扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
顧大嫂が酒を含んだ。
「増えてない! 最初からいたらしいの!」
孫二娘が鍋を混ぜながら笑う。
「三娘、彼氏ゼロから許嫁持ちへ強制アップデートかァ」
「しかも初対面より先に救援要請よ!?」
「恋愛イベント、戦場から始まるのかい」
「運営の設定がおかしい!!」
二人が吹き出す。
笑い事じゃない。
もっと怖かったのは、そのあとだ。
鎧なんて着たこともないのに、身体は玉楼の手に合わせて勝手に動いた。
「身体だけ経験者ってヤツだねェ」
「本人が一番初心者なのよ!」
顧大嫂が首を傾げる。
「それで戦えるのかい?」
アタシは黙った。
知らない。
でも――
身体の方は、知っているみたいだった。
外から、かすかな音が入る。
最初は風か、古い木が軋んだ音だと思った。
けれど、耳を澄ますまでもなく、同じ音がもう一度する。
今度は一つではなく、廊下の向こうから何人分もの足音が重なって近づいてきた。
さっきまで、この屋敷は気味が悪いほど静かだった。
それが急に忙しくなっている。
誰かが走り、別の誰かが呼び止め、さらに奥では何かを運んでいるらしい。
言葉そのものは聞き取れるはずなのに、声が重なりすぎて内容までは拾えない。
でも、普通の朝じゃないことくらいは分かった。
「……何?」
アタシが扉を見ると、女も同じ方向へ顔を向けた。
その横顔に初めて少しだけ硬いものが浮かぶ。
これまで、アタシが「ここどこ」「アタシ誰」「この顔なに」と朝から意味不明なことを言い続けても、ほとんど表情を崩さなかった女である。
その人が反応した。
嫌な予感しかしない。
廊下の向こうで足音が止まり、誰かが何かを告げる声がした。
女は短く耳を傾ける。
「……来たようですね」
「何が?」
聞き返すと、女はこちらへ向き直った。
「祝家荘より、早馬が参ったものと思われます」
祝家荘。
知らない。
人の名前ではなさそうだ。
荘ってことは村か屋敷か、その辺だろうか。
現代日本で言えば町内会みたいなものかもしれない。
いや、たぶん違う。
こっちへ来てから例えが全部雑になっている。
「祝家荘って――」
言いかけた、その時だった。
「……玉楼」
名前が口から出た。
アタシ自身が一番驚いた。
女の顔を見る。
女も、一瞬だけ動きを止めていた。
ほんの一瞬。
でも間違いなく止まった。
「……はい」
返事が返る。
玉楼。
この人の名前だ。
知っていた。
いや、知らない。
さっきまで名前を聞こうとして失敗した相手である。聞いた覚えなんてない。
なのに今、考えるより先に呼んだ。
「え?」
自分の口を手で押さえる。
玉楼が少し心配そうにこちらを見る。
「いかがなさいましたか?」
「いや……今、アタシ……」
どう説明すればいい。
アンタの名前を知らないのに、口が勝手に呼びました。
そんなことを言ったら、いよいよ医者だけでは済まない。
祈祷師が近づく。
火刑も近づく。
黙ろう。
「何でもない」
「左様でございますか」
納得したの?
いや、たぶんしてない。
玉楼、この人たぶん相当できる。
何も言わないだけで全部見ている気がする。
その時、扉の向こうから控えめな声がした。
「お取り次ぎ、よろしゅうございますか」
アタシは反射的に玉楼を見る。
玉楼もこちらを見る。
何その視線。
まさかアタシが返事するの?
「……どうぞ?」
疑問形になった。
扉の向こうが一瞬だけ静かになる。
絶対、普段の扈三娘ならそんな返事しないんだ。
分かる。
もう分かる。
今日だけで何回目だろう、この「やらかした」感じ。
玉楼が何事もなかったように一歩下がった。
「お支度をいたしましょう」
「何の?」
今度こそ、玉楼が完全に止まった。
しまった。
またやった。
「……祝家荘へ向かわれるお支度にございます」
「今から?」
「はい」
「アタシが?」
玉楼の目が少しだけ細くなる。
言葉にしないで。
その顔で「他にどなたが」と言わないで。
「……お嬢様がお向かいになるものと」
やっぱり言われた。
朝起きて一時間も経ってないと思うのに、知らない部屋で知らない名前と顔を押しつけられ、ようやく玉楼という女の名前が分かったと思ったら、今度は知らない場所へ行けと言われている。
今日の予定表どうなってるのよ。
しかも外の様子を見る限り、散歩や観光ではない。
「ちょっと待って。祝家荘で何があったの?」
玉楼が答えるより先に、外から別の足音が近づいた。
それを聞いた玉楼は、アタシへの説明を後回しにしたらしい。
寝台の近くに置かれていた大きな箱を開ける。
中から出てきたものを見て、アタシは固まった。
金属だった。
布ではない。
服でもない。
どう見ても防具。
「……え?」
玉楼は当然のようにそれを持ち上げる。
「お召しくださいませ」
「これを?」
「はい」
また即答。
「アタシが?」
玉楼は何も言わなかった。
その沈黙、今日一番刺さる。
着るんだ。
アタシが。
これを。
何で?
