事故で高校生活の記憶を失った温水和彦。
そんな彼の前に現れた八奈見、焼塩、小鞠、馬剃、白玉――そして彼女たちは、二人きりになると口を揃えてこう告げる。
「私たち、付き合ってたよ」

しかも全員、周囲には秘密の交際だったらしい。

……記憶喪失前の俺、いったい何をしてたんだ?

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第1話

第一章 空白

 

目を開けたとき、最初に見えたのは白い天井だった。

 

消毒液の匂い。

規則正しく鳴る機械音。

右腕には点滴の管がつながっている。

 

ここまで確認して、俺はもう一度目を閉じた。

 

たぶん病院だ。

 

問題は、どうして病院にいるのかまったく分からないことだった。

 

頭を動かすと、後頭部に鈍い痛みが走る。

 

「……事故?」

 

口に出してみても、何も続かない。

 

自分の名前は分かる。

 

温水和彦。

 

家族のことも分かる。

両親も、妹のも。

 

住んでいる家も、中学までの記憶もある。

 

だけど、その先へ進もうとすると、記憶が途切れていた。

 

高校。

 

そこから先が、ない。

 

いや、知識としてはある。

 

俺は高校生になったはずだ。

たぶん。

 

でも、どこの高校に進学したのか。

 

何組なのか。

 

誰と付き合いがあるのか。

 

何をして毎日を過ごしていたのか。

 

何ひとつ思い出せない。

 

扉の向こうから足音が聞こえた。

 

すぐにドアが開く。

 

「お兄様!」

 

佳樹が飛び込んできた。

 

その顔を見た瞬間、ようやく全身から力が抜けた。

 

知っている人だ。

 

その事実が、思った以上にありがたかった。

 

「佳樹」

 

名前を呼ぶ。

 

佳樹の足が止まる。

 

「……はい」

 

「俺、なんで病院にいるの?」

 

数秒。

 

佳樹は俺の顔をじっと見つめてから、唇をきゅっと結んだ。

 

「お医者様を呼んできます」

 

「え、ちょっと――」

 

逃げるように病室から出ていった。

 

その反応で、あまりいい状態ではないことだけは分かった。

 

 

診断の説明は、思ったより簡単だった。

 

事故で頭を強く打った。

 

検査上、生命に関わる異常はない。

 

ただし、いわゆる逆行性健忘が起きている可能性が高い。

 

特に、高校に入学してから現在までの記憶がほぼ失われている。

 

無理に思い出そうとせず、日常生活に戻りながら様子を見る。

 

「時間とともに戻る可能性はあります。ただ、いつ戻るかは分かりません」

 

医師がそう説明した。

 

俺としても、はいそうですかとしか言いようがない。

 

高校生活が丸ごと消えた。

 

普通なら大問題だ。

 

だが。

 

俺は中学時代の自分を知っている。

 

友達は少ない。

 

放課後はだいたい一人。

 

休日も一人。

 

人間関係の記憶が消えたところで、復旧作業はそれほど大変ではないんじゃないだろうか。

 

そう考えていた。

 

翌日の午後までは。

 

 

「温水くん!」

 

病室の扉が勢いよく開いた。

 

青みがかった髪の女子が入ってくる。

 

手には大きな紙袋。

 

顔を見ても、記憶は反応しない。

 

俺が黙っていると、彼女はベッドの横まで来て、俺の顔を覗き込んだ。

 

「……ほんとに?」

 

「何が?」

 

少女の表情が止まる。

 

「私が誰か分からない?」

 

「ごめん」

 

「…………」

 

紙袋を持つ手が下がった。

 

その瞬間だけ、ひどく傷ついた顔をした。

 

けれど、それはすぐ消えた。

 

「そっか」

 

彼女は椅子を引き寄せる。

 

「八奈見杏菜。同じ学校で、同じ学年」

 

「八奈見さん」

 

「そこはすぐ定着するんだ」

 

「名前を聞いた直後だからね」

 

「記憶喪失の人の返しじゃないなあ」

 

知らないはずなのに、妙に会話がしやすい。

 

変な感じだ。

 

八奈見さんは紙袋からゼリー飲料を取り出した。

 

二本。

 

三本。

 

四本。

 

その下からプリン。

 

さらにサンドイッチ。

 

「……見舞い?」

 

「そうだよ?」

 

「俺、一人分だよね」

 

「病院のご飯だけじゃ足りないかと思って」

 

「俺が?」

 

八奈見さんが一瞬黙る。

 

「……私が」

 

「見舞われる側の食料を食べる前提なんだ」

 

「だって温水くん、まだ食欲ないでしょ?」

 

「その情報はどこから」

 

「長い付き合いだから分かるの」

 

言ったあと、八奈見さんは少しだけ目を逸らした。

 

長い付き合い。

 

その言葉だけが、妙に残った。

 

そこへまた扉が開いた。

 

「ぬっくん!」

 

今度は日焼けした少女が飛び込んでくる。

 

「ちょ、檸檬ちゃん! 病院なんだから静かにしなよ」

 

「分かってるって。ぬっくん大丈夫!?」

 

「声!」

 

檸檬ちゃんと呼ばれた子は、俺のすぐそばまで来た。

 

「……あれ?」

 

俺の顔を見て、首を傾げる。

 

「ぬっくん?」

 

「えっと……檸檬さん?」

 

八奈見さんが小さく息を呑んだ。

 

「マジなんだ……」

 

「何が?」

 

「ううん」

 

少女は一歩下がった。

 

さっきまでの勢いが消えている。

 

「焼塩檸檬。クラスは違うけど、友達」

 

「よろしく」

 

「よろしくって……」

 

困ったように笑う。

 

その笑顔を見ると、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。

 

思い出せない。

 

次に来たのは、小柄な少女だった。

 

ドアの隙間から顔だけを出し、病室内を確認する。

 

「……ひ、人、多すぎ」

 

「小鞠、来たんだ」

 

「わ、悪いかよ」

 

少女は紙袋を胸に抱きしめている。

 

俺と目が合う。

 

固まった。

 

「小鞠知花」

 

八奈見さんが先に紹介した。

 

「同じ文芸部」

 

「文芸部?」

 

俺は思わず聞き返した。

 

「俺、部活入ってたの?」

 

「そこから!?」

 

小鞠が大声を出し、慌てて口を押さえた。

 

「俺の記憶だと、部活なんか入るタイプじゃないんだけど」

 

「し、知ってる」

 

「知ってるんだ……」

 

さらに数分後。

 

今度は一年生らしい少女が現れた。

 

「失礼しまーす」

 

病室に入るなり、俺を見る。

 

それから八奈見さん、焼塩、小鞠と順番に見て、すぐに状況を理解したようだった。

 

「ほんとに忘れちゃってるんですね」

 

「君も知り合い?」

 

「はい。白玉リコです」

 

にこりと笑う。

 

「部長さんにはいつもお世話になってます」

 

「部長?」

 

俺は八奈見さんを見る。

 

「俺、部長なの?」

 

「一応ね」

 

「一応って何」

 

「肩書きとしては」

 

小鞠がぼそっと言う。

 

「仕事は……まあ……」

 

「記憶がない俺にまで評価低くない?」

 

白玉さんが楽しそうに笑った。

 

その笑い方だけ、妙に警戒心を刺激する。

 

最後に来たのは、制服をきっちり着た女子だった。

 

彼女は病室に入ると、一瞬足を止めた。

 

俺を見る。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

返事をすると、その人の肩がわずかに揺れた。

 

「……馬剃天愛星です」

 

「あ、はい」

 

「生徒会でお世話に――」

 

そこで止まる。

 

「……いえ」

 

一度言い直した。

 

「学校で交流があります」

 

その声は落ち着いていた。

 

でも、指先だけが少し強く鞄の持ち手を握っていた。

 

八奈見さんが馬剃さんを見る。

 

馬剃さんも八奈見さんを見る。

 

焼塩が二人を見る。

 

小鞠は俺から目を逸らす。

 

白玉さんだけが、全員の顔を順番に眺めていた。

 

何なんだろう。

 

この空気。

 

「……えっと」

 

俺は五人を見回した。

 

「俺、高校で何してたの?」

 

誰も即答しなかった。

 

それが一番怖かった。

 

第二章 正しい説明係

 

退院して最初の登校日は、綾野が迎えに来た。

 

綾野光希。

 

中学の同級生。

 

今回、数少ない「顔を見ただけで分かる人間」だ。

 

学校の正門前で待っていた綾野を見たときは、本気で安心した。

 

「温水」

 

「綾野」

 

「ほんとに俺は分かるんだな」

 

「中学までの記憶はあるから」

 

「よかった」

 

綾野は昔と変わらず、妙にまっすぐな笑顔を見せた。

 

その隣に、小柄な女子が立っている。

 

「こちらは?」

 

「朝雲千早です」

 

女子はぺこりと頭を下げた。

 

「現在、綾野君と交際しています」

 

「そこまで説明するんだ」

 

「重要な人間関係ですので」

 

綾野がちょっと照れた。

 

俺の知ってる綾野に彼女がいる。

 

高校生活ってすごいな。

 

「温水君について、客観的な情報をいくつか整理してきました」

 

朝雲さんはタブレットを取り出した。

 

「助かります」

 

「まず所属は二年C組。文芸部部長。交友関係については――」

 

画面をスワイプする。

 

「平均的な男子高校生より、やや女性比率が高いです」

 

「やや?」

 

綾野が微妙な顔をした。

 

「朝雲、それはかなり控えめな表現じゃないか?」

 

「比較母集団によります」

 

俺は嫌な予感がした。

 

