扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜながら笑う。
「知らないわよ! 会って三秒で全身見られたのよ!」
顧大嫂が酒を吹いた。
「三秒ありゃ十分だったんだろ」
「何が十分なのよ!!」
「しかも玉楼まで見たんだって?」
「見た! 目をえぐるって言われても見てた!」
孫二娘が感心したように頷く。
「命よりスケベを優先したんだねェ」
「感心するな!!」
二人が笑う。
でも、本当に怖かったのは王英じゃない。
あいつが飛び込んできた瞬間、アタシは考えるより先に馬をかわしていた。
顧大嫂が笑うのをやめる。
「……身体が?」
「そう」
戦い方なんて知らない。
なのに――
扈三娘の身体は、もう戦いを始めていた。
屋敷から出ると、空気が変わった。
夜明けにはまだ少し早いらしく、冷えた風が頬へまっすぐ当たる。
目の前には庭――
と呼ぶには物騒すぎる光景が広がっていた。
馬が何十頭も並び、その間を武装した男たちが行き来している。
槍の穂先が松明の光を弾き、弓を背負った兵の間では、鎧と旗が風に揺れている。
金具が触れ合う音と馬の鼻息が重なり、さっきまでいた静かな部屋が別世界だったように思える。
いや、こっちが本来の世界なのかもしれない。
アタシが知らなかっただけで……
広場へ出た途端、何人もの顔がこちらへ向いた。
誰も驚かない。
それどころか、待ってましたと言わんばかりに姿勢を正す。
やめて――
その期待に満ちた目をアタシへ向けないで。
今日初めて鎧を着た女よ?
すると左手から、一頭の白い馬が引かれてきた。
大きい。
会社帰りに見かける乗馬クラブの広告とは迫力が違う。
当たり前だけど生きているし、近いし、鼻から息も出ている。
「……これ、乗るの?」
誰に聞いたのか分からなかった。
玉楼が当然のように答える。
「はい」
またそれ……
何を聞いても「はい」で地獄への扉を開けるのやめてくれない?
兵が手綱を差し出す。
アタシは受け取った。
その瞬間だった。
指が勝手に位置を決める。
馬の顔を見て、首筋へ手を添え、鐙の位置を確認する。
一連の動きを「こうするのかな」と考える暇すらなかった。
左足が鐙へ入った。
地面を蹴る。
身体が持ち上がり、気づけば鞍の上にいた。
「……乗れた」
自分で言って、自分で驚く。
馬も驚いていない。
むしろ「今さら何言ってんだ」という態度で前を向いている。
困る。
馬にまで経験者扱いされてる。
鞍は固く、高さもある。
落ちたら普通に痛いどころでは済まなそうなのに、不思議と怖くなかった。
腰が勝手に位置を探し、膝が締まり、背筋が伸びる。
手綱を持つ手にも力が入りすぎていない。
「……身体だけ経験者、本当に継続中なのね」
横を見る。
いつの間に乗ったのか、玉楼が馬を並べていた。
「何か仰いましたか?」
「こっちの話」
もう便利な言葉になってきた。
玉楼は前へ向き直ると、さっきまでアタシへ衣を掛けていた女と同一人物とは思えない声を張った。
「祝家荘へ向かいます!」
広場の空気が一気に締まる。
「梁山泊を討つ!」
兵たちが応じた。
「おおっ――!」
腹に響く。
アタシだけ声を出し損ねた。
当たり前だ。
梁山泊が何なのか、まだ思い出せていない。
ただ、ものすごく聞き覚えがある。
試験に出た単語なのに答えだけ出てこない時みたいで気持ち悪い。
「進め!」
玉楼の声と同時に馬列が動いた。
アタシの馬も歩き出す。
「え、ちょ――」
待ってくれない。
慌てて手綱を握ったが、身体はもう揺れに合わせていた。
一歩ごとの衝撃を腰と膝で逃がし、馬の首の動きに合わせて手をわずかに動かす。
前の馬との間隔が縮めば自然に抑え、開けば少し促す。
できる。
怖いくらい普通にできる。
自転車より考えてない。
「何これ……」
玉楼が横目だけをこちらへ向ける。
「何か?」
「何でもない」
今のアタシにとって、何でもないことが一つもない。
屋敷を離れると、道はすぐ暗くなった。
月明かりと松明だけを頼りに、隊列は野を進んでいく。
前後には兵がいるのに、余計な声はほとんど聞こえなかった。
それでも不安はない。
馬が道を知っている。
身体も知っている。
そして隣には玉楼がいる。
玉楼が少し速度を上げれば、こちらも自然に合わせる。
道幅が狭くなれば互いの位置がずれ、広くなればまた並ぶ。
打ち合わせなんてしていない。
なのに一度もぶつからない。
「……アタシたち、前からこうやって走ってたの?」
思わず聞いた。
「はい」
「やっぱり?」
「何度も」
聞きたい。
何度って何回?
