「キスすると……お嫁さんに……なるの?」

ほんの好奇心だったはずの、志喜屋夢子からの一度目のキス。
意味なんてない。いつもの突拍子もない行動だ。そう片付けようとする温水和彦だったが、それ以来、二人は以前と同じ距離ではいられなくなる。


一度だけなら、好奇心だったと言える。
間違いだったとも、何でもなかったとも言える。


――でも、二度目は?


卒業までの時間が少しずつ減っていく中、答えの分からない二人が「もう一度」の意味を選ぶまでのお話


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原作7巻の結婚式場の下見から分岐するIFです。
少しだけ9巻のネタバレ要素があります


第1話

1 チャペルでは、たぶんそういうことをしない

 

結婚式場という場所は、高校生が来るにはいろいろと間違っている。

 

ましてや、隣にいる女子生徒と結婚を控えた二人のふりをしてチャペルを見て回るなんて、人生のイベント進行順を三十個くらい飛ばしている気がする。

 

白を基調とした室内。

 

高い天井。

 

正面には光を透かす大きな窓があって、並んだ椅子には当然誰も座っていない。

 

静かだった。

 

静かすぎて、俺の靴音までやたら大きく聞こえる。

 

その隣を歩く志喜屋さんは、いつも通りだった。

 

少なくとも、見た目以外は。

 

「……きれい」

 

「…そうですね」

 

「ここで……結婚……するの?」

 

「まあ、普通はそういう場所なんじゃないですか」

 

「ふうん……」

 

志喜屋さんは祭壇のほうを眺め、それから俺を見る。

 

視線がゆっくりと上がった。

 

嫌な予感がする。

 

志喜屋さん相手の嫌な予感は、だいたい一秒後には現実になる。

 

「結婚すると……お嫁さん?」

 

「そりゃまあ、言葉の意味としては」

 

「キスも……する?」

 

「え」

 

質問の方向がおかしい。

 

俺が返答を組み立てている間に、志喜屋さんが一歩近づいた。

 

近い。

 

今日に限った話ではない。

 

志喜屋さんという人は、どうも人間関係における適正距離という概念を、一般人とは違う単位で計測しているらしい。

 

顔が近い。

 

白い肌。

 

長いまつ毛。

 

少し眠たげな目。

 

そして――視線が、一瞬だけ俺の口元に落ちた。

 

「キスすると……お嫁さんに……なるの?」

 

「いや、それは順序が――」

 

そこまでだった。

 

ほんの一瞬。

 

何か柔らかいものが唇に触れた。

 

時間にすれば一秒もなかったと思う。

 

志喜屋さんの顔が離れる。

 

俺は何も言えなかった。

 

脳が処理を放棄していた。

 

目の前の景色は変わっていない。

 

白いチャペル。

 

祭壇。

 

並んだ椅子。

 

志喜屋さん。

 

問題は、その志喜屋さんが今、俺にキスをしたことだった。

 

いや。

 

待て。

 

キス?

 

今のが?

 

本当に?

 

ラブコメならここで、主人公が事故で転んだとか、誰かに押されたとか、突然隕石が落ちたとか、そういう不可抗力が一つくらい挟まるものじゃないのか。

 

何もなかったぞ。

 

志喜屋さん、自力で来たぞ。

 

「……志喜屋先輩」

 

「ん……?」

 

「今」

 

俺の声が裏返りかけた。

 

志喜屋さんは無表情に近い顔で俺を見ている。

 

けれど。

 

いつもと少しだけ違う。

 

右手の人差し指が、自分の唇に触れた。

 

確かめるように。

 

それから、ほんの少しだけ俺から目を逸らす。

 

「……?」

 

「いや、こっちが聞きたいんですけど」

 

志喜屋さんはしばらく黙っていた。

 

そして胸元に手を置く。

 

「……変」

 

「何がです?」

 

「ここ……速い」

 

「それは知りませんよ」

 

知りませんよ、と言ったものの、俺の心臓も人のことは言えない。

 

体育の持久走でも、もう少し節度がある。

 

志喜屋さんは自分の胸に置いた手を見下ろしていた。

 

本当に不思議そうな顔だった。

 

たぶんこの人自身も、想定した結果とは違ったのだ。

 

だからといって、実験台にされた俺としては納得できない。

 

「志喜屋先輩」

 

「うん」

 

「今の、どういう意味ですか」

 

「……キス」

 

「動作名じゃなくてですね」

 

「違った…?」

 

「合ってます。そこは合ってるんですけど」

 

俺が欲しいのは国語辞典的な回答じゃない。

 

なぜしたのか。

 

どういうつもりだったのか。

 

普通なら、そのあたりを確認するべきだ。

 

普通なら。

 

志喜屋さんは再び祭壇へ目を向ける。

 

「……お嫁さんに……なってない?」

 

「当たり前ですよ」

 

「じゃあ……違った」

 

「何がですか」

 

「思ってたのと」

 

「何を思ってたんです?」

 

「……秘密」

 

そこで会話は終わった。

 

いや、終わらせられた。

 

志喜屋さんは何事もなかったように歩き始める。

 

「次……見る」

 

「ちょっと待ってください」

 

「時間……なくなる…」

 

「こっちは人生観が若干変わりかけてるんですが」

 

「大変」

 

「他人事ですね」

 

志喜屋さんは振り返った。

 

そしてまた俺の顔を見る。

 

正確には――口元を見る。

 

一秒。

 

二秒。

 

三秒。

 

その視線に耐えられず、俺は顔を背ける。

 

「何ですか」

 

「……別に」

 

それから志喜屋さんは歩き出した。

 

俺も追うしかない。

 

チャペルの出口をくぐる寸前、振り返ってみる。

 

さっきまで俺たちが立っていた場所には、当然何も残っていない。

 

事故現場みたいに黄色いテープが張られているわけでもない。

 

ただ。

 

俺の中だけに、はっきりと何かが残っていた。

 

 

式場を出たあと、俺たちは予定していた用事を続けた。

 

少なくとも表面上は。

 

志喜屋さんは相変わらず言葉が少なく、歩く速度もいつも通り。

 

俺の少し前を歩いたり、急に止まったり、気になるものを見つければ寄っていったりする。

 

それなのに。

 

さっきまでなら何とも思わなかった距離が、妙に近く感じる。

 

肩が触れそうになるだけで意識する。

 

声が耳元に来るだけで身構える。

 

そして、最悪なことに。

 

志喜屋さんの口元に目が行く。

 

俺は慌てて前を見る。

 

違う。

 

違うぞ。

 

これはさっきの衝撃が大きかったからだ。

 

人間は予想外の出来事を何度も反芻する。

 

交通事故に遭った人が直前の光景を繰り返し思い出すのと同じだ。

 

つまりこれは、恋愛ではなく危機管理。

 

そういうことにしておこう。

 

「……温水さん」

 

少し離れたところで、聞き慣れた声がした。

 

馬剃天愛星だった。

 

こちらへ歩いてくる天愛星さんは、俺と志喜屋さんを交互に見る。

 

「お疲れさまでした。下見のほうはいかがでしたか?」

 

「まあ、特に問題なく」

 

「……そうですか?」

 

「何か?」

 

天愛星さんの眉がわずかに寄る。

 

「いえ。その……」

 

志喜屋さんを見る。

 

次に俺を見る。

 

「お二人とも、出発されたときと少し雰囲気が違うような気がして」

 

心臓が止まりかける。

 

怖い。

 

この人、そういうところ無駄に鋭くないか。

 

