…薄く開いた目から光が差し込んでくる。
眩しい。
目を瞑り、上半身を起こす。
私は確か…
なんだったのだろうか。
腰が痛む、喉が渇く、体中の関節が妙に軋む、強い光で目を最後まで開けられない。
…長い間楽をしていた気がする。
楽をしていた結果がこの身体の異常なのだったら、本当に割に合っていない。
ここはどこだろうか?
四畳半ほどの部屋だった。壁には窓が一つ。あとは、今まで私が寝ていた布団くらいしかない。
なんだろうか。これは窓付きの押し入れなのではないだろうか。
ふと、私は考えた。銃はどこにあるのだろうか、と。
四方の壁、畳、ちょっとした棚、どこに目を向けてもそれらしきものは見当たらない。
どこへ行ってしまったのだろうか?
…いや、あんなことをしでかした危険人物に銃を持たせる方が不思議か。
あんなこと。
そう、あんなことをした。
私はしばらく部屋の隅を見つめていた。
私は起きてしまったのか。
そっか、なるほど。
まずは、水が欲しいな。
取りに行くしかないのかな。
私はそう思って、しばらく布団の上に座っていた。
ここへは、誰かが来るのだろうか。
一体誰が?
少なくとも、寝ている間に世話をしていた誰かはいるだろう。
…囚人番号は割り振られているのかな。
私はそう思い、襖の方を見た。
何の変哲も無い、ただの襖だった。
多分、鍵らしきものも無さそうだった。
もしくは、鍵すら要らないのかもしれない。
どちらにせよ変わりは無かった。
軋む関節に顔をしかめながらゆっくりと立ち上がる。
襖に手を掛ける。
襖なのだから開いて当然だった。
けれど、それを開けられる気がしない。
一度手を離し、深呼吸をする。
そうして、ゆっくりと手を襖に掛け、それを動かした。
木と木が擦れる音がする。
襖の向こうには廊下が広がっていた。
若干赤みがかった光が外から差している。
古い家の匂いがする。
遠くから誰かが喋っている声がする。
そして、どこに水場があるのか分からなかった。
声のする方に向かうべきか、それとも左へ曲がるべきか。
……声のする方へは、どうも進めそうになかった。
私は左に曲がった。
歩くたびに床が軋む。
関節が痛むたびに小さく声が漏れた。
二回ほど角を曲がった頃だろうか、そこに洗面台があった。
ノブを動かし、水を出す。
ちょろちょろ、と弱々しく流れ出してきたそれを手に溜め、口の中へ流し込む。
…喉の乾きは少しはマシになった。
手を振り、水を払う。
前を向くと、そこには鏡があって、人が映っていた。
それを何と呼べばいいかは、私には分からなかった。
一つ言えることがあるとすれば、髪がひどかった。
しばらく見つめてみたが、それ以上の感想は浮かんでこなかった。
たぶん、それはただ、そこに居るだけのようだった。
………
やはり、それの名前は分からなかった。
私は洗面台を離れ、再び廊下を歩き出した。
私が寝ていた部屋の前を通る。
とっくに会話は聞こえなくなっており、私はそのまま進めるらしかった。
その廊下はやけに長かった。
私はどこかへ向かっているわけではない。
それなら、長いなんて感想は出てくるのだろうか。
どうでもいいか。
私がその廊下を二、三往復し終えた頃、ふと、後ろから声が聞こえた。
「七稜アヤメさん?」
どうやら私を呼んでいるらしかった。
振り向くとそこには陰陽部の部員らしき生徒が立っている。
「はっ!私めの囚人番号は何番なのでしょうか看守長殿!」
…凄く訳の分からないものを見る顔をされた。
「えっと…とりあえず、今すぐニヤ部長を呼んできますのでそこの部屋でお待ちください」
私は言われるがまま、その部屋の座布団へ座った。
あの生徒は私の名前を知っていたが、私は彼女のことを知らなかった。
何で知っているのだろうか。
いや、この建物にいるのなら、寝かせられていた私のことを知らない方がおかしいか。
それでも名前くらいは教えてくれても良いはずだ、と私は思った。
机の上に置いてある茶菓子をつまみながらぼーっと外を見ていると、予告された通り、ニヤが現れた。
…帰りたい。
茶菓子はいつか行った旅館で食べたものに似ていて、美味しくなかった。