「俺ってそんなに女子と話してた?」

 

「話してたな」

 

「温水君本人は、ほぼ全員を『友達という分類に入れてよいか判断が難しい相手』として扱っていました」

 

「それは何となく分かる」

 

「分かるんですか?」

 

「俺ならそう考える」

 

自分の性格まで記憶喪失になったわけではないらしい。

 

学校を案内される。

 

教室。

 

廊下。

 

購買。

 

中庭。

 

生徒会室。

 

文芸部の部室。

 

場所そのものを見ても、まだ何も思い出さない。

 

ただ。

 

文芸部の扉を見たときだけ、妙な感覚があった。

 

知らないはずなのに。

 

開け方を知っている気がした。

 

「ここ」

 

綾野が言う。

 

「温水が一番長くいる場所じゃないか?」

 

「そうなの?」

 

「教室よりいるんじゃないですか」

 

朝雲さんが補足する。

 

俺は扉に手を掛けた。

 

ガラリと開く。

 

中には誰もいなかった。

 

本棚。

 

机。

 

椅子。

 

窓際のカーテン。

 

古いエアコン。

 

妙に生活感のある部屋だった。

 

そして――。

 

机の上に、菓子の袋が置いてある。

 

「……これは?」

 

「たぶん八奈見さん」

 

綾野が即答した。

 

「何で分かるの」

 

「八奈見さんだから」

 

説明になっていない。

 

朝雲さんも否定しない。

 

俺は袋を見つめた。

 

胸の奥が、また少しだけざわついた。

 

第三章 八奈見杏菜の場合

 

退院から三日目。

 

昼休み。

 

綾野と朝雲さんに学校のことを教えてもらっていると、教室の入口に八奈見さんが現れた。

 

「温水くん」

 

「あ、八奈見さん」

 

「今日、放課後空いてる?」

 

記憶喪失になってから、放課後に予定が入っていたことは一度もない。

 

「空いてるけど」

 

「じゃあ付き合って」

 

「どこに?」

 

「……その反応、ほんと温水くんだね」

 

八奈見さんは妙に疲れた顔をした。

 

 

放課後。

 

待ち合わせ場所に行くと、八奈見さん一人ではなかった。

 

長身の男子と、華やかな雰囲気の女子が一緒にいる。

 

女子の方が俺を見て、ぱっと笑った。

 

「温水くん、久しぶり!」

 

俺は一歩止まる。

 

それを見て、彼女の笑顔が少しだけ曇った。

 

「あ……そっか」

 

八奈見さんが言う。

 

「袴田草介と姫宮華恋」

 

男子が手を上げる。

 

「袴田だ。よろしく……っていうのも変だな」

 

女子――姫宮さんが俺の前に来た。

 

「杏菜から聞いたよ。大変だったね」

 

「ありがとうございます」

 

「温水くん、すごく他人行儀」

 

「すみません」

 

「謝らなくていいよ」

 

四人でファミレスに入った。

 

俺は記憶喪失前の学校生活について聞く。

 

袴田はかなり普通に教えてくれた。

 

姫宮さんも同じだ。

 

二人は恋人同士。

 

八奈見さんとは中学時代からの付き合いらしい。

 

話を聞いている途中で、姫宮さんが急に俺と八奈見さんを見比べた。

 

「そういえば、温水くんって杏菜とのことも忘れちゃったんだよね?」

 

八奈見さんのフォークが止まる。

 

「華恋?」

 

「うん?」

 

「何の話?」

 

「付き合ってたこと」

 

沈黙。

 

俺は八奈見さんを見る。

 

八奈見さんは姫宮さんを見る。

 

袴田が水を飲む。

 

「……え?」

 

俺が声を出すと、八奈見さんが勢いよく立ち上がった。

 

「ちょっと華恋!?」

 

「え?」

 

姫宮さんが目を丸くする。

 

かなり演技が上手い。

 

「何言ってんの!?」

 

「だって」

 

姫宮さんは袴田を見る。

 

「そうだよね、草介?」

 

一瞬。

 

袴田の目が泳いだ。

 

「……まあ」

 

八奈見さんの目が見開かれる。

 

「草介まで!?」

 

「温水と杏菜、付き合ってただろ」

 

言った。

 

言い切った。

 

「付き合ってないから!」

 

八奈見さんが即座に否定する。

 

俺は三人を見る。

 

誰が本当のことを言っているのか分からない。

 

姫宮さんは口元を押さえている。

 

「えー。でも二人いつも一緒だったし」

 

「それとこれとは別!」

 

「二人でご飯行ったり」

 

「友達でも行く!」

 

「二人で出掛けたり」

 

「友達でも行く!」

 

袴田が頷く。

 

「俺も付き合ってると思ってた」

 

「草介!」

 

八奈見さんの顔が赤くなる。

 

俺は少し考える。

 

「つまり、付き合ってなかった?」

 

「そう!」

 

「付き合ってたよ」

 

姫宮さん。

 

「付き合ってただろ」

 

袴田。

 

「どっちだよ」

 

「温水くんは気にしなくていいから!」

 

八奈見さんはそう言い切った。

 

 

帰り道。

 

袴田と姫宮さんは先に帰った。

 

俺と八奈見さんだけになる。

 

しばらく無言だった。

 

「姫宮さんたち、何だったの?」

 

「知らない。あの二人たまに変なことするから」

 

「そうなんだ」

 

「気にしないで」

 

「分かった」

 

八奈見さんの足が止まった。

 

「……え?」

 

「ん?」

 

「それで終わり?」

 

「気にするなって言われたから」

 

「そうだけど」

 

八奈見さんは何か言いたそうにこちらを見る。

 

「温水くん」

 

「はい」

 

「……本当に何も覚えてないんだよね」

 

「うん」

 

「私と一緒に帰ったことも?」

 

「覚えてない」

 

「ご飯食べたことも」

 

「ごめん」

 

「別に謝らなくていいけど」

 

歩き出す。

 

数歩進んで、また止まった。

 

「あのさ」

 

「うん」

 

八奈見さんが前を向いたまま言った。

 

「さっきの話なんだけど」

 

「袴田たちの?」

 

「……半分だけ本当」

 

意味が分からない。

 

八奈見さんは俺を見ない。

 

「みんなには内緒だったから」

 

「何が?」

 

「だから」

 

深く息を吸う。

 

「私と温水くん、本当は付き合ってたの」

 

今度は俺が止まった。

 

「……え?」

 

「事故の前まで」

 

「でもさっき」

 

「人前で言えるわけないでしょ」

 

八奈見さんは早口になった。

 

「そもそも秘密にしてたんだから。華恋たちが勝手に気付いただけで」

 

「袴田も?」

 

「草介は……華恋経由じゃない?」

 

急に信憑性が下がった。

 

でも。

 

姫宮さんと袴田は、確かに付き合っていたと言った。

 

八奈見さん本人も、二人きりになってから認めた。

 

俺は高校生活を何も覚えていない。

 

否定する材料がない。

 

「そうだったんだ」

 

言うと。

 

八奈見さんが固まった。

 

「……信じるの?」

 

「俺、記憶ないし」

 

「もうちょっと疑いなよ」

 

「本人に言われたら信じるしかなくない?」

 

「…………」

 

八奈見さんは片手で顔を覆った。

 

「何」

 

「何でもない」

 

「じゃあ俺たち、事故の時点では恋人?」

 

「……まあ」

 

「今は?」

 

「知らない!」

 

「え」

 

「そういうのは記憶戻ってから考えればいいでしょ!」

 

急に怒られた。

 

「分かった」

 

「あと」

 

八奈見さんがこちらを見る。

 

「他の人には言わないでね」

 

「秘密だったから?」

 

「そう」

 

「了解」

 

八奈見さんは先に歩き出す。

 

耳が赤かった。

 

俺はその背中を見ながら考えた。

 

高校に入って、俺は彼女ができていたらしい。

 

中学時代の自分に教えたら、たぶん信じないだろう。

 

第四章 焼塩檸檬の場合

 

翌日。

 

体育の授業が終わったあと。

 

廊下を歩いていると、背後から声が飛んできた。

 

「ぬっくん!」

 

振り返る。

 

焼塩が走ってくる。

 

「今日、放課後暇?」

 

まただ。

 

「暇だけど」

 

「じゃ、ちょっと付き合ってよ」

 

俺は立ち止まった。

 

焼塩も止まる。

 

「……何?」

 

「いや」

 

八奈見さんとの会話が頭をよぎる。

 

「何でもない」

 

「変なぬっくん」

 

記憶喪失の人間に対する評価としてどうなんだ。

 

 

連れて行かれたのは、グラウンドだった。

 

陸上部の練習前らしい。

 

「ここ、よく来てた?」

 

「ぬっくんが?」

 

「うん」

 

「たまにね」

 

焼塩がトラックの端を歩く。

 

俺も横を歩く。

 

「何しに?」

 

「いろいろ」

 

「雑だなあ」

 

「あたしが走ってるの見たり」

 

「俺が?」

 

「うん」

 

「暇だったんだな」

 

焼塩が笑う。

 

「そういうこと言うとこ、変わってないね」

 

その言い方に、少し寂しさが混じった。

 

やがて校舎裏の自販機まで来た。

 

焼塩がスポーツドリンクを買う。

 

俺にも一本渡した。

 

「ありがとう」

 

「そこも変な感じ」

 

「何が?」

 

「ぬっくんに丁寧にお礼言われるの」

 

「普段の俺、礼儀ないの?」

 

「そういうんじゃなくてさ」

 

プルタブを開ける。

 