「気のせいですよ」

 

即答した。

 

天愛星さんがさらに怪訝な顔をする。

 

「まだ何も聞いていませんけど」

 

しまった。

 

「いや、その、式場って普段来ない場所なんで、多少疲れたというか」

 

「……なるほど」

 

明らかに納得していない。

 

天愛星さんの視線が志喜屋さんへ向く。

 

「志喜屋先輩も、お疲れですか?」

 

「……うん」

 

助かった。

 

さすが志喜屋さん。

 

こういうときに余計なことを言わない――

 

「キスは……」

 

「先輩!?」

 

思わず大声が出た。

 

三人の間に沈黙が落ちる。

 

志喜屋さんは首を傾げる。

 

天愛星さんの目が見開かれる。

 

「……キス?」

 

終わった。

 

高校生活終了。

 

俺の脳内で退学届が自動生成され始める。

 

だが志喜屋さんは数秒考えてから言った。

 

「……チャペルで……するもの?」

 

「え?」

 

「結婚式……キスする?」

 

「あ、ああ。そういう意味ですか」

 

天愛星さんは少し考え、頬をわずかに赤くする。

 

「まあ……式によっては、そのような演出もあるのではないでしょうか」

 

「ふうん……」

 

志喜屋さんはそこで話を終えた。

 

俺は額に浮いた汗を拭う。

 

危なかった。

 

今のは十割志喜屋さんのせいなのに、なぜ俺だけが命拾いした気分になっているんだろう。

 

天愛星さんはまだ俺を見ていた。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「やっぱり何かありました?」

 

「何もありません」

 

「そうですか……」

 

その日の天愛星さんは最後まで納得していなかった。

 

そして俺も、自分の言った「何もありません」を、最後まで信じることができなかった。

 

2 一度だけなら、例外処理

 

その夜。

 

布団に入った俺は、目を閉じた。

 

十秒後に開いた。

 

眠れない。

 

理由は分かっている。

 

分かっているが、認めたくない。

 

脳内で、昼間の映像が勝手に再生される。

 

志喜屋さんの顔が近づいてくる。

 

目。

 

鼻。

 

唇。

 

――停止。

 

「……やめろ」

 

誰もいない部屋で呟く。

 

今のは事故ではない。

 

正確には、志喜屋さんによる計画性の低い突発行動だ。

 

それ以上でも以下でもない。

 

志喜屋さんは普段から、一般人の想定を越えた動きをする。

 

妙に距離が近かったり、急に意味の分からないことを言ったり、こっちの反応を見ているのか見ていないのか分からない行動を取ったり。

 

今回もその一種。

 

ただし接触部位が唇だった。

 

それだけ。

 

……それだけという言葉にしては、影響が大きすぎないか。

 

スマホを見る。

 

メッセージは来ていない。

 

志喜屋さんからはもちろん、誰からも。

 

何を期待しているんだ、俺。

 

「さっきのことは忘れて」とか?

 

それはそれで困る。

 

いや、困るって何だ。

 

忘れていいなら忘れればいいだろう。

 

俺は布団を頭まで被った。

 

再び目を閉じる。

 

数秒後。

 

また志喜屋さんの顔が近づいてきた。

 

脳内映像の解像度が高い。

 

記憶力の無駄遣いもいいところだ。

 

 

翌日。

 

学校で志喜屋さんを見かけた。

 

廊下の向こうから歩いてくる。

 

それだけなのに、俺の体が一瞬固まった。

 

昨日までなら普通に挨拶して終わる。

 

今日もそうすればいい。

 

「おはようございます」

 

「……おはよう」

 

普段通り。

 

完璧だ。

 

俺はそのまま通り過ぎようとする。

 

「……待って…」

 

無理だった。

 

振り返る。

 

志喜屋さんが近づいてくる。

 

近い。

 

反射的に半歩下がってしまう。

 

その動きを、志喜屋さんは見逃さなかった。

 

眠そうな目が俺の足元へ落ち、また顔へ戻る。

 

「……逃げた…?」

 

「逃げてませんよ」

 

「動いた」

 

「人にはパーソナルスペースというものがありまして」

 

「昨日は……なかった?」

 

「昨日もありました」

 

「そう……」

 

そこで志喜屋さんは黙った。

 

俺も黙る。

 

気まずい。

 

志喜屋さんとの沈黙は今までそれほど苦ではなかった。

 

むしろこの人は沈黙している時間のほうが長いくらいだ。

 

なのに今は、その沈黙の中に昨日の件が置かれている。

 

俺は口を開く。

 

「志喜屋先輩」

 

「うん」

 

「昨日の――」

 

志喜屋さんの視線が、俺の口元に落ちた。

 

言葉が止まる。

 

ほんの一瞬。

 

だが確実だった。

 

そして志喜屋さん自身も、それに気づいたらしい。

 

目線を横へ逸らす。

 

「……授業」

 

「え?」

 

「始まる」

 

「まだ結構ありますけど」

 

「準備……する」

 

そのまま歩いていってしまった。

 

逃げた。

 

今のは絶対に逃げただろ。

 

俺が昨日下がった半歩とは比べ物にならない戦略的撤退だ。

 

なのに、なぜだか追いかけて問いただす気にはなれなかった。

 

自分でも理由は分かっている。

 

答えを聞くのが怖かったのだ。

 

「何となく」

 

「試したかった」

 

「意味はない」

 

そのどれかを言われれば、たぶん俺は安心できる。

 

安心して――少しだけ、何かを失った気分になる。

 

そんな予感があった。

 

だから聞けない。

 

最低限の安全地帯を守ったまま、俺たちは昨日のことをなかったことにし始めた。

 

3 何もない二人は、たぶんそんなに不自然じゃない

 

数日後。

 

文芸部の部室で、俺は本を読んでいた。

 

正面には小鞠。

 

横では八奈見さんがお菓子の袋を開けている。

 

平和だ。

 

こういうのでいい。

 

高校生活に求められているのは、誰かとチャペルでキスすることではない。

 

放課後に部室で本を読む。

 

友人が勝手にお菓子を食べる。

 

後輩がパソコンに向かって何か打っている。

 

そういう日常こそ――

 

扉が開いた。

 

「……いた」

 

日常終了。

 

志喜屋さんだった。

 

「こんにちは」

 

「うん」

 

八奈見さんがクッキーを持ったまま振り返る。

 

「志喜屋先輩?」

 

小鞠も画面から顔を上げた。

 

「ど、どうしたんですか」

 

「……温水君に、用」

 

二人の視線が俺へ集まる。

 

俺は読んでいた本に目を落とす。

 

なぜそこで俺を見る。

 

「何ですか?」

 

「これ」

 

志喜屋さんが差し出したのは、小さな封筒だった。

 

「生徒会から?」

 

首を横に振る。

 

「違う」

 

受け取る。

 

中には――式場でもらった資料の一部が入っていた。

 

俺は即座に封を閉じた。

 

「何で今これを」

 

「忘れてた」

 

「俺に渡す必要あります?」

 

「一緒に……見たから」

 

「そうですけど」

 

横から八奈見さんの顔が伸びてくる。

 

「何それ?」

 

「何でもないです」

 

「今、隠したよね」

 

「隠してません」

 

「じゃあ見せて」

 

「嫌です」

 

「隠してるじゃん」

 

面倒くさい。

 

志喜屋さんは俺たちのやり取りを眺めている。

 

小鞠が怪訝そうに眉を寄せた。

 

「お、お前……志喜屋先輩と、な、何してたんだ?」

 