私は立ち上がり、気を付けをして、彼女に言った。
「はっ!局長殿!私めの囚人番号は何番なのでしょうか!」
やはり、困惑の顔が返ってきた。
私は何事もなかったように座布団へ座り直す。
「頭を打ったんですか?」
「まさか」
元の私がどんなんだったかを知らないのに、よくもまぁ言えたものだ。
「…それで、体調はどうです?」
「はっ!関節痛、腰痛、それから著しい身体能力の低下が確認されております!」
「…そうですか」
ニヤは少し考え込んだような素振りを見せてから、こう言った。
「あなたは囚人でも、囚人になる予定も無いので普通に喋って頂いて構いませんよ」
…
「それは出来かねます!局長殿!私めのような大犯罪者に、そのようなことが許されますでしょうか!」
「許されるんですよ」
「何故?」
ニヤは黙った。
「何故でありましょうか!局長殿!私めのような――」
「いいんです」
…何がいいってんだ。
「確かにあなたは百鬼夜行に多大なる損害をもたらしました、それは事実でしょう」
「ですが、少なくとも私はあなたを牢へ放り込む気はありませんよ。追放だとか、そういう話も今のところありません」
「それは私のために?」
「……それだけではありませんよ」
ニヤはそう答えた。
「あなたを牢へ入れたところで、騒動が無かった事になるわけでもありません。百鬼夜行にとって得になるとも思えませんし、それに……まぁ、あなたをそうしたいと思っていない者もいる。それだけの話です」
「……それに、あなたのためだけに何かを決めなければならない理由も、ないでしょう?」
「そう」
………
「私はどのくらい寝ていたの?」
「三ヶ月と二日です」
「そりゃ、これだけ体が痛むわけだ」
未だに痛み続ける肩を押さえながら私はそう言った。
「あなたの今後についてお話をする前に他に何か聞きたいことはありますか?」
「別に」
ニヤが顔を少ししかめてからこう言った。
「では、今後についてですが……そうですね、先程ああ言いましたがこちらから決めていることは、ほとんどありません」
…訳が分からない。
「つまり?」
「つまるところ、何をするのもあなたの自由です」
「何故?」
「さぁ?」
「対外的には、あなたは事件の犯人ではないことになっています。今さら私たち自身が、それをひっくり返す理由もありませんからねぇ」
それからニヤは一息置いた。
「それとも」
「自由になる理由まで私に決めて貰うおつもりで?」
…そんなこと言われも困る。
さっき聞きたいことはないのか、と言ったじゃないか。
私は本気で聞いているのに。
………
「じゃあ、私はどうすれば良い?」
どうやら思わず口に出してしまったらしい。
どうせ答えは返ってこないのに。
「それを今、あなたに聞いているんですよ」
「…ですが、一つ言うのであれば、ナグサ委員長へ会ってみては?」
「…そう」
ナグサ委員長。
そう言えばそうか、そうだね。
「会わないと駄目なの?」
「いいえ?」
「まぁ、あなたが起きたと知れば、彼女の方から来るでしょうけど」
そうか。
「それは困るな」
「何故?」
私は答えることが出来なかった。
答えたくもなかった。
「聞いてどうするのさ」
「別に。答えたくないのであれば、答えなくても構いませんよ」
なんなんだこいつは。
「じゃあ何で聞いたのさ?」
「…好奇心、ですかね?」
「…そう」
やっぱり、訳が分からなかった。
ここに居れば、そのうちナグサが来るらしい。
それは困る。
何が困るのかは、考えないことにした。
それから、ニヤは私へ銃を渡した。
何故?とはもう聞かなかった。
どうせ、意味の無い事だから。
私は立ち上がった。
ここにいれば、やはりそのうちナグサが来る。
それは嫌だった。
私は建物を出て、街道へ飛び出した。
三十歩もしないうちに、ひどく後悔した。
体の事を考えずに急に走るべきでは無かった!あぁ、関節が…
辺りを見渡すと、沢山の生徒が歩いている。
ある生徒は恐らくゲヘナの生徒で、あれは…どこだか分からなかった。
その中には何をしているんだ、と言った目でこちらを見てくる生徒も居た。
こちらこそ、私なんか見て何をしているんだ、と心の中で返した。