焼塩は少し考えてから、俺の隣のベンチに座った。

 

「八奈見さんたちから、何か聞いた?」

 

心臓が一瞬跳ねた。

 

「学校のことなら」

 

嘘ではない。

 

「そっか」

 

焼塩はペットボトルを両手で転がす。

 

「じゃあ、あたしのことも何も?」

 

「友達だったって聞いた」

 

「友達ね」

 

「違うの?」

 

沈黙。

 

焼塩が空を見る。

 

「……ぬっくん」

 

「うん」

 

「あたしたちさ」

 

そこで一度笑った。

 

妙にぎこちない。

 

「あたしたち、付き合ってたよ」

 

二日連続だった。

 

俺は何も言えなかった。

 

焼塩が横目で見る。

 

「驚いた?」

 

「かなり」

 

「まあ、そうだよね」

 

「八奈――」

 

危ない。

 

俺は飲み込んだ。

 

焼塩が首を傾げる。

 

「何?」

 

「何でもない」

 

危うく八奈見さんの話をするところだった。

 

本人から口止めされている。

 

「いつから?」

 

「えっと」

 

焼塩の視線が泳ぐ。

 

「少し前」

 

「少し前って?」

 

「細かいとこまで聞く?」

 

「普通聞くと思う」

 

「記憶喪失なのにそういうとこ細かいなあ」

 

「記憶喪失と関係ないでしょ」

 

焼塩は笑った。

 

でも額にうっすら汗をかいている。

 

走った後でもないのに。

 

「みんなには内緒だったんだ」

 

またその設定だ。

 

「どうして?」

 

「ほら、いろいろあるじゃん」

 

「具体的には?」

 

「いろいろ!」

 

押し切られた。

 

「……分かった」

 

「信じるの?」

 

焼塩まで同じことを聞く。

 

「俺には確認しようがないから」

 

「そっか」

 

焼塩は俯いた。

 

「……ごめん」

 

「何が?」

 

「何でもない」

 

顔を上げる。

 

「でもさ」

 

焼塩が笑う。

 

「今すぐ前と同じにしろとか、そういうのじゃないから」

 

「うん」

 

「まず普通に戻ろ」

 

普通。

 

今の俺には、その普通が分からない。

 

「そのうち思い出せばいいし」

 

「戻らなかったら?」

 

焼塩の笑顔が止まる。

 

数秒して。

 

「そんときは」

 

少しだけ体を前に倒した。

 

「もう一回、最初からでいいじゃん」

 

それだけ言うと立ち上がった。

 

「じゃ、あたし練習行くね!」

 

走っていく。

 

俺はベンチに残された。

 

恋人が二人になった。

 

……いや。

 

何かがおかしい。

 

記憶喪失前の俺は、何をしていたんだ。

 

第五章 小鞠知花の場合

 

その日の放課後。

 

俺は文芸部の部室に戻った。

 

焼塩は陸上部。

 

八奈見さんは用事があるらしい。

 

白玉さんもいない。

 

部室には小鞠だけだった。

 

パソコンに向かっている。

 

「こんにちは」

 

「……お、おう」

 

椅子に座る。

 

静かだ。

 

小鞠はキーボードを叩いている。

 

俺は本棚から適当に一冊抜いた。

 

読んでいるうちに、少し落ち着いてきた。

 

この空間は、なぜか居心地がいい。

 

何十分か経った。

 

「温水」

 

「ん?」

 

「……何読んでんだ」

 

「短編集」

 

「そこ、部の備品じゃなくておまえの」

 

「俺の?」

 

「……うん」

 

言われて背表紙を見る。

 

小さく名前が書いてあった。

 

温水和彦。

 

自分の文字だ。

 

何か思い出すかと思った。

 

でも何もない。

 

「小鞠」

 

「な、何」

 

「俺たちって、どれくらい仲良かった?」

 

キーボードの音が止まった。

 

「……普通」

 

「部員として?」

 

「そう」

 

「そっか」

 

再びキーを叩き始める。

 

十秒。

 

二十秒。

 

また止まる。

 

「……違う」

 

「え?」

 

小鞠がこちらを見る。

 

顔が赤い。

 

「ち、違う」

 

「何が」

 

「だ、だから……」

 

視線を逸らす。

 

「わ、わたしら……付き合ってた」

 

三人目。

 

俺は本を閉じた。

 

「恋人として?」

 

「そ、それ以外何があんだよ!」

 

確認したら怒られた。

 

「いつから?」

 

「……最近」

 

「どれくらい」

 

「し、知らねえ!」

 

「本人が知らないの?」

 

「うるせえ!」

 

小鞠が机を叩いた。

 

「そ、そういう細かいこと聞くな!」

 

「重要だと思うけど」

 

「死ね!」

 

そこまで言われることだろうか。

 

小鞠は顔を真っ赤にしたまま俯く。

 

「……だ、誰にも言ってねえから」

 

また秘密。

 

「八奈見さんにも?」

 

肩がびくっと動いた。

 

「な、なんでそこで八奈見なんだよ」

 

「部活一緒だし」

 

「……言ってねえ」

 

「焼塩にも?」

 

さらにびくっとする。

 

「言ってねえ!」

 

「白玉さんは」

 

「い、言ってねえって!」

 

質問するほど様子がおかしくなる。

 

ただ。

 

俺には小鞠が嘘をついているのか、元々こういう人なのか判断できない。

 

「分かった」

 

「……信じんのか」

 

「本人が言ってるから」

 

「……バカ」

 

小さく呟く。

 

俺は聞かなかったことにした。

 

小鞠はまたパソコンへ向かう。

 

しばらくして。

 

「……別に」

 

声がした。

 

「今すぐ、何かしろって話じゃねえから」

 

「うん」

 

「お、おまえ、記憶ねえし」

 

「うん」

 

「だから……」

 

小鞠は画面を見たまま。

 

「まず、戻せ」

 

「記憶を?」

 

「……そう」

 

「努力する」

 

「努力で戻んのかよ」

 

「分からない」

 

「バカ」

 

今日二回目だった。

 

帰り際。

 

俺は真剣に考えた。

 

三股。

 

記憶喪失前の俺。

 

かなり最低な奴だったんじゃないだろうか。

 

第六章 馬剃天愛星の場合

 

翌日の昼。

 

教室に馬剃さんが来た。

 

「温水さん。少しお時間よろしいでしょうか」

 

「はい」

 

彼女はいつも姿勢がいい。

 

病院で会ったときからそうだ。

 

けれど、俺と話すときだけ若干緊張しているように見える。

 

「生徒会室までお願いできますか」

 

連れて行かれる。

 

中には誰もいなかった。

 

馬剃さんは俺に椅子を勧め、自分は向かいに座った。

 

机の上には書類が数枚。

 

「これは?」

 

「温水さんが以前、生徒会活動に協力してくださった際の資料です」

 

俺の名前がある。

 

確かに自分の筆跡らしい。

 

「本当にいろいろやってたんだな」

 

「はい」

 

馬剃さんの返事は短い。

 

「……馬剃さん?」

 

「はい」

 

「何か話があるんじゃないですか」

 

肩が微かに揺れる。

 

「どうしてそう思われたのですか」

 

「書類見せるだけなら、教室でもできたから」

 

「…………」

 

馬剃さんは膝の上で手を組んだ。

 

一度深呼吸する。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「事故以前の私たちの関係について、お伝えしておくべきことがあります」

 

嫌な予感しかしない。

 

「何でしょう」

 

「私と温水さんは」

 

目を閉じる。

 

そして。

 

「交際していました」

 

四人目。

 

俺は天井を見た。

 

「……温水さん?」

 

「すみません」

 

「体調が?」

 

「体調は大丈夫です」

 

人間性の方が不安になっているだけだ。

 

「それは、その」

 

俺は慎重に言葉を選ぶ。

 

「周囲には?」

 

「公表していません」

 

またか。

 

「どうして?」

 

「生徒会活動への影響を考慮したためです」

 

今までで一番もっともらしい理由だった。

 

「なるほど」

 

「…………」

 

「どうしました?」

 

「いえ」

 

馬剃さんが視線を伏せる。

 

「私の説明を、ずいぶん容易に信用されるのですね」

 

三人にも言われた。

 

「俺、何も覚えてないので」

 

「そうですね」

 

彼女の表情が曇る。

 

「……その通りです」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「俺は事故前、ちゃんとした人間でした?」

 

かなり切実な質問だった。

 

馬剃さんの目が見開かれる。

 

「なぜそのようなことを」

 

「何となく」

 

四股だったとは言えない。

 

「少なくとも」

 

馬剃さんは考える。

 

「私の知る温水さんは、誰かを意図的に傷つけるような方ではありません」

 

「そうですか」

 

「はい」

 

むしろ困った。

 

それなら四股は何なんだ。

 

「ただし」

 

「ただし?」

 

「極めて鈍感な面はあります」

 

「悪口?」

 

「事実です」

 

即答された。

 

記憶を失っても評価は変わらないらしい。

 

別れ際。

 

馬剃さんが深く頭を下げた。

 

「記憶が戻るまで、この件を他の方へ話す必要はありません」

 

「秘密だったから?」

 

「……はい」

 

顔を上げた。

 

「お願いいたします」

 

「分かりました」

 

馬剃さんが去っていく。

 

俺は生徒会室に一人残った。

 

四人。

 

八奈見杏菜。

 

焼塩檸檬。

 

小鞠知花。

 

馬剃天愛星。

 

四人全員が、俺と秘密に付き合っていたと言う。

 

俺は机に突っ伏した。

 

記憶は戻ってほしい。

 