「ちょっと用事があっただけだよ」

 

「ふーん」

 

八奈見さんが俺の顔を見る。

 

そして志喜屋さんを見る。

 

また俺を見る。

 

「ねえ温水君」

 

「何?」

 

「なんか変じゃない?」

 

「何が?」

 

「二人」

 

心臓が嫌な音を立てた。

 

「普通だよ」

 

「普通かなあ」

 

「普通です」

 

「じゃあ何で先輩が近づくたびに椅子引いてるの?」

 

言われて初めて気づく。

 

俺の椅子は最初にいた位置から二十センチくらい後退していた。

 

志喜屋さんが一歩近づくたびに、無意識に下がっていたらしい。

 

小鞠が半眼になる。

 

「き、気持ち悪い動きしてるぞ」

 

「本人に言う?」

 

「だ、だって気持ち悪いし」

 

八奈見さんは腕を組んだ。

 

「何かあった?」

 

「何もないよ」

 

「即答だね」

 

「何もないからね」

 

「志喜屋先輩」

 

「うん…?」

 

「何かありました?」

 

志喜屋さんは俺を見る。

 

数秒。

 

俺は無言で訴える。

 

頼む。

 

余計なことは言わないでくれ。

 

志喜屋さんは少し首を傾げる。

 

「……あった」

 

「ほら!」

 

八奈見さんがテーブルを叩く

 

「式場……行った」

 

「それは知ってますよ」

 

「そ、それだけか?」

 

「それだけだって」

 

八奈見さんが目を細める。

 

「志喜屋先輩?」

 

「……」

 

志喜屋さんは黙った。

 

俺を見る。

 

また口元を見る。

 

ほんの一瞬だった。

 

だが八奈見さんは、その視線まで見ていたらしい。

 

「え」

 

嫌な声を出した。

 

俺は立ち上がる。

 

「…八奈見さん、どうかしたの?」

 

「いや……」

 

八奈見さんの視線が俺の顔の下半分に集中する。

 

「何で志喜屋先輩、温水君の口見てるの?」

 

「知らないよ!」

 

「な、なんだよそれ……」

 

小鞠まで警戒し始める。

 

志喜屋さんは考えるように瞬きをしたあと、俺へ一歩近づいた。

 

俺は一歩下がった。

 

八奈見さんが両目を見開く。

 

小鞠が椅子を引いた。

 

「ちょっと待って。ほんとに何?」

 

「何もないって」

 

「何もない人の距離感じゃないんだけど」

 

「これは志喜屋先輩が近いだけだよ」

 

「前から近かったでしょ」

 

鋭い。

 

余計なところだけ鋭い。

 

志喜屋さんが俺を見上げる。

 

「……前は……逃げなかった」

 

「言わなくていいです」

 

「今は……逃げる…」

 

「だから言わなくていいですって」

 

八奈見さんの目から温度が消えた。

 

「へえ」

 

小鞠は完全にパソコンを閉じている。

 

「ぬ、温水、お前…」

 

「違うから」

 

「な、何が違うんだよ。まだ何も言ってねえ」

 

俺、今日これ二回目だな。

 

墓穴の量産工場になっている。

 

「先輩、用事は終わりましたよね?」

 

「……うん」

 

「じゃあ」

 

帰ってください、とまでは言いづらい。

 

志喜屋さんはしばらく俺を見る。

 

そして。

 

「また……二人のときに聞く…」

 

「何をですか」

 

「……秘密」

 

それだけ言って、部室を出ていった。

 

扉が閉まる。

 

十秒くらい誰も話さなかった。

 

八奈見さんがゆっくりと椅子へ座る。

 

「温水君」

 

「はい」

 

「事情聴取しよっか」

 

「嫌だよ」

 

「小鞠ちゃん、入口」

 

「お、おう」

 

「何で協力的なんだよ」

 

その日俺は二十分近く尋問された。

 

もちろん何も言わなかった。

 

言えるわけがない。

 

そして不思議なことに。

 

俺はキスをしたことそのものよりも、「二人だけの秘密」という形になっていることを強く意識していた。

 

4 口元を見る理由

 

志喜屋さんは、あの日のことを話さない。

 

俺も話さない。

 

それなら自然に消えていくと思っていた。

 

人間の記憶は薄れる。

 

ましてや数秒の出来事。

 

一度きりなら、いくらでも例外として処理できる。

 

ところが。

 

二週間。

 

三週間。

 

時間が経っても、消えなかった。

 

それどころか妙な変化が増えていった。

 

放課後、廊下で会う。

 

「……温水君」

 

「こんにちは」

 

「今日……部活?」

 

「そうですよ」

 

「ふうん」

 

そこで志喜屋さんは俺の口元を見る。

 

俺が気づく。

 

目を逸らす。

 

終わり。

 

別の日。

 

自販機の前。

 

「……温水君…これ……」

 

「いや、いいです」

 

「まだ……何も言ってない」

 

「先に断っただけです」

 

「……これ」

 

志喜屋さんが持っていた飲み物を少し持ち上げる。

 

「新しい味…」

 

「じゃあ感想教えてください」

 

「……飲まない?」

 

「飲みません」

 

「……どうして?」

 

志喜屋さんの目が細くなる。

 

俺は気づいた。

 

今までなら、同じ飲み物を一口勧められたところで、ここまで意識しなかった。

 

今は違う。

 

間接なんとかという中学生みたいな単語が頭をよぎる。

 

さすがに情けない。

 

「……気にしてる…?」

 

「何をです?」

 

「分からない…」

 

そう言いながら、志喜屋さんは俺の口を見る。

 

「あの、口を見られると恥ずかしいです」

 

ぴたりと止まった。

 

志喜屋さんが瞬きをする。

 

「……見てた?」

 

「見てましたよ」

 

「そう」

 

「自覚なかったんですか」

 

「……なかった」

 

その答えは、たぶん本当だった。

 

志喜屋さんは自分の唇へ指を当てる。

 

式場のときと同じ仕草。

 

俺の頭の中に、あの日の光景が蘇る。

 

やめてくれ。

 

本人が記憶再生ボタンを押すんじゃない。

 

「……温水君」

 

「はい」

 

「一回……したから?」

 

呼吸が止まる。

 

ついに出た。

 

今まで二人とも避け続けてきた単語に、一番近いところまで来た。

 

「一回って」

 

「……」

 

「そこまで言ったなら最後まで言ってくださいよ」

 

志喜屋さんは黙る。

 

珍しく視線が落ち着かない。

 

俺を見る。

 

自販機を見る。

 

手に持った飲み物を見る。

 

「……分からない」

 

結局、そう言った。

 

「何がです?」

 

「見たくなる……理由」

 

声はいつもと変わらない。

 

低くて、淡々としている。

 

だけど、手の中のペットボトルが少しだけ強く握られた。

 

「……また……したい…のかも…?」

 

心臓が跳ねた。

 

聞き間違いかと思った。

 

「え」

 

「でも……」

 

志喜屋さんはすぐ続けた。

 

「何でか……分からない」

 

俺は何も言えなかった。

 

そこが、志喜屋夢子という人なんだと思う。

 

もし普通のラブコメなら、ここで照れながら「好きだから」と続く。

 

話は簡単だ。

 

相手が好き。

 

だからキスしたい。

 

以上。

 

けれど志喜屋さんは、自分の中に生まれたものへ、そんな簡単な名前をつけない。

 

いや。

 

つけられない。

 

「実験みたいなものじゃないですか?」

 

口から勝手に言葉が出た。

 

「最初も、キスするとどうなるか試したかったんでしょう?」

 

「……たぶん」

 

「だったら、その続きが気になってるだけですよ」

 

「そう?」

 

「そうですよ」

 

俺は自分に言い聞かせるように続ける。

 

「一回目でよく分からなかった。それだけじゃないですか」

 

志喜屋さんは俺を見つめた。

 

「……温水君は?」

 

「何がです?」

 

「もう一回……したい?」

 

やめてくれ。

 

そういう質問を無表情で投げるのを。

 

「俺は別に……」

 

「そう」

 

即答した。

 

志喜屋さんは少しだけ目を伏せた。

 

それだけ。

 

残念そうにしたわけでもない。

 

傷ついた顔でもない。

 

でも。

 

「じゃあ……いい」

 

そう言って歩き始める。

 

数歩進んだところで、俺は妙な引っかかりを覚えた。

 

呼び止める理由はない。

 

俺はちゃんと答えた。

 

別にもう一度したいとは思わない。

 

――本当に?

