扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜながら聞く。
アタシは少し考えた。
「……美人じゃん」
「そこかよォ!!」
顧大嫂まで酒を吹きかけた。
「普通は顔が違う方を先に気にするだろ!」
「だって美人だったのよ!」
「自分だろォ?」
「そこが問題なの!!」
孫二娘が腹を抱える。
「三娘、転生しても顔面査定だけ冷静すぎるよォ!」
「元のアタシだって美人だったから! 格落ちしてないか確認は必要でしょ!」
「何の確認だい!」
二人が笑う中、アタシはあの鏡を思い出した。
顔は悪くない。
むしろかなりいい。
だから、余計に困った。
鏡の中の女は、どう見ても扈三娘だった。
そしてアタシだけが――
その女を、自分だと思えなかった。
その呼び方は、やわらかかった。
「……扈三娘様」
女は、まるでそこに置いてある器の名でも告げるように、何の迷いもなくそう言った。
アタシの中で、さっきまで忙しく回っていた何かが止まる。
夢の中で聞いた名前だ。
知らないはずなのに、耳へ入った瞬間だけ胸の奥が妙に反応した、あの名前。
「……なに、それ?」
自分でも間の抜けた返事だと思う。
女は少しだけ目を伏せた。驚いているというより、どう答えればアタシを刺激しないで済むか考えているように見える。
「お嬢様のお名にございます」
「アタシの?」
「はい」
即答だった。
こういう時くらい、一拍くらい迷ってくれてもいいと思う。
こっちは今、自分の名前を知らない女から自分の名前を教わるという、人生で二度と経験したくない状況にいるのだ。
相手だけ迷いなく正解を持っているのは、精神衛生上あまりよろしくない。
「……扈、三娘?」
口にしてみる。
舌は普通に動いた。
言いにくくもない。
なのに、自分の名前を呼んだ感じがまるでしなかった。
会社で呼ばれていた名前も、役所の書類に書いていた文字も、もうすぐ思い出せそうなのに、そこへ手を伸ばすと霧の中へ逃げていく。
嫌な感覚だった。
前の自分の名前まで消え始めている。
「ご気分が優れぬようでございますね」
女が心配そうに言う。
「そりゃ優れないわよ。起きたら知らない部屋で、自分の名前まで人に教えてもらってるんだから」
言ってから、しまったと思った。
女の眉がわずかに動く。
そりゃそうだ。
この人の立場からしたら、お嬢様が朝起きた途端に「ここどこ」「アンタ誰」「アタシの名前なに」と質問攻めにしているのである。
完全に何かあった人だ。
医者を呼ばれるだけならまだいい。
祈祷師は嫌だ。
火刑はもっと嫌だ。
「……悪い夢でも、ご覧になられましたか?」
責める声ではなかった。
むしろ、そうであってほしいと願っているみたいだった。
夢――
それなら全部片づく。
会社から帰って、変な違和感のある部屋で眠り、そこから長い夢を見ているだけ。
目を閉じてもう一度寝れば、目覚ましが鳴って、スマホが枕元にあって、仕事へ行きたくない朝が戻ってくる。
それが一番いい。
「……だったらいいんだけどね」
女は返事をしなかった。
その沈黙が、やけに正直だった。
アタシは肩に掛けられた衣を握り、もう一度部屋を見回す。寝台も小卓も灯りも、どれもこの空間へ馴染んでいる。
昨日まで使っていたはずだと言われれば、そういう部屋にしか見えない。
でも、アタシの記憶には一つもない。
「ここ、本当にアタシの部屋なの?」
「はい、いつもこちらでお休みになっております」
「いつも?」
「左様にございます」
マズい……
『いつも』まで付いた。
一晩だけ運び込まれたんじゃない。
この身体の持ち主は、ここで眠り、起きて、何日も暮らしてきたらしい。
つまり、部屋が知らないのではなく、知らないのはアタシの方だ。
その事実を認めた途端、背中を冷たいものが這った。
女はアタシを扈三娘だと思っている。
この部屋も扈三娘のもの。
なら――
この身体も?