ただし。

 

戻った瞬間に社会的に死ぬ可能性が出てきた。

 

第七章 白玉リコの場合

 

白玉さんからメッセージが来たのは、その日の夜だった。

 

『部長、明日ちょっとお時間いただけます?』

 

翌日の放課後。

 

部室へ行く。

 

中には白玉さんしかいなかった。

 

「お疲れ様です、部長」

 

「お疲れ様」

 

「だいぶ慣れました?」

 

「学校には」

 

「人間関係は?」

 

核心を突いてくる。

 

「まあ……それなりに」

 

「へえ」

 

白玉さんは笑った。

 

あまり深く追及してこない。

 

それが逆に怖い。

 

「今日は部長さんに見てもらいたいものがありまして」

 

スマホを取り出す。

 

「これです」

 

画面には写真。

 

俺と白玉さんが並んでいる。

 

「……俺?」

 

「はい」

 

「これ、どこ?」

 

「お出掛けした時です」

 

次の写真。

 

俺と白玉さんが店で向かい合っている。

 

次。

 

二人で歩いている。

 

次。

 

白玉さんが俺の腕にくっついている。

 

俺は固まった。

 

「動画もありますよ」

 

再生される。

 

画面の中の俺と白玉さんは、かなり距離が近い。

 

白玉さんが笑いながら何かを言う。

 

俺は困ったような顔で返している。

 

音声まである。

 

合成には見えない。

 

「これ……」

 

「はい」

 

白玉さんはスマホを伏せた。

 

「私と部長さん、付き合ってました」

 

五人目。

 

驚きより先に、疲労が来た。

 

「……そう」

 

「反応薄くないです?」

 

「いろいろあって」

 

「いろいろ?」

 

「記憶喪失になってから」

 

「なるほど」

 

白玉さんの目が細くなる。

 

ほんの一瞬。

 

何かを考えたようだった。

 

「ちなみに」

 

俺は聞く。

 

「これも秘密?」

 

「もちろんです」

 

即答。

 

「先輩方には?」

 

「内緒です」

 

やっぱり。

 

「何で?」

 

「部長、そういうの大っぴらにしたがらないじゃないですか」

 

俺は黙った。

 

それはものすごく納得できる。

 

「それに」

 

白玉さんは身を乗り出す。

 

「私、一年生ですし」

 

「それが?」

 

「部長さんって、余計な噂とか苦手じゃないですか?」

 

これも分かる。

 

「なるほど」

 

「信じました?」

 

「写真まであるからね」

 

「動画も」

 

「より悪い」

 

白玉さんは笑う。

 

だが、その目はこちらを観察していた。

 

「部長さん」

 

「何」

 

「他の人からも、変なこと言われてません?」

 

心臓が跳ねた。

 

「変なことって?」

 

「例えば」

 

白玉さんは頬杖をつく。

 

「事故前は特別な関係でした、とか」

 

俺は白玉さんを見る。

 

表情は笑っている。

 

「何でそう思うの?」

 

「何となくです」

 

「何となくで?」

 

「八奈見先輩、最近部長さんを見る時だけ挙動が変ですし」

 

「そう?」

 

「焼塩先輩は必要以上に明るいですし、小鞠先輩は部長さんと二人になるの避けてますし」

 

俺には分からなかった。

 

「馬剃先輩も病院で何か言いたそうでした」

 

白玉さんはスマホを弄る。

 

「皆さん、分かりやすいですよ」

 

「白玉さんは?」

 

「何がです?」

 

「分かりやすい?」

 

笑顔が深くなる。

 

「私は隠すの上手ですよ」

 

確かに。

 

「じゃあ」

 

俺は席を立つ。

 

「今日はありがとう」

 

「部長さん」

 

呼び止められる。

 

「この写真」

 

白玉さんがスマホを振る。

 

「消してほしいです?」

 

「何で?」

 

一瞬。

 

白玉さんの顔から笑みが消えた。

 

「……何でって」

 

「俺が覚えてないだけで、大事な写真だったんでしょ」

 

白玉さんが黙る。

 

「なら持ってればいいんじゃない」

 

「…………」

 

「じゃあまた明日」

 

部室を出る。

 

扉を閉める直前。

 

白玉さんが何か呟いた。

 

聞こえなかった。

 

 

部室に一人残った白玉リコは、しばらくスマホを見つめていた。

 

画面には、偽装彼氏役だったときの写真。

 

全部、本物だ。

 

一緒に出掛けたのも。

 

隣を歩いたのも。

 

腕を組んだのも。

 

動画の中で笑っているのも。

 

嘘なのは、ただ一つ。

 

二人の関係につけた名前だけ。

 

「……やっぱり」

 

リコは小さく呟いた。

 

部長の反応がおかしい。

 

驚き方が薄すぎる。

 

普通ならもっと狼狽する。

 

つまり。

 

既に誰かが似たようなことを言っている。

 

誰か。

 

では済まないかもしれない。

 

病室で見た先輩たちの顔を思い出す。

 

「みんな考えること一緒じゃないですか」

 

自分もその一人であることは棚に上げた。

 

第八章 家

 

夕食後。

 

俺は自室の机に向かっていた。

 

ノートを開く。

 

医師から勧められた「回復用ノート」だ。

 

思い出したこと。

 

人から教えられたこと。

 

場所。

 

人間関係。

 

全部書いておく。

 

ただし。

 

他人から教えられた情報は、必ず「本人申告」と書いておくよう言われている。

 

記憶と他人の証言を混同しないためだ。

 

俺はページを見る。

 

八奈見杏菜。

文芸部。

同学年。

本人申告――事故前まで交際。

 

焼塩檸檬。

陸上部。

友人。

本人申告――秘密の交際。

 

小鞠知花。

文芸部。

同学年。

本人申告――交際。

 

馬剃天愛星。

生徒会。

本人申告――交際。

 

白玉リコ。

文芸部一年。

写真・動画あり。

本人申告――交際。

 

書き終えた。

 

改めて見る。

 

「……最低だな」

 

本当に。

 

どうやって時間を作っていたんだ。

 

そこが一番不可解だ。

 

五人と秘密に付き合うなんて、コミュニケーション能力以前にスケジュール管理能力が必要だ。

 

中学時代の俺にはどちらもない。

 

高校生活で突然覚醒したのか。

 

「お兄様」

 

ノック。

 

俺は慌ててノートを閉じる。

 

「どうぞ」

 

佳樹が入ってくる。

 

トレーに紅茶とプリン。

 

「休憩になさってください」

 

「ありがとう」

 

佳樹が机の横に立つ。

 

じっと俺を見る。

 

「何?」

 

「いえ」

 

「何かあるでしょ」

 

「最近のお兄様、考え事が多いので」

 

「記憶喪失だからね」

 

「それだけでしょうか」

 

妹の勘は怖い。

 

「お兄様」

 

「はい」

 

「学校で何かございましたか?」

 

「特には」

 

「女の方ですか?」

 

何で分かる。

 

「違う」

 

「今、一瞬間がございました」

 

「記憶喪失だから処理速度が」

 

「お医者様は認知機能に問題はないと仰っていました」

 

逃げ道を塞がれた。

 

佳樹が俺のベッドに腰掛ける。

 

「高校に入ってからのお兄様のこと、佳樹が教えて差し上げましょうか?」

 

「助かる」

 

「まず」

 

佳樹は胸を張った。

 

「お兄様は佳樹の自慢のお兄様です」

 

「客観性ゼロだな」

 

「重要な事実です」

 

「はい」

 

「そして女性関係については」

 

俺は身構える。

 

「非常に健全です」

 

「……健全?」

 

「はい」

 

「例えば?」

 

「彼女を家へ連れてきたことなど一度もありません」

 

まあ五人全員秘密らしいし。

 

「休日も基本的に家にいらっしゃいます」

 

五股している人間の生活ではない。

 

「お兄様から女性の話が出ることも、ほぼございません」

 

「ほぼ?」

 

「八奈見さんたち文芸部の方や、ご友人のお話は時々」

 

「彼女の話は?」

 

「彼女?」

 

佳樹が首を傾げた。

 

「お兄様に?」

 

そこまで驚く?

 

「仮に」

 

「いません」

 

「即答」

 

「少なくとも佳樹は存じません」

 

当然だ。

 

全員秘密らしいから。

 

……本当に?

