狙ってるようにも見えるねェ」
「普通の言葉で」
「帰らせない」
「やっぱりそう見える!?」
そんなある夜、とうとうアタシたちの番まで回ってきた。
盧俊義の前に座り、徳利を持つ。
「何でアタシたちまで酌してるのよ……」
孫二娘が妖艶に笑った。
「いいじゃないか。美女三人だよォ。客としては悪くない」
「自分を自然に入れたわね」
「外す理由があるのかい?」
ない……
腹立つけど、この女は普通に美人だ。
玉楼が先に盧俊義へ酌をする。
「どうぞ」
「かたじけない」
次はアタシ。
盧俊義が盃を差し出す。
「扈三娘殿にまで酌をいただけるとは、恐縮です」
「順番だから気にしないで」
徳利を傾けた時、視線を感じた。
少し離れた卓に李俊が座っている。
こっちを見ていた。
目が合う。
いつもなら笑うのに、今日は笑わない。
盃を一口飲み、そのまま前へ向き直った。
……何よ。
「三娘」
孫二娘が耳元へ寄ってくる。
「あれ、妬いてるねェ」
「は!?」
「さっきから李俊の視線、盧俊義とアンタを往復してるよォ」
「そんな実験観察みたいに見ないで!」
玉楼まで李俊の方を見る。
「確かに、先ほどから少々ご様子が違います」
「玉楼まで参加しない!」
「扈三娘殿?」
盧俊義が不思議そうにこちらを見る。
「あ、何でもありません!」
慌てて徳利を傾けた。
酒が盃から溢れた。
「三娘様」
「分かってる!」
孫二娘が肩を震わせている。
向こうを見ると、今度は李俊が笑っていた。
何なのよ、もう!
宴が終わって廊下へ出ると、その李俊が壁にもたれて待っていた。
「楽しそうだったな」
「何が?」
「盧俊義に酌してた」
妙に言い方が硬い。
アタシは思わず顔を覗き込んだ。
「……もしかして妬いた?」
李俊が一瞬黙る。
「さてな」
「否定しないの!?」
「否定するほどでもねえ」
そのまま歩き出す。
「ちょっと、それどういう意味よ!」
「自分で考えろ」
「分かるわけないでしょ!」
背後から、聞きたくない声がした。
「相互作用が始まったねェ」
「いつからいたのよ!」
「最初から」
「また!?」
玉楼まで口元を隠していた。
盧俊義はそれからも梁山泊に留められ、前後して四十日ほどになって、ようやく北京大名府へ帰っていった。
最後まで入山の意思は変わらなかった。
馬首を返す背中にも、迷いはない。
「終わったわね」
「普通ならねェ」
孫二娘の返事が嫌だった。
玉楼まで、
「わたくしも、まだ終わっていないように思います」
と言う。
そして数日後、また忠義堂へ呼ばれた。
入った瞬間に分かった。
終わっていない。
呉用は静かに笑う。
「盧俊義殿ほどの人物を、このまま諦めるには惜しい。少しばかり、縁を作ろうかと」
呼ばれたのは、石秀、楊雄、時遷。
孫二娘が小声で言う。
「三娘、正常性バイアスは捨てた方がいいよォ」
「この顔ぶれで平和に終わると思ってないわよ!」
軍議を終え、外へ出る。
忠義堂の旗が湿った風に鳴っている。
少し先には李俊がいた。
昨日の「自分で考えろ」がまだ頭に残っている。
……考えたって分かんないわよ。
そう思いながらも、足は自然に李俊の方へ向いた。
孫二娘が横から覗き込む。
「どこ行くんだい?」
「李俊に聞きたいことがあるの!」
「へえェ」
「その顔やめて!」
玉楼まで、何故か楽しそうだった。
本当に、味方が増えてからろくなことがない。
忠義堂の旗が、また大きく揺れる。
盧俊義は断った。
なのに話は終わらず、今からもっと面倒な形で続こうとしている。
しかも動くのは石秀、楊雄、時遷。
この組み合わせで何も起きない方が不自然だ。
アタシは空を見上げ、小さくため息を吐いた。
嫌な予感だけは、よく当たるのよね。
玉楼でございます。
「玉楼、李俊が妬いてたの、気づいてたかい?」
孫二娘様が楽しそうに尋ねます。
「はい」
三娘様が勢いよく振り返りました。
「また即答!?」
顧大嫂様が笑います。
「盧俊義に酌してる間、分かりやすかったぞ」
「みんな観察しすぎ!」
「嫉妬は独占欲の一種だからねェ」
「心理学で追い打ちしないで!」
わたくしは盃を置きました。
「ですが、三娘様も李俊様を気にしておられました」
「玉楼まで何でそっち側なの!?」
「事実でございますので」
孫二娘様と顧大嫂様が同時に笑います。
盧俊義様は最後まで梁山泊をお断りになりました。
けれど三娘様と李俊様の方は――
どうやら、もう断って終わる話ではなさそうでございます。