「私に初めてのキスをあげたくせに」

八奈見さんに告白することを決めた温水。
その前に、白玉リコとの“偽装恋人”を終わらせようとするけれど――。

最初はただの彼氏役だった。
でもリコにとっては、もうとっくに「偽物だから終われる関係」ではなくなっていて。

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偽装彼女の席を手放したくない、少し重めの白玉リコ視点で物語が進むIFです。


第1話

部室の時計は、三時四十七分を指していた。

 

秒針の音なんて普段なら気にもしない。

 

だけど今日は、妙に耳につく。

 

向かいの席では、部長さんがさっきから同じページを見ていた。

 

本を読んでいるふりをしている、というわけではないと思う。

 

部長さんの場合、本当に読んでいる可能性もある。

 

ただし、ページをめくる間隔が明らかにおかしい。

 

私は頬杖をつきながら、そんな部長さんを眺めていた。

 

「部長さん」

 

「ん?」

 

「さっきから同じところ読んでません?」

 

ぱたん、と本が閉じられた。

 

「……見てたの?」

 

「二人きりの部室で正面に座ってるんですよ? 見えますよ、それくらい」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

部長さんは目を逸らした。

 

分かりやすい。

 

この人は、何か言いづらいことがあると露骨に視線が散る。

 

本人は隠せているつもりなのかもしれないけど。

 

そして、たぶん。

 

今日、私を部室に呼んだ理由はそれだ。

 

「それで?」

 

私は笑顔を作った。

 

「何のお話ですか?」

 

「え」

 

「私に用事があるから早めに来てって言ったんですよね?」

 

「ああ……うん」

 

部長さんの指が本の角を撫でた。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

嫌な予感がした。

 

理由なんてない。

 

ないはずなのに、胸の奥に細い針を差し込まれたみたいな感覚がする。

 

「白玉さん」

 

「はい」

 

「その……彼氏役のことなんだけど」

 

やっぱり。

 

私は笑顔を崩さなかった。

 

「更新のお話ですか?」

 

「アパートの契約みたいに言わないで」

 

「大切ですよ、契約更新。長期契約には各種特典もございます」

 

「各種特典って何」

 

「それは継続していただいた方だけのお楽しみです」

 

いつもなら、ここで部長さんは困ったような顔をする。

 

今日もした。

 

でも、そのあとが違った。

 

小さく息を吸ってから、私を見る。

 

逃げなかった。

 

「……辞めたいと思ってる」

 

秒針が一つ進んだ。

 

「何をですか?」

 

聞き返す必要なんてなかった。

 

「彼氏役」

 

もう一つ。

 

「どうしてです?」

 

自分でも驚くくらい、普通の声が出た。

 

部長さんは少し迷ってから、

 

「いつまでも続けるものじゃないでしょ」

 

と答えた。

 

それはそうだ。

 

正しい。

 

私だって最初から分かっていた。

 

これは偽物だ。

 

必要があって始めただけの関係。

 

終わる理由ができれば終わる。

 

だから、何もおかしくない。

 

「別にいいんじゃないですか?」

 

私は言った。

 

部長さんの肩から、ほんの少し力が抜ける。

 

――あ。

 

それを見た瞬間。

 

「でも、理由によります」

 

肩に入っていた力が戻った。

 

「……理由?」

 

「はい。彼氏役を辞めたい理由です」

 

「いや、さっき言ったじゃん。いつまでも――」

 

「それ、本当の理由じゃないですよね?」

 

部長さんが黙った。

 

ほら。

 

私は知っている。

 

この人は嘘が下手だ。

 

正確には、自分から誰かを騙すための嘘が下手。

 

誤魔化したり、逃げたり、都合の悪いところだけ言わなかったりすることはある。

 

だけど、真正面から問い詰められると弱い。

 

「何かあったんですか?」

 

「……まあ」

 

「私に言えないこと?」

 

「言えないっていうか」

 

「じゃあ言えますね」

 

「その理屈はおかしくない?」

 

「私たち恋人ですよ?」

 

「偽物のね」

 

即答だった。

 

胸の奥で、何かが軋んだ。

 

だけど顔には出さない。

 