 

俺はプリンを見る。

 

五人全員が、同時に家族にも友人にも秘密にしたがった。

 

そんなことあるのか。

 

「お兄様?」

 

「何でもない」

 

「何か隠していらっしゃいます?」

 

「何も」

 

佳樹がじっと見つめる。

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

嘘をついている罪悪感がある。

 

ただ。

 

俺はまだ言えなかった。

 

もし五人の話が本当なら。

 

俺の過去を他人に話す資格なんて、記憶のない今の俺にはない。

 

第九章 少しずつ、本当のもの

 

それから数日。

 

奇妙な生活が続いた。

 

朝は綾野と登校することが増えた。

 

朝雲さんは、俺の記憶回復のために「刺激になりそうな場所」をリスト化してくれた。

 

「過去に頻繁に訪れた場所を巡る方法は有効かもしれません」

 

「俺がよく行ってた場所って?」

 

「文芸部、購買、図書室、ファミリーレストラン、コンビニエンスストア――」

 

綾野が笑う。

 

「食べ物関係多いな」

 

「八奈見さんとの同行記録が多いためです」

 

八奈見さんの名前が出る。

 

俺は表情を変えない。

 

「どうして同行記録が分かるの?」

 

「私が目撃しています」

 

「なるほど」

 

「また、焼塩さんとは――」

 

「ちょっと待って」

 

「はい?」

 

「人間関係は少しずつでいいです」

 

五人分を一度に整理したら頭がおかしくなる。

 

朝雲さんは素直に頷いた。

 

「分かりました」

 

綾野が俺を見る。

 

「温水、何か悩んでる?」

 

「記憶喪失」

 

「それ以外で」

 

鋭い。

 

「ない」

 

「そうか」

 

それ以上聞いてこない。

 

助かる。

 

綾野は昔からこうだった。

 

妙なところで素直で。

 

だからこそ、変に踏み込んでこない。

 

 

昼休み。

 

焼塩に誘われて校庭へ行く。

 

「ここ覚えてない?」

 

「まだ」

 

「そっか」

 

焼塩がフェンスにもたれる。

 

「じゃあ、走ってるとこ見る?」

 

「何でそれで記憶が戻るの」

 

「前も見てたから」

 

「どれくらい?」

 

「たまに」

 

「恋人なのに?」

 

焼塩の表情が固まった。

 

しまった。

 

二人きりだからと油断した。

 

「……あー」

 

焼塩が頬を掻く。

 

「そういう日もあるじゃん」

 

「そういうもの?」

 

「あたしに聞かれても」

 

本人だろ。

 

でも。

 

焼塩が走り出すと。

 

不思議な感覚がした。

 

知っている。

 

フォーム。

 

腕の振り。

 

足音。

 

俺はこれを見たことがある。

 

「……焼塩」

 

止まって振り返る。

 

「何?」

 

「たぶん、見たことある」

 

一瞬。

 

焼塩の顔が明るくなる。

 

「マジ!?」

 

「でも何も思い出せない」

 

「そっか」

 

それでも嬉しそうだった。

 

「いいじゃん。ちょっとずつで」

 

走って戻ってくる。

 

「ぬっくん」

 

「何」

 

「さっきのこと」

 

「さっき?」

 

「恋人だからとか、そういうの」

 

焼塩が靴の先で地面を擦る。

 

「無理して考えなくていいから」

 

「うん」

 

「今は」

 

一瞬言葉を切る。

 

「普通に、あたしのこと思い出してよ」

 

その言い方だけは。

 

嘘には聞こえなかった。

 

 

部室では、小鞠が原稿を見せてきた。

 

「これ、前におまえが読んだ」

 

「俺が?」

 

「感想……書いてある」

 

プリントの余白。

 

俺の字。

 

《ここ、急すぎる》

 

《この会話は前の場面とつながってない》

 

《主人公が急に素直になりすぎ》

 

読んでいく。

 

「俺、結構言うね」

 

「う、うるせえくらいな」

 

「ごめん」

 

「謝んな」

 

小鞠がプリントを取り上げる。

 

「でも」

 

「何?」

 

「……ちゃんと読んでた」

 

その声は小さい。

 

俺は紙を見る。

 

記憶は戻らない。

 

でも。

 

この文字を書いた自分が、目の前の少女の文章を何度も読んでいたことは分かる。

 

「小鞠」

 

「な、何」

 

「俺たちって」

 

小鞠がびくっとする。

 

「部活では仲良かったんだね」

 

「……まあ」

 

恋人だったとは聞かない。

 

小鞠も言わない。

 

しばらくして。

 

「温水」

 

「うん」

 

「……前の話」

 

「付き合ってたって?」

 

小鞠の顔が真っ赤になる。

 

「声に出すな!」

 

「二人しかいないよ」

 

「そ、そういう問題じゃねえ!」

 

怒鳴ったあと。

 

小鞠は俯いた。

 

「……今は、考えなくていい」

 

それだけ言った。

 

 

馬剃さんとは、生徒会の資料整理をした。

 

彼女は必要以上に俺へ近づかない。

 

二人きりでも。

 

むしろ、交際していたと聞かされる前より距離が遠いように感じる。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「俺たち、本当に恋人だったんですよね」

 

手が止まった。

 

「……はい」

 

少し間があった。

 

「じゃあ」

 

俺は机の距離を見る。

 

「こんな感じだったんですか?」

 

「どのような意味でしょうか」

 

「距離」

 

馬剃さんの顔が赤くなる。

 

「それは……」

 

「もっと近かった?」

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「記憶回復と無関係な質問は控えてください」

 

怒られた。

 

でも。

 

答えなかった。

 

馬剃さんが書類を揃える。

 

「温水さん」

 

「何でしょう」

 

「以前のあなたが、どのような人物だったか」

 

視線は書類に向いたまま。

 

「私から説明することはできます」

 

「はい」

 

「ですが」

 

指が止まる。

 

「私の言葉だけで、以前のあなたを決めないでください」

 

「……どういうこと?」

 

「皆さんから聞いてください」

 

馬剃さんはそれ以上言わなかった。

 

第十章 回復ノート

 

事件が起きたのは、金曜日の放課後だった。

 

部室。

 

八奈見さん。

 

焼塩。

 

小鞠。

 

白玉さん。

 

俺。

 

珍しく全員揃っている。

 

馬剃さんは後から来る予定だった。

 

俺は机に回復ノートを置き、棚から本を取っていた。

 

「温水くん」

 

八奈見さんが俺のノートを見る。

 

「これ何?」

 

「病院で勧められた記録」

 

「見ていい?」

 

「ダメ」

 

「即答?」

 

「個人情報あるから」

 

「私の?」

 

「それも」

 

八奈見さんの手が止まる。

 

「……私の何を書いてるの?」

 

「個人情報」

 

「気になるんだけど」

 

「ダメ」

 

「ケチ」

 

俺はノートを鞄へ入れようとした。

 

その時。

 

焼塩が勢いよく立ち上がった。

 

「リコちゃん、それ取って!」

 

「え?」

 

白玉さんの投げたお菓子の袋が飛んでくる。

 

反射的に避ける。

 

肘が鞄に当たった。

 

ノートが床へ落ちる。

 

開く。

 

小鞠の足元。

 

「あ」

 

小鞠が拾う。

 

「ありがとう」

 

受け取ろうとした。

 

小鞠の動きが止まっている。

 

開かれたページを見ている。

 

顔から血の気が引いた。

 

「……おい」

 

「小鞠?」

 

「これ」

 

八奈見さんが覗く。

 

「何?」

 

次の瞬間。

 

八奈見さんも固まった。

 

焼塩が寄ってくる。

 

「どうしたの?」

 

「焼塩」

 

「ん?」

 

「……あんた」

 

八奈見さんの声が低い。

 

「何?」

 

「温水くんと付き合ってたの?」

 

終わった。

 

「え」

 

焼塩が固まる。

 

小鞠も。

 

白玉さんだけが、「あー」と小さく呟いた。

 

八奈見さんがページを指す。

 

「本人申告、交際って書いてあるんだけど」

 

「ちょ、八奈見さん!」

 

焼塩の顔が赤くなる。

 

「いや、待って!」

 

「何を待つの」

 

「八奈見さんこそ!」

 

焼塩がノートを奪う。

 

「え」

 

その目が文字を追う。

 

『八奈見杏菜――本人申告、事故前まで交際』

 

「……八奈見さん?」

 

「違う!」

 

八奈見さんが即答する。

 

俺は思わず言った。

 

「二人きりの時に本人から聞いたけど」

 

「温水くん!」

 

口に出してしまった。

 

まあ、もう遅い。

 

「お、おまえ……」

 

小鞠が震える指でページを見る。

 

そして自分の名前を見つけた。

 

「…………」

 

耳まで真っ赤になる。

 

焼塩も気付く。

 

「小鞠ちゃん!?」

 

「み、見るな!」

 

「え、小鞠ちゃんも!?」

 

「おまえが言うな!」

 

「八奈見さんもじゃん!」

 

「私は違う!」

 

「本人申告って書いてあるよ!」

 

「それは……!」

 

八奈見さんが俺を見る。

 

助けを求められても困る。

 

白玉さんが静かにノートを取った。

 

ページをめくる。

 

「あ」

 

自分の名前。

 

その下。

 

馬剃天愛星。

 

「やっぱり」

 

白玉さんが呟いた。

 

四人が彼女を見る。

 

「やっぱり?」

 

八奈見さんの目が細くなる。

 

白玉さんがにこりと笑う。

 

「皆さん、同じことしてたんですね」

 

「『皆さん』?」

 

焼塩が聞き返す。

 

白玉さんは自分の項目を指差した。

 

「私もです」

 

沈黙。

 

八奈見さんが立ち上がった。

 

「白玉ちゃん?」

 

「はい」

 

「どういうこと?」

 

「部長さんに、事故前は付き合ってましたってお伝えしました」

 

「何で!?」

 

「八奈見先輩に言われたくないですね」

 

「私は――」

 

「八奈見さんも言ったじゃん!」

 

焼塩。

 

「焼塩もでしょ!」

 

「小鞠ちゃんも!」

 

「お、おまえらと一緒にすんな!」

 

全員一緒だ。

 

その時。

 

部室の扉が開いた。

 

「失礼します」

 

馬剃さん。

 

一歩入る。

 

室内の空気を見て。

 

止まる。

 

白玉さんが笑顔でノートを持ち上げた。

 

「馬剃先輩」

 

「はい」

 

「事故前、部長さんと付き合ってたそうですね」

 

馬剃さんの顔が真っ赤になった。

 

完全に答え合わせが終わった。

 

第十一章 五人の彼女

 

五人が机を囲んでいる。

 

俺は少し離れた椅子に座っている。

 

裁判なら被告席だ。

 

ただし、被告が誰なのか分からない。

 

「まず」

 