 

答えを考えそうになって、やめた。

 

一回きりなら、考えなくていい。

 

そういうことにした。

 

5 言ってないことは、ないことになるのか

 

時間は進んだ。

 

ラノベなら巻数が変われば、前の事件は一段落した扱いになる。

 

現実はそう都合よくない。

 

式場のキスを引きずったまま、俺の周りには別の面倒事が増えていった。

 

人間関係は変わる。

 

俺が望もうが望むまいが。

 

その中でも、とりわけ大きかったのが――天愛星さんのことだった。

 

彼女から向けられた言葉を、俺はもう「気のせい」では処理できない。

 

少なくとも、天愛星さんの気持ちについては。

 

だからこそ、余計に面倒になった。

 

ある日の放課後。

 

俺は天愛星さんと向かい合っていた。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「先ほどから、三回ほど廊下を見ています」

 

「そんなに見てた?」

 

「はい」

 

「よく数えてるね」

 

「気になりましたので」

 

誤魔化せなかった。

 

廊下の向こうを志喜屋さんが通った。

 

それだけだ。

 

声をかけられたわけでもない。

 

なのに視線が勝手に追ってしまった。

 

「志喜屋先輩ですよね」

 

「そうですね」

 

「何か御用があったのでしょうか」

 

「いや、別に」

 

天愛星さんが黙る。

 

告白前なら、ここで話題は終わったかもしれない。

 

今は違う。

 

彼女は一度、自分の気持ちを俺へ渡している。

 

だから俺も、「ただの友人の質問」とだけ扱うことができなくなっていた。

 

天愛星さんは机の上で両手を重ねる。

 

「一つ、お聞きしてもよろしいですか」

 

「内容によります」

 

「志喜屋先輩と何かありましたか?」

 

直球だった。

 

俺は黙る。

 

天愛星さんの表情が少し硬くなる。

 

「以前から気になっていました」

 

「以前?」

 

「結婚式場の下見から戻られた日です」

 

覚えていたのか。

 

「お二人とも、それまでと様子が違いました」

 

「気のせいですよ」

 

「今でもそう思いますか?」

 

返せない。

 

天愛星さんは責めるような口調ではなかった。

 

敬語。

 

丁寧。

 

それでも、引く気がないのは分かる。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「何もないのでしたら、そう言っていただければ信じます」

 

「……」

 

「ですが」

 

そこで一度、言葉を切った。

 

「答えたくないのでしたら、それも答えだとは思います」

 

心臓に悪い。

 

この人は真面目だからこそ、ときどき逃げ道を綺麗に塞いでくる。

 

「別に、今続いてる何かがあるわけじゃないよ」

 

ようやく言った。

 

嘘ではない。

 

交際していない。

 

恋人でもない。

 

キスも一度きり。

 

「昔、ちょっと変なことがあっただけで」

 

「変なこと……ですか」

 

「はい」

 

「私が聞いても?」

 

「困ると思う」

 

「温水さんが?」

 

「俺が」

 

天愛星さんは息を吐いた。

 

「そうですか」

 

それ以上は聞かなかった。

 

助かった――と思った直後。

 

「では、もう一つだけ」

 

「なに?」

 

「その『変なこと』を、温水さんは今も気にしているんですか?」

 

答えられなかった。

 

天愛星さんの表情がわずかに曇る。

 

俺は慌てる。

 

「いや、気にしてるっていうか、時々思い出すだけで」

 

「それを、気にしていると言うのでは?」

 

正論だった。

 

「でも別に、何かしようとしてるわけじゃないんだ」

 

「はい」

 

「志喜屋先輩とどうこうなりたいとか」

 

「はい」

 

「だから――」

 

「温水さん」

 

遮られた。

 

天愛星さんは困ったような顔をしていた。

 

「私は、何も責めていません」

 

その言葉に、逆に何も言えなくなる。

 

「私が気にしてしまうのは……仕方がありません」

 

少しだけ頬が赤い。

 

「ですから、温水さんが無理に『何でもない』ことにしなくてもいいです」

 

「……」

 

「ただ」

 

目が合う。

 

「私の知らないところで、勝手に全部終わったことにされるのは……少し嫌です」

 

その言葉の意味を、俺は完全には理解できなかった。

 

いや。

 

理解しないようにした。

 

たぶんこれは天愛星さん自身の気持ちの話だ。

 

志喜屋さんとの件だけではない。

 

俺が何でも「なかったこと」にして逃げる姿勢そのものへの不満なのだろう。

 

天愛星さんと別れたあと。

 

俺は廊下を歩きながら考えた。

 

一回なら事故。

 

一回なら好奇心。

 

一回なら例外。

 

そう言い続けているのは、志喜屋さんではなく――俺のほうなのかもしれない。

 

6 八奈見さんは、答えがない話ほど聞きたがる

 

「温水君」

 

「何ですか」

 

「最近さ」

 

嫌な予感。

 

「志喜屋先輩と何かあった?」

 

またこれだ。

 

文芸部の部室。

 

八奈見さんは菓子パンを食べながら、世間話と同じ温度で爆弾を投げてきた。

 

「それは前にも聞いてない?」

 

「前は『何かあった?』でしょ」

 

「同じだよ」

 

「今回は『最近何かあった?』」

 

時間指定が追加されただけじゃないか。

 

向かいで本を読んでいた小鞠が顔を上げる。

 

「ま、まだやってんのか」

 

「何をだよ」

 

「そ、その……怪しいやつ」

 

「やってない」

 

八奈見さんがパンを置く。

 

「じゃあ質問変えるね」

 

「嫌な予感しかしない」

 

「志喜屋先輩のこと……好きなの?」

 

俺は一瞬固まった。

 

小鞠がむせる。

 

「お、おい八奈見!」

 

「だってさ…聞いたほうが早いじゃん」

 

「早くないよ」

 

何で答える前提なんだ。

 

八奈見さんは不思議そうな顔をする。

 

「違うなら違うって言えばいいだけでしょ」

 

違う。

 

そのはずだ。

 

俺は志喜屋さんが好きだからキスのことを気にしているわけじゃない。

 

キスされたから気になっている。

 

順序が逆だ。

 

「違うよ」

 

そう答えた。

 

八奈見さんの目が俺を見ている。

 

妙に静かだ。

 

「ふーん」

 

「…何?」

 

「温水君さ」

 

菓子パンの袋を畳みながら続ける。

 

「『好きじゃない』とは言うけど、『何とも思ってない』とは言わないよね」

 

「同じようなものでしょ」

 

「違うでしょ」

 