道の脇にある店の方を見るとゲヘナのテロリスト四人組が居た。
どうやらこの店はお気に召したらしい。
昔なら、声を掛けるか、制圧しに行ったのかもしれない。
いや、そもそもこいつら今はまだ何もしてないか。
さらに歩くと、魑魅一座が何やら小さい生徒に絡んでいた。
一瞬足がその方へ向くが、すぐに前を向いた。
喉が渇いたので、異常に百鬼夜行風に偽装されたカイザー27へ入る。
景観保護のためらしいが、本気を出しすぎていて、逆に浮いている気もする。
自動ではないドアを開けると、店員がいらっしゃいませ、と言った。
どうやら私に向かって言っているらしい。
…そう言えば、財布は渡されていないな。
私はドアを開けて、店の外へ出た。
たぶん、店員はなんだこいつ、と考えながら私を見ているだろう。
遠くには神木が佇んでいる。
きっと、あれも変わっていないらしかった。
もうあそこまで歩く気力も無い。
ただ、ふらふらと私は街道を歩き続けた。
店を見るたびに、道を見るたびに、そこで何があったのか、どんなことが起きたのか、それをどう解決したのかが浮かんでくる。
そんな風に歩いていると、後ろから声がした。
「あれ?アヤメちゃん?」
私は走った。
無我夢中で、人混みをかき分けながら、どこへいくでもなく走り続けた。
関節が痛む、息が切れる、頭まで痛くなる。
それでも私は止まりたくなかった。
その声は、いつか、頼み事を引き受けた飲食店の店主の声らしかった。
どこへ走っても、「あれ?元委員長?」だの、「あ!アヤメ元委員長じゃん!」だの。そんな声が聞こえてくる。
誰が言っているのかも、本当に私のことなのかも、言葉として発されているのかも、もう区別できなかった。
ただひたすら、痛む足を動かし続ける。
最後に私は路地裏の方へ入っていった。
壁にもたれる。
誰に追い詰められているわけでもないのに、傍から見れば映画のワンシーンのようだった。
私は下手を打ったギャングの下っ端で、追っ手に始末されるのを待つだけ。
ターゲットも、上層部も、同僚も皆私を狙っている。
逃げ込んだここも…すぐ見つかるであろう場所で…
そんなことはなかった。
…肩で息をする。足にも上手く力が入らない。思っていた以上に筋肉が落ちてしまったらしい。
昔ならこんなことにはならなかったのに。
少し走っただけなのにもうこのざまだ、あぁ、もう少し早く起きていれば良かったのかもしれない。
しばらくそうしていると、足音が聞こえてきた。
…大抵、こういう場所に来る人間はろくな奴じゃない。
「アヤメ?」
ろくな奴ではなかった。
「…そっか、ここに居たんだね」
気を付けをしようとして前に倒れる。
ナグサは私を抱き留めた。
ナグサの腕から体を起こし、もう一度立とうとする。
ふらつき、壁へもたれかかる。
私は何度も試みる。
その度に足が言うことを聞いてくれず、倒れかけてしまう。
「もういいよ。大丈夫、無理しなくて良いから」
…ようやくまともに気を付けをする事が出来た私は、こう言った。
「はっ!ナグサ委員長殿!私めに手錠を!引きずり回して牢獄へ!さぁ!」
「…アヤメ、違うの。私はそんなことをするためにここに来たんじゃないの」
…
「では、私めに自首を求めに来たのでしょうか!委員長殿!ですが、委員長殿が直々に私めを連行された方が早いのではないでしょうか!」
「聞いて」
………
「あのね、アヤメが起きたって聞いて…それで…」
「それでは尋問だけでも行うべきでしょう!sir!」
「お願い、アヤメ」
「はっ!何なりと!」
「…体調はどう?」
「はっ!関節痛、腰痛、それから著しい身体能力の低下が確認されております!sir!」
「…ニヤ部長からアヤメが起きたって連絡を受けてね、それで捜してたら」
………
「申し訳ありません委員長殿!私めがこのような場所に逃げ込んだせいで委員長殿の貴重なお時間を奪ってしまいました!あぁ!これでは独房行きだ!」
「アヤメ、もういいの、もうそういうのは良いんだよ…」
声が震えてるじゃないか、なんだお前は。
「いいえ!sir!委員長殿はお忙しいでしょうから、私め、囚人番号3174番にお時間を取らせる訳にはいきません!」
「やめてよ!」
…?