出したら負けだ。

 

何に負けるのかは知らない。

 

「偽物でも彼女です」

 

「その理屈で今まで色々押し切ってきたよね」

 

「便利ですから」

 

「認めるんだ……」

 

部長さんは困った顔をして、また視線を落とした。

 

長い沈黙。

 

その間、私は笑顔のまま待った。

 

急かさない。

 

急かすと、この人は殻に閉じこもる。

 

逃げ道がなくなると、急にどうでもいい一般論へ避難する。

 

だから待つ。

 

待って、本人から言わせる。

 

やがて。

 

「八奈見さんに」

 

部長さんが言った。

 

私は机の下で、自分のスカートを握った。

 

「はい」

 

「……ちゃんと話そうと思ってる」

 

「何を?」

 

もう答えは分かっていた。

 

それでも聞いた。

 

部長さんは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「そこまで言わせる?」

 

「大事なところですから」

 

「白玉さんには関係なくない?」

 

「彼氏が他の女の人に何を話すのかは、彼女として非常に重要な問題です」

 

「だから偽――」

 

「部長さん」

 

少しだけ声を低くすると、部長さんは言葉を止めた。

 

「教えてください」

 

たぶん。

 

ここで笑っていなかったら、部長さんは言わなかった。

 

だから笑う。

 

いつもの後輩みたいに。

 

ちょっと困らせて遊んでいるだけみたいに。

 

部長さんは、しばらく黙っていた。

 

それから観念したように口を開いた。

 

「……付き合ってほしいって、言おうと思ってる」

 

私は握ったスカートを離した。

 

皺になっていた。

 

綺麗に伸ばす。

 

「八奈見先輩に?」

 

「うん」

 

「部長さんが?」

 

「僕以外に誰がいるの」

 

「本気で?」

 

「……うん」

 

ああ。

 

これは、困った。

 

本当に困った。

 

私はてっきり、この人はもっと長く逃げると思っていた。

 

八奈見先輩の隣にいて。

 

八奈見先輩から特別な扱いをされて。

 

それでも本人だけは、全部を別の何かに変換する。

 

仲がいいだけ。

 

文芸部だから。

 

友達だから。

 

八奈見先輩は誰にでもああだから。

 

きっと、そんなふうに。

 

だから私はまだ大丈夫だと思っていた。

 

ゆっくりでいいと。

 

偽物でも隣にいれば、そのうち順番が回ってくるかもしれない。

 

少なくとも、席だけは確保できていると思っていた。

 

なのに。

 

「どうして急に?」

 

「急じゃないよ」

 

「そうなんですか?」

 

「僕なりに色々考えた結果だから」

 

その言葉に、少し腹が立った。

 

色々考えた。

 

その中に私はいたのだろうか。

 

きっといた。

 

だから今、こうして切り捨てに来た。

 

律儀な人だ。

 

別の女の子に告白する前に、偽物の彼女との関係を整理しようとしている。

 

真面目。

 

誠実。

 

正しい。

 

――本当に嫌になる。

 

「でも私、困ります」

 

「え?」

 

部長さんが顔を上げた。

 

「彼氏がいなくなると」

 

「いや、そもそも本物の彼氏じゃないし」

 

「私にとって必要なのは肩書きなので、偽物でも十分なんです」

 

「だったら僕じゃなくても――」

 

「嫌です」

 

自分でも驚いた。

 

早かった。

 

部長さんも驚いている。

 

私はすぐに笑った。

 

「部長さん以外の人を探すの、面倒じゃないですか」

 

「……そういうこと?」

 

「そういうことです」

 

部長さんは納得していない顔をしていた。

 

でも追及はしてこなかった。

 

それがこの人だ。

 

少し安心して。

 

少し腹が立つ。

 

「だから、継続でお願いします」

 

「いや、無理だって」

 

「どうして?」

 

「これから八奈見さんに告白しようとしてる人が、別の女の子の彼氏役してたらおかしいでしょ」

 

「私がいいと言ってます」

 

「八奈見さんがよくないでしょ」

 

「まだ付き合ってないですよね?」

 

「…………」

 

効いた。

 

部長さんが黙る。

 