八奈見さんが腕を組む。

 

「焼塩から説明して」

 

「何であたしから!?」

 

「言い出した順!」

 

「八奈見さんの方が先じゃん!」

 

「どうして知ってるの!」

 

「ノートの順番!」

 

「そんなの関係ないでしょ!」

 

小鞠が机を叩く。

 

「お、おまえらうるせえ!」

 

八奈見さんと焼塩が同時に小鞠を見る。

 

「小鞠ちゃんもでしょ」

 

「小鞠もじゃん」

 

「うるせえ死ね!」

 

馬剃さんは椅子に座ったまま俯いている。

 

「……申し訳ありません」

 

一人だけもう反省会に入っていた。

 

白玉さんは平然としている。

 

「ちなみに私は証拠までお見せしました」

 

「証拠?」

 

八奈見さんが反応する。

 

「写真と動画です」

 

「それ偽装彼氏の時のでしょ!」

 

言った。

 

部室が静かになる。

 

俺は白玉さんを見る。

 

「偽装彼氏?」

 

白玉さんが八奈見さんを見る。

 

八奈見さんが口を押さえる。

 

「……あ」

 

「八奈見先輩」

 

白玉さんの笑顔が怖い。

 

「そこまでご存じだったんですね」

 

「いや、その」

 

俺はスマホの写真を思い出す。

 

「つまり」

 

白玉さんを見る。

 

「俺たちは付き合ってなかった?」

 

「…………」

 

「白玉さん」

 

「形式的には」

 

「形式的に?」

 

「私の彼氏役でした」

 

「役」

 

「はい」

 

「じゃあ、交際してたっていうのは」

 

「嘘です」

 

あっさり認めた。

 

「ごめんなさい」

 

頭を下げる。

 

八奈見さんが勝ち誇ったように息を吐く。

 

「ほら!」

 

白玉さんが顔を上げる。

 

「八奈見先輩もですよね?」

 

「私は……」

 

焼塩が見る。

 

小鞠が見る。

 

馬剃さんも見る。

 

俺も見る。

 

八奈見さんの顔が赤くなる。

 

「……あれは」

 

「本人申告です」

 

俺が言う。

 

「温水くんは黙ってて!」

 

なぜ。

 

「だって華恋と草介が変なこと言うから!」

 

「でも二人きりになったあと、八奈見さん本人が」

 

「黙って!」

 

もう無理だ。

 

「八奈見さん」

 

俺は真面目に聞く。

 

「本当は?」

 

長い沈黙。

 

「…………付き合ってない」

 

五人目の嘘が確定した。

 

「焼塩」

 

「はい!」

 

急に姿勢がよくなる。

 

「俺たちは?」

 

「……付き合ってない」

 

四人目。

 

「小鞠」

 

「…………ねえ」

 

三人目。

 

「馬剃さん」

 

馬剃さんが立ち上がった。

 

「申し訳ございませんでした!」

 

深々と頭を下げる。

 

二人目。

 

白玉さんはもう確定済み。

 

俺は椅子の背もたれに体を預けた。

 

「……よかった」

 

五人が俺を見る。

 

「え?」

 

八奈見さんが聞く。

 

「俺、五股してなかったんだ」

 

全員黙った。

 

「この一週間、本気で事故前の自分が最低な人間だったんじゃないかって悩んでたから」

 

「あ」

 

焼塩の顔から血の気が引く。

 

「ぬっくん」

 

「五人全員が秘密に付き合ってたって言うし」

 

「ご、ごめん」

 

「家族にも誰にも話すなって言われるし」

 

馬剃さんがさらに頭を下げる。

 

「本当に申し訳ありません」

 

「写真まで出てくるし」

 

白玉さんが目を逸らす。

 

「そこは本物です」

 

「それが一番混乱した」

 

「でしょうね」

 

他人事みたいに言うな。

 

小鞠が小さく言う。

 

「……怒ってんのか」

 

俺は考える。

 

「怒ってるというより」

 

五人を見る。

 

「意味が分からない」

 

全員の視線が散った。

 

「何でそんな嘘ついたの?」

 

答えがない。

 

八奈見さんが腕を組む。

 

「だって」

 

「うん」

 

「温水くんが何も覚えてないから」

 

「理由になってない」

 

「なるの!」

 

「ならないよ」

 

「なる!」

 

「八奈見さんだけの世界では?」

 

「ムカつく!」

 

いつもの八奈見さんを知らない俺でも、これはたぶんいつもの調子なんだろうと思った。

 

焼塩が手を上げる。

 

「あたしは」

 

「うん」

 

「……何ていうか」

 

指先を合わせる。

 

「ぬっくんに、全部忘れられてるの嫌だった」

 

笑おうとする。

 

でもうまく笑えていない。

 

「だから」

 

少し黙って。

 

「最初から知らない人に戻るくらいなら、ちょっとズルしてもいいかなって」

 

それ以上は言わなかった。

 

小鞠は俯いている。

 

「小鞠は?」

 

「し、知らねえ」

 

「知らない?」

 

「わたしも分かんねえ!」

 

怒鳴る。

 

「お、おまえが全部忘れてるから!」

 

そこで口を閉じた。

 

「……それだけ」

 

馬剃さんはまだ立ったままだ。

 

「私は」

 

静かな声。

 

「自分でも、適切な判断だったとは思っておりません」

 

「はい」

 

「ですが温水さんが私をまったく知らない方として扱われた時」

 

手を握る。

 

「……少々、冷静さを欠きました」

 

それで充分だった。

 

白玉さん。

 

俺が見ると、彼女は肩をすくめた。

 

「私は先輩方より打算的ですよ」

 

「そうなの?」

 

「はい」

 

スマホを机に置く。

 

「本当に彼氏役をしてもらってましたから」

 

「うん」

 

「せっかく部長だけ忘れてるなら」

 

笑う。

 

「そのまま本物にしちゃえるかもなあ、と」

 

八奈見さんが睨む。

 

「白玉ちゃん?」

 

「冗談です」

 

「今の顔で?」

 

「半分くらい」

 

「半分あるんだ」

 

俺はため息をつく。

 

「それと」

 

白玉さんが続ける。

 

「たぶん、皆さん同じだと思いますけど」

 

四人を見る。

 

「自分だけ忘れられてるの、思ったより嫌だったんじゃないですか」

 

誰も答えない。

 

白玉さんもそれ以上言わなかった。

 

俺は五人を見る。

 

分からない。

 

まだ何も。

 

どうしてそこまで。

 

記憶がない俺には、その理由を正しく考える材料がない。

 

だから。

 

「一個だけお願いしていい?」

 

「何?」

 

八奈見さん。

 

「もう嘘はなしで」

 

五人の表情が止まる。

 

「俺は自分のことを覚えてないから」

 

ノートを閉じる。

 

「みんなが言ったこと、信じるしかないんだよ」

 

小鞠が俯いた。

 

焼塩が唇を噛む。

 

馬剃さんは目を閉じる。

 

白玉さんの笑顔が消える。

 

八奈見さんだけが俺を見ていた。

 

「……分かった」

 

最初に答えたのは八奈見さんだった。

 

「もうしない」

 

焼塩も頷く。

 

小鞠も。

 

馬剃さんも。

 

白玉さんは最後に。

 

「了解です、部長」

 

と言った。

 

第十二章 嘘がなくなったあと

 

それから。

 

少しだけ状況が変わった。

 

みんな、事故前のことを教えてくれるようになった。

 

ただし。

 

前みたいに「恋人だった」という余計な一文はつかない。

 

 

八奈見さんとは、昼休みに一緒にご飯を食べた。

 

「これ、よくやってたの?」

 

「うん」

 

「毎日?」

 

「毎日じゃないよ」

 

「週何回?」

 

「細かいなあ」

 

八奈見さんは俺の唐揚げを見る。

 

「それ食べないの?」

 

「食べるよ」

 

「記憶喪失だし、油っぽいもの避けた方が」

 

「健康診断じゃないんだから」

 

「医学的な提案」

 

「目が唐揚げを見てる」

 

八奈見さんが目を逸らす。

 

「……そこは思い出さなくていいのに」

 

俺は唐揚げを一つ渡した。

 

八奈見さんは少し驚いて。

 

すぐ食べた。

 

「ありがとう」

 

「俺、前もよくあげてた?」

 

「…………」

 

「八奈見さん?」

 

「たまに」

 

声が小さい。

 

「あと、勝手に取ってたこともある」

 

「そっちは記憶戻らなくていいな」

 

「何で!?」

 

八奈見さんが怒る。

 

その顔を見て。

 

一瞬。

 

何かが浮かんだ。

 

教室。

 

弁当。

 

青い髪。

 

『一個くらいいいじゃん』

 

声。

 

消えた。

 

俺は箸を止める。

 

「温水くん?」

 

「……今」

 

「何?」

 

「八奈見さんが、俺の弁当から何か取ってた」

 

八奈見さんの目が見開かれる。

 

「思い出した?」

 

「一瞬だけ」

 

八奈見さんは何も言わなかった。

 

ただ。

 

俺から顔を逸らして。

 

「……そっか」

 

少し笑った。

 

 

焼塩とは放課後のグラウンド。

 

小鞠とは部室。

 

馬剃さんとは生徒会室。

 

白玉さんとは学校近くの店。

 

それぞれの場所を巡った。

 

白玉さんは、今度は写真を一枚ずつ説明した。

 

「これは偽装彼氏の時です」

 

「はい」

 

「これは姉関係の用事」

 

「はい」

 

「これは勢いで撮りました」

 

「距離近くない?」

 

「役作りです」

 

