扈三娘は生き残りたい!!!―水滸戦記― 作:Cima4910
孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。
「捕虜一日目の感想がそれかァ?」
「だって洗濯物干してるし、子供まで走ってるのよ! 山賊の本拠地で生活感出さないで!!」
顧大嫂が酒を吹いた。
「じゃあ怖くなかったのかい?」
「怖いわよ! 檻に入れられて縄まで二重よ!」
「二重は玉楼だけだろ?」
「そうだった!!」
孫二娘が笑う。
「林冲公認の危険物だからねェ」
「侍女の評価じゃないでしょ!!」
しかも梁山泊へ着いたら、その縄まで解かれた。
顧大嫂が首を傾げる。
「親切じゃないか」
「だから怖いの!」
殴られるなら警戒できる。
脅されるなら反発できる。
でも、あの男は笑いもせず言った。
「縄を解け」
――敵なのに、何で?
縄が、きつい――
手首へ食い込んだ麻縄が、少し動くだけで皮膚を擦る。
痛い。
さっき林冲に叩き落とされた背中も痛いし、肩も痛いし、腕なんてもう自分のものじゃないみたいに痺れている。
そして何より、両手が使えない。
つまり逃げられない。
つまり戦えない。
……いや、そもそもアタシ、今日の朝まで戦えることすら知らなかったんだけど。
人生の進行速度がおかしい。
起床、転生、婚約者発覚、出陣、変態遭遇、林冲に敗北、捕虜。
一日の予定表として詰め込みすぎでしょ。
「……痛っ」
縄が引かれ、思わず声が漏れた。
兵が振り向く。
一瞬だけ身構えた。
捕虜になった女がどう扱われるのか、知識なんてなくても嫌な想像くらいできる。
王英みたいなのが一人いたんだから、なおさらだ。
けれど兵は縄の位置を確認しただけで、身体へ触れようとはしなかった。
周囲の男たちも同じだった。
視線は来る。
でも王英のような、服の上から身体を舐め回す目じゃない。
敵ではあるが、もう戦う相手ではない。
逃げたり暴れたりしないか警戒する、ただの捕虜として見られていた。
ありがたい。
いや、捕虜になって「性的に見られないだけありがたい」と思ってる時点で状況は全然ありがたくないんだけど。
少し離れたところに林冲がいた。
蛇矛はもう構えていない。
それでも、こっちが何かすれば一瞬で終わらせられる距離にいる。
林冲の目が一度だけアタシへ向いた。
それから隣へ移る。
玉楼だ。
そこで視線が止まった。
アタシより長い。
「……?」
理由はすぐ分かった。
玉楼は両手を縛られているのに、立ち方がまったく崩れていなかった。
呼吸も整っている。
さっきまで林冲と打ち合い、そのあと何人もの兵を振り払った女には見えない。
兵が一人、玉楼の背後から縄を引こうとした。
次の瞬間だった。
玉楼が半歩だけ身体をずらした。
それだけ。
なのに兵の手が空を切り、身体が前へ泳ぐ。
周囲の槍が一斉に上がった。
「玉楼!」
アタシが叫ぶ。
玉楼は何もしていない顔で立っていた。
「何もしておりません」
いや、したでしょ。
完全に避けたでしょ。
林冲がこちらへ歩いてくる。
兵たちの緊張がさらに増した。
林冲は玉楼を見てから、短く言った。
「その女には、背後から近づくな」
「はっ」
「縄も二重にしろ。ただし腕を傷めるな」
待って。
何その扱い。
危険物?
玉楼が静かに林冲を見る。
「三娘様にも、乱暴はおやめください」
捕虜が条件を出した。
「玉楼、今それ言える立場!?」
「必要なことでございますので」
林冲は怒らなかった。
むしろ少しだけ玉楼を見て、それからアタシへ視線を移した。
「抵抗しなければ、傷つけぬ」
「……そう」
返事これで合ってる?