「告白しても断られるかもしれません」

 

「それは分かってるよ」

 

「だったら、その後に彼女を失う必要まであります?」

 

「その言い方だと僕がすごく可哀想な人みたいになるんだけど」

 

「保険ですよ、保険」

 

「恋愛にそういう保険かけるの最低じゃない?」

 

「偽物ですから問題ありません」

 

「さっきから都合よく本物と偽物を使い分けてない?」

 

使い分ける。

 

当たり前だ。

 

使えるものは全部使う。

 

「じゃあ、こうしましょう」

 

私は指を一本立てた。

 

「八奈見先輩と付き合えたら解消します」

 

「……それじゃ遅いんだよ」

 

「どうして?」

 

「告白する前に整理しておきたいから」

 

「何を?」

 

「だから、この関係を」

 

「どうして?」

 

「白玉さん今日めんどくさくない?」

 

失礼な。

 

「いつもの私ですよ?」

 

「今日は三割増しくらいだと思う」

 

三割で済んでいるなら、まだ大丈夫。

 

「それなら、私が八奈見先輩に説明しますよ」

 

「絶対やめて」

 

即答。

 

「『部長さんとは体だけの――』」

 

「何を説明する気!?」

 

部長さんが椅子を鳴らして立ち上がった。

 

私は思わず笑ってしまう。

 

ちゃんといつもの反応だ。

 

少しだけ安心する。

 

「冗談ですよ」

 

「冗談にしていい単語を選んで」

 

「じゃあ、『偽装恋人ですけど、とても健全なお付き合いです』って」

 

「それも説明しなくていいから」

 

「でも」

 

私はそこで一度言葉を切った。

 

言おうか迷った。

 

これはずるい。

 

分かっている。

 

今までなら、からかう材料にはしても。

 

こういう使い方はしなかった。

 

――でも。

 

部長さんがいなくなる。

 

そう思ったら。

 

口が勝手に動いた。

 

「私に初めてのキスをあげたくせに」

 

部長さんが固まった。

 

部室から音が消えたような気がした。

 

「あれは……」

 

「はい」

 

「あれは、白玉さんが」

 

「私が?」

 

「その……近かったから」

 

「私が近かったらキスするんですか?」

 

「そうじゃなくて!」

 

「じゃあ部長さんがしたかったんですね」

 

「違うって!」

 

耳まで赤い。

 

あの日のことを思い出しているのだろう。

 

私だって思い出している。

 

彼氏役と彼女役。

 

少し調子に乗って。

 

いつものように私が距離を詰めて。

 

部長さんが慌てて。

 

笑って。

 

ふざけて。

 

それで。

 

一瞬だけ、ふざけていられなくなった。

 

どちらからだったのか。

 

今でも、はっきりしない。

 

だから。

 

あれは事故だったことにしている。

 

二人とも。

 

翌日から何もなかったみたいに。

 

「忘れてませんよね?」

 

「……忘れるわけないでしょ」

 

小さな声だった。

 

胸が疼いた。

 

駄目だ。

 

そんな顔をしないでほしい。

 

期待してしまうから。

 

私は立ち上がった。

 

机を回り込んで、部長さんの前へ行く。

 

一歩。

 

部長さんが下がる。

 

もう一歩。

 

また下がる。

 

「白玉さん」

 

「はい?」

 

「近い」

 

「そうですね」

 

「離れて」

 

「嫌です」

 

また即答した。

 

今度は取り繕わなかった。

 

部長さんの表情が変わる。

 

私は笑わなかった。

 

「……白玉さん?」

 

「部長さん」

 

胸の中にあるものを、そのまま言えばいい。

 

好きです。

 

八奈見先輩のところへ行かないで。

 

私を選んで。

 

簡単だ。

 

たったそれだけ。

 

だけど。

 

言った瞬間に終わる気がした。

 

この人は変に真面目だから。

 

私が本気だと知ったら、偽物なんて続けてくれない。

 

「私、結構気に入ってるんですよ」

 

「何を?」

 

「この関係」

 

そこまでしか言えなかった。

 

部長さんは黙っている。

 

「彼女って呼ばれて」

 