「便利な言葉だな」

 

「でしょう?」

 

前なら全部恋人だった証拠に使われていた。

 

今は一つ一つ、本当の説明がつく。

 

不思議だった。

 

嘘を取り除いた方が。

 

写真の中の俺と白玉さんは、ずっと近く見えた。

 

「部長」

 

「何」

 

「本当の方が、ややこしいでしょ?」

 

「そう?」

 

「そうですよ」

 

白玉さんはスマホをしまう。

 

「嘘なら『恋人でした』で終わりますから」

 

「本当は?」

 

「説明することが多いんです」

 

彼氏役。

 

先輩後輩。

 

部長と部員。

 

巻き込まれたこと。

 

一緒に笑ったこと。

 

いろんなものが混ざっている。

 

「だから」

 

白玉さんがこちらを見る。

 

「ちゃんと思い出してくださいね」

 

その言い方だけは、冗談ではなかった。

 

第十三章 佳樹が知っているお兄様

 

家に戻る。

 

佳樹がアルバムを用意していた。

 

「学校関係は佳樹には分かりませんが」

 

ページをめくる。

 

「家でのお兄様なら、いくらでもございます」

 

家族旅行。

 

誕生日。

 

正月。

 

何でもない夕食。

 

高校に入った後の写真もある。

 

俺はその中の自分を見る。

 

中学時代とあまり変わらない。

 

「お兄様」

 

「何?」

 

「以前のご自分を、あまり悪くお考えにならないでください」

 

手が止まった。

 

「何で?」

 

「最近、そういうお顔をなさっていましたから」

 

妹は怖い。

 

「佳樹の知っているお兄様は」

 

少し考える。

 

「面倒事を避けようとして、結果として面倒事の中心にいらっしゃる方です」

 

「褒められてない」

 

「褒めています」

 

「どこが」

 

「困っている方を放っておけないところです」

 

「そんな立派じゃないと思う」

 

「そう言うところまで含めて、お兄様です」

 

俺はアルバムを見る。

 

事故前の自分。

 

本当に俺なのに。

 

まだ他人みたいだ。

 

「佳樹」

 

「はい」

 

「もし」

 

一瞬迷う。

 

「俺が、友達にすごく面倒な嘘をつかれてたらどうする?」

 

「内容によります」

 

「人間関係に関わるやつ」

 

佳樹の目が細くなる。

 

「女性ですか?」

 

「違う」

 

「今の間は」

 

「記憶障害」

 

「お医者様は」

 

「もういい」

 

佳樹は少し笑った。

 

「お兄様が怒っていないのでしたら」

 

「うん」

 

「きっと、その方たちにも理由があるのでしょう」

 

「そうかな」

 

「ただし」

 

笑顔のまま。

 

「お兄様を傷つけたのでしたら、佳樹に教えてください」

 

「何する気?」

 

「お話し合いです」

 

絶対違う。

 

第十四章 戻っていくもの

 

記憶は、一気には戻らなかった。

 

断片。

 

匂い。

 

声。

 

場所。

 

そういうものから、少しずつ戻った。

 

綾野と歩いている時。

 

昔、こいつと馬鹿みたいな話をしたこと。

 

朝雲さんが綾野の行動予定を細かく把握しているのを見て。

 

以前も似たような光景を見たこと。

 

袴田と姫宮さんに会って。

 

八奈見さんが二人の間で笑っていた光景。

 

焼塩の走る姿。

 

小鞠の原稿。

 

白玉さんのスマホ。

 

馬剃さんの真剣すぎる顔。

 

佳樹の「お兄様」。

 

一つ一つ。

 

戻る。

 

けれど。

 

まだ足りない。

 

みんなの顔は分かる。

 

声も分かる。

 

関係も、知識としては理解した。

 

それでも。

 

思い出せないものがある。

 

俺自身が、彼女たちといた時に何を感じていたか。

 

それだけが戻らなかった。

 

 

雨の日。

 

部室。

 

八奈見さんが菓子を食べている。

 

焼塩が窓際でストレッチをしている。

 

小鞠がパソコンを叩く。

 

白玉さんがスマホを触っている。

 

馬剃さんは生徒会から届け物を持ってきた。

 

何でもない放課後。

 

「八奈見さん」

 

「ん?」

 

「それ俺のプリンじゃない?」

 

「違うよ」

 

「蓋に名前書いてある」

 

「同姓同名」

 

「この部屋に温水和彦は俺しかいない」

 

「世界は広いよ?」

 

「冷蔵庫の中は狭いよ」

 

焼塩が笑う。

 

「ぬっくん、そこは諦めなよ」

 

「何で俺が」

 

「前も取られてたし」

 

「それは被害履歴であって所有権放棄じゃない」

 

小鞠が画面を見ながら言う。

 

「う、うるせえ。集中できねえ」

 

「小鞠、その三行目」

 

「何」

 

「同じ表現二回使ってる」

 

「……は?」

 

小鞠が画面を見る。

 

「どこだよ」

 

「そこ」

 

俺は立ち上がる。

 

小鞠の横へ行く。

 

「ここ」

 

「あ」

 

一瞬。

 

世界が止まった。

 

この画面。

 

この位置。

 

この机。

 

小鞠の肩。

 

窓際の焼塩。

 

お菓子を食べている八奈見さん。

 

笑っている白玉さん。

 

生徒会の書類を持つ馬剃さん。

 

雨。

 

匂い。

 

音。

 

胸の奥から。

 

何かが一気に押し寄せた。

 

部室。

 

文化祭。

 

合宿。

 

昼休み。

 

放課後。

 

帰り道。

 

電車。

 

ファミレス。

 

小説。

 

陸上。

 

生徒会。

 

偽装彼氏。

 

白玉リコ。

 

馬剃天愛星。

 

小鞠知花。

 

焼塩檸檬。

 

八奈見杏菜。

 

全部。

 

俺は机に手をついた。

 

「部長?」

 

白玉さんが立ち上がる。

 

「温水?」

 

小鞠。

 

「ぬっくん?」

 

焼塩。

 

「温水さん?」

 

馬剃さん。

 

最後に。

 

「温水くん?」

 

八奈見さん。

 

顔を上げる。

 

八奈見さんが、俺のプリンを持っている。

 

俺はそれを見る。

 

「八奈見さん」

 

「……何?」

 

「それ、俺が今日帰ってから食べようと思ってたやつだから」

 

八奈見さんが固まる。

 

「……え」

 

「あと焼塩、靴紐ほどけてるよ」

 

「え?」

 

「小鞠。その原稿、前のページも同じミスしてた」

 

「は?」

 

「白玉さん」

 

「はい」

 

「俺が彼氏役した時の写真を、本物の交際証拠に使うのやめて」

 

白玉さんの目が見開かれる。

 

「馬剃さん」

 

「……はい」

 

「告白されたことも覚えてる」

 

馬剃さんの顔が一気に赤くなる。

 

部室が静まり返った。

 

八奈見さんが、ゆっくりプリンを机へ戻した。

 

「温水くん」

 

「はい」

 

「記憶」

 

「たぶん」

 

頭が痛い。

 

でも。

 

分かる。

 

「戻った」

 

誰も動かなかった。

 

数秒後。

 

焼塩が一番に駆け寄ってきた。

 

「ぬっくん!」

 

「近い近い」

 

「ほんと!? 全部!?」

 

「全部かは分からないけど、大体」

 

小鞠が椅子から立ち上がる。

 

「ほ、本当に?」

 

「小鞠が俺と付き合ってたって嘘ついたことも」

 

小鞠が座り直した。

 

「死ね!」

 

焼塩が笑う。

 

「じゃああたしのも?」

 

「覚えてる」

 

「忘れて!」

 

「都合よすぎない?」

 

馬剃さんが顔を覆う。

 

「……申し訳ありません」

 

「もう謝ってもらったから」

 

白玉さんがにやっとする。

 

「部長」

 

「何」

 

「私とのデートも思い出しました?」

 

「偽装のね」

 

「そこ強調します?」

 

「重要だから」

 

八奈見さんだけが黙っている。

 

俺は見る。

 

「八奈見さん」

 

「何」

 

「姫宮さんと袴田まで巻き込んだ件」

 

「私じゃないから!」

 

即答。

 

「最初に嘘ついたの華恋と草介だから!」

 

「その後、二人きりの時に自分から付き合ってたって」

 

「それは!」

 

八奈見さんの顔が赤くなる。

 

「……事故患者を安心させるための」

 

「逆に不安になったけど」

 

「温水くんが勝手に五股だと思っただけでしょ!」

 

「五人から交際してたと言われたら、普通そう考えるよ」

 

「普通は先に疑うの!」

 

白玉さんが口を挟む。

 

「八奈見先輩が一番最初だったんですよね?」

 

「そうだけど?」

 

「悪質ですね」

 

「白玉ちゃんは証拠捏造してるじゃん!」

 

「捏造ではありません。写真は本物です」

 

「説明が嘘!」

 

「先輩も事実関係を一部利用してましたよね?」

 

「ぐっ」

 

焼塩が笑い出す。

 

「みんな一緒じゃん」

 

「焼塩は笑える立場じゃない」

 

「八奈見さんだって!」

 

「お、おまえら全員バカ!」

 

小鞠が叫ぶ。

 

馬剃さんが小さく言う。

 

「否定できません……」

 

いつもの。

 

たぶん。

 

これがいつもの部室だった。

 

第十五章 姫宮華恋と袴田草介の清算

 

翌日。

 

廊下で姫宮さんと袴田に会った。

 

「温水くん!」

 

姫宮さんが手を振る。

 