聞く間もなく玉楼が近づいてきた。
「失礼いたします」
手が伸びる。
反射的に身構えたが、玉楼の動きには迷いがなく、衣の上から手早く形を整え、その上へ防具を重ねていく。
固い。
重い。
胸元へ金属の重さが乗り、肩にも圧が掛かった。
ところが身体は、その重さに驚かなかった。
そこが一番怖かった。
「……ちょっと」
玉楼の手が腰へ回る。
紐を通し、締め、位置を直す。
アタシは何も知らないのに、身体だけが自然に腕を上げた。
「え?」
自分の腕を見る。
今、何で上げた?
玉楼がそこへ帯を通す。
まるで最初から、そうする順番を二人とも知っていたみたいだった。
「待って待って」
玉楼が手を止める。
「いかがなさいましたか?」
「アタシ、今、勝手に腕上げた」
「……?」
通じてない。
そりゃそうだ。
「身体が勝手に協力してるのよ」
「お加減が?」
「そうじゃない!」
玉楼の心配がまた病人方向へ進んでいる。
違う。
具合は悪くない。
むしろ身体の調子だけは妙にいい。
それが問題なのだ。
玉楼が再び支度を始めると、今度はアタシも黙って自分の身体を観察した。
肩へ重さが加われば、自然に姿勢が変わる。
腰を締められると、足の置き方まで少し変わった。
無意識に重心が整っていく。
初めて着るはずなのに、着慣れている。
いや。
アタシは初めてでも、この身体は初めてじゃない。
その事実が、鏡を見た時とは別の怖さで胸へ落ちた。
「お履き物を」
差し出された革の履き物にも、今度は迷わず足が入った。
紐を締めれば、どこまで締めればいいのか感覚で分かる。
「……すごく嫌」
「きつうございますか?」
「そっちじゃないのよ……」
玉楼には説明できない。
アタシの身体なのに、アタシよりこの身体の方が物事を知っている。
鏡に続いて、身体にまで先を越されている。
転生した本人が一番遅れてるってどういう仕様?
玉楼は最後に胸元を確かめ、一歩下がった。
「よろしゅうございます」
終了らしい。
アタシは自分を見る。
完全に戦う人の格好だった。
どう見ても、これから市場へ買い物に行く装備ではない。
「ねえ、玉楼」
「はい」
「これ着て、祝家荘へ何しに行くの?」
玉楼が答えようとした時、廊下の空気が変わった。
さっきまで控えていた者たちが、一斉に姿勢を正した気配がする。
玉楼も扉へ向き直る。
誰か来た。
今までの使いの人間とは違う。
見なくても分かる。
この屋敷で、周りを黙らせる立場の人だ。
扉が開いた。
廊下の先に男が立っている。
年齢はアタシより上に見えた。
派手なことは何もしていない。
ただ立っているだけなのに、その男を中心に周囲の人間の位置が決まっている。
視線が合う。
知らない。
絶対に知らない男だ。
なのに身体の奥で、何かが反応した。
「起きたか」
男が言う。
短い言葉だった。
心配より確認に近い。
アタシは返事をしようとして――
「……兄様」
先に口が動いた。
まただ。
アタシの知らない人間関係を、身体が勝手に提出してくる。
男は何も驚かなかった。
つまり正解。
兄。
いるらしい。
父親に続いて兄まで追加された。
家族構成くらい事前説明してよ。
「祝家荘から知らせが来た」
兄――扈成は、アタシの混乱など知るはずもなく続ける。
「梁山泊が攻め寄せている」
梁山泊。
その言葉だけ、胸のどこかに引っかかった。
聞いたことがある。
絶対にある。
でも思い出せない。
何だっけ。
旅館?
料理屋?
いや、それはさすがに違う。
もっと別の――
「祝彪はお前の許嫁だ。加勢するしかあるまい」
思考が全部吹き飛んだ。
「……は?」
扈成の眉が動く。
でも今のは仕方ないでしょ。
待って。
祝彪。
誰。
その前に。
「許嫁?」
声が裏返った。
廊下にいる全員がアタシを見る。
玉楼まで見ている。
やめて。
そんな「何を今さら」という顔で見ないで。
前世では彼氏すらいなかった。
それが朝起きたら婚約者がいる。
しかも初めて存在を知らされた瞬間、婚約者の家が武装集団に襲われている。
恋愛イベントの導入として最悪じゃない?