「何をやめれば良いのでしょうか!委員長殿!」
「それだよ、その…もう、演じなくて…いや、えっと」
「私はアヤメと話したいの」
「だから…アヤメのままで良いんだよ」
良い?
アヤメ。
アヤメのまま。
頭の中で何度もその言葉を転がす。
「何がいいんだろう?」
「え?」
「何がいいって言うのさ」
「いや、それは…」
「じゃあ聞こうか、ならそのアヤメってのは誰なんだ?」
「それは、アヤメは…」
「何がいいんだよ!何がもう良いんだよ!何であんたが決めるんだ!何で!もう!もう!なんでなのさ!」
「自分で自分を選ばせてよ!」
「なんで?何がいいの?ねぇ!答えてよ!何がいいのか!早く!お願いだから!」
「だって、それは…アヤメ…いや」
何であんたが泣いてるんだ。
「ごめん、私に…私にも、分からない」
分からない。
分からないのか。
何で分からないんだろう。
遠く、街道から聞こえる喧騒と発砲音だけが耳に残った。
指先から、少しずつ力が抜けていった。
あんたですら、分からないのか。
「そっか」
たぶん、それは事実だった。
本当にナグサは知らなかった。
それから、何もそっかではなかった。
私の膝はきちんと正しい方向に折れ曲がった。
勿論、そうして良い時では無かったが。
あぁ、もうめちゃくちゃだな。
前が見えないよ、もう。
私はそのまま重力に体を預けて、仰向けになった。
空は真っ赤に染まっていたけれど、それ以外はあまり見えなかった。
ナグサが何か言っているらしいけれど、よく聞き取れないし分からない。
私が何をすべきかは、答えてはくれて無さそうだった。
しばらくそうしていると、ナグサが私の傍にしゃがみ込んだ。
何を話したかはもう覚えていない。
涙が顔に落ちてきて、嫌だった事は覚えている。
私はナグサに肩を貸され、歩き始めた。
提灯型のLEDだけが街道を照らしている。
実際の所、そこまで暗くはなかった。
ただ、雲の上に浮かぶ月が、何よりも明るく、大きかった。
私は街の明かりと比べてしまっているのかもしれない。
人通りも減り始めていて、歩くことに支障が無いくらいには空いていた。
さっきまであれほど騒がしかったのに、今は足音と私の荒い息ばかりが聞こえる。
ここを離れてから、あれを引き起こすまでが、一番楽だったな。
見覚えのある屋根が見えてきた。
いや、ここら辺だとどれも一緒か。
それでも、そこは私の家だったらしい。
ここへ戻るのは一体いつぶりだろうか。
去り際にナグサが「じゃあ、またね」と言ったのがなんとも腹立たしかった。
長い間主の居なかった家は、大抵酷い様子になっているものだが、誰かが掃除を定期的にしていたらしく、綺麗なままだった。
…まぁ、別に隠すようなものも、大した私物も無かったので良いのだが。
布団を敷いて、天井を見る。
沢山の顔、もとい木目がこちらを見ていた。
私は布団の中でそれを見つめ返す。
不思議なことに、三ヶ月と二日眠った後でもやはり人は睡魔に勝てないらしい。
私はこれからどうするべきなのだろうか。
どこへ行くべきなのだろうか。
キヴォトス中をぶらつくのも悪くない。
ただ、体力がそれを許さないだろう。
結局答えは出なかったが、恐らく明日はやって来るらしかった。