八奈見さんは即答した。

 

小鞠もこちらを見ている。

 

「好きじゃない相手でも気になることはあるし、嫌いじゃないから好きってわけでもないし」

 

「珍しくまともなこと言うね」

 

「温水君、私のこと何だと思ってるの?」

 

よく食べる人だとは思う。

 

「表出ようか」

 

まずい、無意識に口に出ていたようだ。

 

八奈見さんはため息をつく。

 

「まあいいけど。何か隠してるのは確定っぽいし」

 

「小鞠ちゃんもそう思うでしょ?」

 

「え」

 

突然振られた小鞠が肩を跳ねさせる。

 

「わ、私は……」

 

俺を見る。

 

目を逸らす。

 

「……何かは、あると思う」

 

裏切り者。

 

「ほら」

 

「多数決で人の秘密を作らないでよ」

 

「秘密なんだ?」

 

「違うけどね」

 

八奈見さんが笑う。

 

「温水君、ほんとこういうとき分かりやすいよね」

 

笑ったあと。

 

ほんの少しだけ、その表情が変わった。

 

「……まあ」

 

八奈見さんは窓の外を見る。

 

「言いたくないなら、いいけど」

 

思っていたより簡単に引いた。

 

「え…いいの?」

 

「何で残念そうなの…」

 

「残念じゃないよ」

 

「たださ」

 

振り返る。

 

「分かんないままにしてたら、ずっとそのままだと思うよ」

 

「何が?」

 

「知らない」

 

無責任だな。

 

「自分で考えなよ」

 

八奈見さんは新しいお菓子を開けた。

 

その横で小鞠が小さく呟く。

 

「……先輩、卒業するだろ」

 

俺はそちらを見る。

 

「え?」

 

「志喜屋先輩。三年だし」

 

「ああ」

 

当たり前のことだった。

 

知っていた。

 

もちろん知っていた。

 

なのに、その言葉を聞いた瞬間。

 

胸の奥に、小さな違和感が落ちた。

 

7 残り時間

 

三年生はいずれ学校からいなくなる。

 

そんなことは一年生でも知っている。

 

卒業。

 

進学。

 

それぞれの進路。

 

当たり前の制度だ。

 

志喜屋さんも例外ではない。

 

俺より一学年上。

 

つまり、俺が今の生活を続けている間に、志喜屋さんはここからいなくなる。

 

それだけの話。

 

その日から、なぜか俺は校内で志喜屋さんを見かけるたびに、その事実を思い出すようになった。

 

階段。

 

廊下。

 

校庭。

 

生徒会室の近く。

 

これまで何となく存在していた人が、急に期間限定になったような感覚。

 

期間限定。

 

我ながら失礼な表現だ。

 

「……何?」

 

ある日の放課後。

 

俺が見ていたことに気づいた志喜屋さんが立ち止まった。

 

「いえ、別に」

 

「見てた…」

 

「たまたまです」

 

「……長かった…」

 

「気のせいですよ」

 

志喜屋さんが近づいてくる。

 

以前なら俺が下がる。

 

最近は、下がらなくなった。

 

慣れたのか。

 

それとも。

 

「……逃げない…」

 

「いつまでも逃げてたら不自然でしょう」

 

「……そう…」

 

志喜屋さんは俺の顔を見る。

 

また口元。

 

今度は目を逸らさなかった。

 

俺も気づいていることを、たぶん向こうも分かっている。

 

それでも何も言わない。

 

「先輩」

 

「うん」

 

「卒業したら、どうするんです?」

 

突然聞いた。

 

自分でも驚いた。

 

志喜屋さんが瞬きをする。

 

「……どうする?」

 

「進路とか。その後です」

 

「決まってる」

 

「そうではなくて」

 

「……?」

 

何を聞きたかったんだ、俺は。

 

学校からいなくなったら、俺とはどうなるんですか。

 

そんな質問をするつもりだったのか。

 

馬鹿か。

 

今だって別に何でもない。

 

毎日会っているわけでもない。

 

連絡を取り合うような仲でもない。

 

先輩と後輩。

 

知り合い。

 

友人――と言っていいのかは微妙。

 

そこに、一回だけキスしたという説明不能な項目が挟まっている。

 

「……温水君」

 

「はい」

 

「いなくなるの……嫌?」

 

一瞬、答えられなかった。

 

志喜屋さんは無表情だった。

 

いつも通り。

 

だからこそ困る。

 

「学校から三年生がいなくなるのは普通でしょう」

 

逃げた。

 

口にした瞬間、自分でも分かった。

 

志喜屋さんも分かったらしい。

 

「……そういうの……聞いてない……」

 

「じゃあ何を」

 

「私」

 

短い。

 

たった一言。

 

「私が……いなくなるの」

 

その質問はずるい。

 

俺は視線を逸らす。

 

「いなくなるって言っても、別にこの世から消えるわけじゃないですよね」

 

「うん」

 

「連絡しようと思えばできますし」

 

「…うん」

 

「だから、嫌とかそういう大げさな話じゃ」

 

「……そう」

 

会話が終わった。

 

志喜屋さんは歩き出す。

 

何かを間違えた気がした。

 

「先輩」

 

呼び止める。

 

振り返った。

 

でも。

 

続きの言葉が出ない。

 

「……何?」

 

「あ、いえ」

 

また逃げる。

 

「何でもないです」

 

志喜屋さんは少し待った。

 

そして。

 

「……そっか」

 

今度こそ行ってしまった。

 

その背中を見ながら思う。

 

俺は、何が怖いんだろう。

 

先輩がいなくなることか。

 

今の関係が変わることか。

 

それとも。

 

変わらないまま終わることなのか。

 

8 花火の夜にも、答えは出ない

 

夏。

 

人の関係が大きく動くのを、俺はまた近くで見ることになった。

 

自分のことではない。

 

桜井君と小春さん。

 

放虎原先輩。

 

八奈見さん。

 

天愛星さん。

 

いろんな人の事情が重なった花火の日。

 

そしてそこへ、志喜屋さんまで現れた。

 

浴衣姿だった。

 

志喜屋さんが耳元で囁いた。

 

「私……誘われて……ない……」

 

低い声。

 

間。

 

明らかに不満が混ざっている。

 

「だって先輩、受験生じゃないですか。気軽に誘えませんって」

 

「それは分かる……けど、不満……」

 

肩にかかる重み。

 

志喜屋さんのヒンヤリとした吐息と指先が、そよ風のように首筋をくすぐっていく。

 

距離が近い。

 

花火大会の人混み。

 

普段なら、それを理由にできる。

 

でも今は。

 

志喜屋さんが俺へ近づくたび、あのチャペルを思い出す。

 

あの頃より時間は経った。

 

いろいろなことがあった。

 

それでも。

 

忘れてはいない。

 

「……温水君」

 

「何です?」

 

視線が落ちる。

 

やっぱり口元。

 

「……何でも……ない…」

 

何でもなくはないだろう。

 

志喜屋さんは少しだけ首を傾げた。

 

そのとき。

 

「温水さん、お待たせしました」

 

天愛星さんの声。

 

振り返る。

 

天愛星さんがこちらへ戻ってきていた。

 

目が、俺と志喜屋さんの間を測るように動く。

 

「志喜屋先輩もいらしていたんですね」

 

「……うん…」

 

「そうですか」

 

笑顔。

 

丁寧。

 

問題は、その笑顔が少し硬い。

 

志喜屋さんは天愛星さんを見る。

 

そして俺を見る。

 

「……じゃあ」

 