「記憶戻ったんだって?」

 

「はい」

 

「よかった!」

 

純粋に喜んでいる。

 

袴田も笑った。

 

「よかったな、温水」

 

「ありがとう」

 

俺は二人を見る。

 

「ところで」

 

「うん?」

 

「俺と八奈見さんが付き合ってた件」

 

姫宮さんの笑顔が固まった。

 

袴田が目を逸らした。

 

「……あれね」

 

「はい」

 

「杏菜から聞いた?」

 

「全部思い出しました」

 

「あー」

 

姫宮さんが袴田を見る。

 

袴田も姫宮さんを見る。

 

「華恋が言い出した」

 

「草介も乗ったでしょ!」

 

「途中からな」

 

「途中からでも共犯!」

 

「二人とも共犯ですよ」

 

姫宮さんが手を合わせる。

 

「ごめん!」

 

「何であんなことを?」

 

姫宮さんは少し考えた。

 

「杏菜、ずっと変だったから」

 

「変?」

 

「温水くんが事故に遭ってから」

 

笑顔が少しだけ静かになる。

 

「すごく心配してるのに、本人の前ではいつも通りにしようとしてたから」

 

袴田が続ける。

 

「俺たちが行った時も、温水がお前のこと分からなかっただろ」

 

「はい」

 

「その時の杏菜の顔見てたら」

 

言葉を切る。

 

「ちょっとくらい背中押してもいいかと思った」

 

「だから付き合ってたことに?」

 

「華恋の案だ」

 

「また私だけにする!」

 

姫宮さんが袴田の腕を叩く。

 

「でも」

 

俺は聞く。

 

「八奈見さん本人は否定してましたよ」

 

二人が黙る。

 

姫宮さんがにこりと笑った。

 

「そこから先は杏菜に聞いて」

 

「もう聞きました」

 

「何て?」

 

「本当はみんなに内緒で付き合ってたって」

 

姫宮さんが両手で口を塞いだ。

 

袴田が目を丸くする。

 

「杏菜、そこまで行ったのか」

 

「言わないであげてください」

 

「了解」

 

袴田は即答した。

 

姫宮さんも何度も頷く。

 

俺は思った。

 

八奈見さん。

 

友達には恵まれているらしい。

 

第十六章 記憶が戻っても

 

記憶が戻ったからといって。

 

何もかも元通りになるわけではない。

 

むしろ。

 

余計なものまで残った。

 

例えば。

 

焼塩が俺に言った。

 

『最初から知らない人に戻るくらいなら』

 

小鞠の。

 

『おまえが全部忘れてるから』

 

馬剃さんの。

 

『少々、冷静さを欠きました』

 

白玉さんの。

 

『そのまま本物にしちゃえるかも』

 

そして。

 

八奈見さんの。

 

『本当は付き合ってたの』

 

嘘だった。

 

全部。

 

だけど。

 

どうして全員、同じ嘘を選んだのか。

 

そこを考えると。

 

何となく。

 

考えない方がいい気がした。

 

俺はそういう判断には自信がある。

 

 

放課後。

 

部室には俺と八奈見さんだけ。

 

珍しく静かだ。

 

八奈見さんはお菓子を食べている。

 

俺は本を読んでいる。

 

「温水くん」

 

「何」

 

「……本当に全部思い出した?」

 

「大体は」

 

「事故の直前まで?」

 

「たぶん」

 

「ふーん」

 

お菓子を一つ食べる。

 

「じゃあ」

 

「うん」

 

「記憶ない時のことも?」

 

「そっちは普通に覚えてるよ」

 

八奈見さんの手が止まる。

 

「それ、記憶喪失の範囲外じゃない?」

 

「事故後の記憶だからね」

 

「都合悪いなあ」

 

「何が」

 

「医療ってまだまだだね」

 

「八奈見さんの嘘を消すための治療じゃないから」

 

「嘘って言い方やめない?」

 

「嘘でしょ」

 

「善意」

 

「五股だと思って一週間悩んだよ」

 

「温水くんが勝手に」

 

「五人いるとは思わないでしょ」

 

八奈見さんが黙った。

 

「……五人か」

 

「何?」

 

「改めて聞くと多いね」

 

「被害者目線?」

 

「私は最初だから」

 

「順番関係ある?」

 

「あるよ」

 

妙に強く言った。

 

俺は本へ視線を戻す。

 

八奈見さんも黙る。

 

しばらくして。

 

「ねえ、温水くん」

 

「何」

 

「もし」

 

少し間が空いた。

 

「本当に私と付き合ってたって言われて」

 

ページをめくる指が止まる。

 

「嫌だった?」

 

俺は八奈見さんを見る。

 

彼女はお菓子の袋を見ている。

 

こっちは見ない。

 

「困った」

 

「嫌だったか聞いてるんだけど」

 

「記憶がない状態で恋人がいるって言われたら困るでしょ」

 

「そういう話じゃなくて」

 

「じゃあどういう」

 

「もういい」

 

八奈見さんが立ち上がる。

 

「帰る」

 

「まだ部活時間だけど」

 

「今日は終わり」

 

鞄を持つ。

 

「八奈見さん」

 

「何」

 

「嫌だったわけじゃないよ」

 

足が止まる。

 

「ただ」

 

俺は続ける。

 

「俺には何も覚えてなかったから、どうしたらいいか分からなかっただけ」

 

八奈見さんは振り返らない。

 

「……そう」

 

短く答える。

 

「じゃ」

 

扉に手を掛ける。

 

「今のは忘れて」

 

「記憶戻ったばっかりの人にそれ言う?」

 

「そこだけもう一回記憶喪失になってよ」

 

「ピンポイントすぎる」

 

八奈見さんは部室を出ていった。

 

扉が閉まる。

 

俺は本へ視線を戻した。

 

数行読む。

 

内容が全然入ってこない。

 

仕方なく本を閉じる。

 

窓の外を見る。

 

恋愛なんて。

 

俺にはまだよく分からない。

 

事故前も。

 

事故後も。

 

たぶん、それほど変わっていない。

 

ただ。

 

一つだけ。

 

もし。

 

また記憶を失うことがあったとして。

 

今度は。

 

みんなの言うことを、もう少し疑おうと思う。

 

エピローグ 翌日の部室

 

「温水くん」

 

「何」

 

「プリンある?」

 

「ない」

 

「冷蔵庫に入ってるじゃん」

 

「俺のはある」

 

「つまりあるじゃん」

 

「八奈見さんのはない」

 

「細かいなあ」

 

焼塩が笑う。

 

「ぬっくん、また買えばいいじゃん」

 

「焼塩はどっちの味方なの」

 

「プリン食べたい方」

 

「八奈見さん側じゃん」

 

小鞠がパソコン越しに睨む。

 

「う、うるせえ!」

 

白玉さんがスマホを構える。

 

「部長さん、記念に写真撮りません?」

 

「嫌です」

 

「彼女との写真ですよ?」

 

部室が静まった。

 

八奈見さん。

 

焼塩。

 

小鞠。

 

馬剃さん。

 

全員が白玉さんを見る。

 

白玉さんが笑う。

 

「元・自称彼女です」

 

「紛らわしい!」

 

八奈見さんが叫ぶ。

 

焼塩が笑う。

 

小鞠が「死ね」と呟く。

 

馬剃さんは顔を赤くして俯く。

 

俺はため息をついた。

 

記憶は戻った。

 

人間関係も戻った。

 

日常も戻った。

 

ただ。

 

事故の前より。

 

少しだけ。

 

みんなの距離が近くなった気がする。

 

たぶん気のせいだ。

 

そういうことにしておこう。

 

「部長さん」

 

白玉さんがまだスマホを向けている。

 

「何」

 

「笑ってください」

 

「嫌です」

 

シャッター音。

 

「撮りました」

 

「消して」

 

「嫌です」

 

八奈見さんが横から画面を覗く。

 

「ちょっと白玉ちゃん、私も入ってないじゃん」

 

「八奈見先輩は彼女じゃないので」

 

「白玉ちゃんも違うでしょ!」

 

「元・自称です」

 

「それ肩書きにならないから!」

 

「じゃあ八奈見先輩も名乗ります?」

 

「名乗らない!」

 

焼塩が手を上げる。

 

「あたしも入れて!」

 

「焼塩!?」

 

「じゃ、小鞠先輩も」

 

「な、なんでわたしまで!」

 

馬剃さんが立ち上がる。

 

「私は失礼します!」

 

「馬剃先輩もどうぞ」

 

「結構です!」

 

気付けば俺を中心にして、全員が画面へ入り込んでいる。

 

白玉さんがスマホを持ち上げた。

 

「それではみなさん、撮りますよー」

 

「俺の意思は?」

 

「ありません」

 

「ひどい」

 

八奈見さんが俺の肩を押す。

 

「温水くん、もうちょっとそっち詰めて」

 

「狭いって」

 

「焼塩が寄りすぎなんだよ」

 

「小鞠ちゃん押さないで!」

 

「お、おまえが寄ってくんな!」

 

「馬剃先輩、顔隠れてます」

 

「私は撮影を希望していません!」

 

「はい、笑ってください」

 

カシャ。

 

後で見せられた写真。

 

俺は困った顔。

 

八奈見さんは何か言っている途中。

 

焼塩は笑っている。

 

小鞠は真っ赤。

 

馬剃さんは完全に不意打ち。

 

白玉さんだけが完璧な笑顔。

 

ひどい写真だ。

 

だけど。

 

今度は。

 

誰かに説明されなくても分かる。

 

ここに写っているのが。

 

俺の高校生活だった。


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