「呼んだことないけど」

 

「細かいですね」

 

「大事なところでしょ」

 

「彼氏役をお願いすれば付き合ってくれて。二人で出掛けても変に警戒しなくていいし。たまに近づくと面白い顔しますし」

 

「最後のはいらないよね?」

 

「そういうところも含めて」

 

私は部長さんの制服の袖をつまんだ。

 

強くは握らない。

 

逃げようと思えば簡単に逃げられるくらい。

 

「なくなるの、嫌なんです」

 

部長さんは私の指を見る。

 

「……白玉さん」

 

「はい」

 

「それって」

 

言わせない。

 

「八奈見先輩と付き合ったら」

 

私は被せた。

 

「そのとき考えましょう」

 

「いや、だからその前に――」

 

ガチャ。

 

部室の扉が開いた。

 

「温水くーん、お腹すいた――」

 

八奈見先輩が入ってきた。

 

そして止まった。

 

私と部長さん。

 

正確には、部長さんの袖をつまんでいる私。

 

妙に近い距離。

 

部長さんの赤い耳。

 

私の顔。

 

順番に見て。

 

「…………」

 

扉をゆっくり閉めた。

 

「待って八奈見さん」

 

部長さんが私を振りほどいて扉へ向かう。

 

でも、その前にまた扉が開いた。

 

八奈見先輩が戻ってきた。

 

「いや、なんで私が出ていくの?」

 

「僕もそれ思った」

 

「ここ文芸部の部室だよね?」

 

「そうだね」

 

「私、部員だよね?」

 

「そうだね」

 

「じゃあなんで後輩と二人でそんな空気出してるの?」

 

「出してないよ」

 

「出てたよ」

 

「出してませんよ?」

 

私も参加する。

 

八奈見先輩の目が私へ向いた。

 

笑っている。

 

笑っているけど。

 

ちょっと怖い。

 

「白玉ちゃん」

 

「はい」

 

「何してたの?」

 

「お話です」

 

「何のお話?」

 

「私と部長さんの今後について」

 

「待って」

 

部長さんが割って入る。

 

「何も間違ってないですよ?」

 

「間違ってないから止めてるの」

 

八奈見先輩の視線が部長さんに移った。

 

「今後?」

 

「その言い方に意味はないから」

 

「へえ」

 

「本当に」

 

「ふうん」

 

八奈見先輩はテーブルの上に鞄を置いた。

 

いつもより少しだけ音が大きかった。

 

「じゃあ説明してもらおうかな」

 

「何を?」

 

「その『今後』ってやつ」

 

部長さんが黙る。

 

私は横から顔を覗き込んだ。

 

「部長さん?」

 

「白玉さんはちょっと黙ってて」

 

「彼女に対して酷くないですか?」

 

空気が止まった。

 

八奈見先輩がゆっくりこちらを向く。

 

「……彼女?」

 

しまった。

 

――とは思わなかった。

 

むしろ。

 

ちょうどいい。

 

「はい」

 

私は笑った。

 

「私、部長さんの彼女なので」

 

「白玉さん」

 

「役、ですけど」

 

「最後まで言って!」

 

八奈見先輩はしばらく私たちを見比べていた。

 

「……まだやってたんだ、それ」

 

「まだって何」

 

「だってあれ、もう終わった話だと思ってたし」

 

「僕も今日終わらせるつもりだったんだよ」

 

八奈見先輩が瞬きをした。

 

私は笑顔のまま部長さんを見る。

 

「まだ決まってませんよ」

 

「いや決めるために話してたんだけど」

 

「話し合いは平行線でした」

 

「白玉さんが一方的に線を曲げてるんだよ」

 

八奈見先輩の眉が、ほんの少し寄った。

 

「なんで急に辞めるの?」

 

部長さんが固まる。

 

あ。

 

これは。

 

少し面白い。

 

さっきまで嫌だったはずなのに。

 

私は一歩引いた。

 

「八奈見さん、それは――」

 

「何?」

 

「いや」

 

部長さんの視線が泳ぐ。

 

八奈見先輩が首を傾げる。

 

「何か理由あるんでしょ?」

 

「まあ」

 