そこまで考えて、アタシは自分の手を見た。
細く長い指。
昨日までとは違う爪の形。
寝台から出した足も、記憶にある自分より少し細い気がする。
髪は長い。
声も、聞き慣れていた自分の声より若干違って聞こえる。
ここまで材料が揃っているのに、どうして今まで最後の確認を避けていたのか。
理由は分かっていた。
怖かったからだ。
部屋なら間違いと言える。
服なら着替えさせられたと言える。
髪だって、最悪、記憶がおかしいと言い張れる。
でも顔は駄目だ。
鏡を見て、知らない女が映っていたら、もう逃げ道がない。
「……鏡、ある?」
女が少し目を見開いた。
「鏡、でございますか?」
「そう、顔を見るやつ」
説明がひどい。
でも意味は通じたらしい。
女は部屋の奥へ視線を向けた。
アタシもその先を見る。
小卓のそばに、細い枠へ収まった磨かれた鏡が立ててあった。
さっきも視界には入っていたはずなのに、脳が見なかったことにしていたらしい。
現実逃避機能だけは前世から正常に動いている。
「……あれ?」
「はい」
聞かなきゃよかった。
アタシは寝台から足を下ろした。
床が冷たい。
その冷たさが足裏から上がってきて、嫌でも今ここにいると教えてくる。
立ち上がると、身体が思ったより軽かった。
ふらつきはない。
むしろ自然に重心が決まる。
何となく気持ち悪い。
初めて動かす身体のはずなのに、身体の方はアタシの動かし方を知っている。
「お嬢様、お履き物を」
「あ、ごめん」
女が慌てて履き物を差し出してきた。
裸足で歩こうとしていたらしい。
お嬢様生活、開始五分で作法違反。
先が思いやられる。
履き物をつけ、鏡へ向かう。
数歩しかないのに遠かった。
女は止めない。
急かしもしない。
その優しさが今はありがたいような、怖いような、どちらとも決められない。
鏡の前へ立つ。
すぐには顔を上げなかった。
「……何やってるんだろ、アタシ」
小さく漏らす。
後ろの女は聞こえなかったふりをしてくれた。
気遣いができすぎる。
余計にプレッシャーがかかる。
意を決して顔を上げた。
磨かれた面の中に、一人の女がいた。
息が止まる。
髪は長く、顔立ちは整っている。
眉から目元へかけての線は凛としているのに、頬から顎にかけては女らしい柔らかさが残っていた。
寝起きで化粧なんてしていないはずなのに、それでも充分に美人だと思う。
そこは認める。
美人判定に私情は挟まない。
いや、今まさに自分の顔らしいんだけど。
「……美人じゃん」
思わず出た。
背後で女が、ほんの少しだけ動いた気がした。
「何か?」
「何でもない!」
危ない。
知らない身体へ飛ばされた直後、鏡を見て最初の感想が『美人じゃん』だったなんて知られたら、人として大事な何かを疑われる。
でも事実は事実だ。
元のアタシだって顔には自信があった。
そこは負けを認めたくない。
鏡の女も美人。
アタシも美人。
つまり美人から美人へ移動しただけ。
よし、損失なし。
――じゃない。
危うく重大問題を美容評価で処理するところだった。
「違う」
鏡の中の女も同じ口の動きをした。
「これ、アタシじゃない」
女が初めてはっきり息を呑んだ。
「お嬢様……?」
アタシは鏡へ近づく。
映っている女も近づいた。
瞬きをすれば同じように目を閉じ、頬へ触れれば同じ位置へ指が上がる。
当然だ。
鏡なんだから。
でも、どれだけ同じ動きをされても、自分を見ている感じがしない。
昨日まで鏡の中にいた女とは違う。
ウルフカットもない。
疲れた会社員の顔でもない。
灰色がかった目を見慣れていたはずなのに、目の前にある輪郭は、その記憶とうまく重ならない。
それなのに、肝心の元の顔を細部まで思い出そうとすると、また霧がかかる。
「……なんで?」
昨日まで毎日見ていた。
化粧だってした。
髪も整えた。
自信もあった。
なのに思い出せない。
『顔には自信があった』という記憶だけが残り、その顔そのものが抜け落ちている。
何その保存方法。
そこ一番大事でしょ。
アタシは鏡を睨む。
鏡の女も睨み返す。
睨んでも美人なのが少し腹立つ。
「……ねえ」
「はい」
「アタシ、昨日もこの顔だった?」
背後が静かになった。
女にとっては、とんでもなく意味不明な質問だったに違いない。
それでも笑わなかった。
「はい、わたくしがお仕え申し上げてより、お嬢様のお顔立ちがお変わりになったことはございません」
「そりゃそうよね……」
人間の顔が一晩で別人になる方がおかしい。
でも、アタシにとっては変わっている。
世界の側では何も起きていない。
おかしくなったのはアタシだけ。
そう考えた瞬間、さっきまでの笑えない違和感が、急に形を持った。
この女は嘘をついていない。
たぶん本当に、昨日もこの顔を見ていた。
昨日の扈三娘と、今のアタシを、同じ人間として見ている。
「……アタシ、これ?」
念のため、自分の頬を指さした。
女はさすがに困った顔になった。
「はい……扈三娘様にございます」
二回目。
今度は名前と顔が同時に結びついた。
扈三娘。
鏡の中の女。
そしてアタシ。
三つが同じものとして扱われている。
扱っていないのは、アタシだけだ。
ここまで来ると、転生だの憑依だのという、昨夜なら鼻で笑っていた単語の方が、現実より説明としてまともに見えてくる。
運営さん。
自動翻訳より先に説明すべきこと、あったんじゃない?
名前も顔も時代も住む場所も、挙げ句には人生まで丸ごと変更されている。
利用規約、どこ?
女が心配そうに近づいてくる。
「お嬢様、やはりお父上を――」
「ちょっと待って」
父親まで来たら情報量が限界を超える。
今はまだ、この顔だけで精いっぱいだ。
アタシはもう一度鏡を見る。
美人だ。
悔しいけど、かなり。
目元には芯があって、黙っていれば気の強い令嬢に見える。
長い髪も似合っているし、この時代らしい衣まで含めれば、絵としては相当まとまっている。
もし他人として会っていたら、普通に振り返ると思う。
でも――
鏡の中の女が、こちらを見返している。
この顔も美人ではあると思うけど…… でも――
そういう問題じゃないのよね。
玉楼でございます。
「玉楼、お前さん鏡より怖かったらしいよ」
顧大嫂様が笑うと、孫二娘様まで鍋を叩きました。
「三娘が“アタシこれ?”って聞いたら、即答したんだろォ?」
「はい、扈三娘様でございましたので」
幕舎の外から怒鳴り声が飛びます。
「その迷いの無さが怖いのよ!!」
「事実を申し上げただけでございます」
「ほらァ! 今も世界側だよォ!」
「世界側とは何でございますか?」
顧大嫂様が酒を吹きました。
「説明しても玉楼には通じないよ!」
甚だ理不尽でございます。
ですが、あの朝の三娘様には、鏡の顔も、名前も、ご自分のものではなかったのでしょう。
それでも私は知っておりました。
あの方が扈三娘様であることを。
ただし――
扈三娘様ご自身が、どなたなのかまでは……