「帰るんですか?」

 

「うん」

 

「誰かと来たんですよね?」

 

志喜屋さんは答えない。

 

数歩歩いたあと、振り返る。

 

「温水君……」

 

「はい」

 

「……またね…」

 

「はい」

 

それだけだった。

 

天愛星さんが、去っていく志喜屋さんの後ろ姿を見ている。

 

「……ずいぶん仲がよろしいんですね」

 

「そう見えます?」

 

「はい」

 

「普通ですよ」

 

「またそれですか。…温水さんは酷いです。」

 

「何ですか」

 

「いえ」

 

天愛星さんはそれ以上言わなかった。

 

だけど、その夜。

 

花火を見ながら。

 

桜井君たちのことを気にしながら。

 

八奈見さんと天愛星さんの妙な牽制に巻き込まれながら。

 

俺は何度も、さっきの志喜屋さんを思い出した。

 

誘われなかったことへの不満を、あの人は隠さなかった。

 

卒業したらどうなるのか。

 

俺が誘わなければ、会わない日が増える。

 

向こうから現れるのを待っているだけでは、いつか何も起きなくなる。

 

それは当然なのに。

 

妙に落ち着かなかった。

 

9 一度目には、理由がいらない

 

花火から少し経った日。

 

志喜屋さんから珍しくメッセージが来た。

 

短い。

 

『来れる?』

 

場所だけが続いている。

 

事情はない。

 

この人らしいと言えば、この人らしい。

 

指定された場所へ向かうと、志喜屋さんは一人でいた。

 

ベンチに座っている。

 

俺を見ると、少しだけ手を上げた。

 

「何かありました?」

 

「……ない…」

 

「じゃあ何で呼んだんですか」

 

「……呼びたかった……」

 

簡潔すぎる。

 

「受験勉強は?」

 

「してる」

 

「ならいいですけど」

 

隣に座る。

 

以前なら少し間隔を空けていた。

 

今日は、志喜屋さんのほうがその隙間を埋めるように寄ってくる。

 

肩が触れるほどではない。

 

でも近い。

 

「……温水君」

 

「はい」

 

「聞いていい?」

 

「内容によります」

 

「一回なら……」

 

志喜屋さんが止まる。

 

俺は分かった。

 

何の話か。

 

分かった瞬間、心臓が速くなる。

 

「一回なら……何でもない?」

 

俺は正面を見る。

 

「何の話ですか」

 

最低だ。

 

ここまで来てまだ逃げるのか。

 

「分かってる」

 

「……」

 

「温水君……分かってる……」

 

「そうですね」

 

観念する。

 

「分かってます」

 

志喜屋さんは自分の唇に触れた。

 

「最初……試した」

 

「でしょうね」

 

「キスしたら……どうなるか」

 

「人体実験なら先に同意取ってください」

 

「……ごめん…ね……」

 

まさか謝られるとは思わなかった。

 

思わず横を見る。

 

志喜屋さんもこちらを見る。

 

「……嫌だった?」

 

答えに困る。

 

嫌だったか。

 

違う。

 

少なくとも、今思い返して嫌な記憶ではない。

 

むしろ問題は逆だ。

 

「びっくりはしました」

 

「うん」

 

「普通、突然しませんよ」

 

「うん」

 

「先輩だから、まあ……そういうこともあるのかなって」

 

「私……だから…?」

 

「そうです」

 

「じゃあ……」

 

志喜屋さんの声が少し小さくなる。

 

「誰でも……同じ?」

 

違う。

 

即座に思った。

 

志喜屋さんじゃなければ、同じではなかった。

 

でも口にする直前で止める。

 

それを言ったら、意味が生まれる。

 

「その仮定に意味あります?」

 

「ある……かも……」

 

「何でです」

 

「……分からない」

 

まただ。

 

志喜屋さんは分からないと言う。

 

だけど以前とは違う。

 

分からないことから逃げるためではない。

 

分からないものを、そのまま俺へ差し出している。

 

「最近……」

 

「はい」

 

「またしたいって、思う……」

 

喉が鳴る。

 

「でも」

 

「……」

 

「一回目みたいには……したくない」

 

俺は横を見る。

 

志喜屋さんは俺を見ていなかった。

 

自分の手を見ている。

 

「どういう意味です?」

 

「勝手に……した」

 

「まあ、そうですね」

 

「…今度は……」

 

続きが来ない。

 

かなり長い沈黙。

 

俺は待つ。

 

「……分からない」

 

「またですか」

 

「…うん」

 

少しだけ、志喜屋さんの口元が緩んだ。

 

笑ったのかもしれない。

 

俺も息を吐く。

 

「じゃあ、分かるまでやめとけばいいじゃないですか」

 

「うん」

 

「一回しただけなら、それで終わりにもできますし」

 

口にした瞬間。

 

胸が少し痛んだ。

 

志喜屋さんがゆっくりこちらを見る。

 

「君は……終わりにしたい?」

 

また。

 

答えられない。

 

「そういう意味じゃなくて」

 

「じゃあ……どういう…意味?」

 

「一般論です」

 

「温水君……すぐ一般論にする」

 

「便利なんですよ、一般論」

 

「自分の話……しなくていい……から?」

 

痛いところを突かれた。

 

「先輩に言われたくないですよ」

 

「そう…なの?」

 

「自分だって分からないばっかりじゃないですか」

 

「うん」

 

認めた。

 

「分からないから……聞いてる」

 

その言葉が残った。

 

俺は、自分は違うと思っている。

 

分かっている。

 

分かっているから言わない。

 

たぶん、その差だけだ。

 

10 残りがあるうちに

 

夏が過ぎていく。

 

三年生に残された高校生活は、少しずつ短くなる。

 

志喜屋さんが卒業する。

 

そのことを意識するたび、俺は変な気分になった。

 

俺たちは恋人ではない。

 

約束もない。

 

何かを始めた覚えすらない。

 

始まっていないものが終わることなんて、本来はない。

 

なのに。

 

「温水君、最近ぼーっとしてない?」

 

八奈見さんに言われた。

 

「最近暑いからね。八奈見さんも気をつけた方がいいよ」

 

「……もう前より涼しくなってるけど」

 

「じゃあ夏の疲れかも」

 

「志喜屋先輩のこと?」

 

「何でそうなるの」

 

「今、分かりやすく目逸らしたから」

 

またこれだ。

 

小鞠は隣で原稿を読みながら、こちらを見ない。

 

ただ。

 

「……卒業、近づいてるしな」

 

小さく言う。

 

俺は本を閉じた。

 

「まだ先だろ」

 

「で、でも三年なんて受験とかで、そのうち学校来る日も減るだろ」

 

現実的な話だった。

 

八奈見さんも珍しく黙る。

 

そして少しして。

 

「会いたいなら会えばいいんじゃない?」

 

軽く言った。

 

「別に会いたいなんて」

 

「はいはい」

 

「何?」

 

「温水君のその言い方、一年くらい聞いてると翻訳できるようになるんだよね」

 

そうなのか。これから八奈見さんの前では何も言えなくなってしまうかもしれない。

 

「『別に』はだいたい別にじゃない」

 

「八奈見さん、それ殆どの人に当てはまらない?」

 

八奈見さんは笑う。

 

だがそのあと、小さく付け足した。

 

「いなくなってから考えるよりはいいんじゃない」

 

その言葉に、俺は返せなかった。

 

 

翌日。

 

廊下で志喜屋さんを見つけた。

 

向こうはまだ気づいていない。

 

俺は立ち止まる。

 