「私に言えない理由?」

 

さっき私がしたのと同じ質問。

 

思わず笑いそうになる。

 

部長さんの逃げ道が塞がっていく。

 

「言えないというか……今ここで言う話じゃないというか」

 

「ふうん?」

 

八奈見先輩が私を見る。

 

「白玉ちゃんは知ってるの?」

 

「はい」

 

「白玉さん」

 

「知ってます」

 

「そこ強調しなくていいから」

 

八奈見先輩の頬が少し膨らんだ。

 

「私には言えなくて、白玉ちゃんには言えるんだ」

 

「そういうことじゃなくて」

 

「じゃあどういうこと?」

 

「それは……」

 

部長さんが詰まる。

 

私は自分の席へ戻ると、椅子に腰掛けた。

 

そして二人を見る。

 

八奈見先輩は不機嫌そうに部長さんを見ている。

 

部長さんは困り果てている。

 

なんだ。

 

やっぱり。

 

二人の間には、私が入れない何かがある。

 

そんなの、とっくに知っていた。

 

知っていて。

 

それでも私は部長さんの隣に立った。

 

偽物という名札を胸につけて。

 

「八奈見先輩」

 

「なに?」

 

私はなるべく明るい声を出す。

 

「部長さん、私との関係を終わらせたいそうなんです」

 

「白玉さん!」

 

八奈見先輩が目を丸くする。

 

「……なんで?」

 

「別にいいでしょ、理由は」

 

「よくないよ。白玉ちゃん困ってるじゃん」

 

「八奈見さんはどっちの味方なの?」

 

「困ってる女の子の味方」

 

「理不尽だ……」

 

八奈見先輩は私の隣へ来ると、こっそり声を落とした。

 

「部長、何かした?」

 

私は部長さんを見る。

 

目が合った。

 

警戒している。

 

ふふ。

 

「そうですね」

 

「白玉さん?」

 

「色々されました」

 

「語弊!」

 

八奈見先輩の目が細くなった。

 

「……色々?」

 

「はい」

 

「白玉さん本当にやめて」

 

部長さんが珍しく本気で焦っている。

 

私は笑った。

 

ここで。

 

あの話をしたらどうなるだろう。

 

――私に初めてのキスをあげたくせに。

 

八奈見先輩の前で。

 

たった一言。

 

それだけで、きっと全部ぐちゃぐちゃになる。

 

部長さんの告白も。

 

八奈見先輩の顔も。

 

この部室の空気も。

 

もしかしたら。

 

二人の関係だって。

 

壊せるかもしれない。

 

胸の奥で、甘いものが膨らんだ。

 

ほんの少しだけ。

 

言ってしまいたい。

 

私だけが知っている部長さんを。

 

私と部長さんの間にあった、八奈見先輩の知らないことを。

 

差し出して。

 

ここに私もいるのだと教えてやりたい。

 

「白玉ちゃん?」

 

八奈見先輩が私の顔を覗き込む。

 

私は口を開く。

 

「部長さんとは――」

 

部長さんを見る。

 

ひどく困った顔。

 

でも。

 

私を疑ってはいない。

 

私が本当に嫌がることはしない。

 

そんなふうに、どこかで思っている顔だった。

 

ずるい。

 

そんな顔をされたら。

 

「……内緒です」

 

私は笑った。

 

「えー!」

 

八奈見先輩が不満そうな声を上げる。

 

「そこまで言って!?」

 

「彼氏と彼女だけの秘密ですから」

 

「役でしょ!?」

 

「役でも秘密は秘密です」

 

「温水くん!」

 

「なんで僕に怒るの?」

 

「知らない!」

 

「知らないのに怒らないでよ!」

 

二人がいつもの調子で言い合う。

 

私はそれを見ながら。

 

机の下で、そっと自分の指先を握った。

 

言えなかった。

 

でも。

 

言わなかっただけだ。

 

諦めたわけじゃない。

 

「……で」

 

八奈見先輩が部長さんを見る。

 

「結局、なんで辞めるの?」

 

「それは」

 

部長さんがまた固まった。

 

私は助けない。

 

これは部長さんの問題だ。

 