どこへ?
何しに?
でも質問すればするほど「扈三娘なら知っていること」を知らないのが露呈する。
昨日まで会社員だった人間に、昔の自分の履歴書を当てる試験をさせないでほしい。
風が強くなった。
土と草、それに遠くの水らしい匂いが混じって鼻へ入る。
知らない土地なのに、不意に懐かしいと感じた。
アタシじゃない。
身体の方だ。
この道を走ったことがあるのかもしれない。
そう思った途端、さっきまで気持ちよかった風が少しだけ怖くなる。
アタシの知らない扈三娘が、身体のあちこちから顔を出している。
玉楼や兄のことだけでなく、鎧の着方も馬の乗り方も、この身体はアタシより先に知っている。
だったら――
戦い方も?
考えたところで、前方の隊列が乱れた。
大きくはない。
二、三騎がわずかに外へ開いた程度だった。
けれど身体が先に反応する。
右手が手綱を引き、馬を半歩ずらした。
「何?」
答えの代わりに、地面を蹴る音がした。
馬じゃない。
人だ。
暗がりから小柄な影が飛び出し、隊列の隙間へ強引に入り込んでくる。
速い。
背は低く、身体も大きくない。
それなのに足だけは異様に速く、兵が槍を向けるより先に中央へ食い込んできた。
狙いは――
アタシ!
「嘘でしょ!」
男の武器が振り上がる。
頭では避け方なんて分からない。
でも身体は知っていた。
手綱を引く。
白馬が斜めへ跳ねる。
重心が崩れない。
むしろ身体の方が先に、男との距離を測っている。
同時に玉楼が馬を寄せた。
刃が走る。
男の一撃を正面から受けず、外へ逸らす。
金属音が弾けた。
次の瞬間には周囲の兵も動いていた。
男の逃げ道が塞がれる。
それでも男は怯まない。
むしろ嬉しそうに笑った。
「へえ」
その声と一緒に、視線がアタシへ貼りついた。
顔を見る。
そこで終わらない。
首元から鎧の胸当てへ落ち、腰のあたりで一度止まり、そのまま鞍へ掛かる脚まで舐めるように下がっていく。
ぞわっとした。
斬りかかられた時より気持ち悪い。
男はまた視線を上げると、今度はゆっくり顔を見た。
「こいつぁ驚いた」
何が?
「祝家荘にこんな上玉がいたとはな」
アタシは黙って見返した。
戦場で初対面の女へ言う台詞じゃない。
というか、今アンタ、アタシを斬ろうとしたよね?
「俺を知らねえ顔だな」
知らないわよ。
男は胸を張った。
「矮脚虎の王英様だ」
あ、王英。
何か引っかかった。
梁山泊という名前より、もっと強く記憶に引っかかる。
どこかで聞いた。
でも思い出せない。
王英はそんなアタシの顔を見て、別の意味に受け取ったらしい。
「どうした? 俺に見惚れたか?」
違う。
記憶検索中。
しかも検索結果ゼロ。
アタシが答えないと、王英はますます調子に乗った。
「まあ、無理もねえ。それにしても近くで見ると本当に上物だな。顔だけじゃねえ」
また視線が落ちる。
今度は露骨だった。
鎧越しの胸元を眺め、腰へ移り、脚まで行ってから戻ってくる。
何往復する気?
「……ねえ」
声が自分でも驚くほど冷たくなった。
「何だ?」
「目、どこ見てんの?」
「見て悪いか? 良い女がいりゃ見るだろ」
開き直った。
最低だ。
しかも王英は、アタシだけで飽きなかったらしい。
横にいる玉楼へ目を向けた。
今度は玉楼の顔から胸元へ視線を落とし、腰を通って脚まで、あからさまに品定めするようにゆっくり眺めていく。
「お前もなかなか――」
最後まで言わせなかった。
玉楼の顔から、さっきまでの穏やかさが消えた。
「その目をおやめなさい」
「目ぐらいいいだろ」
「おやめなさいと申し上げました」
「へえ。怒った顔も悪くねえな」
王英は笑いながら、また玉楼の身体へ視線を這わせた。
何なのこいつ。
命惜しくないの?