いつもなら向こうが気づくまで待つ。

 

あるいは、そのまま通り過ぎる。

 

今日は。

 

「志喜屋先輩」

 

自分から呼んだ。

 

志喜屋さんが振り返る。

 

少し驚いた顔。

 

本当にわずかだけれど。

 

「……どうしたの……?」

 

「今、時間ありますか?」

 

「ある」

 

「ちょっと付き合って欲しいです」

 

言ってから気づく。

 

表現がまずい。

 

「いや、あの、付き合ってってそういう意味じゃなくて」

 

「……そういう……意味?」

 

「忘れてください」

 

志喜屋さんが少し笑った気がした。

 

「どこ?」

 

「どこに行きましょうか」

 

「君も……変…だね」

 

「自分でもそう思います」

 

結局、特に目的もなく校内を歩いた。

 

自販機で飲み物を買う。

 

外のベンチへ座る。

 

本当にそれだけ。

 

志喜屋さんが買った飲み物を俺へ差し出す。

 

「……飲む?」

 

以前と同じ。

 

俺は一瞬迷う。

 

「自分の買ったんで」

 

「そう」

 

断った。

 

でも、昔ほど動揺しない。

 

志喜屋さんが俺の口元を見る。

 

「……まだ見るんですね」

 

「うん」

 

「理由分かりました?」

 

「少し」

 

俺は固まる。

 

「分かったんですか」

 

「たぶん……?」

 

「何です?」

 

志喜屋さんはしばらく俺を見る。

 

そして。

 

「言わない」

 

「そこまで振っておいてですか?」

 

「まだ……違う……かもしれない」

 

「慎重ですね」

 

「二回目は……」

 

止まった。

 

「二回目は?」

 

「……間違え……たくない……」

 

その声は小さかった。

 

俺は何も言えなくなる。

 

一回目は違った。

 

間違ってもよかった。

 

意味なんてなくてもよかった。

 

志喜屋さん自身、それを好奇心だと言える。

 

でも。

 

二度目は。

 

一度目を知っていて、もう一度選ぶことになる。

 

同じ行為でも意味が違う。

 

そのことを、志喜屋さんも分かり始めている。

 

「卒業しても……」

 

また止まる。

 

「……何です?」

 

「……ううん……」

 

「今日は先輩が逃げる番ですか?」

 

「うん」

 

素直に認めた。

 

「じゃあ俺も聞きません」

 

「……いいの?」

 

「聞いてほしいんですか?」

 

「分からない」

 

俺は笑ってしまった。

 

「便利ですね、それ」

 

「温水君の一般論と同じ」

 

それを言われると否定できない。

 

少しだけ、以前より同じところに立てた気がした。

 

11 二度目の前

 

その日は、たまたま二人きりになった。

 

本当にたまたまだった。

 

放課後。

 

部活を終え、校舎を出ようとしたところで志喜屋さんに会った。

 

「先輩、今から帰るんですか?」

 

「うん」

 

「俺もです」

 

それだけ。

 

一緒に校門へ向かう。

 

特別な約束はない。

 

なのに途中で志喜屋さんが足を止めた。

 

誰もいない廊下。

 

窓の外は夕方。

 

少し赤くなった光が床へ伸びている。

 

「……覚えて……る…?」

 

何を、とは聞かなかった。

 

分かっていたから。

 

「忘れろって言われてませんし」

 

「……うん……」

 

「というか、忘れられないですよ」

 

初めて口にした。

 

志喜屋さんの目が少し大きくなる。

 

俺も言ったあとで後悔した。

 

「いえ、変な意味じゃなくてですね。普通ああいうことがあったら覚えてるっていう…」

 

「一般論……?」

 

「……はい」

 

「また」

 

「便利なんですよ」

 

志喜屋さんが俺を見る。

 

今日は口元ではない。

 

目を見ている。

 

「一回だけなら……」

 

静かな声。

 

「何でもないのかもしれない」

 

俺は黙っている。

 

「間違いとか」

 

一歩。

 

志喜屋さんが近づく。

 

「試しただけとか」

 

もう一歩。

 

以前なら、ここで俺は下がっていた。

 

今日は動かなかった。

 

「事故……とか」

 

「事故ではなかったでしょう」

 

「……そう…?」

 

「自分から来ましたよね」

 

「……うん」

 

ほんの少し、視線を逸らす。

 

「でも……言い訳……できる」

 

その言葉に胸がざわつく。

 

分かる。

 

俺もずっとやってきた。

 

言い訳。

 

志喜屋さんだから。

 

好奇心だから。

 

一回だから。

 

意味なんてないから。

 

「じゃあ……」

 

志喜屋さんが俺を見る。

 

「もう一回したら……どうなる?」

 

心臓が強く鳴った。

 

問いの意味は明らかだった。

 

以前と違う。

 

志喜屋さんは動かない。

 

顔を近づけない。

 

俺へ触れない。

 

ただ待っている。

 

「……それ、俺に聞くんですか」

 

「うん」

 

先輩がしたいんだったら、…言いかけて、止まる。

 

違う。

 

それは一回目と同じだ。

 

志喜屋さんも分かっているから、動かない。

 

「今回は……」

 

志喜屋さんが小さく言う。

 

「君が……決めて……」

 

逃げ道がなくなった。

 

いや。

 

逃げようと思えば逃げられる。

 

笑って誤魔化す。

 

先輩後輩だから。

 

受験生だから。

 

卒業があるから。

 

俺なんか相手にする意味はないから。

 

志喜屋さんが何を思っているか分からないから。

 

理由はいくらでもある。

 

俺はそういう理由を探すのが得意だ。

 

自分が恋愛の当事者になる可能性を、最初から計算に入れなければいい。

 

そうすれば全部、他人事になる。

 

志喜屋さんが俺を見る。

 

ただ待っている。

 

ここで俺が何もしなければ。

 

たぶん怒らない。

 

責めない。

 

「そっか」と言って帰る。

 

そして卒業する。

 

それから先。

 

俺たちは連絡を取るかもしれない。

 

取らないかもしれない。

 

あのキスは一回だけの変な思い出になる。

 

高校生のころ、変わった先輩に突然キスされた。

 

そんな話。

 

それなら安全だ。

 

何も選ばなくていい。

 

何も失敗しない。

 

――なのに。

 

それを想像した瞬間。

 

嫌だと思った。

 

はっきりと。

 

理由はまだ分からない。

 

志喜屋さんが好きなのか。

 

恋人になりたいのか。

 

卒業してからも会いたいのか。

 

そこまで答えられない。

 

だけど。

 

一度だけの出来事として箱にしまって終わるのは嫌だった。

 

俺は一歩近づく。

 

志喜屋さんの目が少し見開かれた。

 

俺は止まる。

 

近い。

 

あの日と同じくらい。

 

「志喜屋先輩」

 

「うん」

 

「俺、たぶん今もよく分かってないです」

 

「……私も」

 

「俺たち、こういうことする関係なのかも分からない」

 

「うん」

 

「二回目をしたら、もっと分からなくなるかもしれない」

 

「…うん」

 

「それでもいいんですか」

 

志喜屋さんは少し考えた。

 

「……分からない」

 

思わず笑う。

 

「そこは決めてくださいよ」

 

「でも」

 

珍しく、言葉が続く。

 

「一回目より……怖い」

 

「……」

 

「だから」

 

俺を見る。

 

「温水君が決めて」

 

俺は息を吸った。

 

こんなのは俺らしくない。

 

きっと。

 