捕虜マナー講座なんて受けてないんだけど。
玉楼と目が合った。
彼女はほんの少しだけ頭を下げた。
戦いを続けるな。
たぶん、そういう意味だった。
さっきまで何人来てもアタシのところへ戻ろうとしていた玉楼が、自分から止まった。
そこでようやく実感した。
終わったんだ。
負けた。
もう屋敷へは戻れない。
祝家荘にも行けない。
というか、祝家荘がどんな場所なのかすら知らないまま、行き先だけが消えた。
何なの、この人生。
知らないところへ行こうとして、途中で知らない人たちに捕まって、今度は別の知らないところへ連れていかれる。
アタシの意思、どこ?
やがて檻付きの荷車が用意された。
「……檻?」
嫌な予感しかしない。
「お入りください」
兵が言った。
丁寧。
丁寧だけど内容は「檻に入れ」なのよ。
玉楼が先に入る。
縄を二重にされても、足取りは普通だった。
アタシも続く。
檻の床へ腰を下ろすと、背中の痛みが戻ってきた。
「痛っ……」
玉楼がすぐこちらを見る。
「お怪我が?」
「いっぱいある気がする」
「林冲殿の蛇矛は深く入っておりません。落馬の打ち身の方が重いかと」
「診断までできるの?」
「三娘様のお身体は、普段から見ておりますので」
それ、今聞くとちょっと怖い。
でも不思議だった。
同じ檻。
同じ捕虜。
同じ縄。
それなのに玉楼が隣にいるだけで、少し息がしやすくなる。
荷車が動き始めた。
林冲が前を行く。
一度も振り返らない。
なのに兵たちは彼の速度へ自然に合わせていた。
数刻ごとに誰かが報告へ来る。
林冲が短く答える。
それだけでまた隊列が動く。
……会社にいたわ。
こういう上司。
余計な会議をせず、必要なことだけ言って全部回す人。
ただし蛇矛で人を馬から落とす上司はいなかった。
いたら労基以前の問題だ。
道は長かった。
昼と夜が何度か入れ替わる。
檻の中では時間が妙に遅い。
逃げようにも手は縛られているし、玉楼に目を向ければ、こちらの考えを読んだみたいに首を振られる。
一度だけ、見張りの兵が檻へ近づきすぎた。
玉楼が顔を上げる。
それだけで兵が止まった。
「……何で止まるの?」
「林冲殿より、近づくなと言われておりますので」
「玉楼、梁山泊で危険人物認定されてるじゃない」
「光栄ではございません」
そりゃそうだ。
でもちょっとだけ誇らしそうに見えるのは気のせい?
「ねえ、アタシたちどこへ連れていかれてるの?」
何日目かも怪しくなった頃、ようやく聞いた。
玉楼は周囲を見てから答えた。
「恐らく、梁山泊でございます」
「梁山泊……」
また胸の奥が引っかかる。
知ってる。
絶対知ってる。
林冲。
王英。
梁山泊。
ここまで揃ってるのに、何で出てこないの?
脳内のファイル名だけ並んで、中身が全部破損してるみたい。
「三娘様?」
「何でもない」
便利な言葉、まだ現役。
やがて水の匂いが濃くなった。
人の気配も増える。
遠くに柵と門が見え、その向こうにはいくつもの灯りが揺れていた。
想像していた山賊の巣と違う。
もっとこう、髑髏が刺さってるとか、酒瓶持った裸の男が歩いてるとか、そういう治安終了のお知らせみたいな場所を考えていた。
実際には、人が暮らしていた。
炊事の煙が上がり、洗濯物が風に揺れ、子供が走っている。
女も老人もいる。
家がある。
店らしいものまである。
「……街じゃん」
思わず呟いた。
玉楼がこちらを見る。
「何か?」
「こっちの話」
檻の荷車が中へ入ると、当然ながら注目を浴びた。
「扈三娘だ」
「あれが?」
「林教頭とやり合ったらしいぞ」
「隣の女もだ。何人も止めたって」
待って。
噂の拡散速度どうなってるの?