「三娘?」
扈成が怪訝そうにこちらを見る。
「いや……何でもない」
何でもある。
ありすぎる。
でも説明できない。
『昨日まで独身会社員でしたので、婚約者の引き継ぎを受けておりません』なんて言えるわけがない。
扈成はそれ以上追及しなかった。
「祝家荘とは以前より誼がある。まして祝彪はお前の許嫁だ。放ってはおけぬ」
そうでしょうね。
この世界の扈三娘なら。
でもアタシ、祝彪の顔すら知らないんだけど。
「それで……アタシは何を?」
聞いた瞬間、扈成の顔が変わった。
まずかった。
また扈三娘なら聞くはずのない質問をした。
「加勢だ」
「加勢……」
戦うの?
この格好で?
いや、どう考えてもそうだ。
会社員時代の技能に一騎討ちは含まれていない。
パソコンなら使える。
電話応対もできる。
ヒールで長時間歩くこともできる。
でも、武装集団同士の戦争では全部役に立たない。
職務経歴書を出してもたぶん落ちる。
「行け!」
扈成の声が廊下へ通った。
迷う余地を与える言い方ではなかった。
周囲の人間も一斉に動き始める。
誰も驚かない。
誰も「本当に三娘様を?」なんて聞かない。
扈三娘が戦へ行く。
それが、この家では当たり前らしい。
冗談でしょ。
アタシは戦ったことなんてない。
なのに足は震えていなかった。
呼吸も乱れていない。
むしろ、扈成の命令を聞いた瞬間から身体の奥で何かが切り替わっている。
肩の位置。
腰の重さ。
足裏へ掛かる力。
全部が、さっきより自然になっていく。
「待ってよ……」
誰に言ったのか自分でも分からない。
身体?
扈三娘?
それとも、この世界そのもの?
誰も待ってくれない。
扈成はすでに次の者へ指示を出している。
玉楼が一歩前へ出た。
振り返りはしない。
ただ、アタシが続くことを知っている人間の位置に立つ。
その背中を見た途端、足が動いた。
一歩。
廊下へ出る。
左右にいた者たちが、何の合図もないのに道を開けた。
「うわ……」
思わず漏れる。
人の列が左右へ割れていく。
何これ。
モーセの十戒?
こんな時に頭へ浮かぶ例えじゃない。
でも本当にそう見える。
誰もアタシへ道を教えない。
それなのに玉楼が歩けば、周りが自然に位置を変え、アタシの前に一本の道ができていく。
そして、もっとおかしいことに――
アタシの足も迷わない。
玉楼と歩幅が合っている。
合わせようとしていない。
身体が勝手に知っている。
この廊下をどう歩くのか。
どこで曲がるのか。
玉楼との距離をどれだけ空けるのか。
全部。
「……何なのよ、これ」
小さく呟く。
玉楼は聞こえたはずなのに振り返らない。
その代わり、ほんの少しだけ歩調を緩めた。
アタシの足も、それに合わせる。
また合った。
怖い。
でも今は、その怖さに頼るしかない。
廊下の先から外の光が差し込んでいる。
そこを越えたら、たぶん本当に始まる。
祝家荘も梁山泊も、許嫁もこれから向かう戦も、アタシには何ひとつ分からない。
それなのに、この身体だけはアタシよりずっと戦い方を知っているらしい。
アタシは一瞬だけ足を緩めた。
玉楼の気配が、ほんの少し前へ出る。
急かさない。
振り向かない。
ただ、流れが切れない場所にいる。
それだけで、もう一歩踏み出せた。
二人で進む。
外へ……
玉楼でございます。
「玉楼、三娘の身体を勝手に動かしたんだって?」
顧大嫂様が笑いました。
「わたくしは鎧をお着せしただけでございます」
孫二娘様が鍋を叩きます。
「腕を上げるタイミングまで合ってたんだろォ?」
幕舎の外から声が飛びました。
「そうなのよ! アタシより玉楼の方がアタシの扱いに慣れてるの!!」
「長くお仕えしておりますので」
「ほらァ! 取扱説明書みたいになってるよォ!」
「人を家電みたいに言うな!!」
甚だ妙な例えでございます。
ですが、あの朝、三娘様のお身体は鎧の重さにも、歩き方にも迷いませんでした。
顧大嫂様が酒の椀を置きます。
「じゃあ次は、本当に戦えるかだねぇ」
外が静かになりました。
そう――
それだけは、誰にも分からなかったのでございます。