自分で決めたのなら、自分で言えばいい。

 

八奈見先輩に告白すると。

 

私を切って。

 

八奈見先輩を選ぶのだと。

 

ちゃんと。

 

私の前で。

 

「まあ、その……」

 

部長さんは八奈見先輩から目を逸らした。

 

「整理しておきたいことがあって」

 

「何を?」

 

「色々」

 

「色々って?」

 

「……八奈見さんには、あとで話す」

 

八奈見先輩が黙った。

 

少しだけ頬が赤い気がした。

 

気のせいかもしれない。

 

「ふうん」

 

八奈見先輩はそれだけ言って、椅子に座る。

 

部長さんも席へ戻った。

 

そして。

 

何事もなかったように本を開いた。

 

ページは一向に進まなかった。

 

私はスマホを取り出す。

 

画面を眺めながら、考える。

 

彼氏役は辞める。

 

部長さんはそう言った。

 

でも。

 

まだ辞めていない。

 

話はまとまっていない。

 

つまり。

 

契約は継続中。

 

私は立ち上がる。

 

「部長さん」

 

「何?」

 

「帰り、駅まで一緒に行きましょう」

 

「え。なんで?」

 

「彼女なので」

 

「話聞いてた?」

 

「今日のところは契約継続ですよね?」

 

「そんな結論にはなってない」

 

「解消の合意もありません」

 

「契約って双方の合意が必要なの?」

 

「当然です」

 

「偽装彼氏ってそんな重い制度だった?」

 

八奈見先輩がこちらを見る。

 

「……じゃあ私も行く」

 

「八奈見さん?」

 

「駅に行くだけでしょ?」

 

「まあ、そうだけど」

 

「じゃあいいじゃん」

 

八奈見先輩はぷいと顔を逸らした。

 

私は少し考える。

 

それから笑った。

 

「もちろんです、八奈見先輩」

 

「何その余裕ある感じ」

 

「気のせいですよ」

 

「なんか腹立つ」

 

「八奈見さん、白玉さん相手に張り合わないでよ」

 

「張り合ってないから!」

 

即答。

 

私は鞄を持つ。

 

部長さんが困った顔で二人を見る。

 

真ん中。

 

ちょうど真ん中だ。

 

今日はそれでいい。

 

明日は知らない。

 

部長さんが八奈見先輩に何を言うのかも。

 

八奈見先輩が何と答えるのかも。

 

私には決められない。

 

だから。

 

決められるところだけは、勝手に決める。

 

少なくとも今日。

 

部長さんはまだ私の彼氏役だ。

 

「行きましょう、部長さん」

 

私は腕を組む代わりに、制服の袖を軽くつまんだ。

 

部長さんが嫌そうな顔をする。

 

でも振り払わない。

 

「白玉さん」

 

「はい?」

 

「さっきの話、まだ終わってないからね」

 

「知ってます」

 

「明日ちゃんと決めるよ」

 

「どうぞ」

 

「……その余裕どこから来るの」

 

余裕なんてない。

 

まったくない。

 

ただ。

 

部長さんは一つ勘違いしている。

 

私は、別に。

 

話し合いで勝とうとしているわけじゃない。

 

偽物だろうが。

 

後輩だろうが。

 

面倒な女だと思われようが。

 

最後までここにいるだけだ。

 

部長さんが私を選ばないなら。

 

選びたくなるまで。

 

――なんて。

 

さすがに口には出さない。

 

「部長さん」

 

「何?」

 

「私、物持ちがいいんですよ」

 

「急に何の話?」

 

「お気になさらず」

 

私は笑う。

 

その反対側で。

 

八奈見先輩が部長さんの鞄を指で突いた。

 

「温水くん」

 

「八奈見さん、今度は何?」

 

「あとで話すって言ったの、忘れないでよ」

 

「……うん」

 

「絶対だからね」

 

「分かってる」

 

部長さんの声が少しだけ固くなる。

 

八奈見先輩は、それ以上何も言わなかった。

 

私は二人の横顔を見る。

 

そして。

 

部長さんの袖をつまむ指に、ほんの少しだけ力を込めた。

 

まだ。

 

離してあげない。


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