SNSないよね?
というか玉楼まで有名になってる。
玉楼はまったく気にしない。
背筋を伸ばし、前を見たままだ。
一人の男が檻へ寄り、覗き込もうとした。
玉楼が顔だけそちらへ向けた。
男が止まった。
さらに一歩下がった。
「……玉楼」
「はい」
「何もしてないわよね?」
「見ただけでございます」
何その圧。
林冲より別方向で怖い。
道の先に、大きな建物が見えてきた。
そこへ近づくにつれ、周囲のざわめきが小さくなる。
階段の上には何人もの男が並んでいた。
誰が誰なのか分からない。
でも中央だけは分かった。
一人の男がいる。
派手ではない。
林冲みたいに、立っているだけで殺気が伝わってくるわけでもない。
むしろ穏やかそうだった。
なのに周囲の人間が、その男を中心に立っている。
林冲が前へ出た。
何かを報告する。
男が頷き、こちらを見る。
目が合った。
林冲とは違う。
王英とも違う。
武器を向けられている感じはしない。
身体を見られている感じもない。
なのに、なぜか落ち着かない。
この人、見てる。
顔じゃない。
鎧でも傷でもない。
アタシがどう反応するかを見ている。
「……扈三娘殿、か」
穏やかな声だった。
何て返すの?
「はい」でいい?
それとも名乗る?
自分の名前を今朝知った人間に正式な挨拶を要求しないでほしい。
黙っていると、男の視線が手首へ向いた。
赤く擦れた縄の跡。
そして玉楼を見る。
玉楼も男を見返した。
兵がわずかに緊張する。
分かる。
玉楼、縛られてても怖いもん。
男は少し考えるように目を細めた。
「縄を解け」
周囲が止まった。
「頭領、それは――」
「林教頭がここまで連れてきた者だ。今ここで暴れるなら、それまでよ」
頭領――
その言葉も引っかかった。
でも考える暇はない。
檻が開けられ、兵がアタシの縄を解く。
手首へ血が戻り、じんじんと痛んだ。
次に玉楼。
兵が明らかに慎重になる。
「そんなに怯えなくても、何もいたしません」
玉楼が言った。
いや、その台詞が一番怖いのよ。
縄が外れた。
次の瞬間、玉楼が半歩前へ出た。
兵たちの手が武器へ伸びる。
でも玉楼は何もしない。
アタシと中央の男の間へ、自然に身体を置いただけだった。
いつもの位置。
身体が覚えている、アタシを守る位置。
男はそれを見ていた。
怒らない。
止めもしない。
ただ少しだけ、興味深そうに玉楼を見てから、またアタシへ視線を戻した。
「……まずは、休まれよ。」
戦の後とは思えないほど、穏やかな声だった。
けれど―― その穏やかさが、 今のアタシには、 いちばん読めなかった。
玉楼でございます。
「玉楼、お前、縄が外れた瞬間に三娘の前へ出たんだって?」
顧大嫂様が酒を置きました。
「はい、自由になりましたので」
孫二娘様が鍋を叩きます。
「自由の使い道が護衛しかないのかよォ!」
幕舎の外から声が飛びました。
「しかもアタシより反応が速いの!!」
「当然でございます」
「当然なの!?」
顧大嫂様が笑います。
「梁山泊の兵まで玉楼に怯えてたらしいじゃないか」
「見ただけでございます」
「それで一歩下がらせるなァ!」
甚だ遺憾でございます。
ですが、私にも分からないことがございました。
捕らえた敵の縄を解き、三娘様が私の後ろへ下がることまで許したあの御方は、最後まで穏やかでした。
そして――
三娘様を、まるで捕虜ではない何かとして見ておられたのでございます。