ラブコメの主人公なら、もっと格好いいことを言う。

 

自分の気持ちを理解して。

 

相手へ伝えて。

 

関係に名前をつける。

 

俺には無理だ。

 

好きなのかと聞かれても、今はまだ答えられない。

 

志喜屋さんも、たぶん同じだ。

 

でも。

 

それでも選べることが一つだけあった。

 

一度目は、俺には選択肢がなかった。

 

二度目はある。

 

するか。

 

しないか。

 

俺は。

 

逃げるのをやめた。

 

ほんの少し顔を近づける。

 

志喜屋さんは動かない。

 

最後まで待っている。

 

そのことを確認してから。

 

俺は目を閉じた。

 

12 二回目

 

触れたのは一瞬だった。

 

一度目と同じくらい短い。

 

ほんの少し。

 

それだけ。

 

俺はすぐに離れた。

 

目を開ける。

 

志喜屋さんがいる。

 

当然だ。

 

でも、表情がいつもと少し違った。

 

目が丸い。

 

驚いている。

 

あの日の俺みたいに。

 

数秒遅れて、志喜屋さんが自分の唇へ指を触れる。

 

一度目と同じ仕草。

 

「……二回目」

 

「数えなくていいですよ」

 

「温水君から」

 

「確認しなくていいです」

 

「……うん」

 

頬が。

 

ほんの少しだけ赤く見える。

 

夕日のせいかもしれない。

 

そういうことにしておく。

 

俺だって人のことは言えない。

 

顔が熱い。

 

「……温水君」

 

「はい」

 

「今の……事故?」

 

質問に。

 

俺は少し考えた。

 

一度目なら逃げられた。

 

志喜屋さんが突然した。

 

好奇心。

 

実験。

 

突発行動。

 

いくらでも言える。

 

二度目は違う。

 

俺は何が起こるか知っていた。

 

志喜屋さんも知っていた。

 

待っていた。

 

俺が近づいた。

 

それを事故と呼ぶのは、さすがに無理がある。

 

「事故ではないですね」

 

自分で認める。

 

志喜屋さんの目が少し揺れた。

 

「じゃあ……何?」

 

一番難しい質問が来た。

 

付き合う。

 

恋人。

 

好き。

 

そういう答えを求められているのかもしれない。

 

でも志喜屋さん自身、たぶんそこまでは求めていない。

 

俺もまだ言えない。

 

だから。

 

「分かりません」

 

答えた。

 

志喜屋さんが瞬きをする。

 

「すみません。俺も分からないです」

 

「……そっか」

 

「でも」

 

今日は、そこで終わらせたくなかった。

 

「一回目と同じではないです」

 

志喜屋さんが俺を見る。

 

「少なくとも、それは分かります」

 

長い沈黙。

 

廊下の向こうで、どこかの教室の扉が閉まる音がした。

 

志喜屋さんは唇に触れていた指を下ろす。

 

「……私も」

 

小さく言った。

 

「今度は……違った」

 

「何がです?」

 

「……秘密」

 

「またですか」

 

少し笑った。

 

本当にわずか。

 

普段ほとんど表情が動かないから、見間違いようがなかった。

 

「志喜屋先輩」

 

「うん」

 

「一つだけいいですか」

 

「何?」

 

「三回目とか、今すぐ考えないでくださいね」

 

「……どうして?」

 

「こっちにも心の準備というものが」

 

「三回目……ある?」

 

墓穴。

 

俺は自分で掘った穴に綺麗に落ちた。

 

「そういう意味じゃありません」

 

「じゃあ……ない?」

 

「聞かないでください」

 

「分からない?」

 

「……分かりません」

 

志喜屋さんがまた少し笑う。

 

「同じ」

 

「何がです?」

 

「私と」

 

否定できなかった。

 

俺たちは並んで歩き始める。

 

距離は、さっきまでと同じくらい。

 

触れそうで触れない。

 

俺はまだ、この関係を何と呼ぶのか知らない。

 

志喜屋さんも知らない。

 

今日のことで、恋人になったわけでもない。

 

明日から急に手をつないで登校するわけでもない。

 

たぶん部室で会えば、八奈見さんに妙な顔をされる。

 

小鞠には警戒される。

 

天愛星さんには何かを見抜かれるかもしれない。

 

それを考えると胃が痛い。

 

「……温水君」

 

「はい」

 

「卒業……しても」

 

志喜屋さんが前を向いたまま言う。

 

今度は、途中でやめなかった。

 

「会える?」

 

俺は少しだけ考える。

 

以前なら。

 

「連絡手段があれば」とか。

 

「距離次第では」とか。

 

「進路にもよります」とか。

 

そういう正しいだけの答えをしたと思う。

 

今日は。

 

「会いたいなら、会えばいいんじゃないですか」

 

八奈見さんの受け売りだった。

 

志喜屋さんがこちらを見る。

 

「温水君は?」

 

やっぱり逃がしてくれない。

 

「……俺も」

 

喉が詰まる。

 

たったそれだけなのに。

 

キスより難しい。

 

「会いたくなったら、連絡します」

 

結局、かなり逃げた答えになった。

 

志喜屋さんはしばらく俺を見る。

 

「…そっか」

 

それ以上は聞かなかった。

 

校舎を出る。

 

夕方の空。

 

風。

 

いつもと同じ景色。

 

なのに。

 

一度目のあととは違う。

 

あのとき俺は、何が起きたのか理解できずに立ち尽くしていた。

 

今日は全部分かっていた。

 

少なくとも。

 

自分で近づいたことだけは。

 

「……温水君」

 

「今度は何です?」

 

「胸」

 

「はい?」

 

志喜屋さんが自分の胸元に手を当てる。

 

あの日と同じ。

 

「また……速い」

 

「俺に報告されても困りますよ」

 

「……温水君は?」

 

「言いません」

 

「速い?」

 

「言いません」

 

「……そっか」

 

少し楽しそうに見えるのは、たぶん気のせいだ。

 

俺たちはそのまま歩く。

 

恋人ではない。

 

付き合っているわけでもない。

 

たぶん明日になれば、俺はまた今日のことへ何か理屈をつけたくなる。

 

志喜屋さんも、自分の感情が何なのか分からなくなるかもしれない。

 

それでも。

 

もう、一度目と同じ言い訳だけは使えない。

 

一度なら、間違いかもしれない。

 

好奇心かもしれない。

 

偶然みたいなものだったと笑えるかもしれない。

 

でも二度目は。

 

俺が知っていて。

 

志喜屋さんも知っていて。

 

二人とも、その先に何があるか分からないまま。

 

それでも選んだ。

 

だからたぶん。

 

答えはまだなくてもいい。

 

少なくとも今日のところは。

 

隣を歩く志喜屋さんを見る。

 

志喜屋さんも俺を見る。

 

今度は口元ではなく、目が合った。

 

どちらからともなく逸らす。

 

少し歩いて。

 

志喜屋さんが小さく呟いた。

 

「……二回目」

 

「だから数えなくていいですって」

 

「忘れない……ように……」

 

「忘れませんよ」

 

反射的に答えてから。

 

志喜屋さんが足を止めた。

 

俺も止まる。

 

「……そっか」

 

その一言だけ。

 

でも。

 

今まで聞いたどの「そっか」よりも、少しだけ嬉しそうだった。

 

俺は先に歩き出す。

 

後ろから、志喜屋さんの足音がついてくる。

 

すぐに隣へ並ぶ。

 

一度目にはなかった距離。

 

二度目から始まった――まだ名前のない距離だった。


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