いや、惜しくないんだろうな。
たぶん欲望が安全確認より先に動く種類の人間だ。
王英の目が再びアタシへ戻った。
「そっちの姫さんも気が強そうでいい。祝彪なんぞにくれてやるには惜しいじゃねえか」
「は?」
何で祝彪まで知ってるのよ。
「俺ならもっと――」
「黙れ」
口から出た。
アタシが言ったのか、この身体が言わせたのか分からない。
王英が楽しそうに歯を見せる。
「いいねえ……その顔だ。さっきから澄ましてやがるが、怒るともっと――」
前へ出ようとした。
今度はアタシの意思だった。
気持ち悪い。
一発殴りたい。
ところがアタシより先に玉楼が動いた。
馬から滑るように降り、王英の進路へ入る。
王英が武器を返す。
玉楼は刃をまともに受けず、腕の内側へ入り込んだ。
肘がずれる。
踏み込んだ王英の身体だけが前へ流れる。
「うおっ?」
足を払われた。
王英が地面へ転がる。
兵たちが一斉に飛びかかった。
腕を取る。
背中を押さえる。
縄が回る。
あっという間だった。
「待て待て待て! 五人がかりは卑怯だろ!」
最初に隊列へ一人で突っ込んできた奴が何言ってんの?
縄がさらに締まる。
それでも王英は首だけを無理やり上げ、アタシを探した。
目が合う。
笑った。
「近くで見てもやっぱり良いな。脚も――」
玉楼が一歩横へ出た。
視線を遮る。
「扈三娘様に、その目を向けるな」
静かな声だった。
怒鳴っていない。
だから余計に怖い。
「もう一度その目を向ければ、えぐり出しますよ」
王英が玉楼を見上げる。
普通ならここで黙る。
こいつは違った。
視線が玉楼の顔から胸元へ落ちる。
そこから腰へ。
まだ見るの?
「アンタも相当いい身体して――」
「黙りなさい!」
さすがの玉楼も叫んだ。
兵が縄を追加した。
「ちょ、増やすな! もう縛ってんだろ!」
「口も塞ぎますか?」
玉楼が兵へ尋ねる。
「待て、それは――」
布が入った。
静かになった。
最初からそうすればよかった。
王英は後方へ引きずられていく。
それでも身体をよじり、最後までこちらを見ようとしていた。
気持ち悪い。
本当に気持ち悪い。
「……何だったの、あれ?」
「梁山泊の頭領の一人かと」
玉楼が何事もなかったように馬へ戻った。
「頭領?」
「あれで?」
思わず二回聞いた。
玉楼は答えなかった。
否定しないらしい。
梁山泊、大丈夫?
人材採用どうなってるの?
隊列は再び動き始める。
王英一人を捕らえたくらいでは、誰も進軍を止める気はないらしい。
アタシも白馬を進める。
さっきの動きを思い返す。
王英が飛び込んできた時、考えるより先に馬をかわした。
怖くて固まらなかった。
逃げ方を、身体が知っていた。
本当に戦えるのかもしれない。
その可能性に安心するより先に、別の怖さが湧いてきた。
もし身体が全部知っているなら――
戦い始めた時、アタシはどこまでアタシのままでいられるんだろう。
前方に火が見え始めた。
祝家荘なのか?
梁山泊なのか?
まだ分からない。
ただ、さっきまでとは違う気配が近づいている。
空気が変わった。
理由はわからない。
前方から何かとてつもない圧が来る。
オーラみたいなもの、と言えばいいのか……
よく分からない。
でも、そこだけ空気が重い。
アタシが前を見ると、闇の中にひとつだけ動かない影がある。
近づいているはずなのに、距離の感覚が狂う。
速くもなく、遅くもない。
ただ、“そこにいる”感じだけが、強くなる。
玉楼でございます。
「玉楼、王英の目をえぐるって言ったんだって?」
顧大嫂様が笑いました。
「はい、必要であれば」
孫二娘様の手が止まりました。
「冗談じゃなかったのかい?」
「なぜ冗談を?」
幕舎の外から声が飛びます。
「そこよ!! 玉楼の怖いところ!!」
「三娘にあんな目を向ける方が悪いのでございます」
「玉楼にも向けてたけどねェ」
「ですので、二つともえぐればよろしいかと」
「増えた!!」
顧大嫂様が酒を吹きました。
甚だ失礼でございます。
結局、王英様は目ではなく口を塞がれ、後方へ送られました。
ですが、その直後でした。
三娘様が笑わなくなったのは。
「玉楼……前にいるの、誰?」
私も前を見ました。
闇の中に、一人。
王英様とは比べものにならない方が――
こちらを待っておられたのでございます。